少年は向かい風を進む1
広大な森を分断する石畳の上、数台の馬車が縦に並んで進んでいる。そのどれも、王宮軍直属と分かる紋章の施された布が屋根の役割を持って覆っている。
カラカラと凹凸の激しい地面を車輪が蹴り、時折大きく跳ねるのに合わせて腰が浮かぶ。あまり馬車というものに乗り慣れていないリフルは、その衝撃で蓄積した痛みに少し悩まされていた。
「大丈夫か? あまりこういうのは慣れていないだろう」
「へ、平気です。……ちょっと痛いですけど」
心配の一言をかけたのは、対面に座るフラッガだ。この悪辣な乗り心地の中でも姿勢を崩さず、見事な背筋を保っている。
王都へ上るということで、フラッガは屋敷ではあまり見かけなかった硬派な正装に身を包んでいる。軍の制服であろう紺色の外套は襟までぴったり閉じられ、上下とも折り目の効いた凛々しい出で立ちだ。その胸元や襟で、いくつかの勲章が彼の活躍を讃えている。
リフルも外套以外は同じようにピシッと折り目が整えられた服を着用している。なんでも、昔のフラッガのものを引っ張り出してきたそうだ。その上から、やはりフラッガの勧めで黒いローブを被っている。こちらは若干大きめなので、座ると引きずってしまう裾に気を使いながら、袖を折りたたんでどうにか合わせている。
「もう後半分くらいになる。こういうものだ、耐えてくれ」
むしろまだ半分か、とリフルは内心で気が遠くなるような思いをした。
グラディウス領付近の街道に出現した魔獣と、領地で暴れまわった大型魔獣の一件の後、ひとしきり調査を終えた王宮軍に同伴して、二人は王都へ出発した。
街道に出た群の方は未だ討滅しきれてはおらず、入れ替わりで別の追討軍が動いている。
大型魔獣に関しては、それだったと思しき灰の遺骸と当事者らの聴取によって把握できた特徴から専門の者たちが考察している。だが、人はおろか魔族でさえ踏み込まないような極地に生息するはずの亜竜が、まさか王国領土内に現れたという調査結果は誰にも受け入れがたい。調査員らは移動の馬車の中でなおも可能性を論じ合っているようだ。
最終的には、それらをまとめたものと、実際に戦闘に及んだフラッガからの報告を王宮に届けることになる。
「……しかし、結果的に死者無しとはな」
フラッガやリフルはもちろん、あの時戦闘に関わった者はみな大なり小なりの負傷を受けた。無傷だったのは、先に家財と避難していた家の従者たちくらいだ。
「大型魔獣も何故か灰になっているし、まるであの出来事が全て夢のようだ」
「えと、そーですね……」
腕を組みどこか訝しむフラッガの対面で、リフルは気まずそうに視線を泳がせている。
あの時、ロアの顕現と亜竜が殺される瞬間を見ていたのはリフルだけだ。とはいえ、実際は封印された魔王ロアが決着をつけた、などと言えるはずもない。
「まあ、分析はその道の人間に任せよう。武器は武器屋というやつだ」
そう言って自分を納得させたフラッガに、リフルも少し安堵を覚えた。
「ところで、その鞄の中身は何なんだ?」
リフルが馬車に乗り込む前から肩に提げ、今は膝の上で抱え込まれている荷物にフラッガの興味が移る。
鞄はリフルの体格にしてはかなり大きい方で、小柄な膝の上を踏ん反り返るように占拠している。厚みもそこそこの物であり、彼はそれを手一杯に掴んで倒れないよう支えていた。
「えっ!? いや、これは、なんでしょうか!」
「知らないのか? 君の荷物だろう?」
「あー、そ、そうですよね! えっと!」
大柄のそれに、中身はたった一つ。
魔王ロアの精神、魔術、記憶などが蓄積された本であり、現在は主に思念のみの存在として活動中のロアその人である。
言うなれば、魔王の写本。恐らくは世界の何より物騒な一冊だ。
「アレです! 魔道書! 王都で魔術を試される機会なんかいくらでもあるでしょうから!」
「ほう、使い込んだ一冊というわけか」
「そうですそうです! 馴染んだやつが一番いいんですよ!」
とっさに出たでまかせだったが、フラッガはそれで腑に落ちたらしい。どうにか取り繕えたとリフルは冷や汗を拭う。
「馬車に揺られて痛むんだろう? それを尻に敷いたら楽になるんじゃないか?」
「───!?!?」
危機を回避した矢先、突然の提案にリフルは目を白黒させることしかできない。いくら何でもできないと分かっているはずだが、この流れで乗らないのも逆に不自然だろうかと混乱した頭で思考を巡らせる。
「ソ、ソッカーソウイウコトガデキルノカー!」
張り付いた笑顔をわずかに痙攣させながら行動を決めあぐねたまま、カバンを握る拳だけが力んでいく。いっそ流れに任せてしまおうかと気持ちが傾き出した時に、別の声が聞こえた。
『───おい』
「ひぃっ!?」
『ふざけるならそこまでにしなさい。私を敷くとか、選択の余地があるとでも思ってるの?』
明らかに苛ついた声色で、恐怖の権化が語りかける。
沈黙していたので判別がつかなかったが、どうやらロアは今までのやり取りをしっかり聞いていたらしい。即座に否定しなかったリフルの態度に気にくわないところがあるようだ。
「ち、ちょっと……! ダメでしょ喋っちゃ……!」
とっさに鞄を持ち上げて口元だけを隠し、リフルは本に向けてささやく。その頭では、今の声が聞かれてはいまいかと動揺の嵐が渦巻いている。
「どうした? 急に持ち上げて」
「へっ!? い、いや、どうしよっかなあなんて!」
フラッガの問いに答えぬわけにもいかず、先延ばしの回答をはじき出す。内心大慌ての彼の心ではそれが限界だ。
『何、その煮え切らない態度』
「いやっ、その、まあ難しいですよねえ!」
『誰に言ってんのよ』
リフルの懸念など知る気もないとばかりにロアが詰問する。その声の圧力と、聞こえているかもしれない不安、さらに、目の前のフラッガに悟られてはならないという三つの負荷でリフルの思考はまるでまとまらない。
どれから解決すべきか、できるのかさえわからない過剰処理。すでにその態度が傍目には十分不審だということさえ、彼自身には気づけない。
『……ああ、そういう』
「だからっ、魔王様……!」
『聞こえてないわよ、アンタ以外には』
あれだけ気を揉んだというのに、あっけらかんと言っておいて欲しかった事を今になっていうのだから、この魔王は無茶苦茶である。
人間の気など知ろうとも考えようともせず、そしてそれを許させるだけの力があるのだから手がつけられない。
「へっ……?」
ここ最近で一番マヌケな声が出たなあ、と、どこか傍観者の様に考えるリフルだった。