絶望的な日々
自宅マンションのエントランスで、掃き掃除をしていた管理人のおじいさんとすれ違った。
「おはよう。いってらっしゃい」
にこやかに微笑み僕に挨拶してきたけど、僕はうつむいて目を逸らし黙ってその横を通りすぎる。
愛想の悪いガキだ、なんて思われているかもしれない。思われても構わない。
僕はこのおじいさんが嫌いというわけじゃないけど、挨拶を返すほどの元気も無かった。
エントランスを抜け外へ出る。本日の天気は、僕の心模様とは真逆の雲ひとつ無い晴天。やわらかな朝の日差しを浴びながら、僕は学校への道を一人歩いてゆく。
僕が住むこのマンションから、僕が通っている市立神木野中学校までの距離は、歩いて十分もかからない。早足で歩いていたら、あっという間に着いてしまう距離だった。なので、僕は意識的に歩幅を短くし、歩行速度を緩めて進む。
住宅地を抜け、通行量の多い市内有数の大道路であるケヤキの並木通りへと出る。近くにバイパスの入口があるから、朝早いこの時間でも交通量はかなりのもので、ガードレールを挟んで僕が歩くすぐ横の車道を巨大なオートバイが、けたたましいエンジン音を立てて走り去ってゆく。
だけど、そんなやかましいオートバイのエンジン音も、僕には全く気にならなかった。いや、正しく言えば、気にする余裕が無かったんだ。
歩きながら僕は、今日この後、教室で待ち受けているクラスの連中が毎回手を替え品を替え僕に披露する陰湿な嫌がらせの数々と、それによって自分が被ることになる精神的苦痛を想像して、朝からひどく憂鬱な気分に浸っていた。別に今日に限ったことじゃないけど、この一ヶ月、朝はずっとこんな感じだった。
やかましいエンジン音も、排気ガスの匂いも、雲ひとつない澄み切った青空も、ゴミを漁っているカラスの姿も、僕にとってはどうでもよかった。
今や、身の回りの事すべてが、まるで遠い外国の出来事のように空々しく感じられる。感情が鈍麻するとはこういう事をいうのかな。
僕が学校でいじめの標的となって、およそひと月。
このひと月という期間は、一人の前途有望な少年を、物憂い眼差しで社会を見つめる極度の精神虚弱を患ったペシミストへと変容させてしまうには十分な期間だった。
僕はこのひと月の間に、学校へ行くという行為がすっかり苦痛に感じられるようになってしまった。
大通りを通常の二分の一程度の歩行速度で歩いていると、やがて紺色のブレザーを着た同じ中学の生徒の姿もちらほら目立つようになってきた。
後ろから歩いてくる同校生たちに僕は次々と追い抜かれて行く。が、別に構わない。急いでいるわけじゃないのだから。
後ろからツタツタと早足で歩いてきた一人の女子生徒が、僕を追い抜いたあと、くるっとこちらを振り返った。僕と目が合う。怪訝そうな表情を浮かべて僕を見、首を傾げている。
「なんでこの人、こんなにゆっくり歩いているのかしら?」そう言いたげな表情だった。
なぜ、こんなにゆっくり歩いているのかって? そんなの決まってるじゃないか。
学校に行きたくないからさ。いじめられてるのに学校に行きたがる人間がどこにいる?
女子生徒は、再び前を向き、早足で歩き去ってゆく。
でもまあ、怪訝に思うのも当然だろう。だって、周りを歩く同校生たちと比べても明らかに僕の歩行スピードは、まるで素早さが低下する呪文をかけられたみたいに不自然なほどに遅い。
僕は、昨日プレイしたロールプレイングゲームを思い出していた。学校から帰ったらまた続きをやろう。
最近は、テレビゲームだけが僕の生きがいだった。ゲームをプレイしてる間だけは現実世界での嫌なことを忘れられたから。
大通りの交差点を右に曲がり少し進むとまた交差点があり、そこを今度は左に曲がれば学校は目前だった。そして交差点の横断歩道にはオレンジ色のベストを着て腕章を付けたPTA(?)のおばちゃんの姿が。朝と夕、必ずこの場所に立って登下校する子供たちを見守っている。学校へと続くこの先の通りは、先程通ってきた通行量の多い並木通りから一転してとても静かだった。というのも、たくさんの生徒たちが通るこの通学路は朝の時間だけ歩行者と自転車しか通れないようになっている。車は通行禁止なんだ。
「おはよう」
笑顔で挨拶してくるおばちゃんを先程の管理人のおじいさんと同様に無視して僕は通学路を進む。
やがて前方には、いじめの舞台、僕のストレスの根源である我が母校、神木野中学校の校舎がもう見え始めていた。一歩、また一歩と進むたびに、少しずつ眼前に迫ってくる。
僕はため息を吐く。
前方に見えるあの校舎に入ったが最後、六限目が終わるまで閉じ込められて、出ることを許されない。僕にとっては本当に牢獄のような場所だった。
なんだかお腹が痛い。
うつむき、右手でじんじんと痛むお腹を軽くさすりながら歩く。学校まであと何歩だろう。そんなことを考えていると――
「アッハッハ、マジうけるよ、あいつ!」
突如前方から聞こえてきた甲高い笑い声に、僕は思わずビクッとなる。歩を止め前に目を向けると、僕が立っている場所から三メートルほど先に、楽しそうに大きな笑い声をあげながら歩く二人の女子生徒の姿が目に入った。一人はさっき僕を怪訝そうな顔で眺めていた女子。もう一人はおそらくその友達だろう。二人の会話が僕の耳に否応無しに飛び込んでくる。
「でしょ? 私も最初、アヤからこの話聞いたとき深夜なのに爆笑したもん」
「てゆうか、ユキってば、バカすぎ~」
「でも、本人は結構キズついてるみたいだから、ユキの前ではこの話題はやめた方がいいかもね」
「ええ~? 気にすることないでしょ?」
「ダメだって、ああ見えてユキはメンタル弱いんだよ。泣いちゃうかもよ」
「てか、ユキの泣いてるとことか、想像つかないんだけど!」
前を歩く二人の女子生徒が、僕の事を話して笑っているのではないと判明して少し安心したけど、こんな風に他人の何気ない表情や言動にいちいちビクついている自分自身が心底情けなく思える。
クラスでいじめられるようになってから、あんな風に誰かが笑ったりしているのを目撃したり、耳にしたりすると、まるで自分が笑われているのではないかという被害妄想で、強い不安に駆られるようになってしまった。
僕は再びため息をつく。
いじめられる前は、ここまで精神虚弱じゃなかった。人付き合いは得意な方ではないけど、そんな僕にもクラスによく話す友達はいたし、学校へ通うのも別に嫌じゃなかった。
僕は歩きながらいじめが始まる前の平和だった日常を思い出していた。