謝罪
「着いたわね」
僕の住むマンションの玄関口までやってくると、先輩はようやく口を開いた。
「ここまでで、いいよね?」
「はい、ありがとうございました」僕はわざわざここまで送ってくれた先輩にお礼を言った。
「ねえ、将太朗。あのさ……」先輩は改まって言った。
「はい?」
「今日私が学校から帰ってきたら、もう一回会える?」
「今日、ですか?」
「うん、どうしても話しておきたいことがあってさ。午後、もう一回出てこれる?」
「いいですけど」
「ならさ、四時にさっきの公園でまた会いましょうよ。場所は、さっきあんたが座ってたベンチね。学校から帰ったら私もすぐ行くから座って待っててくれる?」
「はい、わかりました。あの、話しておきたいことって……」
「それは公園で話すわ。じゃ、私もう行くから。またね」
そう言って先輩は身をひるがえし、去っていった。
話ってなんだろう。
エントランスを抜けマンションの中に入る。エレベーターで三階まで上がり、自宅である305号室の前にやってきた僕はポケットから鍵を取り出し、玄関のドアを開け約一時間ぶりの帰還を果たした。
父さんも母さんも仕事に行っているので、当然のことだけど家には僕一人。僕は誰に言うわけでもなく、ただいまと口にしてみた。僕の声は静寂の中に吸い込まれてすぐに消えてしまう。
リビングにある大きなテーブルに、母さんの書置きがあった。
『学校には、連絡しておいたから、今日は一日家でゆっくり休むこと。ゲームなんてやってちゃ駄目よ。サンドイッチ作っておいたから、お昼に食べて』
冷蔵庫の中を確認すると、サンドイッチが入っていた。しかも、僕の好きなシーチキンサンド。出勤前の慌ただしい時間、僕の為に昼食を作っておいてくれた母さんに対する感謝の念が心の中に広がる。
自分の部屋に行き、僕は制服を脱いで部屋着に着替えた。そして、ベッドに横になる。もう具合も悪くないし、眠くもなかったけど、横になっていた方が落ち着く。
まさか、こんな形で学校を休むことになるなんて。
久しぶりに話をした小学校時代の友達、えいちゃん改め月島先輩。相変わらず元気で、かわいくて、怒りっぽくて、そして優しい人だった。また先輩と昔みたいに話をすることができて僕は本当にうれしかった。
あんなことがあって、先輩との関係はもう完全に終わってしまったと思っていたから。
「えいちゃん……」
それは、僕にとって思い出したくない出来事だった。
今から三年前、僕が小学五年生の時に起きた、僕と先輩の仲を引き裂くことになったある出来事。
三年前のその日、僕と先輩はいつものようにあの神木野自然公園で仲良く遊んでいた。するとそこに、僕と同じクラスの男子三人が偶然通りかかり、僕と月島先輩の姿を見つけ、冷やかしの声を浴びせかけたんだ。
「おっ、内海が女子と二人で遊んでるゥ~」
「ヒュ~ヒュ~」
「なにして遊んでんのかなぁ~」
僕は急に恥ずかしくなった。
これまでは、先輩と二人で遊ぶことに別段羞恥心を感じることは無かったのに、この時クラスの男子に見られて、からかわれて冷やかされて、僕は何だか自分がとても恥ずかしいことをしているんじゃないかという猛烈な不安感に駆られたんだ。
放課後も一緒に遊んだりするような仲のいい同性の友達がクラスにいないわけではなかった。けど、僕は先輩と遊んでいる時が一番楽しかった。だから友達の誘いも断って、先輩とばかり遊んでいたんだけど、客観的に見てこれっておかしいのかもしれない、と、この時になって僕は初めて気づいたんだ。
「は? なによあんたたち。邪魔、さっさと消えて!」
先輩は大声で怒った。今にもこの男子達に殴り掛かりそうな気迫だった。
「うわ、なんだよこの女」
「おい内海、こいつお前の友達?」
「そうよ!」先輩が誇らしげに答えた。
「お前に聞いてねえよ。うるせえなぁ」
「なあ、内海、こんな奴と遊んでないで俺らと遊ぼうぜ」
「え……?」僕は当惑した。
「ちょっと、なにバカなこと言ってんの? 将太朗は私と遊んでんのよ! 勝手に決めないでくれる?」
「女子なんかと遊ぶより、俺たちと遊んだ方が楽しいぞ」
「そうだよ内海、行こうぜ行こうぜ」
「勝手に決めないでって言ってるでしょ! ぶっとばされたいの? ねえ、将太朗、こんな奴らほっといてあっち行きましょ」
「いや、僕は……」
僕はどうしたらいいのかわからず、その場でおろおろしていた。先輩はぶち切れ寸前といった感じだったし、クラスの男子達も優柔不断な僕の態度を見てイライラし始めていた。
「どうすんだよ内海、俺らと遊ぶのか、その女と遊ぶのか早く決めろよ」
決断しなければいけない、と思った。
それで僕はこの時、クラスの男子たちと一緒に遊ぶことを選んだんだ。
なぜそうしたのかと言うと、やっぱり小学五年生にもなって女子とばかり遊んでいるのは恥ずかしい事なのだという意識が芽生えてしまったからかもしれない。それに先輩には後で謝ればいいと楽観的に考えていた。一時的に険悪な関係になってしまったとしても、またすぐに仲直りできる。こんなことで僕達の良好な関係が終わってしまうはずがないと。
「僕、クラスのみんなと遊ぶよ。ごめん、えいちゃん」
僕は、先輩にぶん殴られる覚悟でおどおどと口にした。喧嘩っ早い先輩のことだから、もしかしたらこの場で大乱闘になるかもしれないと密かに怯えていたんだけど、この時の先輩の反応は意外なものだった。
「ふ~ん、あっそ」
先輩は不機嫌そうに、そう呟いて僕達の前から足早に去っていったのだった。
僕は先輩の予想外の反応に驚いた。一旦怒ると、手が付けられないくらい暴れまくって大声で喚いて感情を爆発させる先輩が、この時はまるで感情を押し殺したように鳴りを潜めていた。そんな先輩のいつもとは違う振る舞いを見て、僕は安心するどころか逆に、先輩への恐怖と悔恨の念を募らせていた。
僕がみんなの前で、「クラスのみんなと遊ぶ」と宣言したことによって、その場に居た男子達は歓迎ムードで僕を仲間として迎え入れてくれたようだった。
「よく言った、内海!」
「あんな女と遊んでたってつまんないもんな。これからは男同士仲良くしようぜ」
「なあ、あっちの広場で缶蹴りでもやろう!」
この後、僕はクラスの男子達と夕方になるまで公園で缶蹴りをやったりして遊んだ。これはこれで楽しかったけど、先輩のことがとても気掛かりだった。
次の日の放課後、僕は昨日のことを謝罪するつもりで先輩の家を訪ねたんだけど、現れた先輩のお母さんから「英子は友達と遊びに出掛けた」と告げられ、仕方なく僕は家に帰った。
そして、それから今日に至るまで、僕は先輩に謝罪していない。
あの後、先輩と話をする機会が無かったわけじゃない。
でも、あの出来事から日が経つにつれて、僕は自分から積極的に先輩と話をする機会を作ろうとは思わなくなっていった。あの時公園で一緒に遊んだ男子の一人と僕は仲良くなって、以降も一緒に遊んだりすることが多くなった。こんな言い方は先輩に対して失礼だけど、僕は次第に先輩がどうでもよくなっていったんだ。
新たに仲のいい友達もできたし、僕にとって先輩の存在は、さほど重要なものでは無くなっていった。それから、近所や学校で先輩と顔を合わせる事があっても、互いにあいさつを交わす程度で、雑談したり一緒に遊んだりするようなことはあれ以後一度も無かった。
しかし、今日――
僕は、先輩と思いもよらぬ形で再び言葉を交わすことになった。
それも、思い出深いあの公園にて……。
でも、どうして月島先輩は僕がクラスでいじめられていることを知っていたんだろう。
「私はなんでも知っている」なんて言って、笑って誤魔化していたけど……。
確かに先輩は、昔からとても知識が広くて僕の知らないことも色々と知っていた。僕は小学生の頃、先輩から様々な事を教えてもらった。だけど、単に知識が広いということだけでは今回の事は説明がつかない。
どこで、どうやって知ったのか。いくら考えてもわからなかった。誰かに聞いたんだと思うけど、いったい誰が先輩に僕がいじめられてることを話したんだろう。それがわからない。まったく検討がつかない。
僕は長考を止め、目を閉じてお昼まで寝る事にした。
◇◇◇
時刻は午後三時四十分。
約束の時間が迫っていたので、僕は家を出た。
昼食のサンドイッチを食べた後、僕はこの時間まで部屋でテレビゲームをしたり、漫画を読んだり、音楽を聴いたりして過ごした。学校をズル休みして家でゲームしたり漫画読んだりって、母さんにすごく申し訳ない気がしたけど、他にすることもないし、今日一日くらいこんな風にダラダラ過ごしたっていいじゃないか。
歩きながら、頭の中で自分に対する言い訳を繰り返しつつ、僕は再び神木野自然公園へやってきた。朝来た時とは違って、公園の中は活気に満ちていた。
あちこちで小学生くらいの子供が楽しそうに走り回っているし、もっと小さい子供を連れた母親の姿も目立つ。そんな人達を眺めながら、僕は朝腰掛けたあのベンチに向かって歩いてゆく。幸い、ベンチのそばには人の姿は見当たらない。別に先輩と二人でいるのを周りの人に見られても、どうってことはないんだけど、なんていうか、周りに人がいると話がしづらいこともあるしね。できれば先輩といるところを誰にも見られたくないし、話も聞かれたくない。
約束のベンチに腰掛け、携帯を取り出して時間を確認する。三時五十一分だった。先輩との待ち合わせ時刻まではあと九分ある。ゆっくり待とう。
「こらーッ!」
突如として、後ろから飛んできた叫び声に死ぬほど驚いて振り返ると、ベンチの後ろの茂みからガサガサと音を立てて月島先輩が現れた。
「せ、先輩?」
「まったく、いつまで私を待たせるのよ。もう!」
口調には怒気が含まれていたけど、顔にはしっかりと笑みが浮かんでいた。それはまるで得意のいたずらを成功させた子供のような、してやったりとした笑顔だった。
「いつからいたんですか?」
「五分くらい前かな。あんたが来るのが見えたから、隠れて脅かしてやろうと思ってね」先輩は制服についた葉っぱや木の枝を手で払いながら言った。
「こういうの本当に止めてくださいよ。びっくりするじゃないですか……」
心臓が止まるかと思った。そういえば先輩は、昔からこの手のいたずらが好きだった。
「ふふふ、まったく将太朗は本当に驚かし甲斐があるわね。そんなに驚いた?」
「はい……」
「でしょうね、すごい顔してたもの」先輩は笑いながら言った。
「あの、僕、どんな顔してました?」
「山で熊に遭遇した登山者みたいな顔」
「……」どんな顔だろう。
先輩は、制服に付いた葉っぱを丁寧に全て払い終わった後、ゆっくり僕の横に腰掛けた。
「ふう」
吐息を漏らし、目をつむって先輩はベンチの背にだらしなく、ぐったりともたれ掛っている。
「先輩、疲れてるんですか?」
「う~ん、ちょっとね」
半分ほど目を開け、気怠そうに答えた。学校で激しい運動でもしたのかな?
「将太朗は、大丈夫? 疲れてない?」
「あ、はい、僕は大丈夫です。家でゆっくり休んだので」
「お昼何食べた?」
「サンドイッチを。母さんが作っておいてくれたんです」
「へえ~、いいお母さんだね」
「あの、先輩。ありがとうございました」
「へ? なに、突然」
「朝、公園で母さんに電話かけてくれたじゃないですか。まだお礼言ってなかったので、ちゃんと言っておこうと思って」
「別にいいのに、お礼なんて」
「それに僕、うれしかったんです。先輩が僕に声を掛けて、昔みたいに接してくれて……。先輩には絶対嫌われていると思っていたから」
「……」
「先輩、あの時のこと、覚えてますか? 三年前、この公園で僕と先輩の二人で遊んでて、そしたら――」
「もちろん覚えてるわよ、将太朗のクラスメイトがやってきて私たち冷やかされたんだよね。『内海の奴、女子と一緒に遊んでるぅ~』みたいな感じでさ」先輩はその時の男子の口調を真似て言った。
「あれはマジでムカついたわ。せっかく二人で楽しく遊んでいたのに、突然割り込んできてさ。しかも、将太朗もあいつらについて行っちゃうし」
「……すいません」
「いいよ。もう気にしてないし……」
もう気にしてない、ということは、先輩やっぱりあの当時は結構ショックだったんだろうか。あの後、キチンと謝ることが出来なかったのが今更だけど悔やまれる。
「まあ、いろいろあったけどさ、また今日、二人でこうやってお話する機会が巡ってきて、私もすごくうれしいよ。あれから、何だかお互いに気まずくなっちゃって、声を掛けづらかったじゃない?」
「はい、確かに、そうですね」
あれ以来、僕らの間にできてしまった微妙な距離感。先輩も感じていたんだ。
「正直に言うと僕はあの後、先輩のことをずっと避けてました。謝る機会はたくさんあったのに、責められるのが怖くて避けているうちに謝るタイミングを逃してしまって、それであれからまともに先輩と顔を合わせられなくなってしまったんです」
「私だってそう、もしかして私がそばにいるの迷惑なんじゃないかなって思って、将太朗を避けてた。今日だって、朝、公園で将太朗に声をかけるの結構勇気がいったんだよ? でも、話しかけてよかったわ」
「先輩、あの、今更謝ってもしかたないかもしれませんけど、あの時は本当にごめんなさい」
僕は頭を垂れた。今日、この場で過去に先輩の心を傷つけてしまったことをきちんと謝罪しておきたかった。これで全てがチャラになるとは思わないけど、なんというか落とし前をつけておきたかったんだ。
「言っておくけど、私は今ここで三年も前のことをねちねちと恨みがましく責め立てるような心の狭い惨めな人間ではないわよ。まあ当時、傷つかなかったと言えば嘘になるけど、でももう、お互いに昔のことは水に流して忘れましょう。それが一番よ。だからもうこの話はこれでおしまい。いいわね?」
「はい、わかりました」
こうして、僕らの間のわだかまりは消えた(のだろうか?)。
随分と時間が掛かってしまったけど、先輩に謝ることができて心の中にかかっていた靄が晴れたような清々しい気分だった。
「もっと前向きな、未来志向的な話をしましょうよ」
そう言って先輩は、最近ハマってるゲームやアニメの話を始めたのだった。
先輩の口調は熱を帯びていた。
僕も先輩も、昔からゲームやアニメが大好きで小学生の頃は二人でよくそんな話題で盛り上がっていたけど、この共通の趣味は中学生になった今でもお互い変わらないようだった。
「ねえ、ところで最近はどんなゲームやってるの?」
「えっと、そうですね。今すごくハマっているのはダイアモンドソード・サーガⅣですかね」
「なにそれ、どんなゲーム?」
「ドラ○エやエフ○フみたいな王道のロールプレイングゲームですよ。結構難易度は高いですけど、おもしろいんですよ。あとは、そうですね……」
僕は最初、先輩の話を聞きながら、要所要所で相槌を入れるだけだったけど、先輩から話を振られていつの間にか僕も夢中になって喋っていた。口下手なので人と話すのは苦手なんだけど、こんなに楽しいと感じる雑談は本当に久しぶりだった。まるで小学生の頃に戻ったような気分だった。
しばらくそんな他愛のない会話を続けていたけど、朝マンションの前で先輩が言っていた〝どうしても僕に話しておきたいこと〟とはなんなのか気になっていた。こうやって雑談を続けているのも嫌ではなかったけど、先輩はいつまで経ってもこの調子なので、話をさえぎって自分から切り出すことに決めた。
「あの、先輩」
「ん?」
「僕にどうしても話しておきたいことって、なんですか?」
「うん……」
先輩はベンチに座ったまま背筋を正し、体を僕の方へ向け、真面目な表情を作って僕に言った。
「話しておきたいこと、というか、将太朗にどうしても聞いておきたいことがあるのね。で、それを踏まえて将太朗に話しておきたいことがある」
「?」
ずいぶんと回りくどい言い方をするなぁ。
一体僕に何を聞きたいと言うのだろう。
「将太朗、あのさ……」
「はい」
「自殺しようと思ったこと、ある?」