100メガショック! えっ嘘やろ、俺は死んじまっただ!?(5)
待ちきれない表情のローゼが、うきうきと語りかける。
「これ、赤ワインですよね? なんていうお酒なんですか?」
「Napa Valley、Pinot・Noir。 アメリカのカリフォルニアにある、Napaっちゅうところで作られたワインやで」
「ピノ・ノワールというのは?」
「葡萄の種類や。 ノワールってのは、フランス語で黒」
「へー? そういえば、赤ワインって、言うほど赤くないですよね?」
「グラスに溜まった色を見ると、赤っていうより赤黒やな。 ま、赤いワインもないわけやないけどね」
「白ワインも、白いわけじゃないですもんね」
「黄金色やな」
「あっ、Roséは薔薇の花って意味ですけど…… バラの花って、色々ですよねっ」
「ははは、せやな、あれこそ白も黄色も赤もあるやん、どんなワインもRoséっちゅうことになってまうなあ」
興味深そうにまじまじとカリフォルニアからやってきたボトルを眺める、見た目小学生の実年齢二十歳。
「これ、コルク栓ですか?」
「せやで」
「わたし、苦手なんです、コルク栓」
「捻って開くスクリューボトルの方が楽やね、確かに」
「コルクがすぐにぼろぼろになっちゃうんだもの…… みんな捻るタイプになったらいいのに」
「いやそれは違うやろ?」
安物だが使い込んだソムリエナイフを持ってきた。
刃の部分でボトル上部のシールをなぞり綺麗に剥いてから、コルクを梃子の原理で、すいっと抜く。
ぽん、と胸のすくような小気味の良い音が鳴った。
「自分がコルク抜くのうまくなったらええだけやろ?」
「わっ、いまの、ちょっとカッコよかったです」
「そうか? こんなん、慣れたら誰でもできるで?」
尊敬のまなざしに、ちょっと照れる。
百本とは言わないが、二、三十本コルクを抜けば、慣れるだろう。
そんなに難しいことではない。
自分が変わるのではなく、相手が、環境が、世界が変わることを望むのは、怠惰である。
もう死んでしまった俺はともかく、ローゼには未来がある、これから抜いて覚えればいいのだ。
「誰でもできることでも、それをカッコよくやるのは誰にでもできることじゃないですよ?」
「そうかあ……?」
ローゼの尊敬のまなざしと正論には悪い気分はしないが、誰にでもできることを自慢する気分にはなれなかった。
ふと思う。
『俺にできて、他の人にはできないこと』って、なにかあっただろうかと。
そんなものは一つもつかめずに、俺は死んでしまった気がする。
世界中に何十億人と人がいて、その中の何パーセントがそんな自信を持っているのだろうか。
少なくとも、俺には何もなかった。
だが、そんなものは持っていないヤツの方が圧倒的に大多数なのは間違いない。
じゃあ、持ってない大多数の俺みたいなヤツらは何を心のよりどころにして生きていけばいいんだろうか。
もやもやした。
もう少し長生きしたら、答えが出せたのだろうか。
だが一番もやもやするのは、もう俺は死んでいて、そのことについては考える資格さえないということだった。
三十年の人生の中で、同じことを何度か悩んだこともあった。
その時、見つけた答えは……なんだったかな。
フライパンが温まった。
もやもやしつつ、胡椒をたっぷりまぶした和牛ロースをまんべんなく転がす。
できればきっちり常温に戻してから焼きたかったが、それには時間がかかるのでやむを得ない。
焼き色をつけたらアルミホイルで包んで、余熱でじんわりと温めるように放置する。
これには少しだけ時間がかかる。
冷蔵庫からもう一品取り出す。
焼酎で柔らかくなるまで煮込んだ牛すじ。
手間と時間はかかるが、技術的に難しいことは何もない。
圧力釜を使うともっと簡単にできるという話も聞いたことがあった、次の賞与がたくさん入ったら圧力釜を買って試してみたかった、心残りだ。
牛すじは電子レンジで温め、デンマーク産のブルーチーズのフレークをふりかける。
濃厚で濃密なブルーチーズは、ふりかけるだけで牛すじをワインの最良のお供に変身させる。
俺がキッチンでつまみを作る間、手持ち無沙汰なローゼは本棚をあさっていた。
まあ、居間にある本は見られて困る(=エロい)本はないから大丈夫だ。
あのあたりは男臭いマンガ特集の棚だろう。
北斗の拳か、ジョジョシリーズだろうか。
「あっ、これかあ……」
といいながらアゴのとんがったキャラクターの表紙を取り出した。
あれは福本伸行の「天」。
小娘の読むマンガじゃない。
エロい意味ではなく。
そう、俺は人生に迷った時にあのマンガの言葉に助けられた。
福本マンガが心にしみるのは、ある程度歳を重ね、人生の挫折を味わったものだろう。
しかし、『これ』って、なんだ?
シャープ製のレンジが元気に牛すじが温まったことを告げた。
すぐに牛すじにブルーチーズをまぶしてちゃぶ台に出した。
「ローゼ、そろそろ出来上がるから、マンガはあとでな」
「わっ、美味しそうです」
「もうちょっと待ちや」
フライパンの中の和牛ロースを取り出し、刺し身包丁でなるべく薄くそぎ切って、端からくるくる巻き、巻いた部分の外側を剥くようにする。
焼肉店で牛タンを薔薇の花のようにするテクニックを応用したものだ。
学生時代に焼肉屋の肉場…… キッチンの中で皿に肉を盛り付けるポジションで得た手法だ。
と言っても、これもキッチンのバイトは新人以外は誰でもできた技であり、俺だけができた特技でもなんでもない。
「ほい、もう一品お待たせ」
「うわぁ、なんだかお花みたいですっ☆」
「ローゼって、薔薇やろ? 自分の名前にちなんでみたんや」
「すごく…… 嬉しいです」
「嬉しいのはええからさ、乾杯しよ? ……えーっと、」
俺は死んでしまい、何もめでたくはない。
何に乾杯すればいいのか。
もうなんでもいい、適当だ。
「よっしゃー、死んでもうたけど、昨日の俺の三十歳の誕生日に乾杯やー!」
「はい、乾杯、ですね☆」
「ってなんでやねん! まだグラスに酒注いでないやんかっ!」
ローゼは俺に注ぐ気満々な表情だったが、俺はあえて自分がボトルをキープし、ローゼのグラスに少しだけワインを注いだ。
ローゼはあからさまに『少ないのでは?』という顔をした。
「まずはグラスを揺らして、香りを楽しむんや」
「香りですか……」
知らなかったか。
ワインは升を下に敷いた日本酒のグラスのように、グラスに満タンに注いだりはしない。
俺は自分のグラスにも少しだけワインを注ぎ、軽く揺らして口に含む。
爽やかで軽やかな渋みが、舌全体にすっと落ちる。
これはまさに、
「春の草原のような爽やかさですねっ!」
「おお、ええこと言うやんか」
苦みや渋みが苦手という人は多い。
特に子供の味覚はそうだ。
俺自身、重い赤ワインはそれほど好きではない。
だが、Napa Valley、Pinot・Noirの爽やかさな渋みは、ほろ苦い青春時代の初恋を思い出し、飲むたびに胸を焦がすような感覚を味わえる。
……俺の初恋、当然のようにアニメキャラだから、届くわけ、ないよね。
せつねー。
俺は早春の草をモグモグとかじる草食動物の気持ちで、ワインを流し込んだ。
草食系オタク男子、ここに極まれり。
俺の真似をして、ローゼがもう一口、赤黒い液体の宝石を口に含む。
「ふわぁぁぁぁ〜〜♪」
官能的な溜息を漏らす見た目十代前半。
酒は媚薬という意見もある。
飲んで酔うと、男女の仲がうっかり一線を越えてしまうという話もたまに聞く。
ローゼが、何か変な性的な快感を抱いていなければいいのだが。
いや、見た目だけは小学生女児の溜息に官能を感じてしまう俺の方が相当ヤバい。
自重自重。
「……すっっごく、美味しいです」
「お気に召したん? そらよかった」
「こんな美味しいお酒なら、また飲みたいな……」
「あれ? それどっかで聞いたセリフやな」
まだ酔いの回っていない頭で必死に考えた。
……ああそうだ、虚淵玄、『Fate/Zero』。
雁夜を罠にハメた綺礼が、ギルガメッシュと一緒にワインを飲み、これほど美味に感じる酒ならば、ぜひまた飲んでみたい、と考えるシーンだ。
本棚から単行本を持ってくる。
5巻の最後、これほど美味と感じる酒ならば、ぜひまた飲んでみたい、というシーンだ。
うん、合ってた。
「自分、もしかして親戚に神父とかおらへん? むちゃくちゃ変態で、頭のおかしい……」
「いませんよ? 死神ですから」
「やんなぁー……」
改めてこのシーンを読み返すと、ワインであることは明示されていても、どこの産地のどんなワインかは一言も記述されていなかった。
赤か白か、ロゼなのかすらも。
虚淵ほどの作家が酒の味を知らないはずなどあるまいから、あえて記述していないのだろう。
そういえば、『Fate/Zero』にはサーヴァントたちが酒宴を広げるシーンもあった。
こちらは、アーチャーが出した酒を褒めて、ライダーが人間の人の手による醸造ではない、とはいうものの、その酒の素材は米なのか、麦なのか、葡萄なのか、 ……醸造酒なのか、蒸留酒なのかすら明記されていない。
飲んだだけで猛烈な多幸感を得るというが、そんな酒は飲酒歴十年の俺だって一度も飲んだことはない。
多分アレだ、麻薬か覚醒剤でも入ってるんだろう。
なにしろほら、虚淵だし。
「えっと、このお酒がわたしの口に合うか、心配してくれてました?」
「そりゃそうやろ」
ローゼの歌うような綺麗な声が、俺を現実に引き戻してくれた。
「でも、自信のあるお酒なんでしょう?」
「酒は嗜好品やから、好みがあんねん」
「美味しいか、美味しくないかではダメなのですか?」
「美味いと感じるかどうか自体、差があんねん」
「?」
「んー、せやなあ…… 男やったら『みんな美女が好き』って、わかるか?」
「そうですね、まあ、なんとなくなら」
正確に言えば、性的にマイノリティで男が好きなゲイとか、幼女じゃないと愛せないやつとか、二次元じゃないとダメな変態とか……俺やん! まあいろいろいるわけだが、最大公約数的にいい女が好き、ってのはある。
「じゃあ、男ならみんなが大好きな『美女』って、どんなんやと思う?」
「そうですね……『マリリン・モンロー』とかでしょうか?」
「アホか! そこは峰不二子って言わんかい!」
「なんで怒られるんですか? わたし?」
「三次元の女優挙げてどないすんねん、そこは二次元のキャラからリストアップせえよ?」
「えっと、みんなが知ってるアニメの美女って言ったら、峰不二子なんですかね?」
「せや。 でな、男は皆がみな不二子ちゃんが一番好きなわけちゃうんよ、カリオストロの城のクラリスの方が好きっちゅうやつはなんぼでもおんねんで」
「くらりす……?」
「せやせや。 歌手のユニットのClariSとちゃうで? ええか? 脚のすらっとしたオンナがええとか、ぽっちゃりした巨乳がええとか、これ、どっちがええ女かは、選挙や裁判員裁判では決められへんやろ?」
「そ、そうです……ね?」
「気の強いオンナがええとか、逆に優しくて言うこと聞いてくれるオンナがええとか、ロングヘアがええとかショートカットがええとか、これも良し悪しやないんや、単なる好みの問題や」
「は、はあ……」
喋りすぎて、ぐいっとワインを飲み込んだ。
グイグイ飲むタイプの酒ではないのだが、喉の渇きに耐えられなかったのだ。
「酒も一緒、良い悪いちゃうねん、ただの好みやから、俺の好みが自分の好みに合うとは、限らへんわけよ」
「はあ…… そうなんですね……?」
とろんとした眼で、ローゼはもう一口飲んだ。
あ、あの眼は眠い目だ。
「眠いか? ちょっと横になるか?」
「そんなこといって…… わたしにえっちなこと、するきでしょ〜?」
「せぇへんわ! ちゅうか、酔ってもうたか? 大丈夫か?」
「だいじょうぶれすっ!」
ローゼにいたずらする気にはならないが、俺の人生の最後の酒宴に付き合ってくれたはずの死神が、なんで先に酔いつぶれそうなのか意味がわからない。
そんなに飲んでないはずだが……
やはり、身体が小さい分だけ、酒量は控えなければならなかったのだろうか。
「それで、おさけといっしょで、さわやかなじょせいが好きなんれすか?」
「は? まあ、嫌いやないけどな」
「はっきりしてくらさいっ!」
「なんで俺、怒られてんねん?」
「ゆかりさんも、さわやかなじょせいなんれすか?」
……ゆかり? だれそれ?
俺の人生にそんな名前の女性が絡んだことはあっただろうか。
声優の田村ゆかりだろうか、でも俺は、ゆかりんが好きだなんて一度も言ったことはない。
や、嫌いではない、むしろかなり好きだ。
「なあローゼ、ゆかりって、誰や?」
「え? はんとしごに結婚する、おくさんのなまえでしょう?」
衝撃的すぎて、絶叫する声すら消し飛んだ。
次話は1月9日に公開予定です