お爺さんの過去
「悪魔の力……?」
お爺さんが言ったことを思わず復唱してしまった。
英国紳士と話した時もそうであったが、あまり聞きなじみのないワードが次々と出てくるため理解するのに時間がかかる。
悪魔の力。
つまり、この本は悪魔の力によって攻略法が示されるというわけだろうか。
しかし、先ほどまでのお爺さんの語りを聞く限り、この本は神様が創造した本であるということであったろう。
どこから悪魔がでてきたのだろうか。
理解しようとするも疑問しか生まれない。
「そうじゃ、悪魔の力じゃ」
「お前さんは、この本に血を垂らしたとき、『契約完了』という文字が浮き上がらなかったかのぉ?」
「……確かに、浮き上がっていましたが、それがどうかしたんですか?」
確かに、この本の最後のページに血を垂らしたとき、『契約完了』の文字が浮かび上がったのを覚えている。
しかし、気味が悪かったから、その文字からは目をそらしていた。
「その文字はのぉ。本来、この本には浮かび上がらないはずなのじゃよ」
「なんですって?では、なぜ浮かび上がっているんですか?」
すかさず、お爺さんに問う。
僕は、焦りを感じた。
「それを説明するためには、少しばかり昔話をさせてもらおうかのぅ」
気を張り巡らせている僕とは対照的に、お爺さんはのんびりとお茶を啜る。
そして口を開いた。
「これは、800年ほど前の話だったかのぉ」
「そのとき、神様はこの本を創造されたのじゃ」
「それは、当たり前のように、自然現象のように、創造された」
「そして、出来上がったのは、人の人生を攻略するための本だったのじゃ」
「神様はのぉ、これを使って、人間達の人生における幸福度のバランスをとろうされたのじゃよ」
「当時の、この世界は、自然災害が多くてのぉ。不幸な人間が多かった世界だったんじゃよ」
「そこで、当時の神様の使いである、天使達の中でも最上級の位である、『熾天使』の位を授かっていたわしは、神様から勅命を受け、人間界に赴き、何人かの人間にこの本を授けては人生を攻略させてやり、ということを繰り返していたのじゃ」
この爺さん、天使だったのか。
しかも、その中でも最上位だって?
ていうか、800年前って……。
このお爺さん、一体何歳なんだ……?
僕は、お爺さんの話に集中して聞きながらも、お爺さんの正体に驚きを隠せないでいた。
しかし、そんなことは関係なしとお爺さんの話は続く。
「だが、そんなことを繰り返していたある日、不幸なことに、まずい人間にこの本を授けてしまったのじゃ」
「……まずい?」
「そうじゃ。まずかったのじゃ」
僕の問いかけに対して、少し悔しそうな顔をして言う。
「その人間には、悪魔が憑いていたのじゃ」
お爺さんは乾いた声で、静かにそう言った。
僕は、神様の時もそうだったが、悪魔の存在をそもそも信じていなかったので、憑いていたと言われても現実味が沸かなかった。
悪魔なんて本当に存在するのだろうか?
しかし、英国紳士の時間を止める能力や、この本の人生の攻略法を教える能力が存在するのであれば、悪魔の一匹や二匹、存在したとしても不思議ではない。
僕は、たぶん悪魔はいるのだろうということで理解するのだった。
「悪魔が憑いていると、何がまずいんですか?」
率直な疑問だった。
しかし、お爺さんは少し睨むようにして、僕のことを見やる。
「ふむ、悪魔のことをお前さんは、知らぬようじゃな」
「無知なお前さんに教えてやろう。悪魔のことを」
そう言って、お茶を最後までズズズッとすすってから、お爺さんは口を開いた。
「悪魔とは、人と契約を交わし、何かの代償に人の魂を奪う魔物のことじゃよ」
「そして、悪魔はその奪った魂に巣食うのじゃ」
「つまり、人格を奪う魔物というわけじゃな」
「わしが800年前に会ったその人間は、もう8割方は悪魔に人格を奪われているようじゃったよ……」
そんなことを表情を変えずに淡々と言った。
人と契約を交わして魂を奪うだって?
そんな恐ろしい魔物が本当に存在するのだろうか。
だが、契約を交わさなければ大丈夫なのだろう。
いや、待てよ。
契約ってまさか……
「ふむ、お前さんはここまでの話で気づいたようじゃな」
「いかにも、あの本の最後のページに垂らした血。あれは、悪魔との契約の証だったのじゃよ。契約完了という文字を見たじゃろう?」
嫌な予感は的中した。
あの最後のページに『契約完了』とでたとき、悪魔とでも契約したようだと冗談交じりに思ったのを覚えている。
ところが、実際は、本当に悪魔と契約してしまっていたようである。
僕は、魂を奪われるかもしれないことに恐怖した。
「ふぉっふぉっふぉっ。そう焦るでないわい。」
お爺さんは僕の恐怖を吹き飛ばすかのように大きく笑う。
「さて、話を戻すとするかのぅ」
「わしは、800年前に、悪魔が憑いた人間に会ってしまったわけじゃが、その悪魔は正常な人間のフリをしていてのぉ。わしは悪魔が憑いていることに気が付けなかったのじゃ」
「そして、わしはその悪魔が憑いた人間にあろうことか、神様が創造された本、『人生攻略本』を差し出してしまったわけじゃよ」
お爺さんは少し悔しそうに、そして、とても悲しい顔で言った。
とても悔いていることだったのだろう。
お爺さんの雰囲気から、それがひしひしと伝わってくる。
「本当に大きなミスじゃったよ」
「その時、悪魔はその本を見て、この本に取り憑けば、たくさんの人間の魂を奪えると思ったのじゃろう」
「それは一瞬じゃったよ」
「なにやら、最後のページを開いて、ぶつぶつと何かを唱えだしてのぅ」
「わしが、それが物体に取り憑く呪文だと気づいた時には、その人間の中から悪魔は消えておったよ」
「そのあと人間が手にしていた本を急いで奪って、中を覗いたら記されておったのじゃよ」
「『アナタノケツエキヲワタシ二クダサイ』とな」
僕はその文字を見たのを鮮明に覚えている。
あの気味の悪い血が擦れたような文字。
あれは、悪魔による契約の誘いだったのか。
「そのときのわしは、それを見てしてやられた、と思ったわい」
「まさか、その本に取り憑いている悪魔が、本の中身を読めなくするとは思ってなかったのでな」
「どういうことですか……?」
本の中身を読めなくする?
なぜ悪魔はそんなことをしたのだろうか?
「悪魔は、あろうことか、神様が創造されたこの本を利用したのじゃよ」
「……?」
先ほどから話が見えてこない。
本の中身が見えなくなっただけではないか。
何を利用したというのだろうか?
「つまりのぅ、悪魔は人間と血で契約し、人間にこの本の中身を読ませてやる代わりに、読んだ量に応じて、人間から魂を奪うというわけじゃよ」
「…………!?」
僕は無言で驚くことしかできなかった。
なんだって。
この本の能力を使われると、悪魔から魂を奪われるってことか?
そして、お爺さんは口をまた開く。
「お前さんに忠告はしておこうと思うてのう、その本の能力を使うかは自由だが、使うとお前さんは、悪魔に人格を徐々に奪われるということを覚えておいてもらいたいのじゃ」
「……分かりました」
お爺さんは乾いた声で僕に忠告した。
僕が返事をすると、お爺さんは表情を変えずにうなずく。
そして、くるりと反転して、屋上の出口の方を向いた。
「さて、そろそろ昼休憩は終わりかのぉ。またの、お前さん」
そう言って、つかつかとお爺さんは屋上を降りて行ったのだった。




