後悔の念
学校から帰宅後、着替えるのもかったるいから制服をきたまま自室のベッドに倒れこんだ。
いつもなら学校から帰った後、すぐにテレビゲームを始めるんだけど、今日はちょっとそんな気分にはなれなかった。
「どうして、あんなこと言っちゃったんだろう」
僕は、カーテンを閉め切った暗く静かな自分の部屋で、ベッドの上であおむけになりながら、校舎裏での水川さんとのやり取りを頭の中で再現し、思いを巡らせていた。
目を閉じると、まぶたの裏に水川さんの悲しそうな表情がゆらりと現れ、去り際に彼女が残したあの言葉が、何度も何度も頭の中でリフレインして僕の精神を激しく揺さぶった。
『弱虫、弱虫、弱虫、弱虫、弱虫……』
そう、水川さんの言う通り、僕は弱虫だ。
大馬鹿野郎だ。ゴミクズだ。
僕みたいなクズ人間にわざわざ声を掛け、力になりたいと言ってくれた優しい天使のような水川さん。
そんな彼女に対して、僕のとった態度、あれは一体なんだ?
余計なことはするな? 放っておいてほしい?
そんな冷たい言い方は無いだろう。協力を断るにしても、もっと分をわきまえた丁重な断り方というものがあっただろうに。
罪悪感と後悔の津波が、僕の心を激しく襲う。
でも、もうどうしようもない。起きたことは変えられないのだから今更後悔しても遅いのはわかっていた。でも、後悔せずにはいられない。
今回のことで、水川さんにも完全に嫌われてしまっただろうな……。
おそらく、心優しい水川さんは、クラスで僕がいじめられて孤立している現状に以前から心を痛めていたんだろう。そして今日の朝、そのいじめに間接的にではあるが自分も巻き込まれてしまった。それがきっかけで、水川さんはこのままではいけないと思い立ち、気弱でおとなしいあのいじめられっ子の力になってあげなければと老婆心から放課後、自身もいじめのターゲットにされるリスクを承知の上で意を決して、「先生に相談しに行こう」と僕に提案した。
水川さんにしたら、感謝されて当然の善行だ。
だけどそのいじめられっ子から返ってきた言葉は――
「余計なことはするな」
「放っておいてくれ」
自分のクズっぷりに、思わず自嘲的な笑いがこぼれる。
酷いセリフじゃないか! こりゃ、いじめられて当然だよ。
僕のような人間は、いじめられるべくして生まれてきた人間なんだと思った。
この光がさえぎられた暗く、静かな空間に、「くっくっ」と押し殺したような笑い声が気味悪く響く。だけど、その笑い声もやがて自然に嗚咽に変わっていった。
自分の情けなさ、惨めさ、そして水川さんへの申し訳なさで、静かに涙がこぼれてじんわりと枕を濡らした。
真っ暗な部屋で、ベッドの上で横になりシクシク泣いている今の自分の姿を、第三者的視点から見たら、なんてみっともない姿だろうと思う。小学校低学年の女の子じゃあるまいし、なにをメソメソしてるんだ、と……。
家に誰もいないのはわかっていたけど、何だか急に恥ずかしくなって、僕は頭から布団をかぶった。視界がさらに暗くなり、こうしているとまるで自分一人だけ世界から隔離された場所にいるみたいだ。何も見えない暗闇の世界に自分一人。なんて魅力的な世界だろう。もし本当にそんな世界があるのならその世界に引っ越してしまいたいと思えた。
僕は昔から、辛いときや落ち込んだ時、泣きたい時は、こうやって頭から布団をすっぽりとかぶって、辛い気持ちを静かにやり過ごしていた。嵐が過ぎ去るのをじっと待つように。
こうしていると自然とリラックスできたんだ。
暗闇の世界で目をつむりじっとしていると、いつの間にか眠ってしまって、目を覚ました時にはさっきまでの辛い気持ち、悲しい気持ちがすっきり消え去っているんだ。
これは辛い体験をした際、精神的ダメージを和らげる防御策のひとつとして、知らず知らずのうちに自分で身につけたリラックス法だった。
僕はここでふと、数年前、まだ小学生だった頃の自分を思い返した。
子供の頃から内向的で、自分から人の輪の中に入っていくのが苦手だった僕は、小学校でもたまにクラスの意地悪な連中から目を付けられて、ぶたれたり悪口を言われたりしたことがあった。
そんな時は、学校から帰ってきて、今こうしているみたいに部屋を暗くして頭から布団をかぶってよく泣いていたっけ。
つまり厳密にいうと、僕がいじめというものを経験するのは中学に上がってからが初めて、というわけじゃないんだ。やっぱり僕は、いじめられやすい性格なのかもしれない。
でも小学校でのいじめは、精神的なダメージも次の日にはほとんど回復してそれほど残らなかった。だけど、最近はあまりこのリラックス法の効果が体感できなかった。
やっぱりその原因はなんというか、小学校でのいじめと僕が今受けているいじめとは、根本的に違うものだからじゃないかと思うんだ。
今、思い返してみても小学校でのいじめは、まだ遊びの延長線上にある可愛げのあるイタズラみたいなものだった。
けど、中学校でのいじめはもっと陰険で、とってもたちが悪い。クラス全員で示し合わせて誰か一人を無視するなんて、小学生だったらこんなこと普通はしないだろう。
小学生の頃、僕がよく言われた悪口は、せいぜい「バカ」とか「チビ」とか、そんな幼稚な単語を連呼される程度のものだった。だけど、最近よく言われるのは、「キモい」「死ね」「学校にくるな」といった、小学校の頃に言われた悪口が可愛く聞こえるような悪意のこもったものばかりだった。
どうしてこういう、人が本気で傷つくような事を平気で言えるような人間がいるのだろう。僕は理解に苦しむ。
だけど、偶然に僕の周囲にだけ集中してそういう性質の悪い人間が集まっているのではないということはわかっていた。おそらく、日本中の学校にこういう奴らはいるんだろう。そして、僕と同じようにいじめに苦しんでいる少年、少女たちも同様にたくさんいるのもよく知っている。テレビのニュースを見ていればそんな彼ら彼女らの情報が毎日のように流れてくるのだから知らず知らずのうちに知ってしまう。
父さんの言うように、いじめなんて当たり前のことなのだろうか。この程度のいじめに耐えられないような子供は、大人になって社会に出てもきっとロクな人生を歩めない。そういうことなのかな?
つまり、いじめというのは大人になるための通過儀礼で、これに耐えれないようなら社会に出る資格は無いと?
これから先の人生でも、こんな辛い出来事がたくさん待ち受けているということなら、僕は大人になんかなりたくない。
何だったら、死んでしまったほうがいいんじゃないか?
今朝のニュースでやっていたあの少年のように……。
僕は布団にもぐって小学校時代の楽しかった思い出を、過去の回想みたいに振り返っていた。いわゆる現実逃避ってやつだ。すると、その回想シーンに度々登場する一人の女の子がいた。
それは小学生の頃、とても仲が良く、いつも一緒に遊んでいた近所に住む一つ年上の女の子月島英子だった。
「えいちゃん……」
僕は、彼女を「えいちゃん」と呼んで慕っていた。内気でおとなしい僕とは正反対の、活発で男勝りな性格のえいちゃん。幼い頃からお互いの家を行き来したりして、よく遊んでいたのだった。
えいちゃん、彼女は今どうしているだろうか。たまに近所で見かけることもあるけど、お互いもう昔みたいに仲良く口を聞くことはなかった。
ここで、不意に湧いた疑問。
そもそも、僕はどうして彼女と口を聞かなくなったんだっけ?
「……」
その事を思い出そうとすると、ひどく後ろめたい気持ちになるのだった。
思い出すのが怖い。
なんだろう、この気持ちは。これはまるで――
「将太朗、いるの?」
「?」呼び声と共に唐突にドンドンと部屋のドアがノックされ、僕は現実に引き戻された。
母さんだ。あれ? もう、仕事から帰ってきてたのか? 全然気が付かなかった。
ドアが開き、母さんが僕の部屋に入ってきた。
「あら、どうしたの? 部屋、真っ暗にしちゃって……。寝てたの?」
「……うん」僕はベッドで寝ころんだままの状態で、ぼそりと返事をした。
「なに、どこか具合でも悪いの?」
「そんなんじゃないよ」
「そういえば、あんた朝も、何だか気だるそうだったわね。本当に大丈夫?」
「帰ってきてちょっとベッドに横になってたら、いつの間にか寝ちゃってたみたい。で、なに?」
「ご飯出来たから、呼びに来たのよ」
「え、今、何時?」
「六時半よ」
「……」もう、そんな時間か。
「呼んでも部屋から出てこないから、呼びに来たのよ。片付かないからさっさと食べちゃってくれない?」
「うん、わかった。今行くよ、出てって」冷たくあしらうように言った。
「え、うん……」
不機嫌そうな僕の態度に少し戸惑った様子で、母さんは部屋から出て行った。
母さんが出て行ったのを確かめてから、僕はもぞもぞと起き上がり、蛍光灯のスイッチを入れて明かりをつけた。パチッと、その一瞬で暗闇の世界は消失し、僕はまた明るくまぶしい元の世界に戻ってきたのだった。
僕は着ていた制服を脱ぎ、部屋着に着替えてから夕食を食べるため自分の部屋を出た。
その日の夜は、なかなか寝付けなかった。
早く眠りたくて目を閉じるんだけど、今日僕の身に起きた事、言われた事、それらが頭の中でぐるぐる渦を巻いて、安らかな睡眠を妨げるんだ。
結局、その日僕が眠りについたのは、深夜一時を過ぎてからだった。
◇◇◇
『次のニュースです。昨日もお伝えした○○県の市立○○中学に通う中学二年生の男子生徒が、いじめを苦に自殺した事件の続報です。昨夜○○県警は、自殺した星乃スグル君のクラスメイトの少年三人を、暴行、及び、恐喝の容疑で逮捕しました。警察の調べによりますと、逮捕された三人の生徒はスグル君に日常的に殴る蹴るなどの暴行を加え、さらに現金などを無理やり脅し取っていたとのことです。また、警察では、この三人以外にも、いじめに加わっていた生徒がいると見てさらに詳しく調べを進めており――』
「逮捕されたのね」
「ん? ああ……」
次の日の朝、僕は寝不足のぼうっとした頭で、機械的に朝食を口に運びながら、父さんと母さんの会話を聞いていた。テレビでは今日も、いじめを苦に自殺したあの中学生のニュースの続報が伝えられていた。
「中学生が、恐喝だなんてね……」母さんが怯えた様に言った。
「別にそんな驚く事じゃないだろう。高校生がオレオレ詐欺で捕まるようなご時世だ」父さんが言った。
「それにしても、他のクラスメイト達は何をしてたのかしら。どうして助けてあげなかったんだろう……」
「彼を助ける事で自分までいじめの標的にされてしまう可能性だってあるし、申し訳ないと思いつつ、見て見ぬふりしてたんじゃないのか?」
「私だったら、絶対見て見ぬふりなんてできないな。せめて、いじめられてる子に声を掛けて、相談に乗ってあげたりするくらいはできると思う」
「……」
母さんのその言葉で、昨日の水川さんを思い出してまた胸が痛んだ。
「将太朗も、もしクラスにいじめられてる子がいたら、見て見ぬふりなんてダメだよ? 助けてあげるんだよ?」
母さんは真剣な顔でそう言った。
「う、うん……」突然話を振られて、心臓が止まるかと思った。
しかし母さんも、まさか僕自身がいじめの標的になっているとは思ってもいないと見える。もし今ここで、学校で僕がいじめを受けていることを打ち明けたら、母さんはどんな反応を示すだろうか?
もちろん、そんなつもりは無いけど……。
「それじゃあ、僕、行くよ」コップに残った牛乳を一気に飲みほし、ゆっくりと立ち上がった。
「あれ、もう行くの? 今日は随分早く行くのね」
「うん、ちょっと寄るところがあって……」
「そうなの、気を付けてね」
「いってきます」
マンションのエントランスで、昨日と同じように管理人のおじいさんが僕に挨拶してきた。
「おはよう。いってらっしゃい」実に健やかな笑顔だった。
僕は眼を逸らし、挨拶を返すことなく、うつむいてその横を通り過ぎ外へ出る。後ろめたさは感じない。
今日はいつもより早めに家を出た。
母さんには寄るところがあるからと言ったけど、もちろんあれは嘘だ。
昨日、校舎裏で僕が水川さんに放った酷い言葉。それを母さんは知ったうえで皮肉のつもりで、さっき僕にあんな事を言ったのではないか? そんな風に考えていた。
馬鹿げた妄想だ。それは自分でもわかってる。
だけど、一旦そんな風に疑いだすと、この世のありとあらゆる事象すべてが恐ろしく思えてきて、僕はあの場から消えてしまいたくなった。それで反射的にあの場から飛び出してきてしまったんだ。
「はぁ……」
学校への道を歩きながらため息を吐いた。
まったく、最近の僕はバカみたいにため息ばかり吐いてるな。
これからどうしようか。
昨日以上に、学校には行きたくない気持ちが強かった。いじめられるのが嫌だから、怖いから、というのも理由のひとつだけど、それ以上に学校に行きたくない理由がもうひとつあった。
水川さんに会いたくなかったんだ。
だって、合わせる顔が無い……。
てゆうか、できるなら彼女と顔を合わせたくない。だけど、そんなわけにはいかない。
どこかでタイミングを見つけて、昨日のことを彼女に謝罪しようか?
そしたら、許してくれるだろうか。
もし、許してくれたとして、再び彼女に先生に相談しに行こうと言われたらどうしよう。
「……」
あれこれ思いを巡らせているうち、僕は何だかお腹がきゅるきゅる鳴ってるのに気が付いた。
朝食の時、牛乳を飲みすぎたかな? それともこれもストレスのせいだろうか。小幅でトボトボと歩いているうちに、まるで僕の腸の中で魚が泳いでいるような強烈な不快感が襲ってきた。
そして腹痛。やがてそれは耐え難いものになり、とうとう便意まで襲ってくる。
これはまずい……。
一旦、家に戻ろうか? 幸いなことに今日は早めに家を出たから、まだ時間に余裕がある。
家に戻るかそれとも、このまま早足で学校へ駆け込むか――
いや、だめだ。学校のトイレは絶対に利用できない。もしクラスの誰かにトイレの個室へ入る所を見られでもしたら大変だ。危険が大きすぎる。
「あ」
僕はここで、公園の存在を思い出した。
「神木野自然公園!」
それは自宅マンションと、学校のちょうど中間くらいにある大きな公園だった。そこには確か公衆トイレがあったはず。そうだ、家に戻る必要も学校のトイレを使う必要も無い。公園のトイレで用を足せばいいんだ!
僕は便意を我慢しつつ、公園への道を急いだ。