第十八章
「どうやら、魔術師にやられたようですね。私にも魔術の心得はありますから」
Aはそういうと、自分の服が汚れるのも構わずに、マルジェラの汚れをぬぐい始めた。
ハンカチが駄目になるまで使い、足りなければ自分の服の袖で優しく顔を拭いてやる。
濡れているかと上着をかけてやり、冷えた手を握って温めてやる。
マルジェラはされるがままだったが、全て笑顔でここまでされれば、無意識に心を許してしまう。
そして、Aはマルジェラから言葉巧みに情報を引き出し始めた。
マルジェラがポツポツと話すと、Aはその言葉を掴んで、次々と引き出していった。
マルジェラが話していいものか迷うたびに、Aは推測したふりをして、次に話を進めてしまう。
Aは、監視させていたカイムから報告を受けて全てを知っていたので、難しいことではなかった。
事情が知りたいわけではない。ただ、マルジェラに言わせたいだけだ。
普段なら、マルジェラは見知らぬ人間に、ここまでは話さないだろう。
だが、心の弱っている状態で、Aにつけこまれたら、もう逃げられない。
そして、Aに乗せられたマルジェラは、ついに自分の願いを口にしてしまう。
「私にも魔力が……魔力さえあれば……」
マルジェラから願い事を引き出したAは、内心の喜びを隠して、落ち着いた口調で言った。
「私なら、魔力を差し上げることができますよ」
Aの言葉を、マルジェラは鼻で笑った。
「――何人もの魔術師にそう言われたが、全員駄目だったよ」
「ただの魔術師では駄目でしょう。でも、私は魔術師ではありませんから」
「魔術師じゃない? なら、あなたはなんだと言うのだ」
マルジェラがバカにしたように言うと、Aはマルジェラの顎を掴んで目を見つめた。
そして、Aは眼帯をずらし、目の中にいる、羽根の生えた蛇を見せながら言った。
「悪魔ですよ。知っているでしょう? あの、悪魔です」
マルジェラの目に、Aの目だけが映る。羽根の生えた蛇も、マルジェラをちらりと見た。
「あ、悪魔……? そ、そん……な……バカ……な」
マルジェラは驚きと恐怖で、まともに話すこともできなかった。その間にも、Aの目の中では、羽根の生えた蛇が、ぬるぬると泳ぎ回っていた。
「悪魔アスタロト――ご存じないですか?」
「し、知っているに決まっている……お、お前が……あの、アスタロトだと言うのか」
アスタロトは有名な悪魔だ。マルジェラも書物で十分すぎるほどに知っている。
竜に跨がった、汚い天使のような悪魔、アスタロト。
目の前の女性は、自分がそのアスタロトなのだと言う。
「信じても信じなくても構いません。ただ、駄目で元々。私と契約してみませんか?」
「あ、悪魔と契約など!」
「なら、他に助けてくれる人間を探しますか? それとも、まだ天使の奇跡を待ちますか?」
Aは、マルジェラの全てを見透かしたかのように誘惑してくる。Aにはわかっている。誰もマルジェラの願いを聞き届けてくれないから、彼女はこんなことになっているのだと。
何も答えられないマルジェラに向かって、Aは優しく言葉をかけ続けた。
「契約したことなど、誰にも気づかれない。あなたは、誰もが持っている当たり前のものを手に入れるだけです。病人が医者に病気を治してもらい、対価を払うことは不正ですか?」
「は、話をすり替えるな! あ、悪魔との契約なのだろう……? 命など、渡せないぞ」
弱々しく抵抗するマルジェラを見て、Aは内心で残酷に笑う。だが、その表情と口調は、さらに優しくなっていた。
「些細な魔力を与えるだけで、命などいただけませんよ。私の要求は、あなたが永遠に魔力を捨てないことを誓ってもらえるだけでいい。簡単でしょう?」
「そんなことで……いいのか?」
「そうですよ。ただ、捨てようとしても捨てられない。永遠に、普通の人と同じだけの魔力を持ち続けていただく、ということですが」
「それで……それでお前に何の得があるんだ……」
「あなたに魔力を与えて、どうなるかが見たい。それ自体が、私の目的なのですよ」
Aは、優しく優しく、怯えさせないように、マルジェラの心に入り込んでいく。
だが、マルジェラから最後の言葉が出てこない。悪魔に向かって、力をくださいと、どうしても言うことができない。
「どうしました? 嫌ならば、無理にとは言いません。しかし、まだ天使を待ちますか? 運良く天使降臨に出会えたとして、天使があなたの願うとおりの奇跡を起こすと思いますか?」
それには、マルジェラも気がついていた。この悪魔が言うように、天使降臨は自然災害に等しく、天使が人の願いを、そのまま聞くなど考えられなかった。
「あなたが待っていた天使というのは、願いをかなえてくれる存在のことだ。そして、それは悪魔である私だった、ということです。あなたは魔力を得て天使騎士になり、力無きものを助ける。悪魔の力で正義を為すのは自由。なんなら、悪魔を討伐したって良い。さあ、決断を」
Aが手を差し伸べる。
マルジェラは、少しだけ躊躇した後、その手を取った。
「私に――私に魔力を授けてくれ――永遠の魔力を!」
ついに、言ってしまった。
マルジェラは、悪魔の誘惑に堕ちた。
「はい――それでは、契約成立です」
Aはマルジェラの手の甲に、指先で自分を、アスタロトを現わす印を書いた。
「それでは、あなたに魔力を授けます。永久に、失われることの無い魔力を――」
マルジェラの手が、淡く光を放ち、魔力が注がれていく。
「ああ、これでようやく――私は天使騎士に――う――うあ――うあああああ!」
マルジェラが苦しみ出すが、Aは笑顔を浮かべたまま、手を離さずに魔力を注ぎ続ける。
「何を! 何をしているアスタロト!? なぜ、魔力暴走を起こす!? お前は、私に魔力を授けてくれるのではなかったのか!」
恐怖に怯えるマルジェラの表情を見ると、Aは笑顔を捨て、恍惚の表情を浮かべた。
「私は魔力を授けると言ったのです。魔力拒絶体質を治すとは一言も言っていませんよ。契約内容は、きちんと確認しないと」
「わ、私を騙したのか! 悪魔め!」
「騙してなどいません。あなたが勘違いしただけです。悪魔は契約で嘘をつかない」
「い、嫌だ……そんな……こんなこと……望んでなんか……」
マルジェラの抵抗も空しく、契約は完了し、Aはマルジェラから手を離した。
「契約は完了しました。さあ、これから永遠の魔力暴走に苦しみなさい」
「そんな――どうして――こんなことに――」
マルジェラは、恐怖と苦しみで気絶した。
例え、目を覚ましても、また魔力暴走に苦しむ時間がやってくるだけだ。
Aは、マルジェラの顔を覗き込むと、涙を指先でぬぐった。
「おやすみなさい――弱くて愚かで、かわいそうなマルジェラ」
Aは暗闇に溶けるように、音もなく去っていった。
深夜。マルジェラと別れたAは、椿家に帰宅すると、すぐにアイシャの部屋へと向かった。
Aが部屋に入っても、アイシャはそれに気づかないかのようにベッドに座り、窓からぼんやりと夜空を眺めている。
そして、そのまま独り言のように話を始めた。
「天使教会の襲撃については、さっき直巳から聞いたわ」
その話だったら、しなくていいから帰れということだ。
「カイムから報告を受けておりますので、私も存じております」
「そう。他に、何か言いたいことでもあるの?」
「逃げ出したマルジェラの後処理をしましたので。そのご報告だけ」
そして、Aがマルジェラとかわした契約について話をすると、アイシャは小さく笑った。
「そんな美味しそうな子、あなたが放っておくわけもないものね」
「ええ。退屈しのぎには最適でした。それに、悪魔と契約すれば、天使教会に戻って泣きつくこともできないでしょう」
「そうね。でも、殺せばもっと安全だったでしょう」
「手当たり次第、殺すわけにもいかないでしょう――それに、殺したら終わりですから」
「退屈しのぎ?」
「ええ。次に会うときが楽しみです」
「次があれば、あなたを殺そうとするでしょうね――私もその日が楽しみよ」
そういうと、アイシャは手を振ってAを退室させた。




