思いがけぬ再会
「ふう……」
無事に事故もなく、僕は公園のトイレで用を足すことができた。
公衆トイレの中はとても汚く、壁は誰が書いたのか卑猥な落書きだらけで、床には泥だか糞便だかわからない茶色い物体がこびり付いている。非常に臭い。ちゃんと掃除しているのかな? でもまあ、公衆トイレなんてどこもこんなものなのかもしれない。
トイレの水道で手を洗って、丁寧にハンカチで水分を拭き取り、トイレを出た。
携帯電話を開いて時間を確認する。七時五十七分。
この公園から学校までは歩いて五分くらいの距離だ。朝のホームルームは八時三十分からなので、まだ急ぐ必要はなかった。
僕は、近くのベンチに腰を掛けた。
この公園に来るのは久しぶりだった。
小学生の頃は、よくここに遊びに来ていたっけ。学校から帰った後、家に荷物を置いてえいちゃんと一緒に夕方まで遊んでいた。そういえば何度か、僕達が帰ってこないのを心配した母さんが、公園まで僕を迎えに来たこともあったな。懐かしい。
前方に目をやると、ちょうど今僕が座っているベンチから右斜め前の方向に大きなジャングルジムがある。僕は昔から高い所が大の苦手で、ジャングルジムの一番上まで登ることが怖くてできなかった。二段目ぐらいまでは普通に登れるんだけど、三段目あたりから、足ががくがく震えて、体が動かなくなってしまう。そのことで、よくえいちゃんからバカにされたんだった。
僕はそっと目を閉じ、その時の情景を頭の中に再現してみる。夕陽射す少し薄暗くなってきた公園に、僕とえいちゃんの二人。真っ赤な夕陽を浴び、赤みがかったえいちゃんの顔。
「ちょっと、将太朗、なにやってんのよ。早く登ってきなさいよ」ジャングルジムの一番上に座って、下にいる僕に早く登って来いと急かすえいちゃん。
「だめだよ、えいちゃん。僕、これ以上登れないや」
「ふざけないで」
「本当だよ。足が震えて、動かないんだよ」
「え、もしかして、怖いの?」
「うん……。僕、高いとこ苦手なんだ」
「こんなのちっとも高くないじゃないの! さっさと登って来なさい。あと五秒以内に登ってこないと、あんたから借りてるあのマンガ、あれ全部私がもらうからね!」
「ひどいよ!」
当時のことを思い出して、僕は少し笑った。結局この時、一番上まで登ることができず、マンガはえいちゃんの物になってしまったんだ。あれ、なんてマンガだったっけ?
えいちゃんは、強引で、いじっぱりで、負けず嫌いで、僕らはたまにケンカをすることもあったけど、それでも仲良くやっていた。えいちゃんは僕をどう思っていたのか知らないけど、僕はえいちゃんが好きだった。
えいちゃんと遊ばなくなってからは、ここに来ることはほとんどなくなってしまった。外で遊ぶ機会も次第に減っていき、学校から帰ってからは家でゲームをすることが多くなった。
「……」
二年振りに訪れた思い出の公園。このベンチに座って見える風景はあの頃とほとんど変わらない。わずか二年しか経っていないのに何だかえらく懐かしさがこみ上げてくる。
あの頃は毎日が楽しかった。
この先もずっと、こんな風に楽しいことが続いて行くのだろうとあたり前のように思っていた。
「どうしてこんな事になってしまったんだろう……」
僕は誰に言うでもなく言った。
生きている事がもはや楽しくなくなってしまった。死んでしまってもいいとさえ思う。この公園で無邪気に遊んでいたあの僕が、こんな風に悲観的に考えること自体が信じられない。これは何かの間違いなんじゃないかと思う。
つまり、僕がいるこの世界は実は本物そっくりの偽物で、自分が知らないうちに北条や真弓田みたいな性根の腐った人間だらけの偽物の世界に、僕だけが紛れ込んでしまったんじゃないか? 冗談みたいな話だ。誰かに話したら一笑に付されるのは確実だけど、僕は大真面目にそう思っていた。
ここは本当に僕が知っているあの世界なのか? 元の世界に戻るにはどうすればいいんだろう。誰か教えてほしい。
『君は少し疲れているんだよ。陰湿ないじめのせいで精神がすっかり疲弊して、物事を楽しむ心の余裕が失われているんだ。だから毎日が以前のように楽しくないし、こんな風に現実逃避ばかりしているんだろう』
僕の中の内なる冷静な声が、わずかに憐れみを込めてそう言った。
まったく何だってそんな身もふたもないこと言うのだろう。これは現実逃避なんかじゃない。元の世界への帰還方法について真面目に考察しているのに邪魔しないでほしい。
もし帰れるなら帰りたい。楽しかったあの世界へ、えいちゃんがいるあの世界へ。
そこではきっと楽しい学校生活が僕を待っていて――
「何してるの?」
不意に声を掛けられ、空想は途中で打ち切られた。
驚いて目を開けてみると、一人の女子生徒が僕の座るベンチの前に立ち、僕のことをまるで不審者でも見るような目つきで見下ろしていた。
それは僕と同じ神木野中学校のブレザーを着た女子生徒だった。
互いの視線が交差したその一瞬、僕はその女子生徒が、あの幼馴染の月島英子、つまり『えいちゃん』だということに気が付いた。
ぼさぼさで短かった髪は、綺麗なストレートのロングヘアーとなり、肌の色も、日に焼けて小麦色だった小学生の頃とは違い、今は雪のように白い。昔とは雰囲気も変わって若干大人びているけど、まぎれもなくそれは、あのえいちゃんその人だった。
「ねえ、あんた何してるの? こんなとこで……」
何してるのかって? それはこっちのセリフだ。えいちゃんこそ、こんなとこで何をしているんだ?
「あ、あの、そ、その、ええと……」例によって頭の中が混乱して、言葉がうまく出てこない。
「落ち着いてよ。ねえ、学校行かなくていいの?」
「あっ!」僕は慌てて携帯電話を開き、時間を確認する。八時二十一分だった。
こんなに時間が経っていたのか!
これは急がないと本格的にまずい。遅刻してしまう! でも――
「どうしたの?」
体が動かない。
このままじゃ遅刻してしまう。なのに、腰掛けているベンチから立ち上がることができなかった。まるで僕のお尻とベンチが、強力な引力で引かれあっているみたいに離れない。
「ねえ、聞いてる?」
「……」
ベンチに座ったまま、僕は言葉を発することも無く目を伏せる。なんて言っていいのかわからない。
急がなきゃ遅刻してしまう。もし遅刻したらそれをネタにまたいじめらてしまう。だから、急がなきゃいけない。
なのに――
『でも、行きたくないんだろう?』
僕の中の内なる冷静な声が言った。
そうだ、その通りだ。水川さんになんて言って謝るかまだ考えていないし、教室で昨日以上に嫌なことが待っているかもしれない。いや、おそらく待っているだろう。そんな場所へ僕は今から行くのか?
「大丈夫?」
えいちゃんが声を掛けてくる。僕は大丈夫なのか?
突然に現れたえいちゃん、迫る始業時間、元の世界への帰還方法、水川さんの悲しそうな顔、様々な思いが頭の中で目まぐるしく渦を巻く。処理能力の低いパソコンが動作を停止するみたいに僕は動けなくなった。
「あんた、学校に行きたくないの?」
えいちゃんがぽつりと口にしたその言葉に僕は驚愕した。
どうして、それがわかったんだ? 僕はまだ何も口にしていないのに。
「なんで……」
「行きたくないのなら、行かなきゃいい」
「え?」
訪れる沈黙。えいちゃんはしばらく黙って僕を眺めていた。やがて、スカートのポケットからスマートフォンを取り出して、どこかに電話を掛け始めた。
なんだ? 誰に掛けているんだ? たちまち僕は不安になった。
「あ、もしもし、おはようございます、わたくし、月島と申しますが、あ、ハイ、そうです、月島英子です。どうもお久しぶりです。ええとですね、実は今、将太朗君と一緒に神木野自然公園にいるんです。はい、将太朗君、登校途中に気分が悪くなったというんで、今、私が付き添って、ベンチに座って休ませているんです。私が見たところ、顔色もすぐれないし、熱も少しあるようなんで、今日は学校を休んだ方がいいんじゃないかと私は言ったんですけど、本人は、平気だって言って聞かないんですよ。それで仕方ないのでおばさんに連絡したんです。ハイ、そうなんです。じゃあ、ちょっと将太朗君に変わりますね」
そしてえいちゃんは、無言で僕にスマホを差し出した。
黙ってそれを受け取り、僕は電話の向こうにいる相手と話し始めた。
「もしもし?」
「ちょっと! あんた大丈夫なの?」やっぱり母さんだった。
「う、うん。行く途中でちょっと具合が悪くなって、公園で休んでたんだ。今はもうだいぶ楽になったよ」
「朝から、具合悪かったの?」
「うん、少しね。これくらいなら大丈夫かと思って家を出たけど、でも次第にお腹が痛くなって……」
「そういえば、昨日から何だか具合悪そうだったもんね。とにかく、今日はもう帰ってきなさい。学校には私から連絡しとくから」
「……うん。ありがとう」
「ねえ、一人で帰ってこれる? 公園まで迎えに行こうか?」
「いや、一人で帰れるよ。家から近いし、本当に僕なら大丈夫だから。今日一日家で休めば元気になると思う。母さん、この後仕事でしょ?」
「うん、だけど……」
「気にせず仕事に行っていいよ。もうそろそろ出勤の時間だよね?」
「本当に、大丈夫なのね?」
「うん、大丈夫と思う」
「じゃあ、母さんもう行くから、安静にしてなきゃだめよ? いいわね?」
「わかったよ」
「それじゃ、えいちゃんに変わってちょうだい」
僕は、えいちゃんにスマホを返した。
「どうも、おばさん。将太朗君のことなら心配無用です。この後、私が付き添って彼を家まで送り届けますので安心してください。あ、いえ、私なら大丈夫ですよ。はい、どうかお気になさらずに。はい、では、失礼いたします」
えいちゃんは通話を終え、スマホをポケットの中に放り込み、無表情で僕を見据え言った。
「これでよかった?」
「……」何と答えていいかわからない。
えいちゃんのおかげで、今日は学校を休めることになったわけで、それは素直にうれしかった。少なくとも今日一日は、嫌な思いをせずに済むのだから。
でも、僕はこの状況を素直に喜べるほど単純な性格じゃない。
もうほとんど口を聞かなくなって久しい小学校時代の友人が、何の前触れもなく突然、朝、公園のベンチに座って現実逃避に耽っていた僕の前に現れた。これだけでも充分驚きに値するのだけれど、さらにえいちゃんは、僕が学校を休みたがっていることを見抜き、その場で僕の母さんに電話を掛け、学校を休めるように手配してくれた。この一連の流れに僕は戸惑っていた。
どうして、えいちゃんがこんな時間に、こんな場所にいるのだろう。
なぜ僕が学校に行きたくないと思ってることに気付いたのだろう。
いや、それよりもなによりも、僕が一番驚いたのは、えいちゃんがどうして僕に――
「懐かしいね」
僕が口を開こうとすると、それを遮るようにえいちゃんが言った。
「え?」
「小学校の頃さ、よくここに遊びに来たじゃん」
えいちゃんはそう言って、周りを見回した。僕も一緒になって視線を周囲に動かし、木々に囲まれたこの公園のすべてを眺める。さっき回想に登場した思い出深いジャングルジム、ブランコ、その他たくさんのアスレチック遊具、さらにその奥にはここからではよく見えないけど魚釣りができる大きな池もある。
それらひとつひとつを貴重な美術品でも眺めるようにこの目で確かめてゆく。公園内のあらゆる物に、あのジャングルジムと同様にえいちゃんとの数多くの思い出が結びついていた。
ここは僕達にとってまさしく思い出の場所だった。
感傷に耽るようにえいちゃんは公園内を眺めている。その表情には優しい笑みが浮かんでいた。でも、その笑みはどこか哀愁を帯びていて、悲しそうにも見える。そんな彼女の表情を眺めていると、僕は何だかえいちゃんに対して非常に申し訳ない気持ちになってくるのだった。
「あ、あの」僕は思い切って声を掛けた。
「ん?」えいちゃんがこっちを振り向く。
「えいちゃん、どうして――」
「なあに?」
僕は赤面した。
彼女を、昔の呼び名で呼んでしまったことに突然恥ずかしさが湧いてきた。
いくらなんでも中学生にもなって〝えいちゃん〟はないだろう。
彼女だって、今更そんな風に呼ばれるのはきっと嫌だろう。ここは中学生らしい呼び方で……。
「つ、月島先輩は、なぜここに?」中学生らしく呼び直し、改めて聞いてみた。
「……」
先輩は無言だった。その顔からは、すでに先程までの笑顔は消えており、無表情で僕を見つめていた。
「先輩?」
「……将太朗が、お腹を押さえて公園に入っていくのが見えたの。それで、どうかしたのかなと思って、後ろからこっそりついてきたのよ」
「僕をつけてきたんですか?」
「うん」先輩は頷いた。探偵か、この人は。
「全然、気が付かなかったです。びっくりしましたよ、いきなり現れるんですもん」
「私が声を掛けたら、あんたいきなり〝カッ〟と目を見開いて、まるで幽霊でも見るような顔で私の顔を凝視してたもんね。そんなに驚いた?」
「はい……」幽霊でも見るような顔、か。確かに、そんな顔をしていたのかもしれない。だってあの時、ちょうどえいちゃんのことを思い出していたところだったから余計に驚いたんだ。
「でも、先輩。どうしてわかったんですか?」
「ん、なにが?」
「その、僕が、学校に行きたくないと思ってること……」
「だってそんなの、見ればわかるわ。登校時刻なのにのんびり公園のベンチに座って青白い顔でため息つきながら、目をつむって自分の世界に浸ってるあんたの姿を見たら、私じゃなくたって、『ああ、この子はきっと学校に行きたくないんだろうなぁ』って、わかっちゃうわ」
「そ、そうかな……」言われてみれば確かにそうかもしれない。
「そうよ。あんた、体中から負のオーラを発散してたわ」
「う――」そう指摘され、僕は急に恥ずかしくなってきた。
「でも、私は別に学校に行きたくないと思うことがいけないことだ、なんて言ってるわけじゃないの。だって、クラスでいじめを受けているのに、学校に行きたがる人なんていないと思うし――」
「へ?」
ちょっと待て。
なんで先輩が、僕がクラスでいじめを受けているのを知っているんだ?
同じ中学に通っているとはいえ、クラスも学年も違うのに、なぜ?
「ん、どうしたの?」困惑を隠せない僕の様子を見て、先輩は不思議そうにつぶやいた。
「あの、先輩。どうして僕がいじめられているのを知ってるんですか?」
「もう、さっきからどうして、どうしてって、うるさいわねぇ」先輩はいささかうんざりしたように言った。
「だ、だって……」
もしかして、僕がいじめられてるという事実は、学校中で噂になっているのだろうか。いや、そんなわけない。同じクラスの尾島君だって僕がいじめを受けているのを気付かなかったというし、そこまで噂になっているのだったらきっと先生達の耳にも入って問題になっているはず。
「私はなんだって知っているのよ。忘れたの?」
そう言い、先輩はニヤリと笑った。
思い出した。
これは、先輩の昔からの口癖だった。先輩はとても知識が広くて、小学生の頃、僕は先輩から様々なことを教えてもらったんだった。芸能人の誕生日、テレビゲームの裏技、食べれるキノコと毒キノコの見分け方、上手なトンボの捕まえ方、僕らが通っていた小学校の教頭先生にまつわる八つの怖い噂、などなど。今思えば、そのどれもが実生活では対して役にも立たない情報だったんだけど、でも当時、得意げに語る先輩の姿を、僕は尊敬と敬愛の眼差しで眺め、そして僕が賞賛の言葉を漏らすと、先輩は決まって自慢げにこう言ったのだった。
私はなんだって知っているのよ、と。
「言っとくけど、将太朗のことなら私はなんだって知ってるの。隠し事なんて通用しないんだからね」
「誰かに聞いたんですか?」
「さて、どうかしら」先輩はすっとぼけているが、多分そうなんだ。誰かに聞いたに違いない。でも、誰に?
「ねえ、そんな事よりさぁ、そろそろ行かない?」
「へ? どこへ?」
「どこへって、あんたの家に決まってるじゃん。私、さっき電話で将太朗のお母さんに、あんたを家まで送るって約束してたの聞いてたでしょ?」
「でも、先輩、僕を家まで送っていったら確実に遅刻しちゃいますよ。いいんですか学校は?」
「いいんです。さ、行きましょ」
こうして、僕は月島先輩に見送られる形で帰路に着くこととなった。
先ほど、ひどく憂鬱な気持ちで一人歩いてきた道を、僕は今、先輩と並んで歩きながら戻っている。不思議な気持ちだった。
時刻はすでに八時半をまわっていた。ちょうど、朝のホームルームが終わった頃だろう。
先輩は大丈夫なんだろうか。僕はさっき母さんが学校に休みの連絡を入れるって言っていたから問題ないけど、先輩は家にも学校にも無断でこんな所をうろうろしている。僕の為に。
「あの、先輩」
「なに?」
「僕、一人でも大丈夫ですよ。先輩は今からでも学校に行った方がいいんじゃないですか?」
「私の事なら心配いらないわ。気にしなくていいから」
「でも、まずいんじゃないですか? もう、一限目の授業が始まる時間ですよ」
「だから?」
「せめて一言、今日は遅れるって学校に電話を入れた方がいいと思うんですけど」
僕がそう言うと、先輩は立ち止まり、眉間にしわを寄せて不快そうな表情に変わった。
あれ、僕、何かまずいこと言ったかな?
「なんなの? さっきから」その声色にはハッキリと苛立ちがこもっていた。
「え?」
「私の事は気にしなくていいって、何度も言ってるでしょ? しつこいわよ!」
「いや、だって、僕のせいで先輩が遅刻をして学校で怒られるようなことになったら、何だか申し訳なくって……」
「……」先輩は黙りこくって僕の目を見つめてくる。黒々とした純真なまなざしで見つめられて、まるで心の中がそっくり見透かされているような気恥しさを覚え、僕は思わず目を逸らしてしまった。
「私の事なんて、どうだっていいでしょ!」
先輩は苛立たしげに、声を張り上げた。
「私が良心から、あんたを家まで送っていってあげるって言ってるのに、どうして素直に私のやさしさに甘えてくれないの? 申し訳なさを感じる必要なんて無いの! あー、もうイライラするわね!」
「すいません……」僕は先輩が心配だから言っただけなのに、どうして怒られているのだろう。
「なに謝ってんのよ。ねえ、もしかして、私にやさしくされるのは迷惑?」
「ち、違うんです!」昨日の校舎裏での出来事が思い出される。
「僕はただ、自分のせいで誰かが傷ついたり、損害を被ったりするのが嫌なんです。迷惑とか、そういうんじゃ……」
「それじゃあ今ここで、『家まで送ってくれてありがとう月島先輩』って、感謝を込めて大きな声で言いなさい」
「えっ」
「早く!」
「今ここで?」いま僕らがいるのは、人気の多い並木通りだ。こんなところで、本当に?
「そうよ!」
先輩の目はマジだった。ここで先輩の機嫌をこれ以上損ねるのはまずいと判断した僕は、恥ずかしかったけど素直に従うことにした。
「い、家まで送ってくれてありがとう、つ、月島先輩……」
声に出した瞬間、自分の声の小ささに驚いた。周りの人に聞かれたらという思いが、無意識的に発声をセーブさせたんだろうか。
「ぜんっ然聞こえない! 何よ、その小さな声は! もっと大きな声で、もっと感謝の気持ちを込めて言いなさい。ほら!」
「え、もう一回?」そう聞くと、先輩は無言で頷く。
「家まで送ってくれてありがとう、月島先輩」
今度はさっきより大きな声で言った。だけど、何だかセリフを棒読みしているような口調になってしまった。先輩は相変わらず厳しい目つきを僕に向けている。
「もう一回!」有無を言わせぬ口調だった。僕は覚悟を決めた。
「家まで送ってくれてありがとう、月島先輩!」
自分でもびっくりするほど大きな声が出た。これが本当に自分の声なのかと疑うほど、その声は赤の他人の声のように僕の耳には聞こえたのだった。普段、大きな声を出すことなんて、滅多に無いからそう聞こえたのかもしれない。
「どういたしまして」先輩はにっこり笑って言った。
月島先輩、とても楽しそうだ。僕をからかって楽しんでいるのだろうか。僕は周囲の視線を感じ、恥ずかしさで耳元が赤くなるのを感じていた。後ろから来た自転車に乗ったおばちゃんが、物珍しそうな目でまじまじと僕達の様子を窺いながら、僕らの横を走り去っていった。
「いい? 私に対する感謝の念を忘れちゃだめよ」
「はい……」
そして、僕達は、また歩き出したのだった。
先輩が機嫌を直してくれたことに、僕は一安心していたが、それでも先輩に対する申し訳なさが消えたわけではなかった。誰であれ、自分に優しく接してくれるのはもちろん嬉しい。でも、その優しさを素直に受け入れることがなかなか難しい。自分なんて、何の取り得もないダメな人間。そんな僕に優しくされても、僕はその厚意に報いることができずに、結局何もできないダメな自分を再確認する羽目になる。だから他人の優しさがいつだって心の重荷になってしまう。
「ごめんね、変なことさせて」
歩きながら先輩は、ボソッと言った。
「……優しいよね、将太朗は」
「優しい? 僕が?」
「そうよ、自分がいま大変な状況なのに、私のことを心配してくれてるじゃん。他人の痛みを、まるで自分の痛みのように感じてあげられる思いやりといたわりの心。そういう心を持った人って、残念ながら今の時代、なかなかいないんだよ」
「……」
「周りにいるのは、平気で人の悪口を言ったり、暴力をふるったり、そんなどうしようもないクズばかり。将太朗もそう思わない?」
「うん、確かにひどい人もいますけど、でも、悪い人ばかりだとは僕は思いません」僕は、水川さんの顔を思い浮かべて言った。
「ふふ、やっぱり、将太朗は優しいね」先輩は笑った。
「世の中の人みんなが、将太朗みたいな優しい心を持っていたら、きっといじめなんて無くなると思う」
先輩は僕のことを過大評価しすぎているんじゃないかな? 僕は自分を特別優しい人間だとは思わない。先輩が僕をそういう風に評価してくれたのはうれしかったけど、それに対してどんな言葉を返していいのかわからなかった。
先輩もその後は言葉を発さず、僕達二人の周囲にはゆっくりと静寂が降りてきた。だけど、不思議と気まずさみたいなものは感じなかった。先輩はどう感じていたかわからないけど、少なくとも僕は、ゆりかごの中にいるような安心を感じていた。
僕らはマンションに着くまでの間、静かに歩き続けた。