目覚めの炎 11
時は少し戻り、結界の構築が始まる以前の頃、リフルは自室から大型魔獣の姿を確認していた。
「あ、あんなのが……、どうして……」
踏み込むたびに、凶悪な爪が大地を痛々しくえぐる。前足からは翼のような部位が横に伸び、巻きまれた木々を歩く力だけでなぎ倒していた。全身がうろこに覆われ、その質感だけならトカゲが似ているかもしれない。低姿勢を維持する背筋は流れるように運動を繰り返し、今にも飛び出そうと折りたたまれた後ろ足はエネルギーが秘められているのが見て取れる。すらりと先細りする尾は所在なさげに遊ばせられるものの、何の気なしに振られただけで大きく砂塵が舞い上がるくらいには力強い。
"竜"だ。
リフルは詰め込んだ知識から、目の前の魔獣に最も近いものを引っ張り出す。その確信を裏付けるように、声は魔獣の名を呟いた。
『竜種、"空を忘れた竜"。……ああ、人間は"亜竜"と呼ぶんだったかしら』
「あれが、亜竜……」
『さっさと退くわよ。せめて肉体があればともかく、今の私じゃあんなのにも太刀打ちできないんだから』
流石にそう言われては従うしかない。せめて大事なものだけをいくつか抱えていこうと部屋を見回したところで、リフルはあることに気が付いた。
「嘘、あれ、ない! なんで!?」
机や棚を何度も確認し、ベッドのシーツをひっくり返す。だが、目的のものはどこにも見当たらない。
『何やってんの! 早くしなさい!』
「ダメなんだ! あれだけは、あの腕輪だけは!」
王国随一の『虹の魔術師』から貰った腕輪、それは彼にとって数少ない心の支えであり、間接的ながら両親との思い出に紐づけられたものでもある。
部屋にはない。その事実を再三確かめ、必死に記憶を手繰る。どこかに落としてきたのだとしたら、最後に見たのはいつだろうか。昨日の午前に一度触れ、所定の場所に戻したはずだ。
(その後は……、そうだ! あの夜!)
本に触れようと伸ばした手に、身に着けた覚えのない銀色の光。その光景を思い出したリフルは即座に部屋を駆け出た。
『ちょっと、どこいくのよ!』
あの声が苛立ち交じりに叫んでいた気がしたが、そんなことは知らない。道中、すれ違った使用人に呼び止められた気もしたが、それも関係ない。体に命じ、更に速く、速くと足を急がせる。既に屋敷の中は多くの人間が行き交っていたが、その人混みを体当たりで蹴散らしても構わないという勢いでリフルは走る。
昨晩と同じ馬小屋の辺りについた。屋敷の裏手側なので、兵士が正面に集まっているのもあってここは比較的静かだった。おぼろげな記憶を頼りに、昨晩倒れこんだ辺りを睨むように目を向ける。すると、こちらに存在を知らせるように銀色の反射光が見えた。
「っ! あった!」
駆け寄って手に取ると、それは間違いなく大事な腕輪だった。腕に付けてまた落としてはいけないと考えて、今度はズボンの深めのポケットにしまい込む。そうやって安堵していると、振り切ってきたはずの声がすぐ近くから響いた。
『アンッタねえ! 逃げないとまずいって分かんないの!?』
「うわああ!?」
驚いて振り向くと、真後ろの空中に例の本が浮かんでいる。本だけだが、口調にも乗った高圧的な態度は表紙から滲み出ており、どこか禍々しい色の輪郭さえ見えてくる気がする。
「なっ、なんでここまで!?」
『契約! 簡易召喚くらいこっちからもできるの! そんなことよりいい加減に行くわよ!?』
疲れたから抱えなさいと言わんばかりに本はリフルの胸に突っ込み、そこで浮遊を解いた。そういえばちゃんと持ったことなかったけど、これ結構重い。恐らく口にはすべきでない感想を思いながら、リフルは本を脇に抱える。
気が付くと、領地を覆う結界が天を閉じようと編まれ始めていた。
(あ、これって確か、完全に閉鎖する……)
いつだったか、フラッガから少し聞いたことがあった。この家には有事の際に備えて様々な魔術が待機させてあり、その一つに防衛結界というものがある。これが一度完成すると、内部からの脱出は数名しか知らない地下の避難通路以外に不可能となる。だから、その際には使用人の指示に従って一緒に避難しなさいと教わったことをリフルは思い出した。
「急いで従者の誰かに合流しないと……!」
『しない。私たちは私たちで逃げる』
「えぇ!? だってこの結界は……」
まだ完成こそしていないが、既に領地の塀は優に超える高さまで組み上がっている。ここから脱出するには隠し通路を知る者に従うしかないはずだが、そんな心配を声はあっさり切り捨てた。
『完成を優先したせいで大分杜撰になってるじゃない。これくらいなら今の私でもこじ開けられる』
「…あれ、じゃあ、あの魔獣は……?」
『止めるのは無理でしょうね、まず間違いなく破られるわ』
守り切ることはできない。リフルにとっても無視できない事実があまりにも素っ気なく言い放たれた。
『さっき人間の一人に暗示をかけておいたから、多分あっちじゃアンタもその避難組にいることになってる。だから問題無し』
「問題なしって…、そんなわけないだろ!」
即座に振り向き、屋敷の方へ戻る。全力で走ってきたからあまり調子は上がらないが、それでもできるだけの速度で息を乱しながら走りだした。
『ちょっと、アンタいい加減に……!? 言ったでしょ!? 人間一人、切り捨てたっていいのよ!?』
「ならやればいいよ! 僕とこの家の全員が死んだ後で、亜竜が暴れ回る中を無事でいられるなら!」
『んなっ……!?』
勢いに任せてかなりとんでもないことを言い切ってしまった気はしているが、今のリフルにはそれよりも心配なことがある。それに、抱えられた本もすっかり言葉を失っているように感じ取れたので、今のうちにと足をさらに急がせる。
『……………いいわよ、見定めてやろうじゃない』
言い負かされてしまった本は悪態を一つ零して、後は黙るしかなかった。