赤い本
目覚めたとき、最初に視界に入ったのは妹である心音の寝顔だった。
これはもう見飽きた光景である。
心音はいつも、僕が寝たのを見計らって僕の部屋に侵入し、僕のベッドに潜り混んでくるのだ。
だから、毎朝起きたときには妹が僕の横で寝ているのである。
正直、心音のブラコン度もここまでくると異常なような気はするが、妹の寝顔が可愛らしくて怒るに怒れないのが現状である。
僕も多少はシスコンなのかもしれない。
妹を起こさないようにベッドから出る。
部屋の窓から刺される朝日の光を浴びて、大きく伸びをする。
「あれ?」
伸びをしている最中に朝日を見て思い出した。
昨日の僕は、妹に夕飯の時に起こしてくれと頼まなかっただろうか。
しかし、起きた記憶はまったくない。
しかも、昨日寝たのは学校から帰ってすぐだったから、夕方の6時くらいだったはずである。
ちらりと横目で見やると、壁に掛かっている時計の針も6時を指している。
どうやら、結局12時間寝てしまったらしい。
おそらく、妹はちゃんと起こしに来たが、僕が起きられなかったのだろう。
昨日は異常に疲れていたからな。
ん?疲れていた?
なぜだ。
あっっ!
そのとき、ようやく昨日の詳細な記憶を思い出した。
すぐに机の上を確認する。
そこには、法律辞典のように厚い例の白い本が置かれていた。
夢ではなかったか。
寝起きでもやもやとしていた思考が、本を見てはっきりし始める。
そうか、昨日は狂人お爺さんに襲われたり、謎の英国紳士に話しかけられたり、優衣と喧嘩別れしたりと色々あったのだった。
白い本の最後のページを何気なく開く。
そこには気味の悪い黒一色のページとその中に血で擦れられたような文字で『アナタノケツエキヲクダサイ』と記されていた。
できれば、これだけでも夢であってほしかった。
優衣や心音に見せたところ、2人して白紙に見えると答えた。
優衣はともかく心音が僕に嘘をつく理由はないから、信じがたいがたぶん本当に僕にしか見えないのだろう。
なぜだろう。
ついに、僕は幻覚でも見えるようになってしまったのだろうか。
寝れば精神の疲弊も回復して良くなるだろうと思っていたのだが、やはりこのページははっきりと見える。
怖い。
というのが率直な感想である。
『アナタノケツエキヲクダサイ』という文言も冷静に考えるとかなり怖い。
この本は何なんだろう。
意味など考えても仕方ないのかもしれないが、なぜこの本は血液を欲しているのだろうか。
そもそも、この本のタイトルは「人生攻略本」であったはずである。
まったく攻略してくれる気配がない。
もともと、そちらに興味があって手に取った本である。
まさか、血液をこの本に垂らしたら、僕の人生を攻略法を教えてくれるわけではないだろう。
「ははは、まさかな」
自分を落ち着かせるように独り言をつぶやく。
そんなわけわない、もちろん僕はそう思う。
しかし、一度それを考え始めると、あるわけがないと分かってはいても興味がそそってしまう。
もし、人生の攻略法が分かるなら、どれだけ幸せだろうか。
ふとそんなことを考える。
ものはためしである。
棚に置いてあった、小学生の時に使っていた裁縫道具から一本の針を取り出す。
「痛っっ」
軽く右手の人差し指を針で刺した。
皮膚が破れて、赤い鮮血が少しだけ垂れる。
僕は本の最後の真っ黒なページに垂らしたのだった。
垂れた僕の鮮血はじわぁとそのページに滲む。
まぁ、そうだよな。
僕はこの結果になるのを分かっていた。
こんなことをしても何も起こらないと。
むしろ何を期待していたのだろうか。
痛いだけなのに何をしているのだろう僕は。
しかし、次の瞬間、僕の鮮血は黒いページを埋め尽くすような勢いで急速に広がりだした。
「うわぁぁぁ!!」
驚いて後ろのベッドで心音が寝ているにも関わらず、大声を出してしまう。
心音の寝ている体がピクリと動いた。
「むにゃぁ……あ、お兄ちゃんおはよ~。どうしたのぉ?」
心音は、今の大声で起きてしまったらしい。
僕は本を閉じて、体の後ろに隠した。
「お、おう。おはよう心音。ちょっと足の小指打っちゃてな。起こしたみたいで悪いな」
咄嗟に嘘をついてしまう。
いつもであれば、心音が起きたタイミングで僕のベッドで寝ていることを注意して、心音を自分の部屋に連れていくのだが、あせっていてそんなところにまで頭が回らなかった。
「小指大丈夫お兄ちゃん?痛いなら小指ぺろぺろするよ?」
心音は当たり前みたいな顔をしてそんなことを言いのけた。
な、なんだって?
妹に足の小指を舐めさせるとかどんな変態的な嗜好だよ。
「悪いけど、お兄ちゃんはそんな変態的な趣味はないから遠慮しとくよ」
「えー、舐めたかったのに〜」
心音はぷくぷくと頬を膨らます。
その表情は可愛らしいが、兄の小指を舐めたいという動機からきてるものだと思うといささか危うい思考である。
しかし、そんなことはどうでもいい。
というか心音を早く僕の部屋から追い出して、後ろに隠している本がどうなったのかを確認したい。
「なぁ、心音。とりあえず自分の部屋に戻ってくれないか?学校に行く準備をしたいんだけど」
「やーだー。もっとお兄ちゃんのお布団でお兄ちゃんの匂いを嗅いでいたいの〜。」
本人の前でそういうことをシレッと言わないでほしい。
だが、今はそんなことは無視する。
「お前、中学生にもなってお兄ちゃんの布団に潜り込むってどうなんだ?僕はもっと心音に自立してもらいたいよ」
僕は、お母さんとかがよく言う「○学生にもなって〜」を使った。
これはどの年代にも効く常套句で、言われると自然と恥ずかしさを感じるようになっている。
「私、お兄ちゃんと結婚するんだから、その予行練習だよ!自立なんてしなくてもお兄ちゃんがいるから大丈夫だも〜ん」
朝っぱらから妹にプロポーズされてしまったようだ。
心音は多分本気でこれを言っているのであろう。
どうしてこのように育ってしまったのだろうか。
妹に好かれるのは嬉しいが、ものには限度がある。
好かれ過ぎるというのも考えものである。
もうあの手段を使うしかないか。
僕は決意して口を開く。
「なぁ。心音が僕の部屋から出ないなら、僕はもう一生心音と口をきかないからな。」
「へ?嘘でしょお兄ちゃん」
「…………」
「嫌だよ、お兄ちゃんとお話したい〜」
「…………」
「お兄ちゃん、キスしてあげるからお話しよ?」
「…………」
「ねぇねぇお兄ちゃんったら~」
「…………」
「ねぇ、おにーちゃーん…」
「…………」
「ヒグッ……お兄ちゃん……エグッ」
「…………」
名づけて部屋をでるまで心音を無視作戦。
泣こうが喚こうが真顔で無視するのがポイントだ。
「うえええぇぇぇぇん!ごめんなさあぁぁぁい!!」
妹はマジ泣きをしながらドタバタと僕の部屋から出ていったのだった。
この作戦の欠点は心音が泣くことで僕の良心が傷つくことである。
しかし、ちゃんと出ていってもらえたから良しとしよう。
さて。
とりあえず妹のことは置いておこう。
放っておけばまた機嫌が良くなるだろう。
今、考えなければならないのはこの本についてである。
僕は後ろに隠していた本を取りだす。
「あれっ!?」
僕はまた思わず声を荒げてしまう。
先程まで見ていた分厚い白い本。
それが、血に染まったような赤い色をした本になっていたのである。
もちろん、針を指に刺したときに垂らした血はほんの一滴である。
なぜだろう。
ちょっと見ていない隙に本の色が変わるなんてあるだろうか。
僕はこの本に恐怖を覚えるのだった。
そして、恐る恐る、中身を確認するために本を開いた。
1ページ目。
そこはもともと白紙だったはずのページである。
しかし僕は見てしまった。
その白紙の中で異様な存在感を放つ、その血のように赤く染まった文字を。
『あなたの人生の攻略法を教えます。あなたが人生でやりたいことを記しなさい』
僕は顔を引きつらせる。
「なんだこれ……」