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キキョウナデシコ  作者: ミルク牛乳
1/1

二人は未だ繋がらず

001


 人は何かを犠牲にしなければならない、何かを得るためには何かを捨て去らなくてはいけない。

 そんな薄っぺらな理不尽を受け入れるならば、全てを掴もうとして全てを失った方がましだと、僕は思う。

 『二兎を追うものは一兎をも得ず』とか、『花も折らず実も取らず』とか、そんな諺が『一挙両得』や『一石二鳥』よりもポピュラーに感じるのは、欲を張って失敗した人間の方が成功した方よりも多く、また人は周囲の人物の成功を望まない傾向にあるからだろう。

 自分の欲を抑制し、他者を牽制する。

 成功を熱望せず、嫉妬に狂う。

 天井の位置を定めてしまう。

 大勢がそれを理解することになるのは社会に出てから、失う価値のあるものを手に入れてから。具体的に例立てて言うと就職して数年以降だろう。僕はまだそんな歳ではないので、あまり不確定で半端な物言いはしたくないが、すれ違う大人を見る限りはそんな印象である。

 高校生。

 高校生といえば恋愛を最も意識する時期。少なくとも僕はそうだった。

「涼くん!遅い!」

 僕の席の前に現れたのは戸田(とだ)真由香(まゆか)。僕の恋人である。

 なぜ他クラスの彼女が僕の席の前に早歩きして、しかも少しお冠であるかと言うと僕が彼女と一緒に帰る約束をしていたのにも関わらず、僕がいつまで経っても集合場所の昇降口に来なかったから。

 それもそのはず、僕は時間なんて概念を遠くの方に置いて、先のような現実と哲学の狭間のような物思いに耽っていたからである。

 時間が経つの、早いなぁ。

 『速い』だっけ、いや『早い』か。

 速度を表す場合は『速い』でーー

「涼くん?今私の目を見ているようで、その実は全く関係ないことを考えてる?」

「おお・・・エスパーだな。どうやったんだ。凄い」

「はぁ・・・」

 彼女が、真由香が好きだ。とても。

 スマートフォンに連絡を入れてくれれば良いのに、わざわざこうして教室まで来てくれた。僕に会いに来てくれた。

 僕が黙っているせいで少し困っているその顔が、ポニーテールに結われたその髪先からつま先に至るまで、僕は真由香を愛している。

「今、何考えてるの」

「何だと思う?」

「多分、涼と同じ」

「だと思った」

「うん。・・・帰ろっか」

「うん。行こう」

 鞄を持ち、彼女の隣を歩く。正確にはその少しだけ前を。

 微かな金木犀の香りがするのは、彼女の香水のお陰。僕が以前プレゼントした品をまだ使ってくれている。もしかしたらその香水はもう無くて、同じ物を彼女が購入したのかも。

 金銭的負担はあまり掛けたくないなぁ。

「良い匂いだね」

「ん。お気に入りなの。ずっと」

 今の会話は他にすれば茶番で下らない惚気だろうが、僕たちの世界には関係ない。

 幸せなのだからそれで良い。

 少し悲観的に考えてみると、社会人と比べて僕は金銭的な幸福を得られるのは難しい。出世とか、結婚とか、家庭を持ったりとか、そういう類の幸せを掴む段階にはまだない。

 だから恋愛で得られる幸せがいかに大切なものかは受け止めて理解しなくてはいけない。比較できる経験がなくても、これはおそらく他とは比べものにならない。

「ねぇねぇ、ここのカフェ知ってる?」

 真由香が僕の目の前に持ってきたスマートフォンの画面には、雑貨が幾つか飾ってある茶褐色で木目調の本棚の側で、これもまた茶褐色で木目調の机があり、その上にはコーヒーとパンケーキ。茶褐(以下略)の椅子には顔しか知らないインフルエンサーが座って本を読んでいる。

「こういう木製の椅子好きだな」

「だよね!涼って木で作られたもの好きだもんねー」

「今度そこ行こうよ」

「よし決まり!この机の上で食べるパンケーキはさぞ美味しそう也」

 言葉の使い方がおかしい。しかしそれには同意也。

「シフトが決まったら教えるよ」

「うん。楽しみにしてる」

 僕の実家は少しだけ洒落た居酒屋で、小遣いが欲しい時だけそこの厨房で働くことにしている。

 子供想い両親に頼めば財布からさっと黄色の紙幣を渡してくれるのだろうが、それで恋人に何かを買ったり、一緒にどこかへ行ったりしても、あまり楽しくないのだ。

 僕のキャベツの千切りはそこらの機械よりも素早く幅も一定なので、いつか仕事に溢れても生計は立てられるだろう。うん。実家が飲食店で良かった。

「たまには私が、このお姉さんが奢ってあげるよ」

「同級生さん、僕は自分で稼いだお金で君と遊びたいんだよ」

「私だって自分で稼いでるもん。私の書いたポップで売れ残り商品が完売して、少しボーナス貰ったんだ。だからさっきのカフェではコーヒーくらい奢らせて」

「いや、オレンジジュースを奢ってくれ」

「コーヒー飲めるって前言ってなかった?テスト期間に家で飲んでたって言わなかった?」

「流石に人目がある中で角砂糖8個も入れれないよ。コールタールみたいなコーヒー飲んでる彼氏見たいか?」

「見るだけで胸焼けするからやめて。オレンジジュースを奢るから許して」

「良いだろう」

 それにしても記憶力が良い。そんな前に、自分でも言ったかどうか覚えていないことを、小さなことを、覚えているなんて。

 素直に嬉しいと思うと同時に、気をつけるべきだとも思った。

 彼女には生半可な嘘は通用しない。過去との発言に食い違いがあればすぐに発覚するだろう。

 性格的に言及はしないだろうが、だからこそ、それを抱え込んでしまうかも知れない。

「もうすぐ夏休みだね」

「あと一ヶ月と少しかー。楽しみだな」

「気になる?」

「何が?」

「水着」

 僕の好みはオフショルである。そこらの低俗な男どもはマイクロビキニとか露出の多い水着を推奨するだろうが僕は違う。あれは巨乳か貧乳しか着ない。

 そもそも水着にエロティックな要素を見出したいならば水着の面積は広い方が良いのだ。

 エロとはとどのつまり妄想。想像。空想。隠されている肌の面積だけ頭の中ではさまざまな思考が巡る。そして思考とは最高級の娯楽であり、それが好きな人の、まして恋人の布一枚下の肌を想像するとなると、それはおそらく一ヶ月の絶食をも乗り越えられる程の多幸感を得られるだろう。そこらの麻薬なんか眼中にも入らない。

 本能的な欲では人生を楽しむことはできない。理性的に、色んなものを遠回りして、上下左右から見て、そうして()()()になることで人生の楽しさの最大値は上昇するのだ。

 では、パレオの付いた水着はどうか。

 ありだーーもちろん。水着としての機能性を度外視したデザイン。左右不均等さ(均等なものもあるが、あれはスカートに見えてしまい僕の中では水着ではない)、そこからは危うさや脆さの色を持つ魅力が生まれる。

 ワンショルダーにも同じような魅力があるが、真由香には似合わないので想像はしない。もちろん、もし着地している場合は、似合わないと本人に言ってはいけない。

 もしかしたら、ずっと見ていれば似合うと僕は思うかも知れない。

 ともかく、デザイン性が目に見えて分かるような水着を彼女には着て欲しいのだ。

「・・・真由香なら大抵の水着は似合うと思うけどなー」

 危ない。さっき頭の中での水着演説を、愚かにも僕は本人の前で説こうと一瞬考えてしまった。危ぶない危ない。

「マイクロビキニとかどうよ」

「オフショルにしてくれ」

 

002


 待て待て、違うんだ。誤解なんだ。話せば分かる。

 言う暇もなく頬を平手打ちされて終わりだ。

「あ、新渡戸さん。おかえりなさい」

「ただいま。今夕飯の準備するから、顔洗って目覚ましとけよ」

「うん」

 同級生の糸井(いとい)(れん)。彼女が()調()()()で学校を休んでもう2日になる。

 夏風邪は怖い。怖い怖い。いや本当に。

 ここは独り身の人や単身赴任のサラリーマンが借りるようなマンション。()()()()である。ご都合主義の漫画風に言うなら、()()()()()()()()()()()()()()()()()ことになったのだ。しかしこれは現実で、リアルで生々しい。

 もちろん、この家に両親と呼べる存在は居ない。どこにも居ない。つい数ヶ月前に居なくなってしまった。

「新渡戸さん、今日のメニューは?」

「味噌汁と焼き魚とサラダだ」

「トマトは」

「小さいのを5つ」

「うぇ」

「食べる前からそんな顔するな。というか食べてもそんな顔するな。俺に失礼だ」

「はーい」

 大きな不幸を()()が吸収する事もあるが、自分が蝕まれていくのを隠してしまう事もある。彼女は後者。

 あの日、もしも彼女が寝坊していたら、もしも空が晴れていたら、もしも彼女の両親の結婚記念日が1日でも前後していれば、もしもタイヤが滑らなければ、もしもそこに電柱が無かったのなら、今も彼女はあの一軒家に父親と母親と仲睦まじく暮らせていたはずだった。

 僕はあの日、何をしていただろうか。

「はいお待ちどうさま。焼き魚定食です」

「あ、このサラダ注文してません」

「火を通して水分飛ばしたから、何とか食べられるだろ」

「瑞々しさが売りのトマトになんて事を、可哀想でもう食べられない」

「その瑞々しさが苦手って聞かなきゃこんな残酷な仕打ちはしなかったよ。さぁ食え」

 これは現実である。僕には恋人がいる。普通、恋人いるのにこうして一人暮らしの女子の家に上がって夕飯を作るというのは浮気である。

 きっと真由香は理解してくれるだろうが、ただ理解するだけ。心に発生するスモッグは消えることなく増すばかりだろう。放っておかなかったからでは済まされない。犬や猫を相手にしている訳ではないのだから。

 からん。僕を現実に戻した音はコップが倒れた事によるものだった。まずが溢れるが、こんな事もあろうとトレイに食器を置いていたので問題ない。拭けばいいだけの事。

「あ、あ。ごめんなさい」

「いやいや、俺に水は掛かってないから謝ることないよ。今の布巾取ってくるから、その暴れん坊な水を見張っててくれ」

 席を立ち、台所の方を向く。この時必然的に彼女に背を向ける事になるのだが、タイミング的には幸運だった。

「まだ片目に慣れなくて・・・すみません」

「謝るなよ。何も悪い事してないのに、損だぜ?」

 彼女の言葉を受け止めるには、僕はまだ軽すぎるのだ。

 一呼吸。何も気にしていない素振りにはもう慣れたと思う。自分の顔を常時監視しておきたい。

「はいはいお客さん。今履くので食器を上げてください」

 溢したとは別の潤いが彼女の目を一杯にする。彼女が食器を下げる頃にはそれは溢れ、手元にある布巾でそれを拭う事はできない。

「慣れるまでの辛抱だ。ほら、前は今座っている椅子を手で引くのにも手間取っていたのに、今日は物凄く自然だったろ?確実に身体が慣れていってる証拠だ」

「ごめ・・・な・・・さい。私、1人じゃ何も・・・出来ない」

 満足にグラスを持たなかったのに情けなさを感じたからではない。積もり積もったものが、グラスをきっかけに流れてきたのだ。

 彼女の後ろに立ち、左手で目を隠す。ぴったりと。

「えっ何ーー」

 右手は頭の上に、乗せるのでもなく、掴むわけでもなく、毛髪の流れに沿うようにただ撫でる。

「ただグラスを倒しただけだろ。この部屋の掃除はお前がしてるし、風呂だって何だって一人でできてるじゃないか。料理に関しては、まぁ、お前がフライパンを焦がさなくなるまでは俺が作るよ。もうすぐ夏休みだから、期間取って教えてやる。もっと図々しく、俺を利用しろよ」

 振り向いた彼女のこの顔は作り笑いだろうか。気を遣ったのだろうか。分からない。

 こんな時に()()()()()()()()()()()()と思うのは、僕が決して善良ではないから。本当は抱き締めてやりたい、本当は俺も一緒に泣いてやりたいと上から目線な感情を本心に持ち、それが出来ないのを真由香のせいにするのは間違いだと分かっているのに。

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