第九目 契り、約束
ノックを二回、麗奈の返事を聞いてから火ノ目は洗面所に入る。
風呂場の硝子は当然、磨りガラスになっていて、中が見える事はまずないのだが、火ノ目はギッチリと両目を閉じていた。
「タッ、タオルが見つかりました。叔母に貰ったやつです。後、死んだ者の服で悪いですが、母の服を置いときます。良かったら、使ってください。」
「ありがとうございます。火ノ目さん。」
麗奈の声を聞きながら、火ノ目は風呂場を後にした。ドキドキはしていない。
断じてしていないはずだ。
「ふぅ。」
充分にリラックスして、呼吸を整えてからリビングに入ると、又三郎が牛乳を飲んでいる所だった。
「どうじゃった?麗奈の体は?」
「…見てないよ。」
「アニャ。残念。」
又三郎の言葉を軽くいなして、火ノ目は自分のコップにも牛乳を注ぐ。緊張しすぎて喉が渇いていた。
「(それにしても何だか人が増えたな)」
今朝までは一人だった。それで良いとも思っていたのに。
変わった者が二人も増えてしまった。それが良いことなのか、悪い事なのかも火ノ目にはわからない。
コップを流しに置いて、昼食の下準備に取りかかる。もう2時近いのでサンドイッチにする予定だった。今のうちに具材を切って置けば、麗奈が戻った時にすぐ準備ができる。
「又三郎。」
「ん?」
麗奈が風呂に入っている内にやっておく事がもう1つあった。
火ノ目は、ポケットから少しシワになった眼帯を取り出すと、それを又三郎に向かって突き出した。
裏地にびっしりと刻まれた呪印が、この眼帯の力を示している。
「ほう。お主にしては思いきったな。だがホントにいいのか?契約は危険な事だぞ。」
又三郎は意味深に目を光らせて問いかけてきた。
火ノ目は、一瞬だけ息がつまる。それは体が憶えこんでいる恐怖だ。
「お前達妖は、人を陥れる為に契約を使う。人が得する事など滅多にないと聞く。だけどお前の力がないと、彼女は救えない。」
「何故、そう思う?」
火ノ目は大学の講義中に考えだした考察を、又三郎に披露する事にした。
「お前には僕を守る契約がある。守らなければお前は消える。もし僕と麗奈さんが二人同時に危険に陥った時は、お前は僕を優先して、助けなければいけないはずだ。だから彼女を助けるには、僕が力を持たなきゃいけない。」
「正解だな。なかなか賢いじゃないか。ワシは麗奈の事も気に入っておるが、契約には逆らえん。麗奈が狙われているとしても、ワシはお主を守る。結果的に麗奈を死なせてしまってもな。それが契約だ。」
火ノ目の考察が正しかった事に又三郎はとても満足しているようだった。ヒゲがニョキニョキと上下に揺れている。
「お前が僕に契約を持ちかけたのはその為なんだろう?」
「1つは正解だな。あと2つある。」
「僕がお前達を拒絶していたからか?」
「正解。ワシらだけでなく、お主は全てを拒絶していたろ?そんな苦しい生き方を雪江の息子にはさせたくないのだ。」
「お前は母さんをよく知っているのか?」
「雪江と会ったのは一度きりだ。だが彼女には世話になった。」
「雪江もな。かなり深い闇を持っていた。それでも雪江は明るい女だった。お前の存在も大きかったと思う。
子は親の光となるからな。」
「母さんはお前に何を渡したんだ?まさか契約した制で早く死んでしまったのか?」
「……雪江はな。妖の声を聴く力を渡したのだ。」
「母さんも、昔は聴こえたのか?妖の声を。」
知らなかった。
だが、言われてみれば、幼い火ノ目が声に怯えていても、雪江が火ノ目を叱った事はなかった。
「死とは関係ない。人の儚さは花と変わらん。ワシには魅力なきものよ。」
「そうか。」
安堵と同時に横切った寂しさに飲まれぬ様に、火ノ目は次の質問を又三郎に投げ掛ける事にした。
「お前は知っているか?俺の目がどうして赤いのか?」
「それが本題だな。だが何故、赤いのかはワシも知らん。けれど、その色はお前に禍をもたらす。」
「お主の持つ赤い目はな、妖達の秘宝となる。価値はとても高く、魑魅魍魎でも大妖怪に変化できる程じゃ。
左目が取られたのも、その為だろう。もし、力がなければ、いずれ右目も失うじゃろう。隠すだけでは逃れられない。」
「……8年前。何かと契約して、左目を取られた。そして、僕はお前達が見えるようになった。」
『母親ニ会イタイカ?』
あの時の記憶が恐怖を連れてきた。
8年前の火ノ目は今よりも賢くなく、そして今よりもずっと弱っていた。
「契約は危険な行為だ。
その事は見に染みてわかっている。」
「……左目を取り返すことが、出来ないのも知ってる。」
雪江の古い友人であると語った坊主は、火ノ目に妖についての知識を与えた。
そして自分のもとで修行するか、妖から隠れて過ごすか提案した。火ノ目は眼帯を作って貰うことを彼に頼んだ。隠れて過ごす事に決めたのだ。
「責任はワシにもある。もっと早くからワシがお主に着いていれば、こうはならなかったかもしれん。ワシは油断していた。お主は雪江の息子だ。雪江達と幸せに育っているに違いないと思っていた。
親戚に酷く扱われているとは、思わんかった…。」
又三郎の目には深い悲しみが映っているように見えた。
「別にお前のせいじゃないよ。つけ入られた僕が弱かった。幼かったんだ。」
「ワシと契約ができるか?憎くないのか?人はワシらを忌み嫌うが、それはあながち間違いでもない。そうやって人は生き残ってきた。お前がワシらを恐れる事も当然なんだ。」
「ずっと辛かったのは確かだ。」
「見たくないモノを見ない様にすれば、自分を保っていられたよ。でもその代わり、独りだった。ずっと独りは辛かった。自分以外の存在はまだちょっと慣れないけど、お前や麗奈さんと喋っていると、不思議と辛くない。だから守りたい。それだけなんだ。」
「……」
「ワシと契約したとしても、勝率は4割ぐらいだ。人にとって、ワシら異形は唯一の天敵、勝ち目は殆ど無いのが常なのだ。それでもやれるのか?」
「駄目なら逃げるさ。得意分野だしな。」
「そうか。」
又三郎は眼帯を受け取ると、それを懐にしまった。
「左目を見せてみよ」
懐から引き抜かれた又三郎の肉きゅうの上には、眼帯の代わりに丸い物がのっていた。
それは漆黒の玉だ。正に漆黒。これ程純粋な黒を火ノ目は見たことがなかった。
「それは?」
「これがワシの切札、『黒雨』という。絶対的な力だが、訳あってワシは、この力を行使できん。だから契約に基づいて、これをお主に預ける。さあ、この玉を左目に入れてみろ。」
「…」
火ノ目は目玉と同じ大きさもある玉を、コンタクトを着けるような姿勢でゆっくりと左目に近づけた。
玉の中では闇が蠢いており、本当に眼球に押し込んで良いのモノなのか疑問は湧いてくる。しかし…
「(又三郎を信じるしかないな。)」
火ノ目は少しずつ玉を目の中に入れていく。
玉と目が重なる感覚に少し吐き気がしたが、今は堪えるしかない。
ゾクッ
玉を完全にのみ込んだ瞬間、とてつもない目眩が火ノ目を襲う。
「黒雨によろしくな。」
「又……三郎」
その場に崩れ落ちた火ノ目を眺めながら、又三郎は、チビりと牛乳をすすった。