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第三十章

「椿君……どう……する?」

 直巳と伊武は、隊長がアリエラにやられる所を見ていた。

 天使騎士団がマルジェラを片付けてくれればと思っていたのだが、隊長がアリエラにやられたことにより、その目は薄くなった。

 マルジェラと戦うつもりはなかったが、マルジェラはアリエラと何かしらの協定を結んでいるようだった。アリエラだけを倒す、というわけにもいかないだろう。

「伊武は、マルジェラを倒せば、アリエラが素直に出てくると思う?」

「どう……かな……でも……このまま帰るよりは……可能性が高い……それに……マルジェラを……放っておくのも……危ない……やるなら……今……まだ……人数も……いる」

 伊武がヘルム越しに直巳を見つめる。後は、直巳が指示を出すだけだ。

「俺は一人で大丈夫だ。伊武、頼む」

「アリエラ……に……気を……つけて……」

 伊武はそう言い残して、マルジェラを中心とした戦いの輪へ加わっていった。

「さて……アリエラに見つからないようにしないとな……」

 とりあえずは、背後に注意しないといけないだろう。

 戦場から離れて、孤立して目立つのもまずい。

 直巳が、どうやって動こうか迷っていると、一人の天使騎士が近寄ってきた。

 直巳は警戒するが、天使騎士は構わず、すぐそばまでやってくる。

「あの……あなたは……」

 直巳が話しかけると、彼は一枚の護符を取り出し、直巳の近くに置いた。

 護符は一瞬で消え、後には魔法陣が残る。

 天使騎士は、そこを指さした。

(入れ、ってことか?)

 直巳が魔法陣の中に入ると、天使騎士はうなずき、手で、「動くな」と制された。

「ここにいれば……安全なんですか?」

 直巳の問いに彼はうなずいて答えると、またどこかへと姿を消した。



「どうした! そんなものか! それが、私の憧れた天使騎士団か!」

 聖騎士と名乗っているマルジェラは、次々と天使騎士団を切り伏せていった。

 伊武も彼等に混ざり、目立たないようにマルジェラを攻撃しているのだが、ダメージを与えることは出来ていなかった。

(力……使わないと……駄目……かな)

 今、力を使えば天使騎士団に正体がばれてしまう。できることなら、このままばれずに終わらせたいと考えていた。

「――戦いの途中に考えごとか!」

 伊武に向かって、マルジェラが剣を振り下ろしてくる。

「……チッ」

 伊武は舌打ちをして、マルジェラの攻撃を防ぐ。魔術具でもない天使騎士団の剣が折れ、柄の部分で食い止める。

 普通ならば危険な状況なのだが、伊武はまったく焦っていなかった。これぐらいのことは普通にできるし、例え斬られても天使贄があるので、伊武が傷つくことはない。

 そのまま、力任せにマルジェラの剣を弾き、胴体に蹴りを入れた。マルジェラはとっさに盾で防いだが、衝撃でバランスを崩した。その間に、伊武は距離を取る。

「――お前――何者だ?」

 この戦いの中で、初めて攻撃を弾かれたマルジェラが驚きの声をあげる。

 今のマルジェラならわかる。あんな力は、普通の人間が出せるものではない。

 いくら相手の体が大きく、鍛えていたとしても、魔力強化はしているはずだ。

 聖騎士となった、自分と同じように。

(体が大きい……力が強い……魔力強化?)

 マルジェラの脳裏に、該当する人物が一人いた。

「――伊武! 貴様、伊武希衣か!」

 伊武は舌打ちをすると、折れた剣とヘルムを投げ捨てた。

 そして、背後の空間から、妖剣フリアエを抜いて構える。

 これで天使騎士団に正体はばれるだろうが、もう構わない。隠すのも面倒くさい。

 いざとなれば、天使騎士団もまとめて全員殺してしまえばいい。

「……久しぶり……少しは……強く……なった……かな」

 伊武は、人差し指と親指で、1センチほどの隙間を作ってマルジェラに見せた。

「少し……このぐらい……」

「――貴様ァァァァ!」

 激昂したマルジェラが斬りかかってくる。伊武は、フリアエでその一撃を受け止めた。

 今度は折れず、しっかりと受けとめる。マルジェラの剣も折れていなかった。

「いい……剣……だね……魔術具……かな」

 マルジェラの剣は、白く輝く片手剣だ。装飾も少なく、上品で美しい。

「守護剣アルケー! 魔を払う守護の剣だ! 貴様を倒すのにふさわしい! そちらも魔術具のようだな! 名前を聞いておこうか!」

「妖剣……フリアエ……天使でも……魔でも……聖でも……何でも……斬る……」

 伊武のフリアエは、アルケーの真逆といえた。大きな両手剣で、悪ふざけしたギロチンのような刃と、人を威圧する禍々しい装飾、残虐性の塊のような武器だった。

「妖剣フリアエ! 貴様にふさわしい、醜い武器だ!」

「剣に……大事なのは……強さ……だけ……」

 伊武は笑うと、両手で持っていた剣を、素早く片手に持ち替えた。それでも、魔力強化した異常な筋力のおかげで、マルジェラの攻撃は防いだままだ。

 そして、空いた手で腰の後ろにさしていたサブマシンガンを取りだし、マルジェラの頭に向けた。

「なっ!」

「さっき……拾った……剣じゃなくて……ごめん……ね」

「くっ……アルケー! シールド展開!」

 マルジェラが盾から薄い光を展開させる。アリエラを守った時と同じものだ。

 伊武が躊躇なくマルジェラの頭部に向けて放った無数の弾丸は、全て薄い光に弾かれた。

「チッ――」

 伊武は弾の切れたサブマシンガンを投げつけると、一歩後ろへ下がった。

「アルケー……盾もアルケー? ……守護剣……そうか……剣と盾……二つ揃って……守護剣アルケー……か……」

「気づいたか。アルケーは攻防一体の装備。守護剣の名は伊達じゃないのだよ」

 マルジェラは盾を消すと、剣を構えて伊武に向き合った。

「硬い……フリアエで……突破できるかな……持続時間は……何度か……使わせて……」

 伊武はもう、マルジェラの話を聞いておらず、盾の対策方法を、ブツブツと呟いている。

(やはり強い……手段も選ばない……力押しでは駄目か……他にどんな手が……)

 マルジェラはマルジェラで、伊武の対策方法を頭の中で練り始める。

 一連の攻防を周りで見ていた天使騎士団は、すっかり戦意を失っていた。

「な……なんだこいつらは!」

「あのでかい女、現地の道案内じゃなかったのか!」

「無理だ! 撤退しよう! すぐ本部に応援を!」

 天使騎士団は、散り散りに逃げ始めた。

 自分達のことを報告されたら面倒なことになる。伊武は追って、全員を殺したかったが、目の前にいるマルジェラにプレッシャーで制された。

「伊武、よそ見はいけないな。それとも、私はそんなに物足りないか?」

「……悪く……ない……」

「フッ……悪くない、か。私も、聖騎士になった初戦がお前でよかったよ。思う存分に力を試すことができる」

「力……ね……魔力強化と……その装備……か……どこで……手に入れた……の?」

「私に勝ったら教えてやろう」

「それは……無理……かな」

「何? 負けを認めるとでもいうのか?」

「死体は……喋れない……でしょう?」

「――貴様は、どこまでも! その奢り! 邪悪さ! この守護剣アルケーが浄化してやろう!」

 マルジェラが再びアルケーで斬りかかってくると、伊武はフリアエで受け止めた。

 伊武も反撃するのだが、マルジェラは無理をせず、すぐに防御か回避に徹底するため、無茶な撃ち合いにはならない。すぐに状況が硬直する。

 しかし、防御を気にするわりには、アルケーの盾を使うことはなかった。

(盾を……出さない? 出したままでは……戦えない……の?)

 思い返せば、マルジェラが盾を出している時は、常に動きが止まっていた。

 伊武は改めてマルジェラの姿を見る。

 全身を包む、白いスーツに、各所を守る鎧のような防具。腕についた盾のアルケー。あれは展開して、前面を広範囲、高い守備力で守ることができる。剣のアルケーは魔術具で、フリアエと互角の強度だろう。身体能力は魔力強化されている。

 剣も、盾も、身体能力も、魔力を使っていることに間違いはない。

(盾は……大きく魔力を使うの……かな……だから……攻撃と同時には……できない……?)

 伊武は、その考えで間違いはないだろうと思った。

 しかし、そもそも、マルジェラが魔力を使えるというのが、やはりおかしい。

 例え、何かしらの手段で魔力を手に入れたとしても、魔力拒絶体質がある。

(やっぱり……あの装備に……仕掛けが……ある)

 隊長が予想したように、やはりあの装備――スーツや鎧が生命線なのではないか。

(まずは……それを……たしかめる……か)

 今度は、伊武が自分から仕掛けた。

 フリアエで何度も攻撃し、マルジェラに受けさせる。攻撃は通らないが、これはフェイントなので、それでよい。

 そしてマルジェラの肩口を狙い、大きく突きを繰り出す――狙いが浅い。これでは、命中しても肩をかすめるだけだろう。

 そして、大ぶりで突きを繰り出した伊武の体はがら空きになる。

 マルジェラは、かすり傷を負うかわりに、伊武に致命傷を与えることができる。

 普通なら、迷うこともないだろう。

「――クッ!」

 しかし、マルジェラは反撃することなく、無理矢理に身をひねって突きを避けた。

 地面を転がり、伊武から離れたところで起き上がる。

(なるほど……間違い無い……かな……)

 マルジェラは、伊武への致命傷より、スーツを守る方を選んだ。

 これでマルジェラは、伊武に力の秘密と弱点を露呈することなった。

「それ……良いスーツ……だね……」

「知らん。貴様とそんな話をするつもりはない」

「褒めてる……のに……大事にしないと……ね……破れたりしたら……大変……」

「――何の話だ」

「魔力暴走を抑えて……力に変えるの……かな……剣も……盾も……魔力強化も……全部……そのスーツのおかげ……だね……」

 伊武の言葉に、マルジェラは何も言い返せなかった。どう言っても、取り繕う自信がなかったからだ。迂闊に何か言えば、相手に余計なヒントを与えることになる。

 だが、答えまで辿り着いている伊武にとって、沈黙は肯定に等しかった。

「でも……あなたには……もっと似合う……服がある……」

 伊武は自分の来ていた天使騎士団の制服を脱いで、マルジェラの足下に投げつけた。

「これ……着たかった……でしょ? 私のお下がり……だけど……拾えば?」

 伊武は、マルジェラが天使騎士に憧れて、なれなかったことを知っている。

 知っていて、笑顔でやっている。

 マルジェラはヘルムを脱ぎ、全身の鎧、盾だけ残して捨てた。

 ヘルムの下から、怒りに満ち溢れたマルジェラの顔が表われる。

 マルジェラは魔力暴走を起こしはじめ、顔の一部が毛皮になっていた。

 恐らくは、何かのリミッターを外したのだろうと伊武は考えた。

(鎧は……補助……か……)

 スーツだけでなく、鎧も魔力を押さえる効果があったようだ。

 これで、マルジェラはパワーアップしただろう。ただし、よりピーキーになった。

 魔力暴走を起こしやすくなっているはずだ。

「伊武、そこまで私を侮辱した――そして、この姿を見た――覚悟はいいな?」

 マルジェラも、自分の力に自信があるようだった。

 伊武は、マルジェラの態度に内心でブチ切れる。

 腕相撲で転がされ、喧嘩に負け、見逃してやった女が、覚悟はいいかと聞いてくる。

「毛皮……だ……犬みたいで……可愛い……ね……」

 伊武はフリアエを置くと、犬を呼ぶように、しゃがみこんで手を差し出した。

「ほら……おいで……ワンワン……」

 犬扱いされたマルジェラは、奥歯が砕けるほどに歯がみをした。

「殺す――絶対に殺す――」

 伊武がフリアエを再度構えた瞬間、マルジェラが斬りかかってきた。

 伊武がマルジェラの一撃を弾き、反撃しようとする。

 これまでならマルジェラは距離を取ったのだが、今回は避けなかった。

(獲った……? いや、そんな……)

 伊武はおかしいと思ったが、考えを捨ててフリアエをマルジェラに叩きつける。

「――シールド展開!」

 マルジェラが目の前でシールドを展開し、フリアエを弾いた。

「盾が……同時にっ!?」

 バランスを崩された伊武の腹部に、マルジェラのアルケーが突き刺さった。

「くっ!」

 伊武がシールドを蹴り、反動で無理矢理に体から剣を抜く。無理矢理抜いたので、さらに傷を負うことになったが、あのまま胴体を真っ二つにされるよりはいい。

 それに、ダメージは天使贄でアブエルに飛ばしたので、今のところ問題はない。

「力を開放すれば……盾……出しながら……戦えるんだ……すごい……ね……ずっとは無理……なの……かな」

「――なぜ、動ける」

 平然と立ち、話かけてくる伊武に、マルジェラは恐怖した。

 マルジェラの一撃は、間違い無く伊武の腹を貫いた。手応えもあった。

 しかし、伊武は血の一滴を流すこともなく、平然と立っている。

「天使様の……ご加護……かな……」

「ふざけたことを……どんなトリックかは知らんが、不死身のわけはないっ!」

 伊武が本当に不死身なら、あそこで反撃してきただろう。

 しかし、伊武は攻撃を嫌がって逃げた。ダメージを無効に出来るのだろうが、いつまでもは続かないはずだ。

 伊武は不死身じゃない――マルジェラは、そう自分に言い聞かせ、心を奮い立たせる。

 実際、マルジェラの考えは当たっていた。

 天使贄も無限ではない。アブエルが耐えられなくなれば、そこまでだ。

 アブエルの耐久力は、補充している魔力に比例するが、最近は天使狩りが行えず、魔力補充が出来ていないため、あまり無茶はさせられない。

 そして、先ほどの天使贄で、大きく魔力を消費していた。

(ダメージ……大きい……かな……)

 もし、アブエルの魔力を使い切ると、アブエルは勝手に実体化をして、魔力補充のために主人である伊武を食おうとする。

 そうなったら、伊武は戦いどころではない。人造とはいえ、天使と戦うはめになるのだ。しかも、伊武はアブエルによる魔力強化を使えない状態で。

(……このままで……勝てる……かな)

 先ほどの攻撃は奇襲だ。マルジェラが盾を使いながら戦えるとわかっていれば、それなりの戦い方はできる。ただ、それを続けていて勝てるかは、わからない。

 マルジェラは強い。それを認めなければならない。このまま無傷では勝てないだろうし、いたずらにアブエルの魔力を消費するだけだ。

(長期戦は……不利……こっちも攻める……か……)

 伊武はマルジェラの方を向いたまま、優しい声で語りかけた。マルジェラではない。自分の背後に向けてだ。

「アブエル……おいで……」

 その瞬間、伊武の背後に、巨大な天使が実態化した。

 体中は縫い目とつなぎ目だらけ。あらゆる箇所に楔が打ち込まれており、地面に這いつくばった姿。羽根はボロボロで、およそ飛べるとは思えない。

 そんな姿でも、アブエルは天使だった。

「さあ……アブエル……頑張ろう……ね」

 伊武は飛び上がり、アブエルの頭の上に乗った。

「それは――なんだ――」

 マルジェラは、伊武の呼びだした、大きな何かを見て戦慄した。

 醜くて、恐ろしいもの。そして何より、猛獣使いのように、「それ」の頭に伊武が乗っている姿のおぞましさは、この世のものとは思えなかった。

「これは……天使……」

「う、嘘をつけ……そんなはずが……お前が……天使付きであるはずが……」

 マルジェラが天使を見るのは、これが初めてだった。

 ずっと会いたかった天使という存在に、こんな形で出会うなんて。

 そして、あの伊武が選ばれた人間である天使付きだなどと、信じたくはなかった。

 マルジェラはボロボロの大きな天使の頭上に、伊武が乗っている姿を、改めて見つめた。

「何が天使だ――これはまるで――悪魔じゃないか」

 思わず口に出てしまったマルジェラの言葉に、伊武が笑う。

「これは……人造天使アブエル……私の天使……」

「人造天使だと――バカな――そんなものが! あってたまるか! 許されるものか!」

「さあ、アブエル……唄って……?」

 伊武がアブエルに優しく語りかけるが、アブエルは小さくうめくだけだった。

 微量な魔力が放たれて、それでおしまい。

「――唄え! アブエル!」

 伊武は人が変わったかのような怒声と共に、アブエルの額にフリアエを突き刺した。

「な、何を!?」

 自分についている天使を剣で突き刺すという、異常な光景にマルジェラが思わず叫ぶ。

 次の瞬間、アブエルから形容しがたい叫び声と魔力が放出された。

 マルジェラは急いでシールドを展開し、アブエルの叫び声を防ぐ。

「魔術か!?」

 シールドがマルジェラのことを守るが、それでも強い魔力の余波がマルジェラを襲った。

「くっ……防ぎ切れない……」

「アブエル……もっと……もっと唄って……」

 伊武はアブエルに突き刺した剣を、グリグリとひねった。

 アブエルはさらに苦しそうな叫び声をあげる。

「痛いの……? 苦しいの……? 私が憎い……の? なら、それを唄って……マルジェラに……聞かせて……あげて?」

 伊武が、さらに深く剣を突き刺すと、アブエルは一際大きな声をあげた。

 それと共に、強烈な魔力がマルジェラを襲い、魔力暴走が激しくなる。

 マルジェラは苦しみだし、とうとう膝を突いた。

 だが、アブエルも限界だった。

 アブエルを拘束している鎖が弾け、楔が抜け始める。

「……チッ」

 伊武は舌打ちをすると、アブエルの額からフリアエを抜いた。

(魔力不足……か……)

 天使贄でのダメージと、無理矢理唄わせたことにより、想像以上の魔力を使ってしまった。

 これ以上使えば、アブエルが暴れ出してしまう。

「……消えなさい……アブエル……駄目な……子……」

 伊武が言うと、アブエルはしばらく悶えてから、姿を消した。

 唄が止むと、マルジェラは少し楽になったのか、ようやく立ち上がった。

 まだ息が荒く、体は魔力暴走を起こし始めている。

「伊武希衣――人造とはいえ――お前が天使付きなど! 認めるものか!」

 マルジェラが叫び、動いたかと思った瞬間、伊武はフリアエを構える。

「……あ……れ?」

 伊武は、何が起こったかわからない。

 自分の視界にマルジェラはおらず、脇腹からは血が溢れている。

 振り返ると、苦しそうなマルジェラが背を向けてしゃがみこんでいた。

 伊武でも対応できないほどの速度で、マルジェラは伊武を切りつけていた。

 そして、アブエルは限界が近く、天使贄でも完全にダメージを転移できなかった。

 あと少し、マルジェラの攻撃が深かったら、伊武の胴体は、真っ二つに割れていただろう。

「――ごふ」

 喉の奥から、嫌な匂いの塊が上がってくる。

 伊武は大量の血を吐いた。

 ここまでのダメージを受けたのは、いつ以来だろう。

「……なん……で……そんな……強さ……を……」

 伊武は視界がぼやけてきているが、それでもマルジェラを凝視した。マルジェラは、先ほどよりもひどい魔力暴走を起こしており、まともに動くこともできず、しゃがみこんでいた。

 マルジェラが、すぐに次の攻撃にうつれないのは、伊武にとって不幸中の幸いだった。

(魔力……暴走……そう……か……)

 伊武は、ようやく自分の悪手に気がつく。

 アブエルの唄により、マルジェラに魔力暴走を起こさせる――この発想はよかった。

 だが、マルジェラを無力化するには、後一歩足りなかった。

 結果的に、マルジェラに魔力を与えただけ、ということになる。

 マルジェラは魔力暴走を抑えつつ、身体能力の強化と、魔力の使用に成功している。

 なら、マルジェラがギリギリまで魔力を溜め込んだらどうなるか。

「限界を超えて……強化……された……かな……」

 伊武が、ギリと歯ぎしりをし、自分の戦術を悔やむ。

 マルジェラは魔力暴走に苦しみながらも、限界を突破して強大な戦闘能力を手に入れた。

 そのかわりに、まともに動くことすらできない。だが、気絶はしていないし、苦しみでのたうち回っているわけでもない。

 そのうち、動けるようになったら、また伊武に襲いかかってくるだろう。

(せめて……もう少し……もう少しだけ……そのままで……いて……)

 伊武は脇腹を押さえ続ける。超回復能力により、傷はふさがりはじめていた。

 せめて、脇腹の傷がふさがれば戦うことはできる。

 もう、不意打ちは食わない。わかっていれば対応ぐらいはできるはずだ。

 その時、伊武の右腕がぶらりと下がった。右腕が伊武の支配から逃れたように、ぶらりと。

(古傷……か……)

 伊武は、右肩を押さえると、超回復能力での治癒をイメージした。

 幸いにも、右肩の傷はすぐに治まる。

(傷口が……開いたのは……久しぶり……)

 後は、マルジェラが立ち上がる前に、脇腹の傷が治ってくれればいい。

 だから、伊武はマルジェラを睨みながら、もう少しだけ動くなと、強く願った――伊武は天使にも悪魔にも祈らない。ただ、何者かに願うだけだ。自分が何に願っているのかは、伊武にもわからない。

 一秒が、何百分割もされたように長い。伊武は何百回と心の中で願い、何千回もマルジェラを呪った。

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