プシュケと椿姫
「い…お…て」
誰か何かを囁いている。それは非常に落ち着いていて、何かを心配するような調子の声だった。
もしかして、誰かが屋上で眠りこけてしまった俺を咎めているのだろうか。まさか、もう放課後を過ぎて夜になっているのでは。
そう言えば少し肌寒い気がする。想像から起こった感覚なのかもしれないが、耳の中へ冷風が舞い込んでくる感じもある。
もしそうなのであれば、この声は夜の学校を巡回中の警備員さんだろうか、こんな夜分に小汚い屋上に寝転がって寝息を立てている生徒を発見したなんて、相当驚かれただろう。申し訳ない。
それに加えて思い出したことがある、今日の夜は皿洗いの当番だった、長い昼寝をしていて、授業も欠席して、家事の手伝いも放ったらかしたと母が知ったら般若の形相で説教されるに違いない。
今すぐに起床して家へ帰宅せねばならない。
「すみません…いま…おきま…」
ダメだ、三大欲求に打ち勝てない、性欲、食欲、睡眠欲、でもまあ人間なので仕方ない。あと10秒で起きるので許して欲しい。きっとこの状況を見てるだろう神だって、10秒程度の睡眠ぐらい見逃してくれるだろう、罰は当たらない。
「起き…て……」
「あと10秒で起きます…ちょっと寝かせといて下さい……」
「…あ…こに…ユウレイが…」
幽霊?
この世で最も恐ろしい生物とは人間であるとよく語られるが、真に恐ろしいのは拳や蹴りの物理の効かぬ幽霊のような不明確な概念であると俺は思う。
例えば、人は狂気性を持ってやっと恐ろしくなれるが、幽霊は生まれながらにして武力も権力も通用しない、大抵は常に人を襲う者であり続けている。
故に、概念や不明確な存在こそがこの世で最も恐るべき物であると言うのが俺の持論だ。
家族以外に話した事の無いこんな俺の考えを知っていて、それを利用して叩き起そうと企みそうな人物なんてたった一人である。
「だっっから…
幽霊で脅して俺を無理矢理起こすの、辞めろって言ってるだろ母さん!!」
いくら色んな失態を犯してしまったとは言え、幽霊を怖がるその性格を利用して起こすのは酷いだろ!?毎朝肩を震わせて起きる息子を可哀想とは思わないのか!
その顔面を睨んでやろう、それから直ぐに布団の中に篭ろう。そんなつもりで起き上がった俺を、母とは全く違う鼠色の双眼が俺を柔らかい視線で包んだ。
「寝坊助くん。おはよう」
一面に広がる顔、顔はまるで白雪のように白く、お陰で血色がまるで感じられない、それは人間と言うよりも、既に葬られた死人か、亡霊か、幽鬼と言われた方が納得出来るだろう。
じっとりとした印象を抱かせる目つき、控えめな唇は果実を煮たように真っ赤で…まるで大人のような顔立ちであるのに、ぷっくらと膨らんだ頬がその印象を掻き消し、神秘性を携えた娘へと仕立てている。
「あっ…はい…起きます…今」
「はいはい、君、名前は言えるかな?」
「名前…宇土原明羽です…」
「なるほど、私は椿木スミレ。ヨロシク。」
椿木さんが数歩下がる、茶髪の髪と左右に飾られたカチューシャの飾りがふぅっと揺られる。髪飾りは布で作られていて、椿の花を模しているようなのだが、花弁が遠くの景色を薄く通している事、全体の質感から見ても一見しただけでは本物の椿の花にしか見えない。
白いシャツを、髪飾りの色とも良く似た、淡い紅のセーターが隠している。両肩には紐のような物も伺える、スカートの色とも同じなので、もしかしたら吊り下げのスカートなのかもしれない。
先程は真っ赤な椿の髪飾りに目を引かれて、まるで気が付かなかったのだが、胸元にはスミレをオマージュしたガラス細工の飾りがある。深い紫色だ。ひだの少ないジャボをそれで結い上げて小さなネクタイのようにしているらしい。
「ほら、立って、」
血の気のない手が差し伸べられた、自分で立てるから大丈夫だと断ると、まだ力の入り難い足でダルい体を懸命に起こす。起床直後で、脳が未だ夢から覚め切れていないからだろう、ゆらゆらと覚束無い足元をやっとの想いで正し、両足を横一列に整列させる。
そして俺はやっと、目を見張る光景に気が付いた。
天井が遙か高くにあり、大きな舞台の上に、俺は居た。かなり損傷が激しい。無数の虎が暴れないと出来ないだろうと思う具合の大穴が、そこらで口を開けている。
ここは馬蹄形の劇場らしい、視界の端に座る真っ赤なカーテンと、無数の客席がそうなのだと伝えてくれた。
上から下、左右まで広く展開されているボックス席の客席の上貼布は概して乱暴に裂かれ、中の綿が漏れ出て、最も酷い物は骨組みまで伺える。
そのボックス席を挟む立派な柱には亀裂が何本も走っていて、まるで枝のようになっている。太い黄金の蔦も巻きついており、それは天井にまで及ぶ、垂れ下がった蔦も少々ある。
また、奥には巨大な大木があり、その威厳な雰囲気で俺を圧倒させつつ、此方を見下ろしていた。
その大木の腹には大きく、外来の言語で何かが掘られている。巨大な石で切り付けて作ったように見える文字だったが、まさかあれ程の横幅の石を持てる奴なんてこの現世にそうそう居ないだろう。巨人しかありえない。
それの大木もまた、蔦と同様黄金で出来ており、一体何百何億するのかと鑑定すると金額の桁が肉眼で追って数えられない数になる事は間違いない。
誰が好んで金で自然を模倣し創り上げるのか、分からないが、それ等はまるで神の創造物を追随しているようだった。まるで神の失われた遺産を復活させるような、
確か、何処かで聞いた話では、とある神は劇や舞台、華やかで衰えぬ自然を愛し焦がれたのだとか。まさかここはその神の信者が作った場所なのだろうか…いやまさか。
天井にある、豪華でギラギラとした数個のキャンドルシャンデリア、そこに数多とある長く丈夫そうな蝋燭達が、この退廃的な空間の把握にここまで助力してくれている。
全てが、異様だった。この空間も、そんな所に居る俺だって。
どうして自分はこの舞台に立っている?演者でも無いのに、何かの演目をやる訳でもないのに。
「…は?」
「……
そっか、君も分からないんだ。それが、私゛達゛気が付いたらここに居て…」
「達…?」
「その子もここへ来た事情を覚えてないのかい?全く困ったもんだ。まさか、この場の全員、何も思い出せないなんてね。」
言葉が投げ掛けられて、やっと椿木さん以外の人物の存在に気が付いた。
椿木 スミレ
肌が非常に白く、まるで死体のよう、明羽からは「幽鬼」と比喩されている。
あまり内面を知らない人間に対しては愉快犯のような立ち振る舞いをするが、親しくなるとツンデレ気味で執着的になる女の子。とても人を愛すのが上手!温情に富んでいる。