魔泉戦争
あるところに国があった。
国といっても、町は1つしか無い都市国家だ。その国は高い城壁に囲われ、壁の内に暮らす人々は決して壁の外に出ることはない。何故なら壁の外は荒れ果て、凶悪な魔物が跳梁跋扈する危険地帯だからだ。唯一の例外は空である。人々は自ら開発した魔導船によってささやかな自由を手にしていた。尤も、空を移動できたところで地上に降りることはできない。それほど壁の外を支配する魔物は強力なのだ。そのため、魔導船の利用方法は都市国家間の移動に限られた。
しかし、壁の外に出られない生活が不自由という訳でもなかった。都市の中央に建つ神殿、その中央に魔泉と呼ばれる拳大の宝玉が設置されている。魔泉から供給される魔力は時に水となり人々を潤し、時に明かりとなり人々を導き、時に肥料となり食物を育て、人々を満たした。この世界に存在する都市国家は例外なく、魔泉によって生活の基盤を構築していた。
あらゆることを可能とする魔泉の魔力によって人々は満ち足りた生活を送っていた。しかし、その生活は徐々に崩れ去ることになる。人口の増加とともに魔泉から供給される魔力では賄えなくなったのだ。文字通りあらゆるものが。人々は貴重品――生活する上で必要ではないものを、望まないことでその危機を脱しようとした。しかし、それでも魔力の供給は足りなくなる。そこで続いて配給制を取り入れた。しかし、それでも足りなくなる。最終的に多くの都市国家が辿り着いた答えが、他の都市国家から魔泉を奪い取るというものだった。
その青年は、上空の強風を受けて大きく揺れる魔導船の船内で、静かに待機していた。――いや、静かに待機しているのは、その青年だけではない。青年の周囲には、同じくらいの年頃の男達が、所狭しと魔導船の無骨な床に腰を下ろしている。皆、一様に黒い防具を身に付け、手には出発前に各々が選んできた武器を持っている。胸に手を当て心の内で神に祈りを捧げる者、家族や恋人の姿絵を見つめる者、武器の手入れをする者、行動は人それぞれだが、口を開く者は誰一人としていない。
それもそうだろう、と青年は思う。
今、敵地に向かっているこの魔導船に乗っている者は、徴兵された兵士ばかりだ。1か月程、訓練を受けたといっても、ほとんど降下訓練ばかりで戦闘訓練などほとんど受けていない。青年が配属された第1降下部隊は、敵の都市国家の中心部にある神殿に降下し、魔泉を奪取することが任務だ。敵の攪乱と魔導船発着場の確保を任務とする陽動部隊よりは、遥かに危険度の低い任務だと説明を受けたが、青年を含む多くの者は自分たちも囮で、本命は正規兵のみで構成された第2降下部隊であることに気付いている。
自分たちはこれから死ぬ。
この場の重い空気から多くの者がそう感じていることが分かる。青年も他の隊員達も、勿論死にたくない。しかし、余程状況が有利に進まない限り厳しいだろう。先程まで部下たちに活を入れようと騒いでいた、この部隊で唯一の正規兵である隊長も今では黙って武器の手入れをしている。
未練なく逝ける。
青年はふとそう思った。青年に恋人は居らず、さらに、10年程前に彼が住む都市が他国の襲撃を受けた際に、青年は家族を失っているからだ。
その日は良く晴れていた。
僕はいつも通り父さんの畑仕事を手伝いに出かける。午前中は学校に行き、午後は畑仕事を手伝うのが日課なのだ。畑仕事といっても向かう先は地下だ。都市国家では、その限られた土地を効率よく利用するために、畑は都市の地下に造られており、農家と呼ばれる畑の管理を任された家が代々決められた畑を管理するのだ。
僕の家が管理している畑は地下7層1区と呼ばれる畑で、主に野菜を育てている。
地下には都市の各所にあるターミナルから昇降機に乗って向かう。昇降機から降りるとそこは地下だというのに、地上のように明るい。昼間は魔光と呼ばれる、魔力から作られた擬似太陽光が天井から降り注いでいるからだ。
僕が畑仕事で最初に任されている仕事は、隣の2区を管理する家の女の子と一緒に、管理室に行き魔力肥料の供給申請を出すことだ。畑の作物には1日2回、朝と昼に魔力肥料を与える。その昼の方を任されているのだ。それが終われば後はずっと収穫作業を続けるだけだ。魔力肥料を与えられた作物は、1日程度で収穫できる。
おとぎ話の世界では太陽の光と水だけで作物を育てていた――そんな話を隣の畑の女の子としながら、収穫作業をしているとあっという間に帰る時間になった。
天井から降り注ぐ魔光が夕焼け色に変わってきたらその日の作業は終わりだ。昇降機で地上に戻り家に帰れば、母さんが美味しい料理を作って待っている。今日は学校でこんなことが――とか、となりの畑の女の子とこんな話を――なんて話をしながら夕飯を食べたら、ベットに入り次の日の朝、朝食の匂いにつられて目を覚ます……筈だったが、トイレに行きたくなって夜中に目が覚めてしまった。部屋の窓から外を見ると真っ暗だった。神殿のある方に目を向けると赤紫色の光の柱が天高く伸びているのが見える。魔泉から発せられる光だ。
赤じゃないってことは、まだ日付は変わっていないな、と思いつつ僕はトイレに向かう。そこで不意に外から怒号と悲鳴が聞こえてきた。
「そろそろ降下地点です。準備を始めてください」
船室の隅に取り付けられた送声機を通して、魔導船の操縦士からの声が届く。青年以外の部隊の隊員達にも当然聞こえていて、各々準備を始める。尤も、準備が必要なのは主に心なのだが。
隊長の指示に従って、隊員達が魔導船後部にあるハッチの前に3列に並び始めると、青年もベルトに括り付けてある袋の中から、中が空洞になっている玉を取り出し、真ん中の列の中ほどに並んだ。しばらくしてハッチがゆっくり開き始めると、青年の位置からでも外に広がる漆黒の闇が見えた。青年たちが来ている防具が黒いのも、夜陰に紛れるためである。
ハッチが開き切ると同時に隊長が飛び下り、隊員達も次々と後に続く。青年も自分の順番が来ると、左手で腰に差した剣の柄を抑え、躊躇いなく空中に身を投げた。眼下には決して小さくない敵の都市が一望できる程の高さである。
どうせ地上付近までは重力に身を任せるだけだ。
そう思った青年は敵の都市を観察する。北の方は明かり一つ見えない。ほとんどの住人が寝ているのだろう。そこから南に視線を移動させれば、自分たちのほぼ真下にある神殿から赤紫色の光の柱が上がっていが、相変わらず神殿の周りは寝静まっているようだ。神殿から出る光で時間が分かるのは、どこの都市国家も同じなんだなと思いつつさらに、南に視線を移動させると城壁付近が異常なまでに赤く照らさせているのが確認できた。魔力による照明は基本的に赤い光は放たない。陽動部隊が家屋に火を放ったのだった。
青年が都市を観察している間にも地面が迫ってきている。青年が真下に視線を戻すと、最初に降下した隊長が設置したであろう誘導灯が見えた。青年は誘導灯を目安に自分の高度を予測すると、適当なタイミングで右手に持っていた玉を砕いた。すると、青年の体がふわりと減速し、そのまま重力が極端に低くなったかのように、ゆっくりと着地する。着地した瞬間、一気に重力が戻ってくるような感覚がして、青年は思わず膝をつく。左右を確認すると同じタイミングで飛び降りた2人も無事着地できたようだった。そのことを確認すると、次に降下してくる人のためにすぐにその場を離れる。魔導船は滞空できるため、大体同じ場所に降下することが可能なのだ。
全員が降下したことを確認すると、第1降下部隊は移動を開始する。勿論、行先は神殿だ。当初の目的通り神殿の裏手に降下することに成功した彼らは、夜陰に紛れて静かに移動し、誰にも気付かれることなく神殿の裏口に辿り着く。遠くからかすかに悲鳴や怒号や剣戟の音が聞こえてくる。神殿の裏口には警備が2人しかいない。まだ増援が到着していないのか、もしくは陽動部隊の鎮圧で手一杯なのだろう。
部下を死角に待機させ、隊長が単身飛び出す。一瞬で間合いを詰めると1撃目で1人目の首を落とす。さらに、その首が地面に着く前に、2撃目が同僚の異変に気付き動揺する2人目の首を襲う。
人の生首などと言うものを初めて見て、ほとんどが呆然としている隊員達に対して、隊長が身振りで集まるように指示する。神殿への侵入方法は事前に幾つか検討されていたが、隊長は裏口の扉を破壊して侵入する方法を選んだ。事前に想定されていたものよりも扉が薄いものだったためだ。
大斧や戦鎚を持ってきた隊員に指示し裏口を破壊させると、彼らに裏口に残り退路を確保するよう命じ、他の隊員を引き連れて全力で走り出す。彼らの都市国家の基準で考えれば、神殿内には武装神官が居る筈だ。教会の神父などとは異なり武装神官となった者は一生、神殿から出ることはないが、魔泉を守るために地獄のような修練を積み加護を得た、敵にすると厄介な相手だ。この神殿にも武装神官がいるのなら、裏口を破壊した音で十中八九気付かれただろう。尤も、それ以前に気付かれていた可能性も十分にある。どちらにせよ、隊長以外は全員が徴兵兵士である第1降下部隊では彼らに敵うはずもない。できるだけ早く魔泉を手に入れて脱出することが、生き残る唯一の手段だ。部隊後方では既に付いて来れなくなった隊員達が脱落しているが、彼らは置いていくしかない。
他の隊員達と同様に神殿の中心部を目指して走る青年は、まだ脱落していなかった。最初の内は走りながらも、接近してくる敵はいないかと警戒していたが、今ではその余裕も無くなっている。周りの隊員達も最早そんなことは気にしていないだろう。索敵に関しては隊長に期待するしかない。第1降下部隊はほとんど降下訓練しか受けていない。少し受けた戦闘訓練にしても、基礎体力なんてものは放り出していきなり武器の扱い方を教えられた。徴兵される前は一般市民でしかなかった青年に、兵士並の体力は期待できない。
心臓が体内で暴れまわって口から飛び出しそうだ、と青年は思った。
重い装備を身に付けて走っているのだ、先程から何度も立ち止まってしまいたいという考えが頭をよぎる。しかし、ここで立ち止まるわけには行かない。神殿内でこの集団からはぐれてしまえば、間違いなく死ぬだろう。
これはど追い詰められた状況で走ったのは、国が侵略を受けたとき以来だ。
激しく玄関の戸を叩く音に、僕が慌てて扉を開くと、そこには隣の家のおじさんが立っていた。
「どこかの国の軍隊が攻めてきた! 早くご両親を起こして逃げるんだ!」
それだけ、言うとおじさんは街の中心部――神殿の方に逃げていく。僕は慌てて父さんと母さんを起こすと、一足先に家の外に飛び出す。家の前の大通りを神殿に向かう多くの人が駆けて行く。人々が逃げてくる方を見ると、普段は漆黒の闇に宝石を散りばめたように星が輝く空が、燃えていた。妹を抱いた父さんと母さんも家から飛び出して来るとその光景に気付き、一瞬呆然とする。しかし、直ぐに気を取り直して神殿に向かって家の前の大通りを走り出す。僕もはぐれないようにと、母さんに手を握られて走り出した。背後からは逃げ惑う人々の悲鳴や怒号、剣戟の音が僕を追い掛けてきて恐怖を煽る。
神殿に行けば大丈夫。武装神官さまや魔泉の魔力が守ってくれる。
そう自分に言い聞かせて恐怖と戦いながら走った。
ずいぶん長いこと走ったように感じる。まだ、神殿には辿り着かない。僕の家は城壁の近くにあるのだ、神殿までは遠い。神殿に近付くに連れて大通りを走る人の数は増え、何度も母さんとはぐれそうになる。僕が神殿に近付くよりも早く、背後から迫る死が僕に近付いて来る。そんな錯覚に囚われる。
そう感じているのが僕だけでは無いことに、転んだ人を踏みつけ、前の人を突き飛ばしてでも先を急ぐ周りの人を見て気付く。
その時、突然、誰かに突き飛ばされる。母さんと繋いでいた手が離れる、僕の名前を呼ぶ母さん声が人の波に押されて段々遠ざかっていく。幸い突き飛ばされた衝撃で路地に飛び込んだことで、逃げ惑う人に踏まれることはなかった。
心細さのあまり泣きそうだ。泣きたい。でも、泣かない。お兄ちゃんだから妹を守らないといけないって、父さんが言ってたから。父さんの言葉を思い出すと、不思議と勇気が湧いてきた。
とにかく、神殿を目指そう。幸い路地を使って神殿を目指す人は少なく、1人でも行動できそうだ。
第1降下部隊は遂に神殿のついに中心部近くまで辿り着いた。目の前にある扉を通過すれば、魔泉のある部屋だろう。隊員達は最後の力を振り絞り、部屋へ飛び込む。
青年は部屋へ飛び込むと同時に、膝をつき荒い息を整えようと深呼吸をする。周りの隊員達も同じようなものだ、中には寝転んでいる者や吐いている者さえいる。
こんな状態で、魔泉を奪取して帰還できるのか?
そんなことを考えた青年の耳に聞きなれない声が届く。
「随分とお疲れのようですね」
声のした方に視線を向けると、白いローブを来た集団が見えた。手には銀色に輝く剣を持っている。フードを被っているため顔は見えないが、その正体など第1降下部隊の隊員達には分かり切っている。彼らの国の武装神官も同じ格好をしているからだ。
待ち伏せされていたのだ。それも第1降下部隊が神殿内を走って移動していることを知った上で、裏口から魔泉までの最短ルート上にあり、かつ魔泉の目前にあるこの部屋で待ち伏せていたのだ。
武装神官達の背後には扉がある。魔泉が安置された部屋へと続く扉だ。しかし、第1降下部隊の隊員達が武装神官を倒してあの扉の先に行くことはできないだろう。
青年の胸に絶望が広がる。かくなる上は、全滅覚悟で武装神官と戦い、第2降下部隊のための囮となるか、今来た道を全力で引き返すかの2択――いや、1択だろう。既に多くの者が立ち上がり、武器を抜きつつも、チラチラと自分たちの後方にある出口を確認している。唯一の救いは武装神官達の方が数で劣っていることだろう。厳しい修練についていけるものが少ないため、絶対数が少ないのだ。
武装神官達が攻撃を開始するのと、第1降下部隊の集団の後方に居た隊員の1人が出口に向かって駆け出すのは同時だった。集団の後方に居たものは出口に殺到し、前方に居たものは武装神官によって切り殺される。唯一、武装神官相手に善戦したのは隊長だったが、それでも、1人切り倒した直後に、複数の剣がその体に突き立てられる。総崩れになった第1降下部隊を相手に、武装神官達は殲滅戦を開始したのだった。
青年は他の隊員よりも一瞬早く行動していたため、集団の中程に居たにもかかわらず、早い段階で部屋から脱出し神殿内を走っていた。背後を振り返り武装神官がいないことを確認すると、止まって呼吸を整えた。闇雲に神殿内を走り回ったため、青年は自分が今どのあたりに居るのか分からなかった。周囲に他の隊員の姿はなく、周りを見渡してみれば、この薄暗い廊下には窓が無かった。等間隔に設置された魔力灯おかげで必要最低限の明るさを保っている。
第1降下部隊はもうだめだ、どうにかして他の部隊と合流しなければならない。
考えれば考えるほど、青年の焦りは募っていった。こうしている間にも敵が迫ってきているかもしれないのだ。そんなことを考えながら廊下の角を曲がると視界に白い物が映る。白ローブを過剰に警戒していた青年は、自身も驚くほどの瞬発力を見せて飛び退く。果たして、そこには青年が警戒していた武装神官の姿があった。今回は待ち伏せではなかったのだろう、相手も青年と同様に飛び退いて距離をとっている。青年の姿を確認すると武装神官はゆっくりと銀色に輝く剣を抜き構える。青年の剣を抜きながら相手の顔を見た。この距離ならフードを被っていても顔は確認できる。
相手の武装神官は青年と同じくらいの年齢に見える。武装神官としては若い方だ。その武装神官が構える剣は心なしか光を放っているように見える。魔泉の加護が働いているのだ。武装神官となると一生外に出ることはできない。外に出れば加護が失われるからだ。その代わり、加護を受けた彼らのローブは刃をはじき返し、彼らの剣は一太刀で人を両断する。
一瞬、武装神官が青年の視界から消える。風のようなその一撃を、青年は本能のままに剣を上げることで奇跡的に防ぎ、鍔迫り合いになる。しかし、あまりにも強い力に青年は今にも膝を折りそうだった。
その時、武装神官の剣の輝きが薄れ、武装神官の顔に動揺が走る。その隙を青年は見逃さなかった。武装神官を押し返し、その胸に剣を突き立てる。本来ならローブにはじき返される筈のその刃は抵抗なく相手の体を貫通する。青年がゆっくりと後ずさり、武装神官の体から剣が抜けると、支えを失った武装神官の体は崩れ落ちる。
刃を人体に突き立てる感覚が生々しく残る手は震え、胃液がこみ上げてくる感覚を感じつつ、青年は先を急ぐ。青年が殺した武装神官は確かに加護を失っていた。神殿の外に出ていない武装神官が加護を失ったということは、考えられる理由は1つしかない。誰かが――いや、第2降下部隊が魔泉の奪取に成功したということだろう。即ち、神殿内に纏まった数の味方が残っているということである。
青年がしばらく神殿の中を走っていると、複数人の足音が聞こえてきた。どうやら、こちらに走ってくるようだ。青年は咄嗟に近くの扉に飛び込み様子を伺う。部屋の前を横切った集団は、間違いなく青年と同じ防具を身に付けていた。青年は慌てて飛び出し、後を追った。
青年が見つけた集団は味方だった。それも、魔泉の奪取に成功し、脱出する途中の第2降下部隊だった。彼らの中には何人か第1降下部隊の隊員も混ざっており、第1降下部隊が武装神官の待ち伏せに合って、潰走したことも把握していた。第2降下部隊が天井から魔泉のある部屋に侵入した時、警備の武装神官は少数しか居なかった。第1降下部隊が本隊だと考えていた武装神官は潰走した第1降下部隊を殲滅するために、神殿中に散らばっていたのだ。第1降下部隊は結果的に囮の役目を果たしていたのだった。
第2降下部隊が出口として選んだのは神殿の裏口だった。神殿の外に出た青年が振り向くと神殿の中心部から煙が上がっているのが確認できた。第2降下部隊が魔泉を奪取後、出口へと移動しながら神殿内に火を放ってきたのだ。青年が燃える神殿を見るのはこれが2度目だった。
僕が、いくつもの路地を抜けやっとの思いで神殿前の広場に辿り着くとそこは、多くの人でごった返していた。どうして、神殿の中に入らないんだろう。僕のそんな疑問は直ぐに解消されることになる。
人混みを抜け、神殿が見える場所まで近付くとそこには、目を疑う光景が広がっていた。僕たちを守り、敵を追い払ってくれると信じていた神殿が燃え上っていたのだ。燃え上る神殿を目にして、その場に居る多くの人が戸惑っている。中には泣き叫ぶ人、怒鳴り散らす人、訳も分からずどこかへ走り去る人もいる。
そんな中、燃え盛る神殿の中から1人の武装神官さまが飛び出して来る。神殿から出てしまったからなのか、それとも別の理由があるのか、その武装神官さまからは神殿の中で見た時に感じるような、神聖さは感じられなかった。その武装神官さまは神殿から飛び出してすぐ地面に倒れこむと、それきり動かない。
広場に集った人は誰も武装神官さまには近付こうとしない、それどころか、暴言を吐く人すらいる。
「こんなことになったのはお前らの所為だ!」
「なんで、魔泉を守り切れなかった! この役立たずが!」
そんな中、広場に集まった人達の後方――神殿から遠い一画で悲鳴が起こる。僕はこの時になって、街に火を放った敵が後ろから迫っていたことを思い出した。神殿に辿り着いた安心感で忘れていたのだ。神殿に辿り着いたら、家族と合流できると思っていたけれど、周りを見る限りそれらしい姿は見えない。探そうにも、敵が来たことによって広場に集まった人は四方八方に逃げ散っていく。その時逃げ惑う人並みの合間から一瞬、悲鳴の上がった一画が見えた。残忍な笑みを浮かべる数人の武装した男、赤い地面に横たわる複数の人、そして、腹を割かれ驚愕の表情を浮かべる父さんの顔。
頭が真っ白になった。思考が纏まらない。どうすればいい。どうして。なんで。父さんが。あんな目に。そんなことない。まちがいだ。見まちがいにちがいない。とうさんをみまちがえるはずない。あんなニつよいトウさんが。ウソだ。しんjつダ。ユメだ。ゲnジツダ。マボロシダ。ホンmのダ。しンじたkナい。うケいrラれnい。
意識が混濁する。何を考えればいいのか、何を考えているのか?
突如として衝撃が襲い、意識が戻ってくる。辺りを見回すとそこは、あの広場では無かった。どのかの路地だ。生暖かい風が吹き抜ける。周囲には燃えている建物がある。どうやら戻って来てしまったらしい。頬を伝う涙と足の痛みが、僕が泣きながら走り回っていたことを教えてくれる。
僕はどうして泣いていたんだ?……そうだ、父さんが……。いや、あの人は父さんにとっても似ている違う人だ。そうに違いない。――そう思っても、目から溢れる涙は止まらない。それどころか、さらに、勢いをまして溢れてくる。
なんでだよっ! あの人はきっと父さんじゃなかったし、僕は母さんや妹を守らないといけないんだっ!
神殿を抜け出した青年達は、神殿の南側――正面入り口側に回り込もうとしていた。魔導船の発着場は街の南東の城壁寄りにあるからだ。そこで魔導船に乗って脱出しなければならない。先程まで神殿前の広場では、陽動部隊の兵士が暴れていたが、今では敵の兵士に鎮圧されている。彼らのおかげで広場の警備が強化されてしまった。神殿近いこの辺りは未だ敵側の方が優勢なのだ。
b青年が広場から目を逸らし、都市の南側を見ると、空が真っ赤に染まっている。それだけで南側が火炎地獄であることは容易に想像がついた。実際、青年の位置からでは良く見えないが、都市の南側では多くの建物が炎に包まれている。
部隊が移動をを開始したため、青年もそれに続く。神殿の西側に隠れて広場の様子を伺っていた彼らは、広場を通ることを諦め、南に広がる市街地へと入っていく。青年が行動を共にしている降下部隊の生き残りの指揮を執っているのは、第2降下部隊の隊長である。彼は今も街の南側で暴れているであろう、陽動部隊と合流することにしたのだ。
隊長を中心に第2降下部隊の生き残りが、隊列を組み敵の居ない道を選んで進む中、青年を含めた第1降下部隊の生き残りは、なんとなく隊長の周りをうろついていた。彼らは正規兵ではない自分たちが、正規兵のような隊列の一部として役割を担って行動する、などと言うまねができないのは分かり切っていた。ならば、最も安全なこの部隊の指揮官であり、かつ、奪取した魔泉を持っている隊長の近くに居ようと考えたのだ。
周囲にある幾つかの建物は燃え上り、その炎が夜の闇を赤く染め上げているため、彼らは昼間のように移動することができた。
青年達が幾つかの大通りを渡り、路地を駆け抜けたところで、辺りに悲鳴が響き渡る。何事かと周囲を見回す青年の目が、数少ない無事な建物の中に人影を捉える。見たところ民家のようなその建物の庭に入り、青年が窓から中をのぞき込むと、部屋の中央で1人の女性が蹲っていた。彼女は小さな女の子に覆い被さるように蹲っている。その周囲には、愉悦の表情を浮かべながら女性に暴行を加える男達の姿がある。彼らが身につけている防具には青年にも見覚えがある。出発前に見かけた陽動部隊が身につけていた防具だ。陽動部隊は正規兵と徴兵兵士の混成部隊であるが、降下部隊と同じように防具は統一されていた。
勝てば官軍などという言葉があるが、これは軍規的にどうなのだろう。などと青年がどうするべきか悩んでいると、すぐ隣に誰かが来た。その人物は、何の躊躇いもなく剣の柄で窓を叩き割ると、怒鳴り声を上げた。
「貴様らッ! そこで何をやっている!…………これは重大な軍規違反だぞ」
隊長だった。窓から家の中を覗き見る青年を不審に思い、近付いて来たのだ。
鬼のような形相の隊長に睨み付けられても、男達は歯牙にもかけない。自分達は陽動部隊だ、降下部隊の隊長の指図は受けない、などと言っている。
男たちの口振りでは、陽動部隊の指揮系統は既に崩壊しているようだった。
隊長がさらに男達を怒鳴りつけようとしていると、表通りで待機していた降下部隊の方から、怒号と剣戟の音が上がる。すぐさま剣を抜いて庭から飛び出す隊長。青年も慌てて剣を抜いて隊長に続く。
待機していた部隊は、前後から挟撃を受けていた。敵の数が多い上に、敵の中には加護を失った武装神官の姿も見える。隊長に敵を近付けさせまいとする第2降下部隊の隊員の猛攻をかいくぐり、1人の武装神官が隊長に肉薄する。加護を失っているとはいえ、武装神官は強敵だ。右手に持った剣を前に向け、接近する勢いのままに隊長を串刺しにしようとする武装神官。しかし、隊長は冷静に片手で持った剣を添えるようにして、相手の剣を受け流すと相手の腹に拳を叩き込んだ。一瞬、武装神官の体が浮き上がるも、直ぐに地面に蹴って後退する。追撃を仕掛ける隊長に向けて左手を突き出し、ニヤリと笑う武装神官。そのローブの袖の中から刃が射出された。体を捻り致命傷を免れた隊長は勢いを殺さず、武装神官の胸に剣を突き立てる。
膝を付く隊長に駆け寄る青年。致命傷を免れたとはいえ、隊長の脇腹の肉は大きく抉られていた。周りを見ればほとんどの隊員が満身創痍だ。倒された味方の穴を第1降下部隊の隊員に埋めさせ、陣形を縮小しながらも敵の猛攻に耐えている。無傷なのは青年くらいだ。
隊長は魔泉を取り出し、青年の手に握らせると、先程の民家の方に青年を突き飛ばした。立ち上がった青年が民家に飛び込むのを確認し、満足げに頷くいた隊長は、立ち上がり、雄叫びを上げる。それに呼応して隊員達も鬨の声を上げる。降下部隊の最後の戦いが始まった。
隊長に突き飛ばされた青年は、家の入り口で呆然と戦いを眺めている、陽動部隊の男達を押し退け、民家に飛び込むと、直ぐに裏口を探して裏通りに飛び出していた。まだ火がまわっていないのか、薄暗い路地に駆け込む青年の背後から、降下部隊の鬨の声が追い掛けてくる。とにかく、都市の南東にある発着場を目指さなくてはならない。左手に握られた魔泉を確認すると、黄色い魔力を放出している。そろそろ夜が明けてしまう。作戦開始から時間が経ち過ぎている。夜が明ける前に発着場に辿り着かなければ脱出は難しいだろう。尤も、陽動部隊が発着場を制圧できていなければ、いずれにせよ脱出はできないが。
発着場へと急ぐ青年の前に剣を持った人の後ろ姿が見える。一瞬敵かと思い身を強張らせるが、よく見れば身につけている防具は陽動部隊のものだ。ほっとして駆け寄る青年は、しかし、再度身を強張らせることになる。その隊員が剣を弄びながら追い詰めていたのは、一般市民と思われる少年だった。
あの光景と重なり、カッと頭に血が上る青年。気付いたときには、その隊員の頭を剣腹で殴り昏倒させていた。顔を上げた少年は泣いているようだったが、青年が敵だと気付いたのか睨みあげてくる。
まあ、無理もないか。
自分を睨み付ける少年をみてそう思った青年は、近付いてくる複数の足音を聞いた。足音だけでは敵味方の区別はできない。敵なら青年が、味方――陽動部隊なら少年が、まずいことになるだろう。そう考えた青年は、左手に持った魔泉をベルトに括り付けた袋の中に入れ、剣を鞘に納めると、泣いている少年の手を握り無理やり立たせ、その手を引いて駆け出した。
僕は、未だに目から溢れ出る涙を止められずにいた。
ここはどこら辺だろうか。大通りならともかく今いるような路地では、自分達の家の近くでない限り正確な位置は分からない。最後に通った大通りは、魔導船の発着場に続く道だった。あの時そのまま、発着場に行けば良かった。あそこは広いから、きっとたくさん人が集まっているはずだ。尤も、あの大通りは墜落した魔導船によって通行止めになっていたが。
あの時、神殿の方も見たけれど、魔泉の光は無く時間は分からなかった。僕たちの生活を無茶苦茶にしたやつらが、魔泉を奪ったということは僕にも理解できた。敵が攻めてきてからかなり時間が経った所為か、道を逃げ回る人の姿はなく、悲鳴もいつの間にか聞こえなくなっていた。遠くから幽かに聞こえてくるのは怒鳴り声だけだ。
みんなどこに行ってしまったんだろう。
幸か不幸かこの辺りは燃えている建物が少なかった。薄暗い路地をふらふらと、しかし、確実に進む。
角を曲がると、人影が目に飛び込んできた。ハッとしてすぐ物陰に飛び込み、様子を見る。路地の先には1人の男が剣を振り上げて立っていた。一目見て敵だと分かった。広場にいたやつらと同じよう格好をしている。すぐ近くだ、見つかったら殺されてしまうかもしれない。男の視線の先には女の子がぐったりと倒れていた。生きているのか死んでいるのか分からない。分かるのは、彼女が隣の畑の女の子だということだけだ。
「やめろぉぉぉぉおお!」
男が剣を振り下ろそうとした瞬間、僕は無我夢中で物陰から飛び出し、男に体当たりしていた。しかし、僕の体当たりでは男はびくともしなかった。僕を見下ろして笑った男は片手で僕を突き飛ばすと、もう片方の手で持っていた剣をしまった。
良かった、もしかしたらいい人なのかもしれない。
そう思った僕の腹をその男が蹴った。体が宙に浮いた。直後に背中に来る衝撃。僕は痛みをこらえて立ち上がると全速力で逃げる。男は笑いながら僕を追い掛けてきた。
追いつかれるたびに蹴られる。追いつかれるたびに殴られる。でも、それで良かった。僕は女の子から男を引き離すことに成功していたからだ。
とうとう足がいうことを聞かなくなって倒れてしまう。今まで僕をいたぶっていた男は剣を抜きゆっくりと近付いてくる。尻餅をついたような体勢で、それでも、男から少しでも遠ざかろうとする僕を見て男は、喜んでいた。男が僕の目の前まで辿り着いてしまった。
あぁ、もうダメだ。
母さんや妹を守ることはできなかった。でも、最後に女の子を助けることはできた。僕は下を向いた。僕を散々痛めつけて、最後には殺そうとしている男の笑顔を見ていられなかった。それに、僕が泣いている顔も見られたくなかった。男にどんなに痛めつけられても泣かなかったのに、母さんや妹を守れなくなると思うと悔しくて涙が出てきた。
ゴンッという鈍い音とともに僕は死……ななかった。
顔を上げると、目の前にはさっきまでとは違う男の人が立っていた。その男の人は見慣れない防具を身につ付けて、魔泉を持っていた――敵だ。その男は、持っていた魔泉を腰のあたりにぶら下がっている袋に入れ、剣もしまうと、僕の手を取って立ち上がらせ、走り始めた。
でも、僕はもう走れない。さっきまで走り回って、全身殴られて、蹴られてもう疲れ切っている。立ち止まってしまった僕を見た男はため息を吐き、僕を無理やり背負って走り出した。敵に背負われるなんて、とても嫌だった。背中の上で暴れてやりたかったがそんな気力はもう無かった。大体この男は僕を背負ってどこに連れて行くつもりなのだろう。
何の因果か、少年を背負って敵地を駆けることになった青年は、しかし、少年を放り出して自分だけ逃げようとは思わなかった。どこか安全な場所に隠れさせるか、一般市民に預けるか。とにかく、発着場までの道すがら少年の安全を確保できる環境を見つけよう。というのが青年の考えであり、願望でもあった。
路地を駆け抜け、大通りに飛び出した青年の目に異様な光景が飛び込んできた。馬車が3台並んでも余裕のありそうな大通りを巨大な物体が遮っているのだ。それどころか、その物体は通り沿いに並ぶ建物まで破壊し、その身を横たえている。その胴体に刻まれた紋章を見て、青年はその正体に気付いた。それは青年達の都市国家の魔導船だった。船体には人間大の石柱が無数に突き刺さり、さらに、その十数倍はありそうな巨大な石柱が船体を完全に貫通している。
敵の対空兵器だろうか。もしそうなら、上層部はこの対空兵器の存在を知らなかったに違いない。
青年はそうであって欲しいと願った。正規兵ではない青年にも、魔導船を貫通する程巨大な石柱を打ち出す対空兵器に、祖国の魔導船がなすすべもないことは分かる。そして、それがある限り帰還が困難であることも。
今回の作戦がこの対空兵器の存在を知った上で、実行されたものならば、死んでいった隊員たちは無駄死にである。青年にはそうとしか思えなかった。
最早、発着場に辿り着いても脱出は叶わないかもしれない。その考えが青年の胸を支配する。しかし、それでも青年は発着場を目指す。とにかく何か目的が欲しかったのだ。何もせずに、敵に見つかり殺されるのを待つというのはごめんだった。
路地を使って墜落した魔導船を迂回し、大通りを駆ける。東の空が白み始めていた。普通なら気の早い商店の店主が開店準備に駆け回り、そんな商人相手に軽食を売る屋台から腹を刺激する匂いが立ち昇る。そんな光景が見られてもおかしくない大通りも、今日はしんと静まり返っている。この辺りの住人は避難してしまったのだろう。都市の南側程ではないが、この辺りにも破壊の痕跡が見られた。そして、青年が魔泉を持ち帰ってしまえば、この都市が元の姿を取り戻すことはないだろう。青年が魔泉を受け取ってから、なるべく考えないようにしてきたことである。かつて、侵略を受けた青年の祖国も、魔泉があったからこそ復興できたのである。
静寂が辺りを支配し、聞こえるのは青年の足音と荒い息遣いだけである。そんな中、青年の耳に幽かに人の足音が届く。後ろを振り向けば、青年を追い掛けてくる集団が見える。
敵だ。間違いない。まだ距離はあるが先頭を走る白ずくめは武装神官だろう。青年が魔泉を持っていることを知って追い掛けてくるのか、或いは、残党狩りをしているのか定かではないが、ここまで少年を背負って、ここまで来た青年の足は限界を迎えている。少年を下ろしたとしても逃げきれないだろう。
最早ここまでのようだ。追い掛けてくる集団が敵であることが不幸中の幸いだ。彼らが少年を見つければ保護してくれるだろう。
しかし、何も少年を戦闘に巻き込むことはない。
そう考えた青年は咄嗟に目に入った教会の中に駆け込んだ。
教会の中は外から見ただけでは想像も付かない程荒れ果てていた。整然と並べられていたであろう長椅子は半数以上が破壊され使い物にならない。奥の壁に設置されていたであろう女神像は引き倒され、床には酒瓶や食べ物それに貴金属類が転がっている。陽動部隊が略奪でも働いたのだろう。今までに見てきた陽動部隊の悪行の影響か、青年は直ぐに陽動部隊の犯行であると断定した。
ここに居た連中が脱出を諦め自暴自棄になっていたのか、それとも勝った気でいたのか、定かではないが、どちらにせよ、敵地で略奪を行う彼らの感覚を青年は理解できないかった。
破壊された椅子に少年を座らせ、幾つか忠告をした青年は剣を抜くと入り口の扉に手を当てた。
外が騒がしい、敵がすぐそこまで来ているのだろう。
――あの日、あの男と別れた場所もここと同じような荒れ果てた教会だった。別れ際に一言「すまない」と言ったあの男の気持ちが、今なら分かる気がする――
その男は教会の中でやっと僕を降ろした。僕を教会に連れてきた理由は分からないけれど、その男が他の敵とは少し違うことは何となく分かった。よく見れば他の敵とは着ている物も違う。でも、魔泉を持っている以上敵であることに変わりはない。
壊されていない長椅子に僕を座らせた男は、戦いが終わるまでここから出てはいけない、とか、兵士に男のことを聞かれたら人質にされていたと答えろ、などと言い聞かせてきた。
敵の言葉なんか素直に聞けない。そう思って男を睨み付けたけれど、男は全く気にする様子はなく穏やかに笑っていた。
「すまない」
右手に剣を持った男は、最後にそう言って教会の扉を押し開けて出ていった。その言葉が僕に向けられたものなのか、別の誰かに向けられたものなのか、どういう思いで放たれた言葉なのか、何年も後に死を迎える、その時まで僕には分からなかった。