最強辺境伯の距離が近いです
頭がどうにかなりそうだ。
「ボナム・ゴールドシュタイン!お前との婚約を破棄する」
婚約者である王太子殿下は、開口一番にそんなことを言ってきた。
「そ、そんな、お待ちください殿下」
「ふんっ、お前が魔法を使えていればこうはならなかったのだ。恨むなら己の無能と魅力のなさを恨め」
努力を怠ったつもりはない。
けれどどういうわけか。
どれだけやっても私は魔法を使えた試しはなかった。
赤子でもできることなのに、どうして私だけができないのか。
生まれつき、才能が欠けていたらしい。
「ゆえに、私は新たな婚約者を迎えることにした」
「ごめんなさいね、お姉さま。でも、貴方が欠陥品なのがいけないのよ」
妹のリンダが、にやにやと笑いながら、私を見下ろす。
ピンクサファイアを思わせる美しい髪と瞳。
顔立ちも整っており、体型も妹ながら非常に魅力的である。
くすんでいてどうしたってまとまらないぼさぼさの黒髪と、骨ばった無駄に背が高い体つきをした私とは正反対だ。
「お前の嫁ぎ先も用意しておいたぞ。パラディ辺境伯だ」
「ぶふっ」
「…………」
リンダが吹き出す。どうやら相当面白いらしい。
しかし私にとっては微塵も面白くない。
"金剛伯爵"というのがパラディ辺境伯の通り名である。
私達が住まう王国は隣国である帝国と幾度となく小競り合いを起こしてきた。
帝国との国境にあり、代々国を守ってきたのがパラディ辺境伯である。
パラディ家は結界魔法の大家であり国防の中枢を担っているといっても過言ではない。しかし国に尽くしてきた仕事ぶりとは裏腹に、彼の評判は異常に悪い。
曰く、「使用人をある日突然一斉に解雇した」だの、「舞踏会で百人の女を泣かせた」だの……。
流石に誇張されている部分もあるのだろうがそれにしたって酷い。
パラディ辺境伯は確かまだ独身だったはずだが、なんで私が結婚することに。
というか王都内でさえこんな扱いなのに田舎に送られたらどうなってしまうのだろう。
それこそ本当に殺されてしまうのではないだろうか。
パラディ辺境伯領は王国の最北端。
切り立った山の麓にある。
山を越えれば帝国だ。
帝国は山を越えてでも我が国の領土が欲しいらしく、幾度となく小競り合いを起こしている。
今のところ、全ての侵攻が食い止められているのは幸いだが。
改めて考えると私は戦争中の最前線に送られたわけで。
貧乏くじを引かされたのだろうな。
私なら戦乱での流れ弾で死んでも構わないということなんだろう。
魔導列車に揺られること約十二時間。
王都から始まる、魔力によって動く魔導列車。
その終点が、雪と山岳の辺境都市、パラディである。
駅を出て、街を見た時の印象は白。
季節はまだ秋だというのに、もう雪が降っている。
一年の大半が雪と寒波に覆われているとは聞いていたが。
ぎゅっと実家から持ち出したぼろきれにくるまる。
彼らは一着のコートすら用意してくれず、着の身着のままで私を放り出してきたのだ。
「失礼。貴方がボナム・ゴールドシュタイン様ですか?」
「あ、はいそうですけど」
私に声をかけてきたのは、メイド服を着た人の好さそうなおばあさんだった。
「私は侍従長のソーニャと申します」
おそらく、私の写真が向こうに送られていたのだろう。
そして、私の顔を見て声をかけてきたというわけだ。
写真を撮られた覚えがないが……まあこの際盗撮には目をつぶろう。
盗撮以上の屈辱や苦痛を受けすぎて、もはや何も感じなくなっている。
少なくともこの人は、そんな事情を知っているとは思えないし。
「遠いところをようこそお越しくださいました」
頭を下げられる。こんなのいつぶりだろうか。
実家では使用人にすら悪口を言われるばかりで敬われるどころかまともに人間扱いされた記憶さえない。
彼女達が嫌がるトイレ掃除やごみ捨て等の汚い仕事をやらされていた。
あの家で、私の地位が最も低かった。
「あ、頭を上げてください。そんなふうにされるようなことは」
「いえいえ旦那様の奥様になられるのですから、私が敬うのは当然のことでしょう」
「そ、それは、でもいつ追い出されるかわかりませんし」
「まあ確かに坊ちゃん……いえ旦那様は気難しいところがありますからね」
ソーニャさんは苦笑する。
「どうか旦那様を嫌いにならないであげてくださいね、ボナム様」
「いえ、嫌いなわけではないです」
「そうなんですか?」
嘘ではない。私はパラディ辺境伯のことを怖がりこそすれ嫌っているわけではない。
「この五年間で帝国の侵攻をもう二十三回も退けている救国の英雄にして、結界魔法の技術体系を百年分推し進めた偉大な研究者でもありますから」
帝国と隣り合う辺境都市パラディは、国防の要だ。
並みの人間ではパラディ領を治めることはできない。
胆力と武力が同時に求められる。
パラディ家は代々結界魔法を開発し、国防に役立ててきた歴史があるのだ。
「あら、よくご存知なのね」
「特に画期的なのは感知学習機構結界ですよね。まず一枚目の防御性能を持たない感知結界で攻撃の属性を把握して二枚目の結界が特定の属性に特化した結界へと変質する。このシステムによって消費魔力は従来の結界と同じなのに耐久力は二十倍になっているのですから技術革新どころかもはや産業革命といっても過言ではありません」
「あの」
「さらには特定の属性だけを防ぐ結界の延長として防音や遮熱の魔道具生産まで手がけるだなんて」
「ええと」
「以前から炎を出して暖を取る魔道具は多数ありましたが、結界を使って熱を逃さないというコンセプトがまず素晴らしいです。欠点は部屋一つごとに術式を組み直す必要があるので量産ができないことですが、公共施設に使うだけでも十分ーー」
「ボナム様?」
「あ」
しまった、つい熱中して語ってしまった。
「申し訳ありません、つい……」
「魔法が好きなんですね、ボナム様は」
「あはは、はい」
私は生まれた時から魔法が使えない。
だからこそ、私は魔法の勉強が好きだった。
リンダと違って家の外に出ることも、学校に行くことも許されていなかったが家にあった本をこっそり読んで、独学で学んだ。
一応体裁のために最低限の読み書きだけは教えられていたのが役に立った。
六歳になってからは朝から晩まで家事ばかりやらされていたけれど、深夜に人目を盗んで勉強し続けていた。
魔法というものを使えないからこそ、私は魔法に憧れて、好きになっているのかもしれない。
「魔法が好きというのもあるんですが、人のために役立っている魔法技術を見るのが好きなんです」
だから、正直パラディ辺境伯に会うのは楽しみではある。
国防の要を担う結界魔法を開発した天才。
魔法が使えず、何の役にも立たぬと厄介払いされた私にとっては対極の存在であり、憧れの人。
会いたいという気持ちはある。
だがしかし、それは群衆の中の一人という意味であって、結婚したいという意味ではない。
推しは近くではなく遠くから眺めるものなのだ。
◇
「ここが、パラディ邸です」
通された屋敷は、はっきり言って立派とはいえなかった。
いや、十分豪邸の範疇ではあるのだ。二階建ての大理石でできた邸宅は外も中も白く、普通の家屋の五、六倍の体積がある。
王都の公爵邸や王城と比べると小さいだけで。
思えば、一貴族の邸宅でありながら王城に次ぐ大きさのある公爵邸がおかしかっただけで、これが普通なのかもしれない。
「ええと、ここには他に使用人の方はいらっしゃるのでしょうか」
「いいえ?ここには私とぼっちゃーー旦那様しかいませんよ。二年前の戦争の際、臣下を巻き込みたくなかった坊ちゃんが莫大な退職金を払って暇を出したのです」
「……なるほど」
従者をクビにしたとは聞いていたが、そんな事情があったとは。
やはり悪人ではないのだろう。
「お前が、件の婚約者か」
声がした。夜風を連想させる涼やかで清浄な声。
かつんかつんと階段を下りる音が聞こえてくる。
降りてきたのは、藍色の髪の偉丈夫だった。
軍服を完璧に着こなし、星を連想させる銀色の冷たい瞳で、こちらを見下ろしている。
パラディ家当主、アリアス・パラディ。
十三歳の時家督を継ぎ、弱冠十八歳でありながら、伯爵として国防と結界魔術開発の第一人者として五年間王国を守っている。
「ボナム・ゴールドシュタインです。お初にお目にかかります」
スカートをたくし上げ、貴族令嬢としての礼をする。
彼女としては、最善の行動をとったつもりだった。
しかし。
「ふん、また婚約者か。くだらないな」
「…………え」
冷たい目のまま、彼は私を通り過ぎた。
「坊ちゃん、いくらなんでもそれは……ここまで来てくださったのですからまずねぎらいの言葉を」
「僕は頼んでない」
「あ、あの」
「下がれ。俺はお前に何の用もない。荷物をまとめてさっさと実家に帰れ」
「坊ちゃん!」
昔のことである。
母や妹が醜悪な遊びにはまっている時期があった。少しでも床やカーペットなどに埃が落ちているのを見つけると私を呼び出して拾わせる。
そして、一つ拾うとまた別のほこりを指さす。
そうやって、延々と拾わせ続けるのだ。それに這いつくばっている私を踏みつけたり、階段から突き落としたりのおまけつき。
そのせいだろうか、私は埃を見つけると、つい目で追ってしまう。
パラディ辺境伯の袖口についている糸くずが目に留まったのだ。
気が付くと、私は反射的に彼に手を伸ばし。
右手を掴んでいた。
「……」
しまった。
これでは、まるで変質者である。
理由を説明せねばと、口を開く。
「服に糸くずがついてましたので、その」
しどろもどろになりつつ言い訳じみた言葉を口にする私を。
ソーニャさんも、パラディ辺境伯も信じられないものを見る目で見ていた。
終わった。この反応は絶対に怒られる。
そして、追い出されてしまうのだ。実家を追われたように。
そうなったら、どうすればいいのだろう。
恥ずかしながら、私にはもう生きるすべがない。あるのは貴族としての最低限の教養と、家事くらいのものだ。
「……失礼する」
パラディ辺境伯は、こちらの顔もみずに、屋敷から出て行ってしまった。
「ええと、とりあえずお部屋にご案内いたしますね?」
心配そうな顔をしているソーニャさんを見て、ますます不安が募った。
「本当にどうしよう……」
貴族としてのマナーも、知識も、持っていて当然のもの。
妹のリンダはマナーがあまり得意ではなかったが……そういう人間の方が珍しいのだ。
ましてや、私は魔法を全く使えないという貴族として致命的な欠陥を抱えている。
「だとすると」
私にできることは、家事くらいしかない。
ならば、私にできることをやるべきではなかろうか。
例え、もはや手遅れだったとしても。パラディ辺境伯が、私を妻として受け入れてくれなくても。仕方がない、元々期待はしていなかった。自分が誰かに選んでもらえるだなんてそんなたいそうなことは考えてもいない。
「あの、ソーニャさん。私に料理をさせていただけないでしょうか?」
「はい?ボナム様が料理を?」
ソーニャは不思議そうな顔をした。侮蔑の色はなく、ただ疑問なのだと理解する。
まあ普通、貴族の令嬢が自分で料理をすることはない。むしろ料理をすることを恥だと思っている貴族も珍しくない。
だから私が家事をすることがただ純粋に不思議なのだろう。
「あの、ダメでしょうか?」
これがダメなら、もう本当に終わりだ。
何も役割がない。ここにいる資格がない。寒空の下に放り出されて野垂れ死ぬことになるだろう。
「いいですよ。何か手伝ってほしいことがあったら何でも言ってくださいね?」
「はい!」
◇
「これを、君が作ったのか?」
「はい、そうです。あの、お口に合いませんでしたか?」
一応ソーニャにレシピを見せてもらいその通りに作ったつもりだが、全く同じとはいかないだろう。
料理は同じレシピを見ても本人の技術や性格によって多少差異が出るものだ。
気に障ってしまったのだろうか。
「こんなもの食えるか」と作らされた料理を頭にぶちまけられた記憶がよみがえり、膝が震える。
余計なことをするべきではなかったのでは。
「あ、あの、ごめんなさ」
「明日以降も、君が作ってくれないか」
「……え?」
「だめか?」
「い、いえ、とんでもございません!毎日三食作らせていただきます!」
「だいたい仕事で家を空けるから昼は必要ない。朝と夜だけ用意してほしい」
「しょ、承知しました」
「ボナム様のこと、坊ちゃまは相当お気に召したようですね」
「そうなんですか?」
表情がまるっきり変わっていなかったので、とても好かれているとは思えないのだが。
余程さっき作った料理がおいしかったのだろうか。
きっとソーニャの作ったレシピがよかったのだろう。もしくは食材か。
貴族の食事を任されているような人が作った食事なんだから、無理もないが。
「何か欲しいものはあるか?といってもパラディ領は田舎ゆえ、用意できるものは限られるが……」
「ええと、よければ魔導書を……」
「魔導書?魔法が好きなのか?」
「ええ、私自身は得意ではありませんが……」
嘘である。得意ではないどころか、全く使えない。とはいえ、魔法が好きなのは事実である。まして結界魔法の大家であるパラディ家であれば王都にはない独自の魔法理論を記した書物だってあるだろう。
「そうか、なら俺の部屋に案内しよう」
「はい?」
「さあ、どうぞ」
アリアス様は私の手をそっと掴む。
繊細かつ綺麗でありながらそれでいて男らしい指。それが私の指に触れて、不覚にもドキリとしてしまう。
「おお……」
手を引かれて連れてこられたのは、アリアス様の執務室でした。
部屋に入って正面に執務用の机が置かれており、そのわきには来客用と思われるソファとテーブルが置かれている。いずれも、公爵家のそれよりは随分と簡素だ。
「おお……」
しかし、私の目をひいたのは家具ではなく、四方の壁に配置された本棚をびっしりと埋め尽くす蔵書だった。
「これ、全部魔導書ですか?」
「ああ、そうだよ。中にはパラディ家の魔法技術についてまとめたものもある」
「それを、私が見てもいいんですか?」
「構わないよ。そこにあるのは魔法学会で発表したものばかりだし、そもそも君はもう身内だしね」
「へっ」
まっすぐにこちらを見つめてくるアリアス様が眩しくて、思わず目をそらしてしまう。
婚約者はいたものの、今まで異性とまともなかかわりがなかった私にとっては、少々刺激が強すぎる。
赤くなった顔を隠すように、私は一冊の本を手に取り読み始める。
「結界術は、敵を拒絶し、味方を守ることをコンセプトにした魔術である。結界において重要なのは敵と味方をどのように判定するかということであり……」
先程ざっと見たところ、やはり結界魔法に関する本が多い。
王都にはここまで詳しく書かれた本はないはず。
そもそも、劣悪な待遇だったあの家では、最新の本を読むことはできず、古書を読むことしかできなかった。私が知っていたパラディ家の結界術も十年以上前のものである。
だが、ここには最新の本がたくさんある。私が今読んでいる「パラディ結界理論・第六版」も今年に出版されたものだ。
「なるほど、結界術に興味を持ってくれているんだな?」
「ひゃうっ」
耳元でささやかれて、思わず声が漏れる。
いつの間にかアリアス様が背後に回っていた。
「ああごめん、驚かせてしまったかな?」
「い、いえ、あまりにもいい声だったのでつい……」
顔だけでなく声もいいだなんて反則ではないか。
加えて魔法の実力も確か。天はどうして一個人に二物も産物も与えるのだろうか。
自分にはどれもないものだ。
どれか一つでもあれば、何かが変わっていたのだろうか。
「いくらでも集中するといい。ここは、君の家なんだからね」
「――っ!はいっ」
目からあふれる雫をぬぐい、本にかじりつく。
背後にあったはずの気配は、いつの間にか消えていた。
きっと、私の読書を妨げたくなかったのだろう。
そんな、当たり前の気遣いが、嬉しかった。
家では、そんな扱いをしてもらったことはない。
本を読んでいるのがバレると破り捨てられるため、ずっと息を殺して隠れて読んでいた。
生まれて初めてリラックスした気持ちで、私は魔導書を読みふけるのだった。
◇
パラディ領で暮らし始めてひと月が経過した。
本を読み、家事をする。
王都での暮らしとさほど変化はない。
しいていうなら、誰かと一緒に食事をとるようになったことくらい。
アリアス様やソーニャとたわいもない話や魔法談義をしながら食事をする。
王都で残飯や生ごみを一人で食べて飢えをしのいでいたころに比べれば天と地ほどの差がある。
天国のような生活だったが、慣れると物足りなくなるのが人の性。
「街にお出かけしてもよろしいでしょうか」
「……ここでの暮らしで何か不都合があったか?」
「い、いえ、そんなことはありません!」
実際のところ、不便なことは何もない。
むしろ、王都で朝から晩まで家事をやらされていたころに比べれば、堂々と本を読めるだけでも天国だ。
「そうではなくてですね、この街を一度見て見たくなったのです。ここに来る途中では、あまりじっくりと見て回る余裕がなかったものですから」
これは本心だった。
あと、王都で暮らしていたころはほとんど屋敷から出してももらえなかったので、家にこもり切るのがトラウマになっている。
そういえば、私を閉じ込めていたのは私を苦しめるためではなかったのかもしれない。
私を王太子殿下にあわせず、逆にリンダと殿下の仲を深めるのことが目的だったのかも。
どちらにせよ、ずっと部屋に閉じこもるのは、私には耐えられない。
読書好きにしては、かなり珍しいことだとは思うが、そもそも本だってやろうと思えば屋外で読めるはずだ。
「そういうことなら、私が案内しよう」
「え?」
アリアス様が直々に?
ふと気づいた。
私の扱いは、王都から来た婚約者であり、公爵令嬢である。
すなわち、もっとも丁寧に扱わなければならないということだ。
「今日は私が君を楽しませて見せよう」
そういって、アリアス様は私の手を取った。
「で、ではその、よろしくお願いします」
握られた手から滝のように手汗が出てきて、正直恥ずかしかった。
いやではなかったけれども。
◇
アリアス様に連れられて行ったのは、酒場だった。
「あら、温かいんですね」
保温結界の魔道具があるのは知っていたが、一般的な商店でも使われているのか。
「保温結界の魔道具は日常生活に使われるものだからな。なるべくコストを抑えているんだ」
「そうなんですのね」
それは知らなかった。おそらく、結界の防御力を削って断熱性を引き上げているのだろう。
見慣れない酒場に、きょろきょろと視線が動いてしまう。
アリアス様に案内されるがままに、私はカウンター席に座った。
彼がすっと差し出してくれるメニュー表を見て、無難にビールを注文した。
アリアス様も、同じものを頼んだ。
「こういう店は、王都にはないかもなあ」
アリアス様は少し恥ずかしそうに笑う。
もしかすると、彼には田舎者特有のコンプレックスがあるのかもしれない。
「ええと、ごめんなさい、よくわからなくて」
「というと?」
「実は私、王都では家から出たことがほとんどないんです。だから、こういう酒場が王都にあるかどうかはわからなくて……」
「そうだったのか、では君の酒場デビューを祝して、乾杯」
「はい、乾杯」
黄金色の液体が入ったジョッキをカチンと合わせる。
木がぶつかる、乾いた音が響いた。
一応成人しているため、お酒は飲めるのだが、そんな嗜好品をたしなむことは許可されていなかった。
そもそもまともな食事すら与えられず、ここ数年は使用人に出されるまかない――のあまりしか食べさせてもらえなかった。
だから、だろうか。
苦いだけのはずのビールが、とてもおいしく感じられる。
「この街、いいですね。雰囲気が好きです」
「そうか、気に入ってくれたのなら嬉しいよ。ここを故郷だと思ってくれればいい」
涙が出てくる。
婚約破棄されたこと、王都を追いだされたこと。
いずれも辛いことには変わりないのだが。
正直、ここにきてよかったと私は思えた。
◇
アリアス様と出かけた次の日のこと。
来客があった。
「レオナルド・ストームブレイカーと申します。アリアスさんとは魔法学校時代の先輩後輩ですね」
「ああ、なるほど」
ストームブレイカー、というのは王都の貴族の家名であり、風魔法の大家でもある。
そしてレオナルド・ストームブレイカーと言えば若くしてストームブレイカー家の中でも次期当主と目されている。
わざわざ王都から会いに来るのだから、よほど親しいのだろうな、と思う。
貴族同士の関係性については、屋敷に閉じ込められているゆえに知らなかったのだ。
「それにしても、君が例の婚約者かあ。ふうん」
ずいっと、端正な顔を近づけてくる。
一応婚約中の身なのだけれど。
どうしようかなと考えていると。
「おい」
空気が、凍った。
凍てつく視線でこちらを睨みつける、アリアス様が背後にいた。
「お前、冗談もほどほどにしろよ」
「あはは、すみません先輩」
アリアス様は、これまで見たことがない程に怖い顔をして、レオナルド様を睨んでいる。
レオナルド様はそんなこと気にしていないのか、飄々としている。
「奥で話そう。すまないが、二人で話したい」
「はい、わかりました」
確かに先輩後輩であるというのなら、積もる話だってたくさんあるだろう。
そこに干渉するのはよろしくない。
◇
執務室にレオナルドを通す。
「懐かしいな、二年前の戦争以来か」
「ええ、あの時は大変でしたねえ。
「そうだな、お前たちの力がなければ危うかった」
「それにしても、相当気に入られたんですねえ、あの子のこと」
「…………」
「沈黙は肯定と受け取りますよ?」
「何が言いたいんだ?」
「いや、純粋に嬉しいんですよ。アリアス様が誰かに心を開くなんてこと、今まで一度もなかったじゃないですか」
すっと、レオナルドは右手をアリアスに伸ばす。
が、それはアリアスの前方十センチ程度ではばまれた。
まるでそこに、見えない壁があるかのように。
「なるほどなるほど、絶対防御は相も変わらずご健在のようで」
レオナルドは、ただ手を伸ばしたわけではない。
右手に高密度の空気の刃を作り出し、それを突き出した。
鉄板程度なら貫く超強力な刃だが、しかしてそれすらアリアスには届かない。
「先輩の自動防御魔法ーー【恒星】は、生まれた時から自動で作動する。それゆえに、生物は触れることさえできない」
「……そうだな」
「だから、正直驚いたんですよ。まさか、触れられる人間がいるなんて」
「……そうだな、普通に考えればありえないことだ」
「考えられるとすれば、相手が先輩に一切の悪意を持っていないってことですか」
悪意のない人間など存在しない。
生物なら持っていて当然の些細な緊張や警戒心でさえも、彼の結界は探知して自動で発動する。
だから、これまでアリアスに触れられた者は一度もいなかった。
「それが、先輩が彼女に気を許している理由というわけですか」
「そうだな」
はじめて、手を握られた時には幻覚を見たのかと思った。
これまで本当に人生で一度も直接他人に触れられたことはなかったのだ。
例外は、母親の胎内にいた時のみ。
理由は、一つしか考えられない。
「私に警戒心や疑念、悪意に相当するものを一つも持たない人間がいるのだと、理解できた。彼女こそが、私にとって運命の人であると」
「……なるほど」
レオナルドは、うなずく。
あるいはまったく魔法が使えず、魔力を持たない人間でも結界に引っかからない可能性があるのではと思ったが……そんな人間がいるとは聞いたこともないので、それはひとまずさておいた。
「それで、ここまで私を呼んだのはどういうわけなんです?まさかのろけ話を聞かせたかったんじゃないですよね?」
「俺はのろけてない」
「それは無理がありませんか?」
レオナルドはにやにやしていたが、アリアスに睨まれて真顔になった。
アリアスは、一つ咳払いをして、話を切り出した。
「ひとつ、お前に仕事を頼みたい」
「ほう?」
「王都にいる、とある人物について探って欲しい。私はここを離れられないし……そもそも王都に住まう貴族についてはあまり詳しくない」
「ふむふむ、それもそうですね。わかりました、調べておきましょう」
指を引っ込めて、レオナルドは首肯した。
もとより、貴族間での情報収集は、彼の得意分野だ。
「それで、誰の何を調べればいいんですか?」
「ゴールドシュタイン家について。調査内容は、ボナムを虐待していたという事実があったかどうか、だ」
「貴族が、長女を虐待ですか?」
レオナルドは首をかしげる。
それくらい、荒唐無稽な話ではあるのだ。
何しろ、貴族にとって娘というのは最大の武器だ。
己の娘を他の貴族や、他国に嫁がせることでコネクションを作る。
それが、最も強力な生存および成長戦略であると誰もが知っている。
家督を継ぐことも、政略結婚の道具にもできない次男三男が冷遇されるのならともかく、娘は何人いても困ることはないのだ。
ゆえに娘を冷遇するなど、貴族としてあるまじき行為のはずなのだが。
「料理や掃除など、下働きに慣れ過ぎているし、何より全身に痣があった」
「ふうん、もう見たのかい?」
「……違う。腕や肩の話だ」
「なるほど、これは失礼」
顔を真っ赤にするアリアスを見て、レオナルドは笑みを深める。
この人の性質を考えれば無理もないが、恋をしたことだって一度もないはずだから。
「ともあれ、ゴールドシュタイン家について調べてこいということでしたら、すぐにでも。調査が完了し次第、即座に報告書を贈らせていただきますとも」
「ああ、そうしてくれ」
「それと、アリアス様、一つだけ」
「何だ?」
「ひと月後の水月祭にはちゃんと参加してくださいね?」
「わかっている。それに、ちょうどいい機会でもあるやもしれん」
「あはは、本当に別人みたいだなあ」
レオナルドは、心から楽しそうに笑った。
先輩にして友人の変化が、嬉しかったのである。
◇
「先程は、レオナルドが済まなかった」
「い、いえ私は別に」
「そうなのか……」
アリアス様は、なぜかしょんぼりとしている。
私がレオナルド様と距離が近かったことで嫉妬なさっているというのは流石に考えすぎでしょうね。
「ところで、お願いがあるのだが」
「なんでしょう?」
「水月祭に、一緒に出てはくれないだろうか」
水月祭。
それは、王国の伝統行事である。
水月という
同時に、多くの貴族が一堂に会する、社交の場でもある。
ゆえに、辺境伯であるアリアス様が参加するのはおかしなことではない。
というか、多分毎年参加しているんだろう。
私は家事を強制されていたので出る機会はなかったが、リンダはほとんど毎年参加していたはず。
そしてパートナーのいる貴族は、パートナーを連れて行くのがマナーだったはず。
「あ、あの」
「嫌か?」
選択肢などあるはずもない。彼が希望するのなら行かなくてはならない。
できれば王都には戻りたくなかったのだけれど。
「無理はしなくてもいい。俺一人で行っても、問題があるわけじゃない」
いらない人間だと思われたら。
それだけは、許容できない。
「行きます」
「わかった。ただし、無理はするなよ」
こちらを心配そうに見てくる彼に、私は精いっぱいの作り笑いで答えた。
◇
魔導列車に乗ること半日。
半年ぶりの王都は、記憶の中にあったものと大差なかった。
私とアリアス様の二人だけです。
「あの……アリアス様。どうして、手を握っておられるのでしょうか?」
「嫌か?」
「い、いえ?」
電車の中で、トイレなどに行くとき以外はほとんど常に手を握っていた。
いやなわけではない。
男性特有のがっちりした手が、私を守ってくれているようでとても安心する。
だが、その一方で手を握られているという緊張感で動悸がすごいことになっているのもまた事実だ。
異性の体に触れたことが人生でほとんどない状態で、絶世の美男子に手を握られているのだ。
心臓がはじけ飛んでしまっても、無理はないはずだ。
本当に助けてほしいと祈る気持ちでいっぱいだった。
まあ、別に嫌というわけでもなかったのだけれど。
繰り返すが、私達は婚約中の身である。
むしろ、距離が遠い方が問題である。
これはきっと、愛されているんだなと感じるし、嬉しいと思う。
同時に、自分なんかがこんな風に愛されてもいいのかとさえ思ってしまう。
◇
水月祭。
それは、冬に行われる、新年を祝う祭り。
王都はパラディ領と比べれば遥かに温暖だが、それでもしんしんと雪が降り積もっている。
そんな中で、無事に一年を乗り切れたことに安堵し、来年をより良い年にすることを祈願する祭りである。
「王城は懐かしいかい?」
「あ、いえ」
むしろ彼女にとって王城はトラウマだ。
人生で訪れたのはただ一度きりであり――その際に婚約破棄をされ家から追い出されてしまったのである。
とはいえ、そんなことをアリアス様に言ったところでどうにもならないだろう。
おほん、というアリアス様の咳払いに意識を強制的に引き戻される。
「と、ところで、その、よく似合っているな、ドレス」
「ああ、はい。ソーニャさんが選んでくださったのです」
私が来ているのは、濃紺のシックなドレス。私の地味な顔立ちを考えれば、確かにこれが一番いいのかもしれない。ドレスなんて着せてもらえたことがないからそれだけで十分ではある。
こちらを見るアリアス様の顔が赤い。
体調が悪いのだろうか。まさかね。この人に限ってそんなことはないだろう。
「アリアス様も――」
言わなければならないことを言おうとした私を遮って、鈴のような声が響いた。
「あら、お姉さま、お久しぶり!」
声の主について説明するならピンクのドレスを着た、ピンクの髪と瞳をした少女。
顔立ちは並ぶものがいないほどに美しく、彫刻と言われても納得できてしまう。
だというのに、不快感がぬぐえない。その理由は。
「リンダ……」
一番会いたくない人物だったからだ。
「あら、そのドレスきれいね!着ているのがお姉さまじゃなかったら見れたものだったのでしょうに、もったいないわ!」
「…………」
言い返す気力すらない。
そういわれると、ドレスに対して申し訳ない気さえしてしまう。
「ボナム、こいつは?」
「あ、ええと……」
何やら不機嫌な顔つきになったアリアス様に何を言おうか悩んでいると。
「あら?」
リンダのピンクサファイアに似た瞳が、彼を捕えた。
「あらあ、はじめましてえ、わたくしリンダ・ゴールドシュタインと申しますわ!」
彼女には王太子殿下がいるだろうに。
いつもそうである。
彼女は、その容姿で、無邪気さで、両親をはじめとした多くの人から愛されてきた。
魅力で、誰もかれもを虜にしてきた。
両親も、王太子殿下も、彼女を選び、彼女だけを愛した。
常々「不細工」「欠陥品」「かわいげがない」と言われていた私とは正反対だ。
いや問題は、リンダとアリアス様が出会ってしまったことだ。
もし、アリアス様がリンダを気に入ってしまったら。
彼も、リンダを愛するようになったら、私はどうなってしまうのだろう。
いやきっとそうなる。
そうなると思ったから、彼を一人にしておきたくなかったから、リンダと会わせたくなかったから同行を申し出たのに。
こうして王都まで戻った結果、私のみすぼらしさと彼女の美しさがよりはっきりと際立ってしまう。
わかりきっている。
これまで誰からも愛されなかった経験が教えてくれる。
そう思っていると。
「これは、何のつもりでしょうか?リンダ嬢」
ぴしゃりと、冷水を頭からかけられるような声が脳裏に響く。
恐る恐る顔を上げると、アリアス様はリンダを見ていた。
ただし、その目にあるのは好意などではなく、侮蔑と嫌悪だった。
「ええと、私、何か粗相をしてしまったでしょうか?」
「粗相どころではありませんな。私があなたの姉と――ボナムと婚約していることはご存じのはず。何を考えていらっしゃるのか?」
「えっ」
リンダは、ようやく気付いたらしい。
目の前の人物が、彼女が田舎者と馬鹿にしていたアリアス・パラディ辺境伯であると。
貴族の顔写真は、社交界において共有される。
当然相手の顔と名前が一致しないなどあってはならない。貴族にとって貴族の顔を覚えるのは義務なのだが……リンダはそれすらやっていなかったらしい。
我が妹ながら、そこまでやっていなかったのかと呆れるより先に感心してしまった。
「ええとお。私は貴方と仲良くなりたいなと思ってえ、よかったら二人でお話――」
リンダは、今更ながらあわててアリアスとの距離を詰めようとする。
「リンダ嬢、貴女は王太子殿下と婚約されていると伺っております。そのうえで、私と二人きりになりたいとおっしゃるのですか?」
初対面の時と同じくらい、あるいはそれ以上に冷たい声で彼は言い放つ。
「今の言葉は、聞かなかったことにいたしましょう」
言葉は、穏やかだった。表情は、笑顔だった。
しかし、彼が身にまとっている雰囲気はその対極に位置していた。
極北がごとき冷気が、彼から発せられている。
そう感じられるほどに、アリアスはリンダに怒り、そして拒絶していた。
どうして、と思う。
しかし、次の言葉で私の疑問は氷解した。
「私の婚約者を、ボナムをこれ以上侮辱するなら、次はないと思いなさい」
「ひっ」
リンダは、ぺたん、と腰を抜かしてしりもちをつく。
「行こうか、ボナム。あいさつ回りの途中だ」
アリアスはそう言って、左腕を私の右腕に絡めてきた。
恥ずかしいけど、悪い気はしない。
むしろ、私を見つめる先ほどとは打って変わって真逆の優しいまなざしと声色に心が温かくなるのを感じる。
「アリアス様」
「どうかしたか?」
さっき言い損ねた言葉を、言うことにする。
「アリアス様は、とても格好いいです」
「……ありがとう」
顔が真っ赤だったのは、気のせいだと思うことにしよう。
◇
パーティが終わり、私とアリアス様は部屋でくつろいでいた。
「さっきは、私の妹がご迷惑をおかけしました」
どうやらここは、パラディ辺境伯の別邸であるらしい。
王都以外を収めている貴族は、王都に滞在するときのために別邸を用意しているのだと、彼が教えてくれた。
私の謝罪を前にして、アリアス様は特に気にした様子もなく。
「君が謝ることではない。妙な真似をしてきたのは向こうの方だしね。むしろ、私の方こそすまなかった」
「え?」
意味がわからない。
何を謝っているのだろう。
この人に、何の非もないのに。
「いいや、君を傷つけてしまった。君は、家族と仲が悪いんだろう?もっと言えば、かなり冷遇されていたんじゃないのか?」
「……はい」
どうやら見抜かれていたらしい。
「でも、気になさらないでください。もう、関係ないことですし」
「そうなのか?」
「はい、それに、そのおかげで私は貴方の婚約者になれましたので」
「……そうか」
アリアス様が何を考えているのかはわかりません。
でも、どこか納得したようにうんうんとうなずいて、顔をほころばせているから気を悪くしたわけでもないのだろう。
「これからも、よろしく頼むよ。婚約者として、そしてできれば、妻として」
「…………はいっ!ふつつかものですが、よろしくお願いします」
私も、頭を下げて、彼の手を握る。
彼の手は、やはり大きくて、太陽のように温かった。
「まったく、何をやっているのだろうな、私達は」
「ええ、本当に」
照れくさくて、思わず二人して笑ってしまった。
「そういえば、王都の結界とパラディ領の結界、少々違いませんか?」
「ああ、王都の結界は私以外にも携わっている人がいてな。『大賢者』ヴィジャード殿に協力してもらっているのさ」
「まあ、そうだったんですね!」
「隠しているわけじゃないが、わざわざ表に公開する情報じゃないからな。知らないのも無理はないさ」
「それでそれで、具体的にはどんなふうに違うんですか?」
「防御面は私の結界魔法と大差ないんだが、攻撃面が違うな。私の感知結界に引っかかったターゲットにヴィジャード殿の攻撃魔法術式が作用して迎撃できるように――」
その後は、いつものようにひたすら魔法について話した。
私は、恵まれすぎていると、十分幸せなんだと、改めて感じたのだった。
◇
私は、ヴィジャード・ウィーズリー。
宮廷魔術師の長を務めている。
一応、王国内では一、二を争う魔術師などと呼ばれている。
といっても、私の役割はつまるところ王族や貴族などの殿上人の使いっぱしりにすぎない。
王族の命令に従い、国にあだなす族や魔物を処理したり、逆に王族貴族を護衛するのが主な仕事である。
同じく王国内で一、二を争うアリアス・パラディ辺境伯が軍人として国防を担っているのとは対照的に、我々の扱いは私兵に近い。
活動も概ね王都の周辺に限られる。
「申し訳ありません、今、何と仰られましたか?」
だから、その指令を受けた時、私は聞く耳を疑った。
普通に考えてありえないだろうと、思ったからだ。
「パラディ辺境伯領へと向かい、私の娘であるボナムをさらってこい。これは、命令である」
私の目の前にいる男は、ボールド・ゴールドシュタイン公爵。
王家に次ぐ権力者であり、我々に命令する権利を有している者の一人だ。
「なぜ、我々がボナム嬢をさらわなくてはならないのでしょうか」
そもそも娘を連れ戻したいのであれば、手紙の一つでも送るか、あるいは公爵自身が出向けばいい。
どうしてそれをしないのか。
もしかすると、家族関係がよくないのか。
「厳密には、さらうのはお前たちがやらなくてもいい。パラディのところのガキを抑えてくれればいい」
「そういう問題ではございません、どうして」
「それが娘の、リンダの望みだからだ」
リンダ嬢と言えば、先日ボナム嬢と王太子殿下の婚約を破棄した直後に、王太子と婚約したと聞く。
もしかすると、公爵閣下のお気に入りは長女ではなく、次女なのだろうか。
「リンダは、アリアスをたいそう気に入ったようでな。つまるところ、ボナムが邪魔なんだよ。だから無理やり婚約を破棄させて、リンダとアリアスを結婚させる」
「……は?」
意味がわからない。
王太子との婚約はどうなるのか。
破棄するとすれば、それは問題にならないのか。
何より、婚約した男女を政治的な取引ですらなく、ちからづくで壊すなどとありえない。
「閣下、いくらなんでもそれは」
「黙れ黙れ!たかだか宮廷魔術師の分際で、私に意見できると思うなよ!私の一声で、貴様も貴様の部下もそろって処刑することだってできるんだからな!」
長らく宮廷で過ごしてきたから、多少は腹芸も心得ている。
そして、そんな私の経験が教えてくれる。
この男は、私が命令に従わなければ本当に粛清を実行するだろう。
私も、こんな私に付き合ってくれている百名以上の腕利きの魔術師も、全員首と胴が泣き別れることになるだろう。
王家に次ぐ権力を持っているのが公爵家だ。
それくらいはやれるだろうな。
虐殺を躊躇なく実行できるほどに、私達の勝ちは低いと見積もっているのか。
あるいはそこまでしなければならないほど、次女が彼にとって重要なのか。
「……承知しました」
致し方あるまい。
自分一人ならどうでもいいが、部下の命まで捨てることはできない。
ゆえに、自分に出来ることは一つ。
逆らわず、粛々と命令をこなすこと。
ずっと私はそうしてきたのだから。
「すまないな、パラディ卿……。だが、こちらとて譲れぬものがある」
パラディ辺境伯がこの国の盾であるなら、我々宮廷魔術師はこの国の矛。
王族貴族の命令に従い、望みをかなえるのが仕事なのだから。
◇
「ああ、私とお前に謝罪したい、とのことだ。もっとも、どこまで本気なのかはしらんがな」
「…………」
正直、信じられないという気持ちが強い。
それくらい、私の中で家族との間に碌な思い出がなかった。
「断っておくこともできるぞ。というより、私としてはぜひそちらを勧めたい」
アリアス様の言うことは正論だ。
私も、会いたくないと思う。
あるいは、数日前の私なら受けていたかもしれない。
逆らうなと、私に向かって怒鳴りつける父親の罵声が脳裏に浮かぶ。
けれど、今は。
私は、目の前にいる人を、アリアス様の端正な顔をじっと見る。
今は、私を大切にしてくれる人がいる。
「お断り、したいです」
「決まりだな。私から断りの手紙をだしておこう」
じっと彼を見つめていて、私は思った。これほどまでに私を想って、大事にしてくれている人に、私はまだ隠し事をしてしまっている。
私は、魔法が使えない無能であると、まだ伝えていない。いうのが、怖い。
「アリアス様」
「なんだ?」
「私、は?」
意を決して、私が真実を話そうとした時。
こんこん、とノックの音がした。
「失礼します、旦那様」
「何だ?」
「客人を名乗る方々がいらっしゃいました」
「客人?誰だ?」
言い方から察するにフィリップ様などではないのだろう。
まさか、と思った。
そんなはずはない。
まだ手紙の返事を出してもいないのに。
だがもしも。
彼らが断られることを全く考慮していなかったとしたら、どうだろうか。
「私が応対してくる。ボナムとソーニャはここに残ってくれ」
◇
アリアスが一階に降りた時、それは来た。
「「「「「【紅蓮破城】」」」」」
攻城兵器として使われる魔法。炎の破城槌が五十本。
一斉にアリアスに向けられる。
「ふむ」
だが、それを向けられたアリアスは無傷だ。
全自動防御結界である【恒星】が展開され、彼を守っている。
攻城魔法であろうと、国を滅ぼしうる強大な魔法であったとしても、彼に傷をつけることはできない。
戦場では一万人の魔法攻撃を無傷で受け切った逸話もある。
だが。
「動けない……」
炎の柱による圧力が、彼の移動を阻んでいる。
こちらの足止めが目的らしいと、アリアスは悟った。
自分を囲んでいる三十名ほどの魔法使い。
その中に、見知った顔を見つけた。
「これは、どういうことだ?」
「すまんなあ、アリアス殿」
「ヴィジャード殿、私の質問に答えろ。何が貴様の最後の言葉になるのかわからんぞ?」
「端的に言えば、我々の役割は集中砲火による貴殿の足止めだ。しばし付き合ってもらう」
「何を……」
「アリアス殿、君の魔法には欠陥がある。防御は隙がない代わりに、攻撃系の魔法は大雑把で加減が利かないものばかりだ。帝国軍を潰すために山ごと潰した時のようにね。つまり、ここで我々に反撃すれば君以外は全員生き埋めだ」
パラディ辺境伯邸には、長らく仕えてくれたソーニャと、婚約者であるボナムがいる。
石造りの邸宅が崩れてしまえば、彼女たちがどうなるかは考えるまでもない。
「貴様、自分の部下も巻きこんで……」
「君の仲間もいる。だから、君は大技は使えない」
強力な魔法攻撃と人の命を以て、無理やりアリアスをその場に固定する。
(動けない。とはいえ、これだけの出力。わたしはともかく、五分と経たずに彼らは魔力切れを起こすだろう)
そしてそれだけ攻撃を続けていても、アリアス自身には傷一つつけることが出来ない。
だが、五分あれば。
「何をするつもりだ?」
いや訊くべきはそんなことではない。
大事なのは、誰に対して危害を加えるつもりなのかだ。
「狙いは……ボナムか!」
ヴィジャードは何も言わなかった。
その沈黙こそが、すべての答えだった。
◇
何が起きているのだろう。
まず、爆発するような音が響いた。
ついで、リンダと両親が二階の窓から侵入してきた。
そしてもみ合ったソーニャが、窓から落ちた。
「ソーニャ……」
「はっ、使用人風情が私にたてつくからよ!」
「リンダ……。こんなところで何をしているの?」
「もちろん、アリアス様と婚約しに来たのよ」
「はあ?」
理解できなかった。
「お姉さまには婚約を破棄してもらうのよ」
「なんですって?」
意味がわからなかった。
そもそも婚約の破棄は容易く行うことはできない。
ボナムと王太子の婚約でさえ、数年かけて公爵が、父が根回ししたから実現したのだ。
「今頃、お父様の部下たちが真実をアリアスに伝えているわ」
「し、ん、じつ?」
わけがわからない。
いやわかっている。
わかってしまう。
私にとって不都合な真実。
アリアス様にだけは知られたくはない真実。
そんなのひとつしかない。
「お姉さまが魔法を使えない出来損ないであると、教えてあげているのよ。私の方がずっと優れた存在だってね」
「っ!」
わかっている。アリアス様が私のことを大事にしてくれているのは単なる勘違いだ。
魔法の使えない私には魔法の効果が適用されにくい。
傷をいやす治癒魔法も、人を守る結界魔法も。
だがそんな人間がいるのだと想定すらしていないアリアス様には私が、アリアス様に対して本能レベルで悪意を持っていない心の綺麗な人間に見えていることでしょう。
けれどそんなことはなくて。
初対面では正直怖いと思っていたし、近づかれると緊張でめちゃくちゃドキドキしていたのだ。
「お姉様はあの人に相応しくないわ。だから私にあの人を頂戴?」
「…………」
言いたいことならばきっと山ほどあった。例えば王太子殿下との婚約はどうするのとか。アリアス様はリンダのことをよく思っていないみたいだったけど本当に結ばれるつもりなのかとか。
「……よ」
けれど、いい。
「え?なんですって?」
そんなことはどうだっていい。
「お断りよ!」
「……は?」
どこか楽しげだったリンダの表情が困惑したもののそれに変わり、一瞬ののちに憤怒に変わる。
「なにを言っているのかしら。この私が、リンダ・ゴールドシュタインが、誰からも愛されていて最も優れた女性である私が、頂戴と言っているのよ……。ちょっと心が狭いんじゃないの?」
またそれか。
結局何もかも誰かがやってくれて当たり前で、失敗するのは誰かのせい。婚約者を譲れという常識はずれのお願い兼強迫をしているのに、拒絶されれば私が狭量だと断罪する。
けれど大事なのはそこにはない。
「私は、アリアス様を愛しています」
「は?」
正直王太子殿下に対する愛情はない。
婚約した時も顔合わせはしていなかったから、そもそも家から出してもらえず朝から晩まで家事をずっとやらされていたから。
でも、アリアス様は違う。
出会ってまだそれほど時間はたってないけどずっと見てきたから。
「あの人が全部与えてくれたからです。人の温もりも、優しさも、安心も。私に初めてあの人がくれたものです」
「え、な」
「もしも、私があの人を諦めることがあるとしたら、それはあの人自身が私を拒絶した時だけです」
「ぐ、ぬ」
歯を軋ませ、リンダは反論しようとして、言葉が出てこない。
これまで、私は一度たりとも彼女に反論をしたことがなかった。
だってどうせ無駄だと思っていたから。
彼女のバックには父と母がいたし、そもそも全ての人間が妹の味方だと思っていたから。
「けれどもう迷いません、私はここで自分を見つけられたから」
アリアス様に救われた。
ソーニャさんやレオナルド様などよくしてくれる方々との関わりに救われた。
このパラディ辺境伯に住まう人々の表情を見て、ここは地獄なんかじゃなくて天国のような場所なんだと思った。
魔導書を読んで、料理を作って、大切な人たちと語り合う。
些細な、それでいて愛おしい日常を私は手に入れることができた。だから。
「絶対に私は婚約を破棄したりはしません!」
「この、クソ姉貴が!」
狂ったようにリンダは髪をガシガシとかきむしる。
自分ではセットし直すことさえできないだろうに、子供のように苛立ちを撒き散らす。
「出来損ないのくせに、私の愛の邪魔をするな!」
絶叫と共に彼女の右腕には火が灯る。
それは何かの比喩表現などでは決してない。
文字通りに炎の球が彼女の右手に出現しているのだ。
私と違ってリンダは魔法を使うことができる。
と言ってもまともに練習したことはないと思うけど。
炎弾はリンダの体から離れてふわふわと近づき、10秒ほどかけて私の顔に着弾する。
「つうっ」
世界から見捨てられている無魔の私には魔法は効果がない。
が、空気を介した予熱の影響は受ける。
服が、髪が、皮膚が焼けこげる。でも大丈夫。
こうしてリンダに燃やされるのは慣れている。
全身にあるあざが疼くような気がするけど、別にいい。むしろ痛みが紛れる。
「私はもう、折れない!」
◇
石でできた邸宅は莫大な熱量の余波に耐えきれず、融解を始めていた。
攻撃を始めて、わずか一分のことである。
それを見て、アリアスは判断した。
どのみち、余熱でボナムへの被害は避けられない。
あと五分、敵の魔力切れを待っている間にボナムが死ぬ可能性が高く、加えて別働隊がボナムに危害を加えている可能性もある。
つまり、攻撃をしない理由は、ないとアリアスは判断した。
絶対防御結界である【恒星】の発動は、アリアスの意思によるものではない。周囲の危険や悪意によって自動的に発動する。
だが、消すことはできずとも、形を変えることは可能である。
その術式の効果は、膨張。
球形の彼だけを覆う結界を、風船のように急速に膨らませる。
やっていることは、それだけだ。
ただし、その速度は光速である。
急速に膨張した結界が、万物を押しのけ、破片すら残さず破壊する。
「【超新星】」
かつて山岳すら吹き飛ばした、アリアスの切り札である。
「それを、使うのか」
「加減したよ」
本来、無制限に膨張する【超新星】が直径五メートルになったところで【超新星】の術式を解除。
膨張した結界を逆に収縮させた。
光速で展開する結界の最大半径を調整することなど不可能だ。
ゆえに、これまでも周囲一キロ以内に味方がいない状況でしか、【超新星】は使ってこなかった。
「優秀な人と話したことで、インスピレーションが湧いてね」
ボナム・ゴールドシュタインのことだ。
彼女は魔法の行使はあまり得意ではないようだったが、魔法の理論についてはアリアスすら上回る。
あるいは、魔法が不得手だからこそ、逆に多くの人間が感覚で解決してしまうようなところまで理論を固めることが出来たのかもしれない。
ともあれ、彼は味方に被害を及ぼすことなく撃破することに成功した。
「う、くそ、足止めすら叶わないか」
「ああ、生きていたのか」
制御に夢中で、敵の生死まで気にする余裕はなかった。
光速で膨張する【超新星】に巻き込まれれば即死だが、その周辺にいただけなら余波を受けるだけで済む。
装備は砕け散り、皮は焦げ、肉は裂けているが、逆に言えばその程度で済んだともいえる。
「悪いけど、僕は行くよ。誰よりも大切な人が待っているからね」
「ははっ、なるほど。大切なもののために足掻く、抗う、私にもその勇気があればな……」
何かを悔いるようにうつむくヴィジャードを見下ろし、アリアスは一言呟いた。
「まだ、間に合う」
それは、彼に向けてだったのか、あるいは単にアリアス自身に対しての言葉だったのか。
いずれであっても、もはや意味はない。
彼は、階段を駆け上がる。
城の最上階にいる最愛の人を、己の手で助け出すために。
◇
「こ、の」
先ほどよりずっと大きな炎の塊をぶつけようとして。
「何をしている」
冷たい声とともに、リンダを青い結界が覆った。
捕縛用の結界だろう。
あ、内部で炎弾が破裂した。
「助けに来た」
「はい、助かりました」
アリアス様は、私の手を取り、ふらつくのを支えてくれた。
「愚かな娘だな。ボナム」
「お父様、お母様」
父と母が、窓を乗り越えて部屋に入って来る。
……どうしてわざわざ上から入って来るのだろうか。
「確かに、アリアス・パラディは最強の戦力だ。だが、貴族としては我々の方が圧倒的に格上。争いになれば、やつから爵位をはく奪するも、政敵に仕立て上げるも自由自在。構わんな、リンダ」
「ええ、いいわ、お父様。私のものにならないなら、いっそ壊してしまって!」
「何処までも愚からしいな、ゴールドシュタイン家は」
「すみません……」
「謝ることはない。少なくともお前には、もう関係ない話だ」
「え……」
一瞬、言葉の意味がよくわからなかった。
「はじめて見た時、また婚約者が来たなとしか思わなかった」
ぽつりと、彼は本音を漏らした。
確かに、彼ほどの魔術師であれば嫁ぎたいと考えるものは山ほどいただろう。
「だが私の絶対防御と、何より人を寄せ付けない性格に対して耐えきれるものはいなかった」
隣にいるので、アリアス様がどんな表情をしているのかはわかりません。
「いや、それも違うな。耐えられなかったのは私の方だ。私は誰のことも信頼していなかった。長らく仕えてくれている使用人や、王都で出会った友人でさえ、私は心のどこかで拒んでいたのだろう。人を心から信じて、愛することができなかった」
アリアス様はまだ十八歳とかなり若い。
にもかかわらず、パラディ家の当主の座に収まっている。
本人から直接聞いたわけではないが、おそらく彼の両親はもうなくなっているのだろう。
親を亡くし、周囲には壁を作っていた。
あるいは辺境伯という肩書が、国を守らなくてはという重責が、彼に誰かを心から信頼することを許さなかったのではないか。
「変わるきっかけをくれたのは、君だ」
「え?」
どうして、そんなまっすぐな目で私を見るのか。
そこまでしてもらえる価値が、私なんかにあるのだろうか。
「君に触れた時、人の肌とはこれほどに温かいのかと知った。私は、そんなことも知らなかったのだ」
「でも、それは、私が無魔だからで、魔法が使えなくて魔法が効かない体質だからで、貴方を愛していたからじゃないんですよ」
「そうだな、正直まさか本当に魔法を使えない人間がいるとは思っていなかった。ましてや、あれだけ魔法に詳しい人間が、ね」
「私は、ずっと隠してたんですよ。貴方に捨てられたくないから。いいえ、ここで捨てられたら他に行くところがないからです。ただの保身で、貴方に嘘を吐いた」
「構わない。それは、きっかけに過ぎないから」
そう言われて、私は理解する。
彼はとっくに気づいていたのだ。
私が魔法を使えないことを。
そして、それを隠していたことも。
いつか、私の口から明かされるまで、何も言わずに待っていてくれたのだ。
「君と、魔法について語り合った。感知魔法を活かした結界魔術の微調整や変形の理論をはじめ、多くの理論について話をした」
「はい」
「一緒に出掛けて、魔道具を街中で見つけてはしゃいでいる君を見た。酒を飲んで楽しく過ごした」
「は、い」
それは、事実の羅列だ。
されど、心を通わせた思い出の数々だ。
「君の作ってくれた料理を食べた。いつも作ってくれている使用人には悪いけど、どんな食事よりおいしいと、温かいと思った。心が満たされていくのがわかった。俺が喜んで食べることで、感謝を伝えることで、君が喜んでくれるのが嬉しかった」
彼は、私の方を見た。
私も、彼を見ていた。
「俺と結婚してほしい。仮初めの婚約者じゃない、俺の妻に、パラディ家の家族になってくれないだろうか」
どうしよう。
妹が、両親がいるのに。
いまだに周囲には敵がいるはずなのに。
邪魔者は、目に入らない。
彼の整った顔が浮かべる、泣きそうな不安そうな顔から目が離せないから。
雑音は、もう聞こえない。
自分の心臓の音が、酷くうるさいから。
「……はい、よろこんで」
火照る顔を抑えて、どうにかそれだけは口にできた。
「ありがとう……」
泣きそうな顔で、彼はそっと彼女の手を握る。
「ふ、ふざけるな!このクソガキが!」
「何だ、まだいたのか。もうお前の護衛達は片づけたぞ」
「くそっ、宮廷魔導士どもめ。肝心な時に役に立たんとは!全員首にしてくれる……」
どうやら父は権力に任せて宮廷魔導士を動員したらしい。
辺境伯の住居に侵入し、戦わせるのが「肝心な時」とは到底思えなかったが。
そもそも、宮廷魔導士は王都の守護神とも言われるエリート中のエリートだ。
相手が悪すぎただけのはず。
そんなことを考えていると。
「ふざけているのは、どちらでしょうな」
また窓の外から声が響いた。
美丈夫がソーニャさんを伴って窓から屋敷へと入って来る。
レオナルド様だ。
「先輩に忠告されたんでね。公爵家の動向には注意を払っていましたが、いやはや来てよかった」
どうやら彼らを尾行してここまで来たらしい。
……お疲れさまです。あと、私の家族がすみません。
「ゴールドシュタイン卿……」
「ひっ」
彼が持っている音声でのやり取りを可能にする、四角い板のような魔道具。
そこから聞こえてくる音声には聞き覚えがあった。
というか、その声を知らないものは王都にいないだろう。
演説などをしているはずだから。家に閉じ込められていた私も、一度だけ顔を合わせたことがあるので知っている。
「へ、陛下。なぜ?」
間違いなく、国王陛下の声である。
「ストームブレイカー伯爵から君の振る舞いを聞かされていてね。随分と勝手な振る舞いをしてくれるな」
「あ、いや、これはその」
「愚息を、愚物とはいえ王太子を捨ててこちらのパラディ辺境伯に乗り換える……これは王太子、ひいては王家への反逆である。違うかね?」
「それは、それは違います!もとはと言えば長女ボナムが……」
「いいや違うぞ。元々そちらの長女と結婚させる話だったのを、貴様が直前になって次女をごり押したのだ。完全に非は貴様にある。そして、今回の件も責任は貴様にある。親として、何より貴族として処分は覚悟しておきなさい」
「ひ、ひいっ!」
青い顔をしながら、父はへたり込んでしまった。
母も同じ顔色になっている。
ただ一人、リンダだけが状況を理解していない。
「なに、何をしているの、パパ、ママ、何とかしなさいよ!」
目を血走らせて、殺気立って喚いている。
いまだに状況がわかっていないらしい。
リンダはアリアス様の心を手に入れられなかった。
アリアス様は私を選んでくれた。
父と母はもう国王陛下に睨まれて何もできなくなった。
アリアス様の意志が、権力によって捻じ曲げられることはなくなった。
つまり、リンダの望みは叶わない。
それを、彼女は理解できない。
無理もない。
だって彼女は何をせずとも愛されてきたから。
私とは違う。華やかな容姿に、優れた魔法の才能。
誰からも愛され、守られ、すべてを与えられてきたから。
きっと、今までの人生でなかったのだ。
望みが叶わなかったことが。
だから自分の希望がかなわないという現象を理解できない。
私には少しだけ、哀れにも思えた。
「いいから、帰るぞ」
「いやよ!」
「……リンダ」
せめて何か努力していたら、何かが変わっていたのかもしれないのに。
「行ったか……」
「あの、先輩、俺って」
「客間が向こうにあるから使っていいぞ」
「扱いが雑すぎませんか!」
「冗談だ。本当にありがとう。また何かしら礼をさせてくれ」
「本当に、丸くなりましたよね、先輩は」
「いい人に巡り合えた。それだけの話だ」
「はいはい、じゃあ俺は客間に行きますんで、ごゆっくり」
「ああ、ゆっくりしていてくれ」
「私は、レオナルド様をおもてなししておきますね」
「ああ、頼むよ」
後には、私たち二人だけが残された。
並んで肩を寄せ合っている私とアリアス様だけが。
「大丈夫か?」
この人は、きっとずっとそばにいてくれる。
「きょ、距離が近いです……」
幸せ過ぎて。
頭がどうにかなりそうだ。