そらのそこのくにせかいのおわり(改変版)5.0 < chapter.6 >
ベイカーとタケミカヅチも異変に気付いていた。あの振動は、『マガツヒの神』の出現時に発生する現象である。
堕天使の放つ黒い衝撃波をニケの炎で中和しつつ、ベイカーは上着を脱ぎ棄てる。獣人化して雷獣本来の姿に近づくには、背中に衣服があると邪魔になるのだ。
蝙蝠に似た黒い皮膜の翼を展開し、ベイカーは宙に舞い上がる。
それを追って飛び上がろうとした堕天使は、空を見上げたその姿勢のまま固まった。
動くことは出来ない。堕天使の胸を背後から貫いて、真っ赤な手が何かを握っているのだ。
ドクドクと脈打つそれは、天使の心臓であった。
心臓の色は赤い。流れ出る血も、闇色には染まっていない。
ベイカーは舌打ちした。
やはり、闇の発生源は心臓ではなく頭のほうだ。
これで分かったのは、堕天使の正しい『食べ方』である。重要なのは、頭ではなく心臓のほうに魔剣を突き立てること。他の神は頭に剣を突き立てることで魔剣に吸収できた。それは心臓ではなく、脳に神としてのすべてのデータが収められているからだ。これまでに仕留めた天使にも、そのつもりで頭に魔剣を突き立ててきた。だが、出来上がったのは何の能力も持たない闇属性の剣だった。
天使のデータは心臓に保存されている。それさえ突けば、この天使の能力を取り込むことができるのに――。
「ロドニーッ! それをこちらに寄こせ!」
天使の胸を貫いたまま、ロドニーは感情の無い目でベイカーを見る。
黒い髪、黒い瞳、赤い肌――前髪の隙間から、小さな角が覗いている。もしもここに大和の国の民がいたならば、その姿を見て、迷わず『鬼だ!』と叫んだことであろう。
ロドニーはベイカーの眼を見て、わずかに表情を動かす。
「……隊…長?」
「!」
まだロドニーの意識がある。これは『オオヤソマガツヒ』ではなく、一番弱い『マガツヒ』だ。この程度なら、自分一人でも闇を中和することができる。
「ロドニー! そのままだ! 絶対に動くなよ!」
自分が何をしているか、それを自覚させてはいけない。ロドニーが恐怖や絶望に呑まれれば、それを糧にマガツヒは育つ。ベイカーは可能な限り、柔らかい口調と表情で呼びかける。
「なあロドニー、俺は今からそこに降りるが……実はお前に、ちょっとしたプレゼントがあるんだ。少しの間、目を閉じていてくれないか?」
「……は……イ……?」
寝ぼけ眼の子供のように、ロドニーはおとなしく指示に従った。ベイカーはマガツヒを刺激しないよう、そっと地面に降り立ち――。
「もう少し……もう少し、そのままだぞ。まだ、目は開けるなよ……?」
静かにマガツヒに近付き、雷剣を構えた。
『マガツヒの神』とは、オオカミナオシの『器』の内部で圧縮された『闇堕ちの毒』が限界値を超えたときに出現するものである。ロドニーの限界値はもっと高いはずだが、一度に数体の堕天使を食らったことで、一時的に消化不良に陥ったのだろう。今はうまく胃袋に収まりきらなかった分が吐き戻されているようなものである。
タケミカヅチと、麒麟と、ミカ・ヒハヤ・トリノの三柱と、精霊サマナス。そしてベイカー本人での『雷属性総攻撃』を仕掛ければ、ロドニーをもとに戻すことなど造作もないこと――そう思えたのだが。
「……エセ……」
堕天使が動いた。
「!」
心臓を取り出された時点で死に至ったと思い込んでいたが、天使は神とは異なる身体構造を持つ。白虎が魂の無い肉体だけで戦い続けていたように、天使は心臓を抜かれても、頭さえ無事ならば体を動かしていられるらしい。
「く……っ!」
剣を構えた腕を掴まれる。堕天使から生ずる黒い霧を防ぐには、距離が足らない。あっという間にベイカーの体も闇に覆われていく。
「クソ! 離せ! この……っ!」
「カエセ……我ノ……我ノ……」
心臓を鷲掴みにしているのは真後ろにいるロドニーである。だが、堕天使の眼に見えているのはすぐ近くにいるベイカーのみ。とんだところで痴漢冤罪事件の被害者気分を味わったベイカーだが、誤解を解いているだけの余裕はない。
「隊…長……? どうしたん、です、か……?」
ロドニーが目を開けそうになる。
焦ったベイカーは、咄嗟に魔法を使った。
「《雷陣・一式》!」
半径五メートルの雷の呪陣が出現し、堕天使とロドニーは紫電の雷光に撃たれた。
堕天使の手が離れた瞬間に再び宙に逃れるが、魔剣に比べて、《雷陣・一式》では殺傷力が低すぎる。
「っ! 仕損じた……っ!」
堕天使もマガツヒも、この程度の『光』で浄化される小さな闇ではない。動きが止まったのはほんの数秒。彼らはその後、すぐに交戦状態に突入した。
戦っているのはマガツヒと堕天使だ。
反射的に手を離したのはマガツヒも同じこと。堕天使は落ちた心臓を拾い上げ、胸の穴に突っ込みながら闇の波動を放つ。
マガツヒも、同じく闇の波動で迎え撃つ。
闇と闇とのぶつかり合いに、空気が、地面が、空間自体が激しく打ち震える。そして互いが放つ闇に共鳴して、マガツヒと堕天使、双方の力が高まっていく。
「く……大失敗だ……これでは、もう……」
タケミカヅチが割って入れる隙が無い。闇で力を高めた彼らは、徐々にその姿を変えていった。
腐乱死体のようだった堕天使は、美しくも禍々しい黒衣の悪魔に。
マガツヒはどんどん大きく、筋肉質な大鬼に。
いずれの眼も、殺意と破壊衝動に取り憑かれた狂戦士のそれであった。
「オオカミ! オオカミナオシ! どこだ! はやく奴らを『修正』しろ! このままでは、他の堕天使らも……!」
世界そのものの闇の濃度が高まっている。すべての堕天使がパワーアップしてしまったら、もう自分たちに生き残る術はない。
必死にオオカミナオシを探すベイカーだが、どこを探しても見つからない。ならば他の仲間たちはと、それぞれの位置を確認しようとして気付いた。
はじめから、この世界に飛ばされていない者がいる。
ユヴェントゥスとボナ・デアはキールとハンクについている。
チョコとヤム・カァシュは聖戦士たちと一緒にいるし、今はそこにグレナシンとレイン、その中にいるツクヨミとコニラヤも合流しているようだ。
ゴヤとトニーはそれぞれ単独で、順調に戦果を挙げている。
だが、マルコはこちらに飛ばされていない。動かない歯車を無理に回したことがきっかけなら、一緒に飛ばされていてもおかしくないのに――。
「なあ、みんな? 俺はすっかり点呼を取り忘れていたんだが……フォルトゥーナはどこだ? 誰か、気配を感じるか?」
ベイカーの問いに、ニケが答える。
「いいや。私も、てっきり力を使いすぎて休んでいるものと思っていたのだが……」
「ルキナも、ボナ・デアにハンクを取られて拗ねていたし……出てこないのも仕方ないかと思っていたんだが……」
「あとな、サイト。カリストもいないぞ?」
「なに?」
「精霊だから、もともと神よりも気配が弱いのだが……よくよく思い返してみると、こちらに飛ばされる前……全員の歯車を連動させた時点で、ルキナとカリストの接続は解除されていたと思うのだが……」
「ふむ……生と祝福の女神と、美の精霊……もともと、俺とは繋がりの少ない属性だからな。全員の運命をつないだ時に、もっと相性の好い誰かに乗り換えたか……?」
「だとしたら、あの二人ではないか?」
ひょいと顕現したニケが指し示すのは、レインとグレナシンである。
「……なるほど。確かにコニラヤは命を創造する能力を持つし……」
「ツクヨミは、夢や幻覚を編むのだろう? 神の心すら奪う魔性の美を誇るカリストなら、能力的な相性は高いと思うが……」
「と、するとまさか……副隊長が、今以上に魔性のオカマに? 先代特務部隊員を一通りつまみ食いした疑惑があるのだが……?」
「まあ頑張れ」
頼れるお姉さんからの投げやりな声援を受け、一線を越える日が来ないことを祈るばかりのベイカーであった。
「まあ、それはともかくとして。ニケ、なぜ今ここに、マルコがいないのだと思う?」
「フォルトゥーナもだな。あとは玄武とサラか」
「あの、不完全な神もだ」
「動かないはずの運命を動かして、我々はここに飛ばされた。体感では、フォルトゥーナとの接続は切られていない。あの独特な一体感も、まだ継続している。全員の運命を繋いだ巨大機構は、今も作動中なのでは?」
「今も……とすると、そうか! 散開した状態では……」
「接続が弱まる。単独で戦えるからと言って、戦わせておいてはいけないのかもしれない」
「全員集めるぞ!」
「ああ!」
ベイカーとニケは二手に分かれ、仲間たちのもとへ飛んだ。
緋色の翼を羽ばたかせ、ニケはまず、キールと合流した。
「おい、男! お前、もう一頭ゴーレムホースを出せるか?」
馬上のキールは、さも当然のように答える。
「一頭? 俺に訊くなら、十頭の間違いだろう?」
「頼もしいな。では、ボナ・デアの憑代の男にも馬を用意してやってほしい。散開したままではこちらの不利になる。皆と合流せよ」
「分かった」
キールは馬の向きを変えつつ、上着のポケットからカード型の呪符を取り出す。それを口元に近付け、フッと息を吹きかけて投げた。
呪符は一瞬で形を変え、雄々しくも優美な純白のペガサスとなる。
「ハンクの指示に従え! 行け!」
ペガサスは光の矢の如く駆けてゆく。
ハンクのほうは、急にパワーアップした堕天使らに押され気味になっていた。氷の強度を高めても、全ての堕天使を封じきれないのだ。ほとんどの堕天使は小柄で、翼もかなり小さめである。しかし何体かに一体、大きな翼を持つ堕天使が混ざっている。それらは氷漬けにすることができず、かと言って、倒す方法もない。氷の刃による攻撃で足を切断、再生するまでに移動して距離と時間を稼ぐという、埒の開かない消耗戦になっていた。
だが、その再生速度が徐々に上がっているのだ。
「く……まずいな……この中級ども、切ってもすぐに……!」
ハンクの中で、小さな翼が低級、大きな翼が中級という区分が出来上がっていた。その認識は間違っていない。実際、天使としての階級でも彼らはその通りの扱いだ。そして人間が立ち向かえる堕天使としては、その位階の者までが限界である。四枚、六枚の翼を持つ堕天使と戦えるのは、天使と同等の神格を持つ神々のみ。それも戦闘に特化したタケミカヅチやニケのような、数柱の神に限られてしまう。
「うっ!」
ハンクが相手にしている中級は三体。そのうち二体の復活が同じタイミングになってしまった。ハンクが近くの一体に向けて氷の刃を振り抜いた瞬間、もう一体に死角から衝撃波を撃ち込まれた。
脇腹に直撃し、ハンクは片膝をつく。
「そのまま伏せて!」
ボナ・デアの声に、ハンクは素直に従う。
すると一秒前までハンクの背中があった場所を、三体目の放った黒い矢が通過した。
「立って! 前方に走るの!」
指示を出しながら、ボナ・デアはハンクの怪我を治し、消耗した魔力を回復させてやる。癒しの女神の加護が無ければ、ハンクはとっくに絶命していただろう。
「すまない! だが、ボナ・デア、貴女は大丈夫なのか? そんなに力を使っては……」
「いいえ! これでも女神です! このくらい、どうってことありません!」
「それならいいが……はっ!」
素早く振り向き、追ってきた堕天使の両足の膝を切断する。くるりと一回転したその動作で、あと二体の位置も確認している。ハンクは振り向きもせずに氷の矢を放ち、二体を足止めする。
その隙に、ハンクはとにかく走る。止めを刺す手段を持たない以上、堕天使から逃げ続ける以外に生き残る術がないのだ。
「その……女神に意見するのは、分をわきまえぬ行為のような気もするのだが……無理はしないでほしい! 俺は、貴女につらい思いをさせたくない!」
「は……はいっ!」
こんな窮地にありながら、ボナ・デアは頬を紅潮させ、瞳をキラキラさせていた。
ハンクは、自分がとんでもない必殺技を使っているという自覚がない。癒しの女神を労わり、ときめかせるという行為。それは女神の能力値を最大に引き上げる究極の手段である。
信仰心は確かに神の力になる。感謝の言葉で神は満足し、人間に加護を与え続ける。だが、それは『与え、受け取る』だけの関係である。それが役目と割り切っている神はそれでも十分な能力を発揮するが、やはり心を持つ以上、無償の愛や優しさを嬉しく思うものなのだ。
今、ボナ・デアの能力は通常時の数倍に高まっている。それは彼女を宿すハンクの攻撃にも影響を与えていた。
またもハンクに追いついた堕天使に、氷の刃を見舞う。と、その氷が淡い緑色に輝いている。まるでウラングラスのような、幻想的な光。その光に照らされ、堕天使は悲鳴を上げた。
「これは……!」
癒しの光は、絶望の果てに堕ちた天使の闇を中和した。
すべてを一気に浄化することは出来なくとも、氷の刃で切断した左腕は元の状態――白く滑らかな肌の、天使の左腕に戻っていた。
「貴女の光……ですか……?」
自分が手にしている氷の剣。透明なそれが、今、まばゆい光で満たされていた。
「……美しい……ボナ・デア。貴女はなんと美しく、清らかな女神なんだ……」
下心ゼロ。陶然とこぼされた感想は、女神ボナ・デアへの率直な賛辞である。ハンクはボナ・デアが自分に恋心を抱いているとは思いもしない。だからこそ、思いついたままの言葉で女神を称えたのだ。
だが、言われたボナ・デアのほうは『さらり』と流すことなどできない。
本気で好きな男から、面と向かってこんなことを言われた乙女心がどうなるか。
答えはひとつ。超・オーバードライブ状態である。
これまでにハンクが出現させた氷の柱、その数九十九本。今、そのすべてが同じ緑の光を放っていた。
当然、中に封じられた堕天使らは全身に光を浴びている。その結果――。
「あ……わ、私、は……?」
「戻った……翼が、純白に戻った……?」
「主よ! 我が罪を御許し下さい! 私は何と愚かな真似を……」
「ジェイコブ!? ジェイコブはどこ? 私が貴方を死なせてしまったこと、謝らせて!」
「フューリィ! 私、元に戻ったよ! ごめん! ごめんね! どこにいるの!?」
ハンクが魔法を解除してやると、天使たちは我先に人間たちのところへ飛んで行った。
氷に閉じ込められていた堕天使だけではない。少し離れた場所にいた堕天使らにも、ボナ・デアの光は届いている。
今、この世界全体の闇が薄れ、堕天使らの動きは鈍っている。
それに気付いて攻勢に転じたのは、ベイカー、トニー、ゴヤの三人である。
合流してグレナシンらのもとへと急いでいた三人だったが、いずれも浄化能力を有している。あと一押しで決まるこの場面で、『撤退』という選択はありえない。
「隊長! トニー! 炎合わせで!」
「ああ! 五芒星循環だな!」
「途中で外すなよ、ゴヤ!」
「トニーこそ!」
三人は細かい打ち合わせを必要としない。分身した三頭の黒犬と、ベイカーとゴヤ。それぞれが追ってきた堕天使らを包囲する形で散開し、持ち場に着いた瞬間、攻撃が開始される。
「《鬼火玉》!」
まずはゴヤが撃つ。だが、狙いは堕天使ではない。《鬼火玉》が飛んで行ったのはベイカーのほうだ。
「《火炎弾》!」
雷属性のベイカーでも、初級であれば火焔属性も扱える。特殊効果が付加された鬼火と比べれば浄化能力は劣るが、なにしろ神の器が放つ炎である。火力以上に、無駄に神々しく光る。
ベイカーは飛んできた《鬼火玉》を跳ね返すように、正確に自分の魔法を当てた。
《鬼火玉》が飛んでいった先はトニーである。
「《冥王の祝砲》!」
ベイカー同様、自分の魔法を上乗せして軌道を変える。飛んでいく先は二頭目の黒犬。
「《冥王の祝砲》!」
さらに火力を増し、《鬼火玉》は三頭目の黒犬へ。
「《冥王の祝砲》!」
そして再び、ゴヤのもとへ。
「《鬼火玉》!」
そこから先は、ずっとこの繰り返しである。はじめは握りこぶし大だった《鬼火玉》が、ボールをパスする要領で次に回されるたび、どんどん巨大に、猛烈に成長していく。
その直径が三メートルを超えるころには、鬼火が掠った堕天使は一通り浄化されていた。
この一方的な絵面は、さながら不良グループvsいじめられっ子の、『攻めっぱなしドッヂボール』のようであった。
「ゴヤ!」
「はい!」
ベイカーは自分が撃ち返した直後、バッと宙に飛び上がった。
そしてゴヤは次に自分に回ってきたとき、《鬼火玉》を下から当てて、巨大なボールを天高く打ち上げる。
待ち構えるベイカーは、両手それぞれに《火炎弾》の発動準備を整えていた。
「食らえ! ペンタクル・ホーリィ・フレェェェーーーイムッ!」
そんな美少女戦士が叫びそうな技名、いつ付けたんですか!? と、驚愕している犬三頭と童貞の目の前で、最後の一押しをされた『鬼火玉のでっかいの』は、最大の闇めがけて飛んでゆく。
そこは、この世界全域に闇を振り撒く、邪神と悪魔の戦場であった。