校舎裏にて
その後は特に何事もなく、六限目まで乗り切った。
授業が終わり、帰りのホームルームで担任の小林先生(通称コバセン)の割とどうでもいい話(清掃用具はもっと大事に扱え云々……)を適当に聞き流しながら、僕はいそいそと帰りの支度を始めた。
とにかく、僕は一刻も早く家に帰りたかった。というより放課後いつまでも学校に残っていたくないんだ。残っていると、また誰かしらに嫌がらせを受けたり陰口を叩かれたりするのはわかっていたからね。そんなわけで、六限目が終わったらさっさと帰るが吉。
ちなみに、僕はどこの部活にも所属していないから、このまま帰宅しても何の問題もない。
部活に入ろうとは思わなかった。特にやりたいこともないしね。放課後の貴重な時間を、部活動みたいなくだらないことには使いたくない。もっと有意義な時間の活用法があるはずだ。例えば、ゲームをしたり、漫画をよんだり、録画しておいたアニメを観たり。
それに部活道に入ることで、これ以上人付き合いの輪が広がってしまうのが嫌だったんだ。
僕は、もともと人付き合いが苦手だった。これはいじめを受ける前からも変わらない。
日本には、部活動に強制的に参加させられてしまう中学校も多く存在するらしい。まったく恐ろしい話だね。この学校の部活動が任意参加で本当によかった。
「お前達だって、ほこりだらけの汚い教室で勉強なんかしたくないだろう? 先生だってそうさ。だったらみんなもっと丁寧に、日頃の感謝の気持ちをこめて掃除をするんだ」先生は相変わらず熱弁をふるっている。
いつになったら帰れるんだろう。もうとっくに終了のチャイムは鳴っているのに、先生の長々と続く話はなかなか終わりを見せない。僕はイライラし始めていた。
「前にも一度言ったと思うが、掃除というのは――」
「先生、もうチャイム鳴ってますよ?」強引に先生の話に割り込んだのは、日直の柳本君だった。先生は話を止め、時計を確認する。
「……ん、もうこんな時間か。それじゃあ、日直、号令」
「規律、気を付け、礼」
「さようならー」本日の学校生活の終了を告げる別れの挨拶が教室に響いた。僕は浅くお辞儀だけして、そそくさと一目散に教室を後にする。
「気をつけて帰れよー」
おそらく、僕に向かって放ったわけではないだろう小林先生の言葉を背中で受け止めながら、僕は呪縛から解き放たれたような開放感を味わっていた。
終わった……。
嫌なこともあったけど、何とか今日も乗り切った。
これでやっと帰れる……。
僕はふっと、安堵のため息を漏らし、今日帰ってからプレイする予定のテレビゲームの事を考えていた。
今日、学校で受けた嫌がらせについては、意識的に思い浮かべないように頭の隅っこの方へと追いやり、テレビゲーム内の仮想ファンタジー世界での楽しい冒険を夢想しながら、僕は一刻も早く学校から脱出したい衝動に駆られていた。
廊下を早足で歩きながら、楽しそうに会話の花を咲かせている生徒達の横を通り過ぎ、一階へ続く階段を一歩二歩とテンポよく降りてゆく。
放課後の校舎に「タンッタンッ」と、リズミカルに小気味よく反響する自分の足音を聞きながら階段を降りていると、上の方から自分の足音以外にもうひとつ、大きな足音が聞こえてくるのがわかった。かなりの速足で階段を下りてくる。
まさか……。
クラスの誰かが、僕を追いかけてきたのか?
ざわざわと全身に恐怖と緊張が走る。これは急いで逃げた方がいいのか? それとも……。
考えあぐねいていると――
「内海君! 待って!」
僕の名を呼ぶ声が上から聞こえてきた。それは切羽詰まったような叫びだった。驚いて僕は階段の踊り場で足を止める。
速足で階段を降りてきたのは、なんと水川さんだった!
「あ! 水川さん……」
思わず口から驚愕の声が出た。
「よかった、追いついた……。内海君、ホームルームが終わるとすぐに帰っちゃうんだね」
「……」
若干、息を切らせながらも、水川さんは優しい表情を浮かべている。
「内海君、この後ちょっと時間ある?」
「え、うん……」
「よかった、ちょっと内海君に話があって……」
「僕に、話?」
「うん、教室では他の人もいるし、なんだか話しづらいかなと思って、内海君も、私も……」
「……」なんだろう。水川さんが僕に話があるという。
なんにせよ、朝の体操着袋の一件が関係しているのは間違いない。
僕たちは、下駄箱で上履きから靴に履き替え、校舎裏にやってきた。
放課後の校舎裏で、僕が密かに思いを寄せている水川さんと二人きり。何だかドギマギする状況ではある。
だけど僕は内心怯えていた。この後、水川さんからどんな話を切り出されるか、だいたいの想像はついていたからね……。憧れの女子と二人きりでいるこの状況を楽しむ心の余裕を欠いていたんだ。
「話って、なに?」恐る恐る僕の方から切り出した。すると水川さんは、さっきまでの優しげな表情を曇らせ、静かに語りだした。
「うん、朝のことなんだけど――」ああ、やっぱり!
「み、水川さん、あ、あの、あれは僕が取ったんじゃないんだ! 僕が教室に来た時にはもうすでに机の横には水川さんの体操着袋がかかっていて――」
「知ってる」
「へ?」
「きっとクラスの誰か、おそらく真弓田さんあたりが嫌がらせのつもりでやったんだと思う」水川さんは落ち着き払った様子で言った。
「う、うん……」
なんだ?
話があるっていうから、僕はてっきりこの場で水川さんから糾弾されるものだとばかり思っていた。「もう二度と私の体操着に勝手に触らないで、この変態!」みたいな感じで……。
でも違った。
僕が体操着を盗んだエロ将軍じゃないって、水川さんはちゃんとわかっている。その事実にほっと胸をなでおろした。誤解を解く必要はなかったんだ。
じゃあ、話っていったい何だろう?
「ねえ、内海君……」水川さんは改まった口調で言った。
「クラスで、いじめられてるよね?」
予想外の展開だった。
まさか面と向かってこんなことを聞かれるとは思っていなかった。こういう場合、なんて答えればいいのか。
まあ、いじめられているのは事実なんだけど、ここで「ハイ」なんて答えるのも、何だか間が抜けているような気がして……。
「うん、えっと、あの……」と、要領を得ない言葉を連ねる僕をよそに、水川さんは続ける。
「多分、きっかけは五月の体育の授業だよね。確かドッジボールの試合で、内海君が北条君の顔にボールをぶつけちゃって、あれ以降クラスで内海君が無視されるようになったり、今日みたいな嫌がらせされたりしているのをよく見かけるようになったから」
「……」
「実は私ね、あの体育の授業の後に真弓田さんから、内海君をみんなでハブろうって誘われたの」
「えっ、そうなの?」僕は驚いた。どうして真弓田さんが?
「うん、私がそういうのはよくないって言ったんだけど、そしたら彼女、『あんた、内海の味方するの?』って怖い顔で私に詰め寄ってきて……」
水川さんはすごく申し訳なさそうに言った。
「すごく戸惑ったし、恐ろしかった。それで私――」
「……」
「真弓田さん達が怖くて、今日までみんなと一緒に内海君を無視するような態度をとっていたの。最低よね」
水川さんを責めることは出来ない。もし僕が水川さんの立場だったとしてもきっと逆らうことは出来なかったと思う。彼女は悪くない。
「内海君に対するひどい仕打ちは、ほとんど真弓田さんが主導してるのよ。真弓田さんと親しい人から聞いた話だけど、真弓田さん、北条君と付き合ってるんだって。大好きな自分の彼氏にボールをぶつけた内海君が憎くて許せなくて、それでクラスのみんなをけしかけてるんだって」
「し、知らなかった……」
いじめの主導者は北条君ではなく、真弓田さんだったのか。二人が付き合っているというのも、今、初めて知った。
「内海君にしてみたら、本当に理不尽な話だよね。故意にぶつけたわけでもないのに一方的に逆恨みされて……」
「うん……」
「クラスのみんなも酷いよね。みんなして真弓田さんの言いなりになってさ。私なんかが偉そうに言える立場じゃないけど――」
水川さんが、あの水川さんがこの僕に同情を寄せてくれている。素直にうれしかった。
「仕方ないよ。北条君も真弓田さんもクラスの人気者だし、ボールをぶつけた僕が悪かったんだよ」僕は言った。
水川さんは顔を上げ、まるで宇宙人にでも遭遇したかのような驚きの表情で僕の顔を覗き込んできた。
「内海君、それ、本気で言ってるわけじゃないよね?」
「え」
「嫌じゃないの? 毎日のように教室で嫌がらせされたり、悪口言われたりして、嫌じゃないの?」
「い、嫌だよ、もちろん」
「でしょ? それじゃあ、どうして内海君は何もしないの?」
「……」
「いつもやられっぱなしじゃない」
「それは……」
どうして何もしないのかって、それを僕に聞かれても困る。
だって僕にも、どうすればいいのかわからないんだ。それにこれは非常にデリケートな問題なんだ。
「僕がやめてって言っても、多分みんなやめてくれないだろうし、それに下手に反撃でもして、これ以上反感を買いたくないんだ」
「だからって、このまま黙っていても、問題が解決するわけでもないんだよ?」
「それは、そうだけど……」そう言って僕は沈黙した。
水川さんの言ってることは正しい。
いじめられているのに何故何もしないのか。そう言えば、今朝父さんも似たようなことを言っていたな。その問いに対する僕の答えはこれ。
怖いから。
僕には、いじめに立ち向かうだけの勇気も、気力も、根性も、持ち合わせていなかった。
気まずい沈黙。水川さんはさらに表情を曇らせ、悲しそうな表情でうつむいてしまった。
「ごめんね、なんか私が内海君を責めてるみたいで」
「いや、いいんだよ。僕は、別に……」
「でも私、これ以上黙っていられなくて。何とか内海君の力になりたいの」
どうして水川さんは、僕なんかにこんな優しくしてくれるんだろう。
ひょっとして、水川さん。僕のことが好きなのでは?
って、ないない! 絶対にそんなわけない!
クラスでも指折りの美少女として名高い水川さんが、何のとりえもない、頭も悪い、運動神経も鈍い、とりわけハンサムでもないこの僕に好意を持っているなんて、まったくもっておこがましいにも程がある歪んだ妄想だ。ちょっと優しくされただけで何を勘違いしているんだ、僕は?
「ありがとう、水川さん。気持ちはうれしいけど、でも、もう僕には関わらないほうがいいよ」
「ど、どうして……?」
「だって、僕に関わったら、水川さんまでいじめのターゲットにされてしまうかもしれない。そういうの嫌なんだ。嫌な思いをするのは僕だけでいい」
「だからって、だめだよ、そんなの!」
「いいんだ、僕なら大丈夫だから、本当に」
本当はちっとも大丈夫じゃなかったけど、水川さんにこれ以上の心配をかけたくないから僕はそう言った。
「ねえ、内海君、これから一緒に小林先生に相談しに行こう。先生に話を聞いてもらおうよ。こういうのって一人じゃ話しづらいだろうけど、私も一緒に行ってあげるから、ね? 先生ならきっとなんとかしてくれるよ」
果たしてそうだろうか?
まあ、このまま黙って何もしないよりかはいいんだろうけど、でも僕は先生に相談したいとは思わなかった。
事がこれ以上大事になって、僕がいじめを受けていることが、先生や両親、他のクラスの生徒達に知られるのがたまらなく嫌だった。
嫌だった、というのはなんか違う。正しく表現すると、恥ずかしかったんだ。
まるで自分の日記を赤の他人にまわし読みされるような感覚。
どうしてこんな気持ちになるんだろう……。
いじめられるような原因を作ったのは僕。つまり、悪いのは僕。
それなのに被害者ぶって、いじめる側を糾弾するのは筋違いじゃないか。
そういう想いが心の中にある。だから自分のことを、〝何も悪くない憐れむべきかわいそうないじめられっ子〟だとは思えないんだ。こんな想いを抱いているから、いじめられていることを他人に知られるのが恥ずかしいと感じるのかもしれない。
「内海君、聞いてる? とりあえず話だけでも聞いてもらおうよ」
「あの、水川さん、もういいよ……」
「よくないよ! 内海君が行きたくないなら、これから私だけでも先生のところに行って――」
「もう、余計な事はしなくていいから!」僕は声を張り上げて言った。
場の空気が凍りついた。
まさか僕の口からそんな言葉が飛び出すとは思わなかったのだろう。水川さんがショックを受けているのがありありと見て取れた。
「え? 余計な事って、なにそれ……。私、本当に内海君の為を思って言ってるのに……」
心外だ、とでも言いたげに唇を歪めて水川さんは言った。感謝されると思っていたんだろう。その様子を見て僕は心が痛んだ。
「お願いだから、僕の事はもう放っておいてほしいんだ。ごめん……」これが、僕の正直な気持ちだった。もう僕には構わず放っておいてほしかった。その方が水川さんのためにもなる。
僕は頭をたれた。申し訳ないと思ったから、というのもあるけれど本音を言うと、僕は怖くて水川さんの顔を直視することができなかったんだ。
「……弱虫」
ポツリとその一言だけ言い残して、水川さんはこの場から足早に立ち去って行った。
校舎の角を曲がり、視界から水川さんの姿が消えても尚、体全体が麻痺してしまったみたいに、僕はその場から動くことが出来なかった。