いじめ劇場
僕は下駄箱で上履きに履き替え、廊下を歩いていく。
あと五分ほどで朝のホームルームが始まる時間だった。僕は自宅からここまでかなりゆっくり歩いてきているから、いつも教室入るのは遅刻ギリギリのこんな時間になってしまう。
僕は階段を上がり、三階にある二年三組の教室に入る。
当然だけど、すでにほとんどのクラスメイト達が登校してきている。僕は誰とも目を合わせないように注意しながら自分の席に向かう。
そして、自分の席の前まで来て、まず最初に机の中をチェックする。中に紙が入っているのを見つけた。
紙にはただ一言、「キモイ」と書かれている。
今日は「キモイ」か……。昨日は「死ね」だった。
いつものこと、僕は特に動じることなく、その紙を丸めて持ってきたカバンに放り込んだ。
クラスメイト達数名が、こちらの様子をチラチラと窺っているのがわかる。僕が全く動揺の素振りを見せないのが気に入らないのかもしれない。
そりゃ、僕だって最初はもちろん動揺したよ。でももう慣れてしまった。教室に入ってまず最初にすることは、僕への悪口が書かれた手紙を捨てる作業。毎日のように続けていたら慣れるのは当然だろう。
それに、教室で受ける嫌がらせがこの程度で済むのなら、学校へ通うのにここまで憂鬱さを感じたりはしない。
僕は席に着く。
カバンから今日使う教科書とノートを取り出し、机の中に入れた。
以前は、使わない教科書やノートは、いちいち家に持って帰るのも面倒なので机の中やロッカーに置いたままにしていたんだけど、さっきも説明した通り、それだとクラスの誰かに勝手に捨てられたり、破られたりするので、今は全部家に持って帰ることにしている。少しでも被害にあうのを抑えるため、自分の物は極力教室に残して置かないように心がけているんだ。
机に落書きをされたり、悪口を書いた手紙を投函されるのも悲しいし腹が立つけど、机を家に持って帰るわけにはいかないから、こればかりはどうしようもない。
さて、今日の一限目の授業は例によって僕が大嫌いな体育だった。僕はカバンから体操着が入った白い袋を取り出し、机の横に付いているフックにその袋をかけておこうと手を伸ばした。
が、よく見るとフックにはもう体操着袋がかかっていた。
「あれ?」
僕の物ではない体操着袋が、僕の机横のフックにかかっている。これはどういうことか?
嫌な予感がした。
僕はその袋を掴んで、名前欄を確認する。
そこには『水川泉』と書かれていた。
その名前が目に触れた瞬間、僕は衝撃で頭の中が真っ白になった。
なんで水川さんの体操着袋が僕の机に?
その問いに、僕の中の内なる冷静な声が答える。
『なんで? そりゃ決まってるじゃないか。クラスの誰かさんが考えた、新手の嫌がらせだよ』
そりゃそうだ。
どんなうっかり者でも、まさか自分の体操着袋を他人の机にかけたりしないだろう。でも……。
僕は思考停止状態に陥りそうになりながらも、必死に頭を働かせ考えた。この意味を。
水川さんの席は、一番前の列の左側。僕の席から見て左斜め前にあった。
僕は彼女の姿を確認する。水川さんは席に座って窓の外を見ていた。彼女の机横のフックには体操着袋はかかっていない。
どうしよう……。
今すぐ返しに行くべきか?
うん、そうしたほうがいい。
だけど、これは恥ずかしいぞ。なんて言って声を掛ければいいのか……。
「これ、水川さんのだよね? 落ちてたよ」
「なんで内海君が私の体操着を持ってるの? さては盗んだわね! 最低、この変態!」
僕の頭の中でそんな映像が再生されていた。
もし、こんな展開になったらどうしよう……。
僕が行動に移せないでやきもきしていると、一人の女子が水川さんに近づいて声を掛けた。
「おはよう、水川さん」
「あ、おはよう」
水川さんに声を掛けたのは、真弓田エリさんという生活態度も授業態度もあまりよろしくない僕が好きじゃないちょっとチャラいタイプの女子だった。だけどかわいいのでクラスの男子の間ではちょっと人気があった。
「ねえ、水川さん。体操着袋どうしたの?」
「え?」水川さんは不意を突かれたような顔になる。
「あれ、おかしいな……」水川さんは自分の机横のフックを確認し、体操着袋がなくなっているのに気づいた。
「ここにかけておいたはずなのに……」困惑したような表情で周囲を見回している。
「ねえ、内海が何か持ってるよ」真弓田さんがこちらを指差して言った。その声には楽しげな響きが混じっていた。
クラス中の視線が僕に集中する。
水川さんと視線が交差した。その視線はゆっくりと、僕の右手に握られている自身の体操着袋へと移る。
そして水川さんは機嫌を損ねたように顔を歪めた。
違う!
僕が盗ったんじゃない!
まずいぞ、これは可及的速やかに誤解を解かないといけない。そうしないと、僕は好きな女子の体操着を盗んだ変態と思われてしまう。僕は勢いよく立ち上がった。
「あ、あの、こ、これは――」
とにかく水川さんに説明しなければいけない。でも、クラスの皆に見られている恥ずかしさと、恐怖と焦りで、言葉が上ずり形を成さない。
「ち、違うんだよ。ぼ、ぼ、僕は、その――」
「……」
とにかく、惨めだった。
水川さんは少し顔を赤らめ、苛立たしげな表情を浮かべて早足で僕の方へ近づいてくる。
そして、僕の目の前までやってきて一言、
「返して」とだけつぶやき、僕の手から強引に体操着袋をもぎ取り、自分の席に戻っていった。
「うわぁ、内海最低~。女の子の体操着盗むなんて、マジキモいんですけどぉ~!」
真弓田さんが意地悪そうな笑みを浮かべ、ありったけの軽蔑を込めて言った。
それに釣られる様に教室では、あちらこちらでけらけらと笑い声が聞こえてくる。
「内海、超きめぇ……」
「うわぁ、あんな奴に体操着触られて、水川さんかわいそ~」
僕は再び席に座り、クラスメイトから絶え間なく浴びせられる嘲笑と侮蔑の言葉、悪意と蔑みのこもった眼差しを、無言で受け止めていた。だけど心の中では悲鳴を上げていた。それは、自分にしか聞こえない沈黙の叫びだった。
みんなの前だから落ち着いている風を装ってはいるけど、目には涙の粒が浮かび、顔は膨れ上がる羞恥心で火照るのを感じていた。そんな僕の様子を見て、真弓田さんも、北条君も、周りの連中も満足そうに笑っている。
先程の情けない自分の姿とセリフが何度も何度も頭の中でリピート再生されて拍車が掛かったように、恥ずかしさが絶え間なく湧いてくる。
「ち、違うんだよぉぉぉ、僕は、そのぉぉぉ……」
「プッ、似てる似てる!」
クラスの誰かが、さっき僕が放ったセリフを真似してふざけている。
もう、この場から消えてしまいたかった。
気になって、水川さんの方をちらりと見てみる。彼女は今、自分の席に座ってうつむきじっとしていた。
彼女は今、何を思っているのだろう。
◇◇◇
その日の昼休み、僕はそそくさと教室を抜け出して、第二棟の一階にある図書室に向かった。
ちなみに僕らの学校は、それぞれの教室と保健室や給食室、視聴覚室や生徒指導室などがある四階建ての第一棟、図書室や職員室、理科室や家庭科室や、各部活の部室などがある三階建ての第二棟、二つの校舎に分かれていて、この二つの校舎は二階にある連絡通路を通って行き来することができる。
僕は本を読むのが特別好きなわけじゃない。ただ教室に居たくなかったんだ。
休み時間くらいできれば一人で静かに過ごしたい。学校の中で、一人で静かに過ごすのに最も適した場所といえば図書室くらいしかない。二年三組の教室からちょっと離れているのが難点だけど、でもそれだけに図書室でクラスの連中と遭遇する危険も少ない。
それに僕は図書室の空気が好きだ。学校の中はどこも騒がしいけど、唯一ここだけはどことなく厳粛な雰囲気が漂っているように感じる。
教室、廊下、トイレ、体育館、校庭――
何だか最近は、学校内のどこにいても、否定的な感覚が付きまとってくる。
〝自分はここにいてはいけない人間なんじゃないか?〟なんて考えてしまって、どうにも居心地が悪い。
でも、図書室ではそんな感じを受けない。
不思議と心が落ち着く、安心できる。
静かにドアを開け、図書室の中へ入る。
あたり前だけど、ここではみんな本を読んでいる。誰も僕を見ていないし気に留めない。その無関心がとてもありがたかった。
僕は入って左の一番奥の席に座った。そして時計を確認。お昼休みはあと十分近く残っている。しばらくゆっくりできそうだ。
この昼休み中に考えたいことがあった。
ホームルームが始まる前、僕に降りかかった災難についてだ。
朝、僕の机横のフックにかかっていた水川さんの体操着袋。
僕が気になるのは、この嫌がらせを仕組んだのは誰か、ということじゃない。首謀者はおそらく北条君、実行者は真弓田さん、まあ、そんなとこだろう。
僕が気になっていたのは、なぜ水川さんの体操着袋を選んだのか、ということだ。
もしかして北条君達は、僕が水川さんに特別な感情を抱いていることに気づいていたのかな?
もし、それに彼らが気づいていて、あの嫌がらせを仕組んだのだとしたら……。
それは僕にとって、とても恐ろしい想像だった。
僕みたいな人間に好意を持たれてしまったが為に、いじめに巻き込まれて嫌な思いをする羽目になってしまった水川さん。申し訳なさで胸が潰れそうになる。
あの後、授業中も休み時間も、ずっとどこか虚ろな表情でうつむきがちだった水川さんの様子を思い出して心が痛んだ。
僕に対する嫌がらせなら、傷つくのは僕一人で済むと思っていたけど、今日みたいに関係ない人が巻き込まれて傷つくのは見たくない。
僕が大切に思っている人が僕のせいで傷つくのは、とても耐え難いことだった。こんな思いをするのはもう二度と御免だ。
でも、どうすればいい?
北条君達に、「もう水川さんを巻き込むのはやめてほしい」なんて言うわけにはいかない。そんな事を言ったら連中は、喜んで水川さんを巻き込むだろう。
これまで受けてきたいじめの傾向から推察するに、連中は僕をよく観察し、僕の態度や表情を研究、分析し、どんな事をすれば僕が傷つくか、心により大きいダメージを与えられるか、それを考えていじめを実行している節がある。
だから連中の前で弱みを見せるわけにはいかなかった。今後、同じようなことをされても、今日みたいに激しく動揺を見せてはダメだ。僕は何をされても平然としていなければいけない。感情を持たないロボットのように。
僕には選択の自由なんて無いんだ。ただ起こることを、黙って受け入れるしか無い。連中が嫌がらせを止めるまで……。
「連中が嫌がらせを止めるまで?」
それは、いつ?
そんな日が本当に来るのだろうか?
僕は、いつまでこの理不尽な嫌がらせに耐え続けなきゃいけないんだろう。
あとひと月?
一学期が終わるまで?
今年いっぱい?
もしも、卒業するまでずっとこの調子だったら……。
「……」
考えたくなかった。
こうやって悲観的に考え出すと、次から次へと際限なくネガティブな考えが浮かんできて、心が次第に重たくなってゆく。
僕は立ち上がった。
休み時間はまだある。
せっかく図書室に来たんだし、気分転換に何か面白そうな本でも探して読んでみよう。