英国紳士
狂気である。
なんだこのお爺さんは。
なぜ僕にこの本を持ち出させようとするんだ。
というか、なんでお爺さんに眼球をえぐられそうになってるんだ。
この不可思議な状況にパニックにならざるを得なかった。
しかし、本能的に今するべきことは理解した。
このお爺さんから逃げなければならないということだ。
なんとしても今すぐこの本屋を脱出しないと、このお爺さんに殺される。
冗談ではない。それはお爺さんの尋常ではない眼つきが物語っている
それは一瞬の思考だった。
急な事態にここまで考えられれば上出来だろう。
僕は案外、危機管理能力が高いのかもしれない。
頭の片隅でそんな無駄なことも考えながら叫んだ。
「う、うわああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!」
叫びながら全力で逃げるモーションに入る。
咄嗟に叫んだのは、動物の本能的なもので、相手をひるませようとしたのだろう。
しかし、お爺さんは、眉がピクリと動いただけでそれ以上の反応はない。
それどころか、お爺さんは逃げる僕に対して追撃する体制が既に整っていた。
次の瞬間、お爺さんの小さい体は、天井すれすれの高さまでジャンプし、先端に針のついた杖を僕の頭上から僕目がけて振り下ろしてくる。
このお爺さん、化け物か。
僕の半分くらいの身長しかないように思えるお爺さんが、僕の頭の高さの二倍は飛んでいる。
夢でも見ているかのような光景である。
こんなものをまともにくらったら軽傷では済まないだろう。
「うおおおぉぉぉぉ」
僕は、咄嗟に野球選手のホームスチールばりのヘッドスライディングをして紙一重でかわし切った。
しかし、僕はもともと運動神経がよくないほうである。
お爺さんの攻撃をかわし切れたのはよかったものの、ヘッドスライディングの着地先からころころと転がり、体制をくずしてしまう。
これでは次の動作が遅れてしまう。やばい。
急いで、体制を立て直しながら、お爺さんの方に視線を送る。
お爺さんは、なにやら、着地していたところでもたもたしていた。
どうやら、おじいさんの杖の先の針が床に刺さってしまい、引っこ抜くのにもたもたしているようだった。
なんて攻撃力だよ…。
あんなものが僕に刺さっていたらと思うと背筋が震える。
しかし、これは脱出のチャンスである。
僕は急いで、白い本を片手に出口まで走りだした。
全身の筋肉が取れるのではないかというくらいの全速力で狭い中古本屋の出口に向かって走り抜ける。
お爺さんは追ってきていない。いけそうだ。
ようやく出口の緑の扉が見えた。
やっと脱出できる。
素早い手つきで扉のノブを回し外に転がるようにして出た。
路上のコロコロと転がり倒れる。
いつもの学校からの帰り道。
片手にはあの白い本。
どうやら、脱出できたらしい。
しかし、外に出てもあのお爺さんの追撃があるかもしれない。
急いで体制を整えてダッシュしようとする。
そのとき、ようやく僕は気づいた。
僕が転がり出たいつもの帰り道の路上に、いつもは見かけない、昔の貴族とかが乗っていそうなレトロな車が止まっていたことに。
そして、中から黒いシルクハットを被った綺麗に整ったスーツ姿のいかにも英国紳士という格好の小奇麗な中年男性が出てきた。
そして、その男は僕の顔を見て「ふっ」と笑った。
なんだこのやろう。
流石に、見ず知らずの人に顔を見られて笑われると頭にくる。
しかし、どうだろうか。
僕は今小さな中古本屋から路上にコロコロと転がるようにして飛び出てきたところである。
笑われたとしても文句を言える立場ではないのかもしれない。
というか、こんな英国紳士気取りの、中年男性に気を取られている場合ではなかった。
今にも、中古本屋から先ほどの狂人お爺さんが出てきて攻撃されるのかもしれないんだった。
早く逃げなければ。
再び、僕はダッシュの体制に入った。
そして、走りだそうとした時だった。
「やあ、待ちたまえ、君。あのご老人ならもう襲い掛かってこないから安心しなさい。ところで君が本の発見者かい?」
僕の顔を見て笑った英国紳士が僕に向かって優しそうな柔らかい声で話しかけた。
見ず知らずの人からいきなり話しかけられるとは思っていなくてドキッとしてしまう。
これが、英国紳士ってやつなのか。
いや、待て。
この男何と言った。
『あのご老人ならもう襲い掛かってこない』だと?
なんで僕が、中古本屋の中であのお爺さんに襲われていたことを知っているんだ。
というか、本の発見者ってなんだ。
これはダッシュするのを中断せざるを得ないな。
この英国紳士に今起きたことについて、聞かなければならないだろう。
「なぜ、今この本屋で起きたことを知っているんですか?」
僕は、改まった口調でたずねた。相手が紳士のような格好をしているからというのもあるかもしれない。
しかし、僕の質問に対して、英国紳士はまた先ほど僕をいらだたせた時と全く同じように「ふっ」と鼻で笑った。
「それは当然ですよ、少年。あのご老人が本を発見したものがいることを私に連絡したから、私はここを訪ねたのですからね。」
どういうことだ?
この男はあのお爺さんがここに呼んだのか?
つまりこいつはあのお爺さんと同じ危険なやつってことか?
これは逃げなければならないかもしれない。
再び、僕はダッシュする体制になる。
――パンッパンッ
「はいはい、ストップストップ。なんで君は私からも逃げようとするのかい。私は君を襲うつもりはないから安心してくれて構わない。むしろ私といるうちは安全なのです。私は君と話がしたいだけだ。協力してもらいたい。」
またもこの英国紳士は僕のダッシュを言葉と今度はハンドクラップも入れて遮る。
私といるうちは安全だ…だと?
どうもうさんくさいな。
話がしたいだけというのも信用できないな。
とはいえ、この英国紳士と話をしない限りは、今の状況が見えてこないのも確かだろう。
僕はこの英国紳士と話をすることにした。
「わかりました、話しましょう。では、お聞きしますが、あのお爺さんはなぜ、僕を襲ってきたのでしょうか?そしてこの本はいったい何なのでしょうか?」
やはり、相手が年上だからか、紳士的な格好をしているからか、なんとなく丁寧な言葉を選んでしまう。
しかし、英国紳士はそんな僕の言葉を意図も簡単に踏みにじる。
「はっはっはっは。少年よ、それは私に対する質問かい?」
高らかに笑いながら英国紳士は語る。
「私は、君と話したいとは言ったが、君の質問に答えるとは言っていないよ。私は、本の発見者の顔を見るのと、その発見者である君に忠告するために、ここへ来たのだよ」
「忠告?」
どうやら、この英国紳士は僕の質問に答える気はないらしい。もともとうさんくさい男だと思っていたからそれは構わない。
しかし、質問には答えないで忠告をしたいというのはどういう了見だろうか。
この男を訝しげに見る。
「そうだ。その前に、少年、君の名前は何という?」
僕の質問には答えないくせに、僕には質問するのか。
しかし、ここで悪態をつくわけにはいかない。もしかしたらこの英国紳士もあのお爺さんのように狂人なのかもしれないのだ。
「一条進です」
素直に答えた。
「ふむ、一条進か、覚えておこう。では、進よ。忠告しよう。一度しか言わないから忘れるなよ?」
何やら急に神妙な面持ちになった英国紳士。
僕はその態度を見て自然と緊張した。
そして、英国紳士は口を開く。
「その本は、神の本である。それを使えば、君は君の人生を君の思うように動かせるだろう。しかし、忘れるな。その本は神の本であると同時に、悪魔の本でもある。使うか使わないかは自己責任だ。それだけは忘れないでほしい」
英国紳士はそのようなことを言ってのけた。
神?悪魔?
どういうことだ?
使う使わないってなんだよ。そもそも白紙の本だぞ。
英国紳士の訳の分からない発言のせいで、頭が混乱する。
「はっはっは。今はそれでいい。だが、いずれ分かるときがくるだろう」
僕が混乱しているのを察してか、英国紳士はそんなこと言って車へ向かった。
え?終わり?
聞きたいことは他にも山ほどあるのに。
僕は焦って止めに行く。
「待ってください!僕は聞きたいことがたくさんあるんです!」
英国紳士の耳に僕の声は届いているであろう。
しかし、英国紳士は僕の言葉を無視するかのようにして車へ乗り込み、発車しようとする。
「おい!無視すんなよ!」
僕は叫びながら追いかける。しかし、車にスピードに敵うはずがなく、僕は英国紳士の車を路上にへたりと座りながら見送ることのなった。