目覚めの炎 3
数刻前に遡る。
森林を縦断するあぜ道を馬車が進んでいく。軽快に足を鳴らし、二頭の馬は荷車をガラガラと牽引している。荷台を王国の紋章があしらわれた防水布が屋根代わりに覆い、中には木箱がいくつか積んであったり、紐で縛られて纏められた書物の束が載せられていたりと様々だ。
御者の席で手綱を取る一人と、後ろの荷台に二人、甲冑に身を包んだ護送の為の騎士が同乗している。彼らは王宮軍鉄騎団、その中でも出入国管理や運搬を取り仕切っている輸送管理隊の所属だ。現在も物資の護送任務に従事している最中である。
「そういえば聞いたか? オプテマギアの長男の話」
「アレか、術研に移転になったって」
荷台からは取り止めのない世間話が絶えず聞こえる。実のところ、護送任務といっても積荷はそう大したものではない。拾い集めた不良品をまとめて郊外の管理庫へ輸送するだけなので、護衛の役割といえば半日の間馬車に揺られ続けるのを、行きと帰りの二度繰り返すだけだ。盗賊の類も、流石に王宮軍の馬車には手を出さない。積荷がなんらかの逸品であるならともかく、騎士が数名乗り込むだけの簡素な馬車から得られそうな戦利品は、仮にも王都所有の車両に手を出す不利益と釣り合わないのだ。
そんなわけで、乗り込んでいる騎士たちは隊の厳格な視線を逃れ、息抜きがてらに揺られている。それでも有事の際に対応できるよう、剣は腰に下げたまま後ろに回し、馬車周辺を範囲とする感知魔術は稼働させている。だが、これも使わねばならなくなる状況はそうない、というのがこの仕事の常と言えよう。
「おぉい、そろそろ背筋を正すくらいしておけ」
御者席からもう一人が話しかけてくる。手綱を確かに握り、視線は一瞬だけ荷台に向けてすぐ前を見直すが、職務に忠実な姿勢と裏腹に、声色はやたらと誇張されていた。
「なに? なにがあると言うんだ?」
「そろそろグラディウス公の領地を横切るからな。目を付けられてはかなわんだろ?」
「成る程! 違いないな!」
砂利を踏み行く車輪の音と、騎士たちの談笑が森に吸い込まれてゆく。軽口の絶えない、気楽な勤務時間が流れていた。
そこに、平穏を乱す影が忍び寄る。
「……おい、術式に反応がないか?」
「む、確かにこれは……」
発動している感知魔術は、御者席のすぐ後ろの床にある魔法陣に出力され、その結果を伝えている。馬車の周囲を円状に索敵範囲として反応の方角を伝え、一定以下の距離まで近づけば正確な位置や対象の情報がわかるようになっている。
「野生動物でも見つけたか? いや、それにしては……」
「───馬を急がせろ! 何か妙だ!」
後方からの返事に、急かした馬のいななきで御者席の騎士は答える。車体の重量や荷崩れの心配もあるから速くし過ぎるわけにもいかないが、それでも即座に出せるだけの速度で馬車が動き始めた。
だが、周囲の反応は依然として位置を変えていない。魔法陣は馬車を中心とした相対的な位置関係を表示するわけだから、つまり、この反応たちは馬車に並走していることになる。
「追ってきているな、人か?」
「いや、賊なら感知魔術のことくらいは知っているはずだ。見つかりかねん距離のまま追尾などしない」
状況を整理しながら、荷台の2人は腰の剣の位置を改め、即座に対応できるよう備えている。既にその表情からは先ほどの雑談時のような朗らかさは消え去っていた。
1人が後部から顔を出し、周囲を確認する。だが、道の両端に広がっている木々に上手く紛れているのか、反応の元と思しき影は目視できない。
「狙ってきている、のだろうな」
「ああ、問題はどの機を探っているかだ」
「おい!この先は曲がり道だ! 流石に速度を落とさなくちゃならんぞ!」
「ふむ…、分かった! お前はそのまま馬に専念しててくれ!」
砂利を蹴散らす蹄と車輪の走行音を割くように声が飛び交う。既に状況は一変し、3人は一様に訓練で覚えた緊張感を体に纏わせている。
「恐らく、向こうも発見されたことは理解している。その状態で襲いかかる好機があるとすれば、こちらが減速した瞬間だ」
「次の曲がり道だな。荷物を曲がりの内側に偏らせて無理にでも駆け抜ける、という手もありそうだが」
「いや、既に並走できる速さなのは明確だ。その気になれば追い抜けることもあるだろう。2人とも積荷を抑えるのに手を使ってしまえば、いざという時に対処できない」
「迎撃か」
「やるぞ」
車両の前後に1人ずつ付き、出来るだけ身を乗り出して辺りに注意する。魔法陣はやはり変わらない反応を示しており、どうやら騎士たちの推測は正しいであろう事を示していた。
「馬は?」
「さっき簡単な催眠をかけた。怖気付いて足を止められてはかなわんからな」
「上出来だ。騎手は頼む」
「さて、そろそろだ」
曲がり道が目に見える。距離はあるが、今のままの速さならほんの数瞬だ。来るぞ、と車体全体に声が通り、馬車の速度が落ち始める。
速度を落とした走行音が、必要以上にゆっくりと時を刻む、そんな錯覚をするほど、状況は緊迫する。或いは、先ほどの反応が何かの間違いであったならと重い空気に押し出された一瞬の雑念を気取ったかのように、馬車の正面に一つの影が躍り出た。
「───刺突!」
輪郭を認めるより速く、抜いた剣に備わっていた術式に魔力を通し、魔弾を発射する。その当たりどころが良かったのか、飛びかかってきていた影はそのまま空中で失速し、道端に転がっていった。
だが、驚くべきはその容姿だった。ここまでに推測される特徴から、せいぜい中柄の動物だろうと踏んでいた騎士は、横目に流すにはあまりに重大なその事実を叫ぶ。
「魔獣だ! コイツら魔獣だぞ!」
狼のようなシルエットだが、その体表には赤黒い痣が亀裂のように巡っている。体毛は薄く、野生にあっても歪と思えるほど発達した筋肉がきつく締め上げられて蠢いているのが伺える。そして何より、魔獣をそれたらしめる1番の特徴、命を脅かす程の熱を感じるような真紅の後脚がはっきりと見られた。
「おい嘘だろ! なんで街道なんかに!」
「知るか! いいから撃て!」
怒号を合図に、状況はさらに急変する。脇道の茂みから飛び出してくる魔獣が六頭。予期せぬ襲来者の正体を前に見せた一瞬の困惑を、化生の爪は逃さない。けん引してる馬の一頭が一撃をもらい、後ろ足に派手な負傷を追ってしまった。倒れこんだ馬に荷馬車が衝突し、もう一頭も混乱の中で大きくいななく。幸いにも速度を落としていたので騎士と積み荷、もう一頭は無事だったが、辺りを獣に囲まれる中で、立ち往生を余儀なくされてしまった。
「"聖法"はないのか!?」
「あるわけないだろこんな任務に!」
「……おい! お前、一人でグラディウス領まで走れ!」
応戦している騎士の一人が、瀬戸際の拮抗の中で声を上げた。魔獣は距離をとって騎士達の行動を伺い、その中から交互に飛び掛かってくる。野生が覚えさせたヒットアンドアウェイは絶妙な連携を見せ、既に騎士達は防戦が限界だ。
「応援だよ! このままじゃ全員やられる!」
「だが……!」
「街道に魔獣が出たんだ! 誰かが報告しなきゃならない!」
わずかな油断も生まぬよう視線は魔獣の群れに据えたまま、意志だけが御者席に向く。それで納得したのか、その一人は馬と荷台を繋ぐ縄を断ち切ると、馬に飛び乗って駆けだした。
「どうにか持たせろ! 直ぐに、直ぐに呼んでくる!」