第三十二章
マルジェラは、魔力暴走が落ち着いていくのを感じていた。
もしかしたら、落ち着いてるのではなく、自分が慣れてきているだけかもしれないが。
それでも、後少しで動けるようになるだろう。
視線の先にいる伊武希衣は、切りつけた脇腹を押さえたまま、微動だにしない。
あの傷で死なないとは、よほど丈夫に出来ているのだろう。
しかし、先ほどとは違って、間違いなくダメージになっている。血も流している。
そして、マルジェラは大きく呼吸をすると、ゆっくりと体を起こして前を向いた。
後一回の呼吸で、攻撃の準備が整うだろう。
ようやく、あの邪悪な女を消し去ることができる。
ようやく、アリエラと二人きりで向き合うことができる。
アリエラを殺すか、殺されるか――それはどちらでもよかった。
ただ、アリエラの最後は自分が。自分の最後はアリエラが。
それが、マルジェラの唯一の願いだった。
そして、最後の呼吸を終えて――マルジェラは体のコントロールを取り戻した。
「終わりだ――伊武希衣」
伊武に向かって、アルケーを構えた。
「おや? 魔力暴走がひどくなってますね、マルジェラ」
少し離れた場所から、誰かがマルジェラに話かけてきた。
「な――貴様は――」
マルジェラは、声がした方を向いた。
声をかけてきたのは、ヘルムで顔の見えない天使騎士。
いや、違う。マルジェラにはわかっている。嫌でもわかる。あの声を忘れるわけがない。
天使騎士がヘルムを脱いだ。
どこかで見た、美しく、薄っぺらな笑顔がマルジェラに微笑みかける。
「お困りなら、また力を貸しますよ。代償はいただきますが」
「――アスタロトォォォォ!!」
Aだった。
マルジェラが、地上で最も憎む存在。
自分の弱みにつけ込んで、永遠の魔力暴走を与え、笑っていた悪魔。
Aは天使騎士の制服を脱ぎ捨てると、マルジェラに向かって両手を広げ、歌い上げるような声でマルジェラの怒声に応えた。
「そう! あなたのアスタロトですよ! 愚かで可愛い、私のマルジェラ!」
天木から受け取った天使騎士の制服は、予備も含めて3着。そのうちの一つを着て、Aは最初から戦場に潜り込んでいた。正面から戦うことはできない。しかし、直巳の護衛と、囮をやることぐらいはできる。
まさか、本当に囮をやることになるとはAも思っていなかったのだが、マルジェラを相手に囮をやれたことを、心から喜んでいた。直巳の力になれるからではない。怒り、悲しみ、後悔、恨み――そして何よりも、恐怖――それら全ての感情を、マルジェラは、自分にぶつけてくれるはずだからだ。
そして、マルジェラはAの期待に応えてくれた。最高の声と表情で。
「おいで! マルジェラ! あなたの味方は、私だけですよ!」
次の瞬間、Aはマルジェラに押し倒されていた。伊武を襲った時よりも速く、Aでは避けることができなかった。囮なので、避けるつもりもなかったが。
マルジェラは、アルケーの刃をAの首に押しつけた。寸止めではなく、少し食い込んで血が流れているのだが、Aはまったく動じることはなく、いつもどおりの笑顔を浮かべていた。
別に、この状態から逃れる術があるからではない。今のAに、そんな力はない。激昂したマルジェラが力を入れれば、綺麗に首が飛んでおしまいだ。
それでも、大好きなマルジェラに感情をぶつけられる喜びに陶酔していた。
魔力暴走で人間から離れていく顔。血走った目。フーフーと、獣のように荒い息。
喜んでいる、怒っている、怯えているマルジェラ――Aもマルジェラに興奮していた。
「アスタロト! この体を治せ! 今すぐに! さあ!」
「ご不満ですか? 私のおかげで、それだけ強くなれたのに?」
まったく悪びれずに言うAの首に、さらに刃が食い込んだ。
「そう怒らないで。もう一つの願いも叶えてさしあげようと思いまして」
「貴様、何を言っている」
「ありがちな願いですよ。アリエラの気持をあなたに向け――」
さらに刃が食い込んだ。もう、Aの首からは多くの血が流れ出している。
しかし、Aが黙ることはなかった。
「ついでに、あなたを男にしてあげましょうか? そうすれば、晴れてアリエラを抱きしめることができますよ! それとも、アリエラを? いっそ、二人とも男にしますか? あはは! それは面白い! きっと女の子達が騒ぎますよ! あはっ! あはははは!」
Aが、喉から血と空気を漏らしながら、狂ったように笑う。
「ひっ!」
Aに怯えたマルジェラは反射的に剣を引いてしまった。Aの首から大量の血が噴き出す。
それでもAは笑っていたが、突然、糸が切れたように黙り込んだ。
生きてるのか死んでいるのかわからない。それでもAの顔は笑ったままだった。
「あ、悪魔……」
マルジェラは眼下のAを心から恐ろしいと思い、怒りすら忘れて怯えた。
そして、その瞬間を狙われた。
「A……よく……やった……」
マルジェラは、背後からの斬撃を察知し、慌てて身をひねった。
「伊武……貴様!」
Aが囮となった伊武の背後からの一撃は、マルジェラの身体能力をしても、完全に避けることができなかった。
傷は浅いが、肩口をスーツごと切られる――直巳が必要とする条件が揃った瞬間だった。
刃物が触れた時の冷たい違和感の後、ほのかに熱くなり、血が流れ出す。
「なっ……まさか!」
マルジェラは傷口に触れ、スーツが破れていることを確認した。
そして、スーツの破けた位置から魔力が乱れ、魔力暴走のさらなる悪化を感じ始める。
「くっ! なぜ……なぜ動ける! 伊武希衣!」
マルジェラが伊武の脇腹を見ると、血で汚れているが、傷があるようには見えなかった。
Aが囮になっている間に、伊武の脇腹の傷はふさがっていた。
「傷が……治っている? 今度は何をした……化物め!」
化物と呼ばれた伊武は、不敵に笑う。
伊武にそう言って、生きていたものはいないからだ。
相手が自分を化物だと、別格の生き物だと認めた時点で、格付けは終わっている。
Aの登場により、マルジェラのペースは完全に崩れてしまった。
マルジェラは歯がみしながら、倒れているAを見る。
だが、今はAのことはいい。例え生きていたとしても、後でいつでも殺せる。マルジェラは伊武にのみ意識を向けた。
魔力暴走がひどくなっているが、後一回ぐらいは動けるだろう。
その一回で伊武さえ倒してしまえば、この戦いは自分の勝ちだ。
それでようやく、アリエラと向き合うことができるのだ。
「行くぞ伊武! 今度こそ、貴様を倒す!」
だが、伊武はフリアエを構えることもせず、不敵な笑みを浮かべた。
「……だから……あなたは……弱い……Aの次は……私……しか……見えて……ない」
マルジェラは伊武の予期せぬ言動にとまどい、攻撃を躊躇してしまった。
「伊武――何を言っている? どういうことだ!?」
「――こういうことだ! マルジェラ!」
マルジェラの背後に、突然、直巳が現われると、そのままマルジェラの肩口――伊武の斬撃により、スーツが破け、素肌の見えている箇所に右手で触れた。
「なっ……お前は、直巳! いつの間に!?」
なぜ、先ほどまで姿すら見せていなかった直巳が、突然、背後に現れたのか。
マルジェラは振り返る途中で、その答えを知った。
直巳の隣りには扉があり、その横には、天使を出現させたアリエラが立っていた。
アリエラは、両手で直巳の左手をしっかりと握っている。
「アリエラ――どうして!」
「神秘呼吸――放出!」
アリエラから吸収した魔力が、マルジェラの肩口に放出される。マルジェラの体は、直巳から放出された魔力を吸収し続けた。
直巳やアイシャが予想したとおり、アリエラ――というより、アリエラの天使は魔力の塊だった。そのアリエラから吸収した魔力を、そのままマルジェラに放出していく。
「な――なんだ! 何をしている、直巳!」
マルジェラの体が、強い魔力暴走を起こし始めた。すでに限界を超えていたマルジェラの身体が、次々と流し込まれる大量の魔力に耐えることなどできなかった。
以前のように、魔力に触れるだけで倒れていた時のように苦しみ始める。
「全部持っていけ――神秘呼吸! 放出!」
直巳がありったけの魔力を注ぎ込む。
マルジェラの手から、アルケーが落ちた。
アリエラの空間移動による、神秘呼吸での奇襲――これが、直巳の立てた作戦だった。
スーツを破かせたのは、神秘呼吸の能力を邪魔されるのを防ぎ、魔力調整機能を少しでも落として、魔力暴走を起こしやすくするため。
また、魔力を吸収ではなく放出にしたのは、吸収してもマルジェラは止まらないからだ。むしろ魔力暴走の治療になり、マルジェラは素の身体能力で、すぐに直巳を殺すだろう。
魔力はアリエラから少しもらう――アリエラから見たら、微々たる量だ。マルジェラを倒す最低限であれば、天使に害がなければ良いと、アリエラから許可はもらっている。
マルジェラを瞬間的に無力化する方法は、これしかなかった。
そして、作戦は見事に成功した。
魔力を注がれたマルジェラの全身が毛皮だけでなく、様々な動物や鉱物にまで変化しはじめる。植物のツタや花が体を覆い始める。魔力暴走の症状としては、かなり重い。
「どうして――どうして私が――私だけが!」
マルジェラは力任せに直巳を振りほどく。直巳はアリエラとマルジェラ、二人から手を離し、抵抗もせずにマルジェラから離れた。
そして、マルジェラは、直巳の隣りにいるアリエラを睨み付ける。
「アリエラ……どうして! どうして私ではなく、直巳に協力する!」
マルジェラは涙を流しながら、アリエラを問い詰める。
アリエラは、眉一つ動かさずに淡々と答えた。
「どうして? どうしても何も――何故、私がマルジェラに協力すると思ったのです?」
「ア、アリエラ……」
初めて見る冷たいアリエラの態度に、マルジェラの声が弱々しくなる。
「マルジェラは、私に何かしてくれましたか? 私の正体に気づいてから、いくらでも機会はあったのに、話すこともせず、捕らえることも、殺すこともしない。かといって、私に賛同するわけでもない。あなたはただ、私を抱きしめて、わかりあえたのだと思い込んでいただけ――自分の話だってしなかった――ねえ、十年従士のマルジェラ」
アリエラの無慈悲な言葉が、マルジェラに突き刺さっていく。
そして、アリエラが最後の言葉をマルジェラに投げかけた。
「――臆病者」
マルジェラは、初めてアリエラの本心を聞いた――聞かなければよかった。
無表情のアリエラを見つめながら、マルジェラは一筋の涙を流した。
「アリエラ――私は――君を――」
そう言った瞬間、マルジェラの顔は、魔力暴走でさらに変化しはじめた。
「クッ――」
マルジェラは手で顔を隠すと、獣のように吠えながらその場から逃げ去った。
すさまじい速さと跳躍力で、すぐにその姿が見えなくなる。
伊武は一瞬だけ迷ったが、追わなかった。
まだ、アリエラがいる。直巳のそばを離れるわけにはいかない。
伊武は、このまま黙ってアリエラを殺すつもりだった。
直巳がアリエラに、どんな話をして協力を取り付けたのかは知らない。
しかし、それを無視してでも、アリエラは殺さなければならなかった。
勝手に殺せば直巳は怒るかもしれないが、それが一番シンプルでいい。
死人は復讐もしないし、恨み言を言って、直巳を悩ませることもないのだから。
(死人は……椿君と……同じ時間を……過ごさない……)
伊武が無言でフリアエを構え、アリエラを斬ろうとして――出来なかった。
そこにいたのは、直巳だけだったから。
アリエラは、もうどこにもいなかった。




