戦いの前の軽口、魔物の森にて。
満月の日は静かに訪れた。
魔物が現れる場所は複数あるバルニエ公爵の領地の一つで、広大な森が広がっているだけの土地。狩猟をする者が行き来するだけで、定住している領民はいなかった。
森の近くの簡素な狩猟小屋では、狩猟民に偽装した王子の間諜が数名待っており、馬たちを預けることができた。
小屋の中に入り、王子は口を開いた。
「今回は、状況を把握する為の偵察を予定している。何か危険があった場合は、各自の判断で離脱して、この小屋まで戻り、一日待った後で辺境伯の城へと向かう」
「王城ではないのですね」
確認の為、私は王子に問いかけた。
「万が一にも魔物が追ってきた場合、王城では被害が大きくなってしまうからね」
王子の言葉には苦いものが混じっている。王城の回りには王都があり、その周辺にも住む人々は多い。辺境伯の城の周囲もかなり賑やかではあったが、住人の総数という点では明確に差がある。
「辺境伯の城なら、辺境伯の騎士たちが待っています。例え敵が見えずとも、彼らの察知能力と戦闘能力は常人を超えています。必ず力となってくれるでしょう」
ティエリーが絶対的な信頼を言葉にし、優雅に微笑む。場違いとも思える微笑みは、緊張していた私と王子の心を和らげる効果があった。
「僕の御先祖は、一人で封印を行っている。もしも封印することになっても、今回は五人いるから大丈夫だろう」
肩の力が抜けた王子の言葉は、明るいものになっており、部屋の空気も一変した。
「……馬が近づいてきます」
木窓の隙間から外を見ていたガヴィの声で耳を澄ませると、複数の馬が駆ける蹄の音を拾うことができた。窓を少し開けて、王子が外を見る。
「あ、あれ? もしかして?」
驚きの声を上げた王子につられて窓の外を見ると、砂塵を巻き上げながら近づいてくる馬影と翻るマントが見えた。
全員で小屋の外に出て迎えると、先頭を走っていた二頭の馬が到着した。
「間に合いましたかな」
マントを翻し、威勢よく馬から降りたのは父と戦斧を携えた辺境伯。二人とも異様に上機嫌で、戦闘を前にした高揚感がにじみ出ている。
「あれ? 僕は言ってなかったと思うんだけど……」
苦笑する王子に対して謝罪しようとすると、ジュリオが先に口を開いた。
「申し訳ありません。私が連絡を取っておりました」
そういえば私はこの小屋へ来ることも知らず、魔物のおおよその出現地だけしか父に明かしてはいなかった。ジュリオが魔法で連絡していたのだろうか。
「心配を掛けてごめん。そうだね。僕から声を掛けておくべきだったよ。ありがとう」
ジュリオに礼を述べた王子が、こちらへと走ってくる馬へと視線を移す。父と辺境伯の馬は相当な速度で走ってきたようで、他の馬はまだ遠い。
「ニコラは来てる?」
「ニコラは辺境の城で大規模結界を発動させる準備をしています。王城周辺も、神官総出で大規模結界を準備しています。何か御用ですか?」
「結界かぁ……ここで張ってもらいたかったんだよね……」
「魔術師でしたら、将来有望な力のある者を連れてきました」
それは誰かと聞く前に、二頭の馬が到着した。馬には王子の護衛騎士である灰茶色の髪のエクトル、もう一頭には茶色の髪のブノワと神官ドニが乗っていた。
「王子、水くさいですよー。俺たちにも声掛けて下さいよー」
明るく笑うブノワの後ろに乗っていたドニが、転がり落ちるようにして馬から降り、近くの木陰で吐き始めた。
「ドニ、大丈夫か?」
「だ、大丈夫な訳ないですよっ。見てわかりませんかっ」
一つに結ばれた茶褐色の長い髪は乱れ、金茶色の瞳が涙を湛えている。ブノワから差し出された水筒で口をすすぎ、大きく息を吐いた。
「馬酔いさせないから大丈夫って言いましたよね?」
「いやー、ブノワの騎乗で酔ったヤツ今までいなかったんだよなー。昨日までは大丈夫だっただろ? きっと道が悪かったんだよ」
涙目で抗議するドニを、エクトルが宥める。父が言っていた力のある神官とは、ドニのことだったのか。
最後の一頭の手綱を握りしめていたのは、港町の魔術師ユベールだった。私と目が合うと、口を引き結んで明らかに不機嫌な顔を見せつつも、馬から降りて近づいてきた。
「おい、お前、ちょっと話がある」
「何の話? お前の黒歴史を披露するわよ?」
お前と言われて反射的に返すと、ユベールが顔を青くして怯んだ。
「…………アレの話だ」
小声で呟かれて、ペンダントのことかと理解して、私は誘われるままに木陰へと向かった。
『まさか失敗したのか?』
『まだ使ってはいないわ。魔物を倒したら使うつもりよ』
『そうか。後始末の混乱に乗じてということなら、俺も手伝う』
『あら、それは嬉しいわね』
少女趣味の変態でも、父が認めた実力のある魔術師は、察しが良くて話が早い。
『……確認するが、王子妃になるつもりはないんだな』
『ええ。がさつな私が王子妃なんて似合わないもの。……どうしたの?』
ユベールの表情は複雑で、何かを納得できないような考え込む様子を見せる。
『ここに来るまでに、王子がどれだけお前を気に入っているか聞かされた。特に王子の護衛騎士のヤツらなんて、お前が王子妃と確信して浮かれまくってる』
『……その期待に応えるのは私では無理ね。私は剣を捨てられない。剣で戦う王子妃なんて、聞いたこともないでしょ』
王城で王子の護衛騎士たちから歓迎されたことを思い出すと、胸が痛む。
『物語なら沢山あるけどな』
『物語の中なら存在できても、現実の中では無理よ。…………正直に言うと、陰口を叩かれるのが怖いのよ』
『そうだな。戦って倒せる相手より、掴みどころのない悪意の方がヤバいな』
溜息交じりのユベールの言葉が、やけに実感がこもっていて思い出した。
『王女に恋文を渡そうとしたことは侍女と私しか知らないはずよ。あのことが噂になったから王城から退いたの?』
『違う。あの件は誰にも言われたことはなかった。……俺が王城勤めを辞めたのはバルニエ公爵の取り巻きから、絡まれるのがウザくてな。魔物退治をしないかって毎日誘われてたんだ』
『魔物退治?』
『ああ。倒せば魔術師として名を残せると言うが、どんな魔物かは説明しない。詳細は依頼を受けてからと言うだけ。報酬は高額だったが、怪し過ぎるだろ? ……ここ三十年程、近隣諸国で力のある魔術師が行方不明になる話が頻発してた。そのうちの何人かは、魔物退治の依頼を受けたと言い残していたらしい』
『三十年? それは……』
『今回の魔物の件を知って、やっと繋がった。憶測だが、魔物退治と称して力のある魔術師を生贄か何かにしたんだろ』
そう言い捨てて、軽く頭を振ったユベールは、小さく息を吐いた後、私に笑いかけた。
『で、魔物の首をお前が落とすんだろ? きっとお前ならできる』
『ちょっと、いきなり何なの? 気持ち悪いわね』
『俺は魔物を確実に倒したいだけだ。おだてておけば、何とかするだろ?』
『馬鹿なの? おだてなくても、私は必ず討ち取るわよ』
これは戦いの緊張感をほぐす為の軽口。そう気が付いた私は、ユベールと笑い合った。
◆
私たちは森を見下ろせる丘の上で、魔物が出現する時を待ち構えていた。
日が落ちた途端、地鳴りと共に広大な黒い森が起き上がった。そんな表現が正しいのかは分からなくても、その光景は確かにそう見えた。
黒い森が不気味に泡立ちながら膨張し、やがて巨大な黒い鳥の姿へと変化していく。猛禽類のようでもあり、鴉のようでもあり、赤い目が輝いている。
「……これは……」
王子も私と同じ光景を見ているのだろう。その声からは驚きが伝わってきた。
「私が見た魔物とは異なっています。……これほど禍々しく、これほど巨大ではありませんでした」
私が見た魔物は巨大といっても、せいぜい十階建ての建物程度。今、目の前にいる魔物は、王城の大きさを遥かに超えて、もはや山と言っても過言ではなかった。
魔物の動きは緩慢で、軋むような不気味な音を立てて、ゆっくりと魔物が翼を広げた時、羽軸から生える羽枝の一本一本が乾燥して干からびた人間だとわかった。もしもあれが生贄の人間だったとしたら、被害は数万人以上と想像できる。
(どうやって戦う?)
首を落とすにしても、剣で斬れるような太さではなかった。心臓は王子に任せるとして、私は必死になって斬り落とす方法を考える。
「巨大な何かがいるのはわかるが……姿が見えないのは厄介だな」
「動きが遅いようだから、適当に切り刻むか」
父と辺境伯は完全に戦うつもりで話している。
「空気が悪すぎて気持ち悪くなってきました……うっぷ」
「おい、吐くならあっちに行け」
ドニとユベールも圧倒的な禍々しさを感じ取っているのか顔色が悪い。
「〝暗影の剣〟が抜けって言ってるけど、どうしたものかな」
「貴方に魔物の姿を見せてくれるのではありませんか?」
「それが、キレ散らかしてるだけなんだ。見せてくれるのなら抜いてもいいんだけど」
ティエリーとガヴィが話す横で、ジュリオは周囲を見回している。
「ブノワ、何か見えるか?」
「全っ然。普通に夜の森ってだけだよなー」
護衛騎士の二人は全く見えていないらしく、呑気に的外れな場所を見回している。
かなりの時間を掛けて魔物は翼を閉じ、巨大なくちばしで、身繕いを始めた。緩慢過ぎる動きを見ていると、大きくなりすぎて自らの体の重さで動けないのではと思ってしまう。
やがて白い満月が昇ると、周囲が幻想的な雰囲気に包まれる。月の光が木々を照らし、魔物の姿もくっきりと見えた。魔物の一部となった人間たちの苦悶の表情が心に痛みすら感じさせる。
(これは……絶対に許してはいけない所業だ。穏便に処理できる段階を超えている)
バルニエ公爵が生贄を捧げて魔物を育てたのだとしたら、王子がどう言い繕っても庇いきれないだろう。たとえ絞首刑にしたとしても、これだけの人々の命を奪った罪は贖えない。
「何か、来ます!」
切羽詰まった声でジュリオが叫び、魔物の方を指さした。
前触れなく黒く光る魔法陣が地面に描かれ、その中央にバルニエ公爵とバルニエ公爵夫人が現れた。名高い騎士だった父と辺境伯の攻撃到達範囲を恐れているのか、その距離はかなり遠い。
「おひさしぶりです、ルシアン様」
銀髪に青い瞳のバルニエ公爵は黒で誂えた豪奢な大礼装姿で温和に微笑み、アリシアに似た銀髪に水色の瞳のバルニエ公爵夫人は、髪を結い上げサファイアのティアラを付け、銀糸で刺繍がされた灰水色の大礼装のドレスを着用している。我が国の貴族の大礼装は、結婚式か戴冠式で着用されるもの。暗い森の中では場違いに輝いている。
「は? 親父? お前、何やってんだよ!」
ユベールが怒声を二人に向けると、バルニエ公爵夫人がその儚げな微笑みを邪悪な笑みへと変えた。




