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校門前の対決

『ピンポーン!』


 次の日の朝、いつものようにリビングで朝食をとっていると、インターホンの呼び出し音が鳴った。


「おい、えいちゃんが来たんじゃないのか」父さんが言った。

「うん」時刻は七時五十分、約束の八時より少し早いけど多分先輩だろう。


 ちなみに、僕は昨日の夜、夕食の席でえいちゃんと仲直りしたこと、そして明日から二人で登校することを父さんと母さんに告げていた。二人とも、僕と先輩が仲直りしたことについてとても喜んでくれた。

小学生の頃、先輩はよく我が家に遊びに来ていたから、両親とも顔なじみなんだ。


 僕はコップに半分ほど残っていたコーヒー牛乳を一気飲みし、そのまま立ち上がりインターホンの受話器を取った。


「はい」

「おはようございます。月島です。将太朗君いますか?」昨日の夜、携帯で喋った時とは打って変わった礼儀正しい口調だった。

「あ、僕です。今行きます」そういって受話器を戻すと、いつの間にか僕の後ろに立っていた母さんが聞いた。

「えいちゃん?」

「うん」

「じゃあ、私もちょっと行ってあいさつしてこようかしら。昨日のお礼もしたいし」

「えっ、いいよ、別にお礼なんて……」僕はカバンを手に取り、母さんを振り切るように急いで玄関へ向かい靴を履く。

「でも……」

 僕は母さんと月島先輩を会わせたくなかった。なんとなく照れ臭かったんだ。

「それじゃ、行くから」

「いってらっしゃい。えいちゃんによろしくね」


 玄関を出て、僕は早く先輩に会いたい一心で階段を降りていく。靴が履きかけの状態だったので足がもつれて途中で転びそうになったけど気にせずにマンションのエントランスに行くと先輩が壁に寄りかかって僕を待っていた。管理人のおじいさんと何やら話をしている。先輩がこちらに気づく。


「あ、来たみたいです」

「おはようございます。先輩」僕は近づきながら挨拶した。

「おはよう」先輩はさわやかな笑みを浮かべ、挨拶を返してくれた。


 それは、不安や苛立ち、ストレスや憂鬱さを癒してくれる一服の清涼剤のようなさわやかな笑顔だった。僕も思わず顔がほころんだ。


「将太朗、靴、ちゃんと履きなさい。転ぶわよ」

 僕は言われた通りにきちんと靴を履き直し、それを見届けて先輩はコクリと頷いた。

「それじゃあ、行きましょうか」

「はい」

「いってらっしゃい」

 管理人のおじいさんが笑顔で僕らを見送りながら言った。

 先輩も僕もほとんど同時に「いってきます」と答え、エントランスを出た。


 僕達は、学校へ向けて歩き出した。

 この日の天気はあいにくの曇り。いつもなら、この湿った曇り空のように僕の心の中も暗澹としているところだけど、今日は違った。


 なんたって、僕の隣にはえいちゃんがいるんだ。僕のただ一人の友達――


 それにしても、友達、か。今改めてその言葉の意味を、響きを確かめるように何度も頭の中で反復する。

 友達。

 う~ん、なんて素敵な響きだろう。先輩と並んで歩きながら、友達と二人で登校できる喜びを噛み締めていた。


「今日はいい顔してるわよ将太朗」

「え、そうですか?」

「そうよ。昨日の朝、公園で見かけた時は表情が死んでいたもの。でも今、階段を降りて私に挨拶をしてくれた時の顔は、まるで別人みたいに生き生きとしていたわ」


 生き生きとした表情、か。元々僕は喜怒哀楽をあまり表に出さないタイプだから意識してはいないけど、先輩が言うのだから昨日は余程酷い顔だったんだろうなぁ。


「昨日はよく眠れた?」

「あ、はい」

「朝食はちゃんと食べてきた?」

「いや、あんまり。食欲が無かったから……」

「ダメじゃないの。朝きちんと食べないと、ぶっ倒れちゃうわよ」

「先輩、うちの母さんみたいなこと言うんですね」

「そうなの? きっとおばさんも本気であんたの事を心配してるのよ。もしかしたら将太朗が学校でいじめられてることにも気づいてたりして」

「いや、それはさすがに無いと思いますけど……」

「わかんないよ。親ってね、我が子の些細な変化には結構敏感だったりするもの。さすがにいじめられてるとは思わないまでも、最近将太朗の様子がどこかおかしいとは思ってるんじゃない? 言葉には出さないけどそれで心配してるのかもよ」

 それはあるかもしれない。


「あのさ、将太朗はいじめられてること、両親や先生に知られたくないんだよね?」

「はい、絶対に知られたくないです」

「それはどうして? 心配かけたくないから? それとも告げ口したことがクラスの奴らにばれるのが怖い?」

「それもありますけど……」

「なに?」

「……やっぱり恥ずかしいから、ですかね」

「どうして恥ずかしいと思うのかしら……?」

「自分でもよくわかりません。ただ、なんていうか、自分の日記を他人に回し読みされるような感覚があって――」

「……日記を他人に?」

「はい。それに両親や先生に打ち明けたとしても、自分の言ったことを信じてもらえないかもしれないとか、逆に自分が叱られてしまうんじゃないかとか、そんな風にも考えてしまうんです。だってそもそもいじめられるキッカケになったのは自分が起こした事件なわけだし……」

「……」

 歩きながら先輩は、僕が言ったことについて真剣に鑑みている様子だった。

「私は、そんなことは無いと思うけどね」先輩は言った。

「そうでしょうか」

「なんでもかんでも悪い方に考えすぎよ。あんたはいじめの被害者なんだから、もっと有効的に被害者アピールしなくちゃ。自分が元凶だ、なんて思ってるから駄目なの」


 それからしばらく、僕達は無言で歩き続けた。けどこの沈黙は決して気まずいものではなくて、隣にあのえいちゃんがいるという事実が僕に安心感をもたらしてくれた。


 だけど、先輩と二人きりのこの有意義な時間も、もうすぐ終わってしまう。

 幅の狭い住宅地の道路を抜け、騒がしい大通りを歩いてゆく。登校途中の同校生の姿もちらほら見かけるようになってきた。


 あと五分も歩けば学校に着く。僕は、おととい校舎裏で気まずい別れ方をした水川さんのことを考えていた。

 水川さん、きっと怒ってるだろうな。あんなひどいことを言ってしまって合わせる顔が無い。


 僕は怖かった。ただ嫌われるだけならまだいい。だけどもし、北条や真弓田と同様に大好きな彼女にまで敵意を向けられてしまったら? そう思うとたまらなく怖い。


 今日もし彼女と話す機会があったら謝ろう。

 でも謝るったって、一体なんて言って謝ればいいんだろう? 

 もう口を聞いてくれない可能性だってあるけど……。


 うつむき歩きながら、僕は頭の中で水川さんへの謝罪の言葉を考えていた。あれこれ悩んでいると、隣を歩く先輩が急に僕の顔を覗き込んできた。

「どうしたの?」

「え?」

「思いつめたような顔して……。学校行くのがそんなに怖い?」

「はい……」と、先輩の問いかけに頷いてみたが、正直に言うと、今はクラスのいじめよりも水川さんの事が気がかりだったんだけど、それについては黙っていた。もし話したら、「どうしてそんな酷いこと言ったのよ。あんたって最低ね」なんて言われて、先輩からも軽蔑されてしまうような気がしたんだ。だからおとといの校舎裏での僕と水川さんとのやり取りについては秘密にしておこうと思った。

 きっとそのほうがいい。


「私も、できれば教室まで付いて行ってあげたいけど、さすがにそれは嫌?」

「はい」クラスの連中と乱闘騒ぎにでもなったら大変だ。僕は小学生の頃から喧嘩っ早かった先輩の性格をよく心得ていた。

「もし将太朗が望むなら、私がこれから教室に乗り込んで行って北条と真弓田をボコボコにしてやるのもいいんだけど、ダメ?」先輩は真顔でこんなことを聞いてきた。ダメに決まってるじゃないか。

「ダメですよ、そんなの! 先輩、怪我しちゃいますよ」

「あら、私がケンカ強いの忘れたの?」

「そういう問題じゃないです。女子中学生が暴力とか振るっちゃダメでしょ」

「友達の為なら自ら暴力を振るうこともいとわない心優しい月島先輩の心情も少しは汲んでほしいわ」

「確かに先輩はケンカが強かったのはよく覚えてます。僕もよく泣かされましたからね。でも、それは小学生の頃の話じゃないですか。相手が女子ならともかく、中学生の男子相手にケンカで勝てると本気で思ってるんですか?」


 僕がそう問いかけると、先輩は黙りこくってしまった。


「先輩?」

「……」無反応。


 もしかして、また怒らせてしまったかな?

 僕の為に暴力を振るうこともいとわないと言ってくれた先輩に対して、今の僕の発言は少し配慮を欠いていたかもしれない。

「先輩、怒ってます?」僕は恐る恐る尋ねた。

「……別に怒ってはいないわ。あんたの言う通りだと思ってね。そうよね、いくら私がケンカに強いとは言っても、相手が中学生の男子じゃ少し分が悪いわね。ごめんなさい、考えが浅かったわ」

「い、いえ……」少しどころか、かなり分が悪いと思う。だけど先輩は今でも変わらず、自分の強さに自信を持っているようだったので、プライドを傷つけてしまってはいけないと思い、僕は黙っていた。


「確かに素手のケンカでは勝てないかもしれないけど、武器を装備すれば私だって相手が男子でも互角に戦えるんじゃないかしら?」

「ぶ、武器? たとえばどんな?」

「え~と、そうね。たとえば棍棒的な武器とかさ。釘バットなんてどうかしら?」

「そんなの素手で戦うよりも、もっと危険ですよ! てゆうか、それで相手にケガでもさせちゃったらどうするんですか!」


 釘バットって戦うだなんて、いくらなんでも過激すぎる。女子中学生の発想とは思えない。


「いいじゃない、ケガさせたって。だって悪いのは向こうなんだし」

 先輩はあっけらかんとした顔でそう言った。「何か問題でもあるの?」とでも言いたげだった。


 怪我させても構わないという発言を聞いて僕は、直情的で喧嘩っ早い先輩の性格が、十五歳になった今でも小学生の頃と全く変わってないんだなぁ、と改めて実感し、僕の心に心配の種が芽吹いた。


 小学生の頃の先輩は本当にケンカが強かった。水泳を習っていたので筋力も結構あるし、なにより先輩には相手が誰であれなんであれ、一歩も引かない強靭な精神力と信念を持ち合わせていた。だけど、その強さは直情的過ぎて加減を知らない。小学生の頃、先輩は男子とケンカをして相手を病院送りにしたことがあった。


 確かあれは先輩が小学五年生の時。なんでも先輩のクラスにとても乱暴的な男子がいて、そいつが先輩の友人女子が図工の授業で一生懸命作成した粘土細工をふざけて破壊したらしい。その女子は号泣。

 友人の涙を見て激高し、正義の使途と化した先輩はその男子に飛び掛かり、二人は取っ組み合いのケンカを繰り広げた。さらにエキサイトした先輩は、たまたま近くにあった図工の授業で使用する彫刻刀を武器にして振り回し、その相手の男子を攻撃。その攻撃が見事相手の頭にクリティカルヒットし、昏倒、流血。救急車で病院に運ばれたそうだ。

 その男子生徒は頭を三針縫うケガを負ったらしい。


 僕はその現場を実際に見たわけじゃない。

 なのになぜ、こんなに詳しく事件のあらましを知っているのかと言うと、少し後になって、この事件の加害者である先輩本人からその時のことを聞いたからだ。

 先輩は英雄譚でも語るように誇らしげに、そして雄弁と物語った。その口調にも、そして表情にも、後悔や罪責の念などは一切感じられなかったのを今でもはっきりと覚えている。


 僕が、「えいちゃん、どうしてそんなことしたの?」と聞くと、先輩は――

「使命感に駆られて行動したのよ。でも、今回はちょっとやりすぎちゃったみたいね」と言って、無邪気にアハハと笑ったんだ。


 さっきの話を聞く限り、先輩の攻撃的な性格はあの頃と全く変わっていない。

 もし先輩とクラスの誰か、それこそ北条君や真弓田さんあたりと衝突でもしたら大惨事になるだろうということは予想できた。

 先輩が僕の教室で釘バットを振るうような展開にならない様に注意しないといけない。



 僕達は、校門前の横断歩道で歩みを止めた。校舎はもう目と鼻の先だ。登校してきた生徒達は皆、何のためらいもなく、悩みごとなんか何もないような気楽な顔で校門をくぐって校舎の中へと入っていく。その様子を僕は無感情に眺めていた。


 あっという間だったけど先輩と二人での登校は楽しかった。だけど、それももう終わりだ。この目の前にある歩行者信号が青になり、横断歩道を渡る。そして校舎に入れば、またいつものように憂鬱な学校生活が始まるんだ。


 先輩は横断歩道の信号が青に変わるのを待ってる間にも、しきりに武器の使用について、これは妥当だと熱弁していた。

「釘バットがだめなら、どんな武器がいいと思う?」無邪気な子供のような顔でしつこく聞いてくる先輩だった。

「どんな武器でもダメですよ。だいたい先輩は昔から――」

「あ、内海君じゃ~ん」


 信号待ちをしている僕ら二人の後ろから、聞く者を不快な気分にさせる声が掛けられた。後ろを振り向いて確認するまでもなく、その声の主が真弓田であることはわかっていた。いつの間にか僕らのすぐ後ろに北条と真弓田が立っていたんだ。

 恋人同士、仲良く二人で登校というわけか。


「おはよう、内海君。もう体調は大丈夫なのかい?」そう声を掛けてきたのは北条。いかにも僕を心配してるような口振りだけど、本心からそう言っているわけではないことは、そのいやらしい表情を見れば明らかだった。

「うん、もう大丈夫……」

「先生から内海君が体調崩したって聞いて、みんなで心配してたんだよ~。でも元気そうで安心したわ」と、真弓田。まったく、いけしゃあしゃあとよくそんなでたらめを吐けるな。


「……」

 そして二人の視線は、僕の隣にいる月島先輩へと向けられる。北条も真弓田も、まるで使用方法のわからないアイテムでも発見したみたいな顔で先輩を眺めていた。

「内海君、そちらの女性は?」北条が聞いてきた。

「あ、僕の友達……」

 僕がそう答えると二人はとても驚いた顔を見せた。僕に友達――それも可愛い女の子の――がいるなんて思いもよらないことだったんじゃないかな?


「へぇ、内海君、友達なんていたんだぁ……」意外そうに僕と先輩の顔を交互に見比べている真弓田。するとここで、それまで黙っていた先輩が口を開いた。

「ねえ将太朗、この二人は誰? あなたのクラスメイト?」と、聞いてきた。

「あ、はい、同じクラスの北条君と真弓田さんです」僕は言った。


 それを聞いて先輩は「ふーん」と、だけ口にして納得したように軽く頷いた。


 先輩は一見静観している様子だったけど、その瞳には、長年にわたって追い続けてきた仇敵をついに発見したかの如く、喜びと憎悪が混ざり合ったような狂気の色が宿っているのを僕は見逃さなかった。


 これは、まずいぞ……。


 先輩の攻撃的な性格を鑑みて、暴力事件などが起こらないように細心の注意を払って行動しないといけなかった。なのに僕は、うっかり北条たちと先輩を引き合わせてしまった。とんだへまをやらかしてしまったぞ。どうする?


 そんな僕の心配なんて知る由もなく、真弓田がへらへらと薄ら笑いを浮かべて一歩前に出る。いつもの調子で先輩に話しかけた。


「どうも~、はじめまして。私、内海君のクラスメイトで真弓田エリといいまぁす。まさか内海君に女子の友達がいるなんて驚いたわ」

「……」

「ねえ、名前はなんていうの?」

「……」先輩は無言で真弓田を見据えている。

「あ、あの、聞いてる?」

「ええ、聞いているわ。ごめんなさいね、ちょっと考えごとをしてて……」

「……?」真弓田は怪訝そうな目を先輩に向けている。


「はじめまして、真弓田さん、それに北条さん。私は三年四組の月島英子と申します」先輩は一歩前へ出て、優雅に、そして実に丁寧な口調で二人に向かって挨拶した。

「え、三年生?」真弓田は驚いた様子だった。

「ええ」

「ふーん、上級生だったのね……」

 真弓田がぽつりと口にしたこの一言が口火となった。


「そうよ、上級生よ。あなた達の先輩よ。あなた達より偉いのよ。そんな人生の先輩である私に向かって、あなたさっきからどうしてタメ口を聞いているの?」

「へ?」


 まさか叱責されると思わなかったのか、真弓田はぽかーんと口を半開きにして「なんでわたし怒られてるの?」とでも言いたげな表情で立ち尽くしていた。それは何ともまぬけな表情だった。


「は? 人生の先輩? 何バカなこと言ってんの? 私たちとたったの一年しか変わらないくせに」真弓田は怒りをあらわにして言った。

「ああやだ、なんて態度が悪いのかしら! あなたねえ、目上の人に向かってその口の聞き方は無いでしょう。一体どういう教育を受けてきたの? もう一度小学生からやり直した方がいいんじゃない?」

「な、なによ! あんた、あたしにケンカ売ってんの?」真弓田の顔が激しい怒りでたちまち紅潮していく。

「ケンカを売る? 何を言っているのかしら? 私はあなたに、目上の人に対しての口の聞き方がなってないとちょっと咎めただけじゃない。何故それがケンカ云々の話になるのかしら。曲解も甚だしいわ。もう、これだから知的水準の低い人間と会話するのは嫌なのよ。バカは気が短いって言うしね」

 先輩はうんざりしたように言った。


「バ、バカ? このあたしをバカって言ったわね!」

「ええ、言ったわ。バカのあなたにも理解できるように安直でわかりやすい形容をしたつもりだったけど、より正確に言うなら低能だとか、愚鈍って言った方が表現としては適切かしらね。こっちの方があなたみたいな愚か極まる人間に最もふさわしい形容だと思うんだけど、どうかしら?」


「せ、先輩……」

 なんてことを言うんだ。僕はこの場にいるのが恐ろしくなってきた。わざわざ真弓田を怒らせるようなことを言うなんて……。いっそのこと、どこか安全な場所に避難したい気分だった。


 でも――


「さっきから聞いてりゃ人のことをバカだの低能だのって言いたい放題言ってくれちゃって、初対面の人間に平気でそういうことを言えるあんたも、相当性格が捻くれてるわ!」真弓田が怒鳴った。

「勘違いしないでちょうだい。私はあなたの知的レベルに合わせて会話しているだけよ。くだらない人間と接する時、礼儀正しくする必要は無いという思想を持っているの。真弓田さん、あなたに理解できるかしら? 相手の知的水準に合わせて言葉を選ぶのってかなり精神的な負担を伴うものなのよ。まぁ、低能のあなたには想像もできないでしょうけれど」

「……!」

 真弓田は怒りのあまり言葉を発するのすら忘れているのか、真っ赤な顔で先輩を睨めつけている。

 そんな真弓田とは対照的に、まるで汚物でも見るような冷淡な目つきで真弓田に一瞥をくれる先輩。

 まさに一触即発といった感じだった。さらに先輩は真弓田を挑発するように続ける。

「なあに? 何か言いたい事でもあるの? 言ってごらんなさい。でも、正直に言うとあなたとはもう口も聞きたくないんだけど。これ以上あなたみたいなあんぽんたんと喋っていると、毒気に当てられてしまいそうだから」

「い、いい加減にしなさいよ、あんた! 先輩だからって言っていいことと悪いことがあるわ。それ以上私を侮辱するとただじゃおかないわよ!」

「ただじゃおかない、とは要するに暴力に訴えるということ? 仕方ないわね、いいでしょう。ケンカはあまり好きじゃないけれど、どうしても私と戦いたいと言うなら相手をしてあげるわ。態度の悪い後輩にはキチンとしつけをしてあげなくてはね」

 先輩はもっていたカバンを地面に離し、こぶしを握り締めてボクサーのように両腕を顔の前にもってきた。完全に戦闘モードに入った様子だ。

「トッシー、これ持ってて」

 真弓田も、持っていたカバンを後方にいた北条に放り投げた。二人とも本気で戦うつもりなのか? 何とか二人を止めないと、でも、どうしたらいい?


「エリ、少し落ち着けよ……」

 と、ここでそれまで二人のやり取りを傍観していた北条が二人の間に入って仲裁し始めた。

「トッシー、邪魔しないで。この女一発ぶん殴ってやんなきゃ気が収まらないの」

「何言ってんだよ、少し頭冷やせ。いいから周りをよく見てみろよ」

「え?」


 いつの間にか僕らの周りには観衆が出現していた。登校途中の生徒達が足を止めて、この騒ぎは何事かとみんなこちらを眺めていた。


「女のケンカだってよ」

「二人とも結構可愛いな」

「ねえ、先生呼んできた方がいいんじゃない?」

「おい、余計な事するなよ」

「女って怖え……」


 真弓田は周囲を見回し、今になってやっと自分たちが見世物状態になっているのに気付いたのだった。

「……」


 珍獣でも眺めるような好奇の視線が注がれているのに気付いて我に返ったのか、急速に戦闘意欲が失われていっている様子が見て取れた。

「ほら、行こうぜエリ。ケンカなんて馬鹿な真似はよせよな」

「う、うん……」


 すると、月島先輩が不満そうに声を荒げ言った。

「なに? 戦うんじゃないの? そうか、みんなの前でボコられるのが恥ずかしいから逃げるのね。そうなのね?」

「あんた、バカじゃないの? こんなに人が大勢いるところで何を大声で騒いでんのよ。やだやだ、恥ずかしい。行きましょトッシー」

「ああ……」


 信号はとっくに青に変わっていた。横断歩道を渡って、その場から去ってゆく北条と真弓田の背中に向かって、さらに先輩は容赦なく罵声を投げかける。

「逃げたきゃ逃げればいいわ! だけど今度会う時までに、もう少しちゃんとした口の聞き方を学習しておきなさい。あなたのその低能丸出しの喋り方は、聞いてるだけで不快極まりないわ!」

 真弓田が立ち止まり、振り返って憎々しげに先輩を睨みつける。

「あんたねぇ……!」

「おい、だからやめろって。挑発に乗るなよ!」北条が真弓田の肩を掴んで必死になだめる。するとここで北条と僕の目が合った。

「内海君、君も黙って見てないでその人を黙らせてくれないか!」

 北条君はこの騒ぎをただ傍観しているだけの僕に腹を立てている様子だ。


「せ、先輩、もう止めましょうよ。これ以上真弓田を怒らせるのはまずいですって!」

「……」僕の言葉も全く届いていないかのように、先輩は相変わらず真弓田に冷徹な視線を浴びせている。

「月島さん、私、今回はこれで引き下がるけど、あんたを許したわけじゃないから。そのうち必ず私を侮辱したことを償ってもらうよ。覚えておいてね!」


 真弓田は邪悪な笑みを浮かべてそう言い放ち、北条と共に校門をくぐって学校内に入っていった。そして、僕らの周りに集まっていたやじ馬たちも、ケンカが勃発しなかったことに対して口々に不満の声を上げつつ、校舎内へと消えてゆく。


「ふん、何が覚えておいてね、よ!」先輩は吐き捨てるように言った。

「あの真弓田って女、笑っちゃうくらいにいかにもバカ女って感じのバカ女だったわね。きっと成績も悪いんでしょうね」

「……」

「ああいうバカっぽい女を彼女にしてしまうあの北条って男も、きっと人を見る目が無いのよね。確かに将太朗の言った通り、顔はそこそこかっこよかったけど、私はあの気取った態度が鼻についたわ。バカ女と気取り屋のカップルか、愉快な組み合わせじゃない」

「……」

「やったわ将太朗、あんたをいじめる犯罪者どもに精神的なダメージを与えてやったわ。これで少しは気が晴れたでしょう?」先輩は満足げに言った。

「……」

「ちょっと、将太朗。何でさっきから下向いて黙ってるの? 一体どうしたっていうのよ?」


「先輩……」

「なあに?」

「まずいですよ、これ……」

「まずい? なにが?」

「完全に真弓田さんと北条君を怒らせちゃったじゃないですか」

「うん、怒ってたわね」

「どうするんですか……」

「どうするんですかって言われてもねぇ。何か問題あるの?」

 まるで他人事みたいな言い草だ。まあ、先輩にとっては他人事に違いないんだけど、僕にとっては由々しき事態だ。


「先輩は真弓田さんや北条君とは学年もクラスも違うし、接点はほとんど無い。でも僕は彼らと同じクラスなんですよ! 真弓田さんのあの怒りはおそらくこの後教室で僕に向けられるんです。そんな僕の身にもなって考えてくださいよ!」僕は珍しく声を荒げた。

「うーん、確かにそうだわ。さっきのあの様子じゃあ、今後ますますいじめは右肩上がりにエスカレートしていくかもしれないわね」先輩はうんうんと頷いている。


 何を頷いているんだ。まったく冗談じゃないぞ!


「なにひとりで納得してるんですか! 僕はこの後どうすればいいんですか。余計に教室に行きづらくなってしまいましたよ!」

「じゃあ、どうする? 帰る?」

「そんなことできるわけないでしょ!」だけど、できることならそうしたかった。


 僕が声を荒げて怒ると、先輩は腕を組み「う~ん」と唸って、なにやら考え込んでいる風だ。

「先輩?」先輩は声を掛けるのもはばかられるような厳しい表情でぶつぶつと呟きながら何か考えている。


 僕がそばによって「あの……」と声を掛けようとした時、先輩はようやく口を開いた。


「やっぱり強引にでもぶん殴って、私に対する恐怖心を植え付けてやるべきだったわね。散々痛めつけて、泣かせて、血反吐を吐かせて、そして今後将太朗に手を出したら許さないと脅しつけてやるの。ああ、本当にそうすればよかった! いじめの黒幕である真弓田をここで逃がしてしまったのは失敗だったわ。悔しいわ、役に立てなくてごめんなさいね、将太朗……」

 先輩は後悔をにじませてそう言った。


 一滴の血も流れずに済んだのは、むしろ幸運だったのかもしれない。


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