お前じゃない
事の発端は、半年前の夜中だった。部活で疲れ切っていた俺は、夕飯を終えるなりベッドに飛び込んだ。そのころの俺にとっては習慣のようなもので、とやかく言われるようなこともない。
そのまま意識を失って、確か二時とか三時を回った頃だ。
メールの着信を知らせるバイブレーションの唸りで目が覚めた。普段ならそのくらいの物音で目を覚ますことはないので、不思議な心地がしたのを覚えている。
――シャワー浴びねぇと汗臭いな……。
布団の中にこもった汗の臭いに、毎度のことながら顔をしかめる。
怖い話だとこういう時に金縛りになるんだよなぁ。
そんな想像が頭をよぎった時、本当に体が動かなくなった。疲れていると金縛りになりやすいと聞いていたので、偶然なんだろうと思った。
力ずくで金縛りを解いてやった、なんていう武勇伝じみた話を聞いたことがある。だが、試合を控えていた俺は無理に体を動かして筋を痛めるのが嫌だった。
放っておいても解けるとわかっていたので、居心地は悪いがそのまま二度寝しようと瞼を閉じた。視界が全て闇に呑まれ、自分の呼吸音だけが大きく聞こえる。
――体が動かないくらい、どうってことないな。
そんなふうに考えた時だった。自分の呼吸音に混じって、ヒタヒタと足音が聞こえた。足音は階段を上って近づいてくる。
――……泥棒、か?
嫌な予感がした。俺がいるのは階段を上がり切ってすぐの部屋だ。狙われるとしたら、まずこの部屋からだろう。
ネットで見た話だと、居直り強盗なんてものもいるらしい。体が動かない時に襲われたら、どうしたらいいんだろう。
背筋に冷たいものが伝うのを感じた。
身動きが取れずにいる間にも、足音はじわじわとにじり寄ってきている。
――いちかばちか、体を動かしてみよう。
この際、筋をちがえるのがどうこうなどとは言っていられなかった。
気合を込めて上体を起こすと、さっきまでの硬直が嘘のように消え去った。気合で金縛りが解けるという話は都市伝説ではないらしい。
額にじっとりと浮いた汗を拭って、扉一枚はさんだ階段前の廊下に意識を向ける。俺の気配に気付いたのか、足音は止まっていた。
武器になる物を、と室内に視線を巡らせた。しかし、これと言って使えそうなものがない。
そこで、部活用のバッグを探る。威嚇程度にはなるかもしれないと制汗剤のスプレーを手に取った。深呼吸すると、音を立てないように慎重に扉を開けた。
ほんの数ミリの隙間から、冷ややかな空気が滑り込んでくる。
もう少し開けなければ廊下の様子は確認できない。頭では理解していたが、ノブに掛けた手は震えて思うように動かなかった。
右手で制汗剤のスプレーを構え、ノブを握る左手に体重をかけた。
「うおぉぉぉぉりゃぁぁぁッ」
大声で相手を威嚇しながら、がむしゃらにスプレーをまき散らした。中身が尽きるまで噴出したことで、鉄製の本体が痛いくらい冷たくなっている。
月明かりが差し込んだ廊下が、白く煙っていた。むせかえるような匂いが空間を埋め尽くす。予想以上の息苦しさに咳き込んだ。騒ぎを聞きつけた親が目を覚ましたのであろう、ベッドの軋みが聞こえた。
「何時だと思ってるん……」
寝室から顔をのぞかせた父が、階段の電気を付けて絶句した。空気中に残った制汗剤が、光を反射しながら雪のように舞い落ちている。
「馬鹿野郎!」
強盗がいたかもしれないと弁解したが、誰かが侵入した形跡は見当たらなかった。荒らされた様子もない。
寝ぼけていただけだと結論付けられ、特大の雷を食らった。
すぐさま換気をするように命令されて、家じゅうの窓を開けた。肌寒くなるまで粘って換気を続けたが、制汗剤の匂いは薄まりこそすれ、抜け切りはしなかった。
粉っぽくなってしまった廊下の拭き掃除をして、ようやく許してもらえた。起きたついでにシャワーで汗を流す。
念のために家の中を一回りしたが、誰かが侵入した跡は見当たらなかった。
――ってことはユーレイが出たのか!
泥棒だと思ったときは怖かったけれど、ユーレイだとわかるとテンションが上がる。いいネタが手に入ったからだ。
足音と金縛り以外何も起きていないぶん怖い話としては盛り上がりに欠けるけれど、その場のノリで盛れば済む話だった。
そこからしばらくは何事もなく時が流れた。
あの日の体験は霊感があると自称する奴の体験談には到底及ばないし、思ったよりもウケが悪かった。もっといい反応が返ってくると期待していただけに、落胆は大きい。
ウケないとわかってから友達に話して聞かせることもなかったので、ユーレイのことはすぐに忘れてしまった。
ところが、部活を引退して受験勉強へシフトした矢先に二度目の金縛りが起きたのだ。
今度の足音は、すでに二階にいた。ひたひたと裸足の足音が、俺の部屋に向かって来ている。
面白い事になってきたと思いもしたが、指一本動かせない無防備な状態でユーレイと出くわすのは避けたかった。幸いにも多少の怪我くらいなら支障をきたすことが無くなったので、思い切って全身に力を込めた。
なぜか、体が動かない。
――くそっ……。
声を出そうにも、口が動かなかった。気合いが足りないのかともう一度挑戦したが、瞼一つ動かせない。
しばし呆然としていたが、開けっ放しの目が乾いて痛くなってきた。涙線だけは機能しているようで、涙がにじんで視界がぼやけていく。
焦点の合っていない目が、動くものを捉えた。もやもやとした黒い塊で判別がつきにくいが、何かの影らしい。
その影がぐっと近づいて、耳元で囁いた。
がさがさした声で、何を言っているかは聞き取れなかった。だが、俺の意識は眠りに落ちる時のようにぷっつりと途切れた。
その後、女の霊は毎晩訪れた。影と金縛りは必ずしもセットではないらしく、体が動かせることもあった。
今度は視界もはっきりしているので、その影の正体がよく見える。俺の部屋を訪れていたのは、髪の長い女だった。影のように見えたのは、腰まである長髪が原因のようだ。
目が合うとろくなことがなさそうではあるが、ネタになるような派手なことをしてくれるわけではない。
隠れるのも面倒で、堂々と迎え撃ってみた。そうすれば何かが起きるのではないかという期待も、少なからずあったのだ。
焦点をちょっとずらして、彼女と目が合わないようにしながら対峙したこともある。うつろな目をした彼女は、互いの顔が触れそうな距離まで顔を近づけた。そして、生臭い息を吐きかけただけで消えた。
金縛りに慣れると、女がいても気にならなくなる。俺が無視を決め込んだのが面白くないのか、彼女は毎日のように顔を覗き込んできた。女の気配はしばらくベッドの周りをうろつくが、気がつくといなくなっていた。
ところが、今日の彼女は様子が違った。いつも以上に執拗に見つめてきた後、ぼそりと声を洩らしたのだ。
「……ない」
「あ? もっとはっきり話せ」
じろじろ見られていると、安眠もできたものではない。寝不足で溜まった苛立ちを、そのまま女にぶつけた。
彼女はただでさえ大きな瞳孔をさらに拡大させてわなわなと震えだした。
「わ……私が好きになったのは、お前みたいな男じゃないっ!」
「『みたいな』だと!? 俺に謝れ! そして親父とお袋にも謝れ! むしろあの世へ行って先祖全員に謝ってこい!!」
勢いに任せて怒鳴り散らすと、彼女の体が半透明になった。
「逃げるんじゃねぇ!」
ベッドから飛び起きると、女の髪を鷲掴んだ。幽霊など触れるモノではないと思っていたが、彼女の髪は難なくつかむことができた。
「座れよ。話くらい聞いてやる」
いま、俺の前には黒髪の女が俗に言う「お姉さん座り」で座り込んでいる。仁王立ちで怒声を浴びせ続けたこととは関係なしに、彼女が自主的に取った姿勢だ。
床に付くほど長い髪のせいで表情は一切伺えない。顎を伝ってポタポタと滴り落ちる水滴は、心なしか黒く濁っていた。
黒い水が悪いのか、部屋の中が生臭いような嫌な臭いで占められる。鼻をつまみたくなるのをこらえて、俺は説教を続けた。
その間に彼女の気配は何度も希薄になり、消えてしまいそうになった。その瞬間を見逃さず、喝を入れる。
「だから、説明しろって言ってるだろ!」
「ヒッ……」
ビクリと肩を竦めた瞬間に、ほとんど透明になっていた体が淡い色彩を取り戻す。
これはこれで、ネタとしてアリだろうか。
……それにしてもだ。まさか、こんなことになるとは思いもしなかった。
幽霊をとっ捕まえて説教をする日が来るなんてな――。
怖いだけがホラーじゃない! ……と思うのです。