アンケート
登校早々、同級生に侮辱され、土下座を要求され、それを断ったらお腹に思いっきり蹴りを入れられた。
まさかこんなひどい事になるなんて……。
激しい痛みと恐怖、恥ずかしさと屈辱感で泣きそうになる。でも、歯を食いしばってそれを我慢した。
今日一日、この痛みと屈辱感を引きずったまま学校生活を送らなければいけないのか……。
そう思うとひどく憂鬱になる。
もう家に帰りたい。この場にいたくない。
まるで猛獣がいる檻の中に閉じ込められてしまったような……。抜け出したいのに抜け出せない。
何だろう、この感じ。
息が詰まるような閉塞感。
テレビのニュースで見たあのいじめが原因で自殺した少年。彼もこんな気持ちだったんだろうか。
クラスメイト数人から殴られ、金品を奪われていたというあの少年。
ニュースを見ながら僕は、この自殺した少年の境遇に比べれば、いま自分が受けているいじめなんてまだ優しい方だ、なんて考えていた。でも――
暴力を振るわれることがこんなに苦しいだなんて思わなかった。今日初めてわかったよ。死にたくなるのもわかる。
それにしても、真弓田があんなに恐ろしい女だったなんて知らなかった。
こんな酷い仕打ちを受けることになるなら、大人しく土下座しておけばよかった。本当にそう思う。
突然蹴りかかってくるなんて、ちょっとおかしいんじゃないのか?
女って、怒るとみんなああなるのかな? ……いや、そんなわけないか。
そういえば、月島先輩も怒るとかなり怖いけど、もしあの二人が戦ったらどっちが勝つだろう。
ちょっと見てみたい気もする――
――って、何を考えているんだ、僕は!
そうならないように注意するのが僕の役目だったはずだ。
真弓田から蹴られたことは先輩には絶対に黙っておこう。
先輩の事だ。僕が真弓田に蹴られたなんて知ったら絶対、「あのバカ女をとっちめてやる!」なんて言いながら、それこそ教室に乗り込んできて釘バットを振るうような悲惨な結末になるだろう。
そして事件が公になり、僕も先輩も、この先まともな学校生活を送れなくなってしまう。
今後はもっと警戒しなければ。そして真弓田と接する時も、もっと注意しないと……。
ズキズキと痛むお腹を摩り、僕が真弓田への恐怖の念を募らせている中、教室内はいつの間にかまるで何事も無かったかのように平静さを取り戻していた。
まったく、みんな呑気なものだ。
「おい、席付けー」
担任の小林先生が教室に入ってくる。
「今日の日直は、島田か。号令」
「起立、礼」
「おはようございまーす」
そして、いつも通りのホームルームが始まる。
と、思ったんだけど、先生がホームルームを始める前にみんなに配るものがあると言って、プリントと封筒を配り始めた。なんだろう?
前の席の女子からプリントと封筒を三枚ずつ受け取り、自分の分を取って後ろの席の男子へ回した。そして配られたプリントに目を移し、その内容を見て僕は硬直する。
これは――
配られたそのプリントにはこんなことが書かれていた。
『いじめアンケート調査』神木野中学校二年三組
以下の七つの質問に答えてください。
①あなたは学校でいじめられてる人を見かけたことはありますか?
はい( )いいえ( ) どちらかに○を入れてください。
②あなたのクラスで、今現在いじめられている人はいますか?
はい( )いいえ( ) どちらかに○を入れてください。
③あなたは、いじめられた経験がありますか?
はい( )いいえ( ) どちらかに○を入れてください。
④ ②・③の質問で、『はい』と答えた人にお聞きします。
それは具体的に、どんないじめでしたか?
( )
⑤あなたは、他の生徒をいじめたことがありますか?
はい( )いいえ( ) どちらかに○を入れてください。
⑥誰かがいじめられているのを目撃したら、あなたならどうしますか?
あなたの考えを記入してください。
( )
⑦いじめをなくすにはどうすればいいと思いますか?
あなたの考えを記入してください。
( )
なに、これ……。
いじめのアンケート調査?
どうしていきなりこんなものを配るんだ?
クラスの連中は、今どういう気持ちでこのプリントを眺めているのだろうか。
周りの様子を窺ってみたいけど、ちょっと怖い。
全員にプリントが行きわたったのを確認して、小林先生は話を始めた。
「そのプリントは今すぐに記入しなくていい。家に帰ってから書いて封筒に入れて明日持ってきてほしい。明日のホームルームの時に先生が回収する。あと、プリントにも封筒にも自分の名前は書かなくていい。あくまでもこれは無記名式のアンケートだからな」
「あ、あの、先生……」
「ん、どうした北条」
「ひとつ聞いていいですか?」
「言ってみろ」
「このアンケートは一体なんですか?」どことなく警戒感を滲ませたような声色で北条は先生に尋ねた。
先生はその質問に、ひとつ間を置いて答えた。
「うん、テレビのニュースなどで連日報道されているので、もうみんなも知っていると思うが、○○県でお前たちと同じ中学二年の男子生徒が自殺した。その自殺した生徒は一部のクラスメイトから殴られたり蹴られたり、挙句金品をせびられたり、そんな酷いいじめを受けていたらしい。まったく、恐ろしい話だ」
先生はそこで一度言葉を切った。普段は割と陽気で、授業中に冗談や軽い下ネタも言ったりする小林先生だけど、今日は、いままでに見たことがないような真面目な顔つきだ。発する言葉にもどこか重みが感じられる。
「教育委員会などとも話し合って、この学校でもいじめの実態を把握しておくためにこのような調査を行うことになった。それで急遽、こんなプリントが作られたわけだ。今、他の教室でもこれと同じプリントが配られている」
先生は教室全体を見渡す様に、ゆっくりと視線を右から左へ動かした。
「まあ、このクラスではいじめなんて無いと思うが、一応な」そう言って先生はちょっと笑った。
「……」
北条は無言でうつむいている。
誰も声を上がることができない。重い空気が教室を包み込んでしまったようだ。
やっぱり小林先生は僕がクラスでいじめを受けている事を知らないのか。
ということは、水川さんが先生に、僕がいじめられている事を伝えたわけじゃないんだ。
だけど、この重い雰囲気になぜか僕はいたたまれなくなっている。いじめの当事者というか、被害者であるという事実が自分にとって、そして先生に対してとても恥ずかしく、そして申し訳なく思えてくる。
先生はクラスのみんなを信頼しているんだ。まさか自分の教え子にいじめの加害者と被害者がいるとは夢にも思っていないんだろう。
このアンケートに、僕はどう記入すればいいのか。
無記名式なので、誰が書いたのかはわからないようになっている。まあ、それは置いといて、正直に書いちゃっていいのか? ①の質問については「いいえ」に○を入れるとして、問題は②と③だ。
『あなたのクラスで、今現在いじめられている人はいますか?』
『あなたは、いじめられた経験がありますか?』
ここで、「はい」と答えると次の④でいじめの具体的な内容を書かなくてはいけなくなる。
無記名のアンケートだから僕が書いたとはわからない。
だけど、このクラスでいじめが行われているという事実は学校側に伝わるだろう。
「……」
どうする?
大人に助けを求めるべきと言っていた水川さんの言葉が蘇ってくる。
ここは正直に、②と③の質問で「はい」に○すべきか。
帰りの時間までに結論を出さないと。
◇◇◇
「それで、どうだった?」
「はい、今の所、特に何も……」
「ホントに? 今朝のことであいつらに何か言われたり、されたりしなかったの?」
「まあ、ちょっと嫌味みたいなのを言われたりもしましたけど、あの女は一体なんなの? みたいな感じで」
「ふうん……」
僕と先輩は図書室にいた。
時刻は一時十分をちょっと過ぎた頃。つまり、今はお昼休みだ。
四限目が終わった後、先輩から「昼休みに会えない?」とメールが来た。
僕は、「いいですよ」と返信。断る理由もない。それで、どこで会おうかと言う話になり、僕が図書室はどうですか、と提案し、先輩はそれを了承した。こうして僕らは今、図書室に来ている。
クラスの連中に、先輩と一緒にいる所を見られたくなかったから、二年三組の教室から遠く離れたこの第二棟にある図書室を面会場所に指定したんだけど、もちろんそれだけが理由じゃない。僕が個人的に、この図書室が好きだからと言うのも理由の一つだった。それに人にあまり聞かれたくない話をするのは、図書室のような静かで人が少ない場所が最適だろう。
僕が昼食を食べて図書室に行くと、先輩はもうすでに来ていて椅子に腰かけていた。
見たところ、他の利用者もちらほらいるようだけど、こちらに注目してる人はいない。そして開口一番、先輩に「それで、どうだった?」と尋ねられた。
僕は先輩の向かいの席に座って、「特に何も」と答えた。
もちろんこれは嘘。
先輩の目には疑いの光が煌めいているのがわかったけど、僕は嘘を吐き通し、先輩を欺くことに何とか成功したようだった。ホッとする。
「ならいいんだけどね。何かされたら、すぐ私に報告しなさい。私があんたの教室に乗り込んで行って、あいつらをとっちめてやるから」
「ハ、ハイ……」
やはり僕の予想通りだった。真弓田から蹴られたことは絶対に秘密だ。
「ところで先輩」
「ん?」
僕は何かと物騒な先輩の話を逸らす目的で、別の話題を持ってこなければならなかった。
そこで僕は朝のホームルームで配られたあのいじめアンケート調査というプリントについて、先輩の意見を聞いてみようと切り出した。
「ところで先輩は、アンケートどうします?」
「アンケート?」
「ほら、いじめのアンケート調査とかいう紙ですよ。先輩のクラスでも配られたでしょ? 何かいじめの実態を調査するとかいう名目で、全クラスで今日の朝配られたって先生が言ってましたから。あれをどうしようか迷っているんです。正直に書いていいものか――」
「……」
「先輩?」
先輩は空虚な瞳で僕を見据え、黙っている。
まるで異国の言葉で話かけられたような表情だ。
「ちょっと何を言ってるかわからない……」とでも言いたげな顔。
僕、なんかまずいこと言ったかな?
また口を滑らせて、先輩を怒らせてしまったのかと不安になったけど、先輩の顔を見る限り怒っているという様子は無い。
じゃあ、どうしたんだろう。
「もしかして、先輩のクラスでは配られなかったんですか?」
「うん……」非常に聞き取りにくい小さな声で先輩はぽつりと言った。
「あ、そうだったんですか。ん、でもおかしいな。先生は全てのクラスで配るって言ってたのに、どうして先輩のクラスだけ配られなかったんだろ?」
「そんなの知らないわよ! 私に聞かないで!」
僕は疑問を口にしただけなのに、先輩はいきなり怒りだした。
「す、すみません」
何で僕は怒られてるんだろう。何で僕は謝っているのだろう。
「……あの先輩、ど、どうしたんですか?」
「別にどうもしないわ……」そう言って先輩は立ち上がった。
「あれ、どこ行くんですか」
「教室に戻る」
「えっ、だって今来たばかりじゃないですか」
「聞きたいことは聞いたし、私はもう行くわ」
先輩はスタスタとドアに向かって歩いて行ってしまう。やっぱり怒っているのだろうか。怒らせるようなことを言った覚えはないのに。
図書室のドアを半分くらい開けたところで、先輩はこちらを振り返り、思い出したように言った。
「あ、そうだ。あんた部活には入ってないんだよね? だったら、帰りも一緒に帰りましょう。校門前で待ち合わせ。いいわね?」
「はい」
「それじゃ、また」
そう言って先輩は図書室から去って行った。
一体どうしたんだろう。怒っているというか、ちょっと慌てているようにも見えたけど。
しかし、真弓田といい先輩といい、思いもよらぬことで急に怒り出すから始末に負えない。日常会話をしているだけのはずなのにヒヤヒヤさせられる。やっぱり僕は水川さんのような静かでおしとやかな女性が好きだ。
僕は机に突っ伏した。
まだ休み時間は残っている。すぐに教室に戻る必要は無いから、もう少しここでゆっくりしていよう。
別に眠かったわけじゃないけど、僕は目を閉じて、机に突っ伏した姿勢で休息をとることにした。真弓田に蹴られたお腹の痛みはもう引いたけど、こうやって背中を曲げた姿勢になると、まだちょっとだけ痛んだ。
やがて、僕の隣の席に誰かが座る気配がした。誰だ? 先輩が戻ってきたのか?
顔を上げると、僕のすぐ隣の椅子に尾島君が座っていた。
「よっ、モテ男!」
相変わらずの気持ちの悪い笑みを浮かべ声を掛けてきた級友に僕は少し戸惑った。机には何かの教科書が開かれている。よく見るとそれは、例のあの本だった。
「来てたんだ、尾島君」
「ああ、最近ちょっと読書にハマっててな」
尾島君は得意げに言った。
「しかしよう、俺は驚いたぜ」
「何が?」
「彼女だよ! 彼女!」
月島先輩のことか。
そうか、全然気づかなかったけど、尾島君は僕らが来る前から図書室に来てたんだ。そして僕らのやりとりも全部目撃されていた。まあ、尾島君に目撃されたって別に問題はないんだけど。
そういえば尾島君は今日の朝遅れてきたから、教室で話題になった真弓田と月島先輩のケンカや、僕と先輩の関係について何も知らないんだ。
「言っとくけど、あの人は彼女じゃないよ。月島先輩っていって、僕の小学校からの友達なんだ」
「まったくうらやましいぜ。まさかお前にあんなかわいい彼女がいるなんてなぁ……」
僕の話をちゃんと聞いていたのか? 話がまるで通じていない。
「なあ、もしかして、もうヤったの?」
顔を近づけ、品のない笑みを浮かべ僕にそう尋ねてくる。
彼に悪気は無いんだろうけど、こういう不躾なことを無遠慮に聞いてくるような輩が本当に苦手だ。
「だから、先輩と僕はただの友達! 何もしてないよ!」
「も~う、怒んなよ。図書室では静かにするのがマナーだぞ」
「君が変なこと聞くから……」
「はいはい、わかりました。もうわかったから静かにしよう。な?」
先に話しかけてきたのはそっちなのに、どうして僕がたしなめられているのか。完全に尾島君のペースで話が進んでいる。僕は少し苛立っていた。
「ところでさ、朝、お前何してたんだ?」
「え?」
「ほら、俺が教室入っていったら、お前、床にうずくまってたじゃん。あれ、どうしたの?」
「うん、あれは――」
僕は尾島君に、今日僕に降りかかった災い――校門前での先輩と真弓田の衝突から始まった一連の事件の流れ――について説明した。
「だはははは!」
僕の話を聞いた途端、尾島君は後ろにのけ反って猛烈に笑い出した。
図書室では静かにするのがマナーだって言ってたのは誰だ。他の利用者たちが迷惑そうにこちらに一瞥をくれている。
「笑いごとじゃないよ。他人事だと思って……」
「いや、だってよう……」言い訳がましくそう呟いて、でもまだ笑っている。
「おまえ、真弓田に蹴られてうずくまってたのかよ」
「うん」
「俺はてっきり、お前が土下座でもしてるのかと思ったわけよ。まあ、俺の想像もあながち間違ってなかったわけだけどさ」
「……」
やがて尾島君の顔から静かに笑いが引いて行った。
「でもよう、どうしてやり返さなかったんだ?」
「え?」
「だって、真弓田みたいな女に蹴られるなんてさすがに腹が立つだろう。悔しくないのかよ。相手が北条ならともかく、真弓田が相手ならお前でも勝てんじゃねえの?」
なんだ?
水川さんも尾島君も、僕に「悔しくないのか?」って。そりゃあ、比較的穏やかな性格の僕でも、わけもなく蹴られたら腹が立つし悔しいよ。でも……。
「尾島君だったらどうする? 真弓田から蹴られたらやり返す?」僕が尋ねると、少し間を置いて尾島君は答えた。
「う~ん、どうかな」何か躊躇っているような言い方だ。
「なんだよ、尾島君だって怖いんじゃないか」
「怖いんじゃないんだ。ちょっと抵抗があるんだよ。女子に暴力を振るうのはさ……」
意外とまともなことを言っている。僕は尾島君という男をちょっと見直した。
「僕だってそうだよ、尾島君」
「とはいっても、やらっれぱなしってのはやっぱり悔しいよな。だからさ、俺だったら暴力以外の方法でやりかえすね」
「暴力以外の方法?」
そんな方法があるのか? ちょっと興味が湧いた。
「それって、どんな方法?」
「例えば、俺がもし真弓田から暴力を振るわれたとする。そしたらあいつに抱きついてやるんだ。キスしたりおっぱい揉んだり、思いっきりスケベなことしてやるのさ。なあどうだ? 画期的な反撃方法だと思うだろ?」
それはある意味、暴力に訴えるよりも性質の悪い方法だと思った。尾島君のような男に抱きつかれ、強引にいやらしいことをされる女子の気持ちを想像して、僕は身震いした。
「なんだよ、なに黙ってんだよ。いい方法だろ? 今度また蹴られるようなことがあったらこの方法で反撃してみればいい」
「そんなことしたら北条に殺されちゃうよ。クラスの女子からも嫌われる」
「なに言ってんだよ、もう十分ってほどに俺達は嫌われてるじゃないか。これ以上嫌われたって別に構いやしないだろ」
「嫌だよ、嫌に決まってるだろ。僕はこれ以上クラスのみんなに嫌われるのは嫌なんだ」
「なんだかなぁ、お前ってやつは……」
尾島君は哀れんだような視線を僕に向けてくる。僕はおかしなことなんて何も言ってない。尾島君がおかしいんだ。そんな性犯罪者みたいなまねできるわけないじゃないか!
お昼休みはあと五分ほど残っていたけど、尾島君を残して僕は図書室を出た。廊下を速足で歩きながら教室へ向かう。そして歩きながら、自分の考えをまとめていた。
水川さんは頼れる大人に助けを求めるべきだと言った。
月島先輩はクラスの連中と戦えと言った。
尾島君はスケベなことをして反撃すればいいと言った。
やっぱり、水川さんの意見が一番まともじゃないか。本当に僕のことを心配して言ってくれたんだと思った。先輩や尾島君が言うような方法では、余計にいじめを悪化させるだけだ。水川さんの言うことが正しかったんだ。
僕の中である決意が固まった。
朝のホームルームで配布されたあのいじめアンケート調査。あのプリントに、正直にいじめの事実を記入して提出しよう。いじめをやめさせるにはそれしかない。
これはチャンスだ。
直接先生に、「じつはワタクシ、クラスでいじめられておりまして……」
なんて言いに行くのは怖いし恥ずかしいし、かなり気が引けるけど、紙に書いて提出するということであれば、そんなに抵抗は無い。
そうだ、迷う必要なんて無かったんだ。正直に書けばいい。
自分はいじめられている、と。
僕は連絡通路を通り、二年三組の教室がある第一棟に戻ってきた。
そして、三階への階段を上っていく。
すると――
「あ、来た来た」
階段の踊り場に真弓田と北条が立っていた。まるで僕の登場を待ち構えていたかのように。
恐怖で足が止まる。
「どこに行ってたんだい? 探したよ」北条が言った。
「……」
「もしかして、職員室に行ってた?」真弓田が尋ねてくる。
「い、いや、ちょっと図書室に……」
「ふーん、そうなんだぁ。ところでさ、ちょっと聞いておきたいことがあるんだけど」
「なに……?」僕は怯えを悟られないように言った。
もしかして、ここで今朝の続きをやるつもりなのか?
「朝、配られたプリントがあるじゃない?」
「うん……」いじめアンケート調査用紙のことか。
「内海、あれなんて書くか決めてるの?」
「……」
もしかしてこいつら……。
「あんまり変なことを書かれるといろいろと困るんだよねぇ」
「変なことって――」
「うん、例えばさ、僕たちがみんなして君をいじめている、とかさ。そういう事実ではないことを書くのはあまりお勧めできないと一言君に忠告しておきたかったんだ」北条が言った。
事実ではない?
何を言ってるんだ。事実じゃないか!
こんな風に探りを入れてきたということは、やっぱりこいつら、学校側にいじめが発覚するのを恐れているんだ。そうに違いない。
「ぼ、僕が何を書こうが、僕の勝手じゃないか」僕は勇気を振り絞って言った。
「そうはいかない。これでも優等生で通っているからね。今後、学校で僕の評価が著しく低下するようなことを書かれると迷惑するんだ」
お前の都合なんて知らない。
僕はもうあの用紙に何を書くか決めているんだ。正直にお前らがこれまでしてきた悪道について詳しく書いてやる。
「内海君、あの調査用紙に僕やエリの評価を落とすようなことを書かないと約束してくれるかい?」
「……そんな約束はできないよ」僕は言った。
「そうか、じゃあ仕方ないな。僕らも本当のことを書くしかない」
「本当の事?」何だよ、それ。
「ほら、おととい君が教室で水川さんの体操着を盗んだことだよ」
「なっ……!」
「まったく、君も見かけによらず酷いことするよな。みんなの前であんな破廉恥な真似をするとはね。驚いたよ」北条はくすくすと笑いながら言った。
「水川さん、めちゃくちゃショック受けてたよね~。ほんとかわいそうだったわぁ」それを受けて真弓田も愉快そうに言った。
「あ、あれは君らがやったんじゃないか! よくもそんな――」
「なあに? 私たちがやったって言いたいの?」
そう言って真弓田がこちらに一歩近づく。
「くだらない因縁をつけるのは止めてよね。それとも何? 私たちがやったって証拠でもあんの?」
真弓田が冷たい目でこちらを見据え言った。朝の教室での出来事が思い出される。強烈なお腹への一撃。肺が潰れるような痛み……。
「……」僕は恐怖で言葉が出なくなった。まさに蛇に睨まれたカエル状態だ。
恐怖で返答に詰まる僕を見て満足そうに真弓田と北条は笑っている。完全にこちらの怯えを見透かされていた。悔しい。
「なあ、内海君。先生達から、〝好きな女子生徒の体操着を盗んだ問題児〟なんてレッテルを張られるのは嫌だろう? だったら、あのプリントに余計なことは書かないでほしいんだ。君が約束してくれるなら、僕らも君が水川さんの体操着を盗んだことを書かないでおくよ。どうだい……?」
北条は甘くささやきかけるような口調で言った。
「……」
「内海、なに黙ってんのよ。どうすんの?」真弓田がイライラした様子で言った。
「……わかったよ。何も書かない」
「本当でしょうね? 嘘ついたらただじゃ置かないよ」
「約束する……」悔しかったけど僕にはそう言うしかなかった。
すると北条は安心したのか、表情をほぐして言った。
「そうか、それはよかった。今回のような些細な出来事がきっかけで、今までのような楽しい学校生活が送れなくなってしまうのは利益にならない、お互いにね。君が物分かりがいい人で安心したよ」
何が楽しい学校生活だ。僕はお前らのせいでちっとも楽しくなんかない。
北条と真弓田は階段を上がって行った。
僕もその後ろからついていくような形でトボトボと教室へと戻る。
せっかくいじめを止めさせる手段が見つかったと思っていたのに、これじゃあこの先も何も変わらない。
自分の意気地の無さに苛立ちと憤りを感じた。
こんな奴らの脅しにあっさりと屈する自分が情けない。情けなさすぎる……!
だけど、僕にいったい何ができるって言うんだ?
 




