第十章
伊武は、ずっと見ていた。
直巳が煽られ、マルジェラが空気を読まずに腕相撲をしかけたこと。
直巳は勝てるわけがないと思いつつ、勇敢にも全力で戦ったこと。
小娘どもがキャーキャー言いながら、負けた直巳を無言で傷つけたこと。
マルジェラが、それら、小娘どもの悪意に一切気がつかなかったこと。
それでも伊武が途中で止めなかったのは、直巳のプライドを守るためだ。
いくら勝てない戦いとはいえ、女の自分がいきなり割り込むわけにはいかないし、直巳は伊武に助けを求めることなく、負けることを覚悟で戦いを挑んだ。
そして負けた後、嫌な顔一つせずにマルジェラと握手しようとした。
なんて誇り高く、立派で、優しく、いじらしいのだろう。
伊武は全てを見て、知っていた。
周りから見てもわからないだろう。外面はいつもどおり、無表情に近い伊武だった。
しかし、内面は発狂寸前。直巳が許可すれば、マルジェラと小娘どもを、一人残らず叩き殺してやろうと思っていた。
だが、直巳は絶対に許可しないだろう。
なんて優しい、なんて慈悲深い椿君。
仇は、私が取ってあげる。
伊武はマルジェラの右手を握ったまま、ドラム缶に誘導した。
そして、否応なく腕相撲の準備態勢に入る。
マルジェラは嫌がることもなく、むしろ喜んでいた。
「伊武! 君のことは気になっていた! 勝負できて嬉しい!」
「本気で……きて……」
「ああ! もちろんだ! 君こそ、本気でこい!」
伊武は何も言わずに微笑んだ。
本気でこい。笑わせてくれる。この女は伊武希衣に、腕相撲で本気でこいと言う。
「審判……合図出して……」
伊武が言うと、女の子は伊武を冷たい目で見た。
言うまでもなく、伊武は失礼だ。マルジェラが直巳に差し出した握手の手を奪い、腕相撲に持ち込んだのだから。
女の子達は何も言わなかったが、その場の全員が、直巳の二の舞になるだろうと期待している。当然、負けたらマルジェラの勝利を騒ぎ立ててやるつもりだ。直巳の時よりも激しく、厳しく、伊武が恥ずかしさのあまり、顔も上げられないぐらいに。
直巳も、女の子達のひそひそ話や、場の緊張感から、それを読みとっていた。
しかし、直巳が心配しているのは伊武のことではない。
「伊武」
直巳が伊武の耳元で、そっと囁く。
「折るなよ」
伊武は目を閉じて笑うと、口の動きだけで、「わかった」と返事をした。
審判役の子が、二人の手を包む。
「いきますよー。レディー……ゴー!」
「フッ!」
マルジェラは、息を吐くと、一気に全力で伊武の腕を押さえ込もうとした。
しただけで、できない。
一方、伊武は始まる前とまったく同じ姿勢で、ただマルジェラを見ていた。
「ぐ……ぬぬ……」
マルジェラは血管が浮き出るほどに力を入れる。
女の子達は、まだ事態がわかっていないのか、無責任にマルジェラを応援する。
直巳は、誰も自分を見ていないことを確認してから、少し笑った。
自分もマルジェラを応援してやろうかと思ったが、それも性格が悪いと思い、やめた。
「うあ……ぐああ!」
マルジェラは力みすぎて顔が真っ赤だが、やはり伊武は動かない。小揺るぎもしない。
マルジェラは、もうわかっているはずだ。この、ビルを押すような手応え。
伊武希衣。これは、動かないものだ。
必死のマルジェラ。表情一つ替えず、動かない伊武。女の子達も、ようやく状況を理解してきたようで、ざわめき始める。
その時、ドラム缶がベコン! と、派手な音を立ててへこみ、続いてマルジェラがうめき声をあげた。
「うあ……あっ……!」
伊武が肘に、腕に力を入れ、握力を強めたのだ。
ドラム缶は耐えられずにへこみ、マルジェラの手はギリギリと締め付けられていた。
伊武の腕が筋肉で膨らみ、はちきれそうになる。冬用の厚いコートが、ミチミチと嫌な音を立てる。
伊武が、ちらりと直巳を見ると、直巳は苦笑していた。
マルジェラは力みと痛みのせいで、声も出ていない。
「伊武! 頑張れ!」
直巳が応援の声をあげる。
それを聞いた伊武は、そろそろ、決めてやれということだろうと理解した。
伊武は力を入れると、一気にマルジェラの腕を叩きつけた。
ドンッ! と。大きな音を立てて、マルジェラの腕がドラム缶に叩きつけられる。
伊武がマルジェラを解放すると、彼女は地面に転がり、腕を押さえた。
全力ではない。折るなと言われたから、手は抜いた。
だが、痛くするなとは、一言も言われていない。
マルジェラが、これ以上ないぐらいに敗北し、辺りを静寂が包む。
「……審判」
伊武が、ぼそっと呟くと、審判が我に返ったように伊武の手を取った。
「しょ、勝者……えっと……」
伊武は名乗りもせずに自分で手を挙げると、そのまま黙って直巳の元へ戻っていった。
「勝った……よ……」
「やりすぎだよ――でも、ありがとう」
直巳は少し困った顔をしてから、笑った。
伊武も、にっこりと微笑んだ。
「それは、マルジェラが悪いです」
アリエラが、マルジェラの腕を治療しながら、彼女を叱っていた。
腕相撲の勝負から少しの時間が経過し、昼食時になったので、アリエラは集まっていた子供達や女の子を帰らせた。この後は用事があると言っておいたので、今日は解散だ。
アリエラに懇々と説教をされ、マルジェラは何がいけなかったのか、ようやく理解した。
「直巳、申し訳なかった。君の気持ちも考えずに……恥をかかせてしまった」
マルジェラが深々と頭を下げると、直巳は、「いいですよ」と、笑って許した。
許すも何も、直後に伊武が制裁を食らわせているわけで、それでお釣りが来るぐらいに直巳の気は済んでいる。
ちなみに、マルジェラは腕相撲のせいで軽く怪我をしており、加害者である伊武は微塵も心のこもっていない謝罪をしたのだが、マルジェラもアリエラも、まったく気にしていなかった。
「いいんです。マルジェラには良い薬です。伊武さん、よくやってくれました」
アリエラはマルジェラが負けてよかったとまで言った。
「いや、強い。私も自信があったのだが、鍛錬が足りなかったな」
マルジェラは自分が負けても、さっぱりしていた。こういう性格なのだろう。
アリエラがマルジェラの治療を終えると、アリエラが昼食にしようと言い出した。
「これまでのお礼もかねて、ご馳走させてください!」
「ああ、それがいい。ぜひ、二人とも食べていってくれ」
二人はそういうが、直巳はちょっと躊躇していた。
半壊した天使教会で、何をご馳走してくれるというのか。
二人が言うところの、「ちょっとした生き物」でも出されたら、どうすればいいのか。
伊武は出されれば、何だって黙って食べそうな気もするが、嬉しいわけはないだろう。
悩んでいても仕方ないので、直巳は素直にメニューを聞いてみることにした。
「えっと、何を作る予定……なの?」
直巳がたずねると、アリエラは自信満々に答えた。
「豚汁です」
「え?」
直巳が聞き直してみるが、マルジェラも自信満々に答えた。
「うん。豚汁だ」
なぜ、外国人が二人で作る料理が豚汁なのだろう。
シチューとか、スープじゃないのか。
いや、豚汁だってシチューやスープの仲間なのかもしれないが、名前が汁だ。
「作り方……知ってるの?」
「知っていますよ。この間、ご馳走になったので作り方を聞いたんです。そしたら、目茶苦茶簡単じゃないですか、豚汁! ハーブもスパイスも使わないで、あの味ですよ? ミソスープ、すごすぎです!」
そう言って、アリエラが持ってきたのは、「出汁入り味噌」だった。
なるほど。これならたしかに、具と味噌を入れるだけで豚汁の完成だ。
「すぐに作りますので、食べていってくださいね!」
直巳が伊武を見ると、黙ってうなずいた。直巳がそうしたいなら良いよ、ということだ。
豚汁なら怖いこともないので、直巳はご馳走になることにした。
ちなみに、電気もガスも通っていないが、二人は鮮やかに調理を進めた。
マルジェラがポリタンクに水を汲みに行く間、アリエラは地面から野菜を取り出し、発泡スチロールの箱から豚肉を取り出した。冬だし、すぐに傷むこともないだろう。
そして、教会の脇に石で組まれた、たき火のレンジに、伊武が器用に火を付ける。
ここにも、器用でたくましい人がいた。
「伊武、上手だね」
「うん……火……得意……だから……」
伊武が言うと、やや物騒に聞こえるが、本当に得意なのだろう。
直巳はアリエラと一緒に、ナイフで野菜の皮をむき、切り始めた。
「ナオミ、上手ですねー」
直巳の手際の良さに、アリエラが感心する。
「家でやってるからね。野菜は、この形にしようか」
今回はすぐ食べるので、簡単に火が入るよう、薄めに切った野菜をアリエラに見せる。
アリエラも料理に慣れているようで、直巳と同じように野菜を切っていった。
油や調味料も少しずつとはいえ揃っていたので、調理で困ることはなかった。
マルジェラが汲んできた水を使い煮込んで、豚汁は問題なく完成した。
30分ほど煮込んだところで完成とし、マグカップに入った豚汁が配られた。
そして、パンも配られる。
「豚汁に……パン?」
直巳がたずねると、アリエラは不思議そうな顔をした。
「豚汁はミソスープの仲間でしょう? スープと一緒にパン、食べますよね?」
「ま、まあそうか……うん。そうだね」
食前、天使教会のお祈りに形だけ付き合ってから、食事が始まった。
一応、天使教会の中で食べたのだが、壊れた壁と天井をブルーシートで覆っているだけなので、隙間風は入ってくるし、気温は外と同じだった。
だが、そのおかげで温かい豚汁は美味しかったし、パンと一緒に食べるのも悪くなかった。
マルジェラは、この国のパンは柔らかくて甘いと文句を言っていた。もっと硬くて、小麦の味がするパンが好きらしい。
伊武は何も言わず、黙々と食べていた。遠慮することもなく、おかわりまでした。アリエラは、お客さんの伊武がたくさん食べてくれるのが嬉しいらしく、上機嫌だった。
食後、マルジェラがコーヒーを入れてくれた。パーコレーターという道具を使って煎れたもので、決して美味しくはなかったが、イベント的な楽しさはあった。
それから、コーヒーを飲みながら天使教会復興の進捗を聞いたりして、時間を過ごした。
午後三時を過ぎたあたりで、直巳達は帰ることにした。
アリエラもマルジェラも、笑顔で手を振って見送ってくれた。
天使教会から離れて、二人は夕食の買い物のために駅前へと向かった。
その道すがら、直巳と伊武は、今日のことをぽつりぽつりと話す。
「椿君……楽しかった?」
「ああ、楽しかったよ。キャンプみたいって言ったら、二人に悪いけど」
「ふふっ……そうだね……椿君は……キャンプ……好きなの?」
「小学校のころ、学校の行事で行っただけかな。ほら、うちって姉さんと二人じゃない。どうも、キャンプっていう雰囲気にはならなくて」
「そっか……なら……そのうち……行こう……私……得意だよ……」
「心強いよ。暖かくなったら、みんなで行こうか」
みんなで――暖かくなるころには、つばめの足も良くなっているだろうか。
冬は日が落ちるのが早い。もう、空は暗くなってきていた。
「マルジェラ」
「ん? なんだ?」
「今日、楽しかったですね」
「ああ。色々あったが……楽しかったな」
二人は天使教会の中で、一枚の毛布を一緒にかぶって寝ていた。
壁も天井もブルーシートで覆っているだけなので、寒くて仕方が無い。
しょうがないので、教会の中で火を焚いていた。どうせ壊れているし、燃え移らないように火を焚けるスペースを作ったのだ。修繕は少し遠のくが、寒さで風邪をひいて、肺炎にでもなったら元も子もない。
それでも寒いのだが、外とは比べるべくもない。もらった洋服を重ね着すれば、ちゃんと眠ることだってできる。
子供のころに比べたら、天国みたいな所だなと、アリエラは思う。
天国の空にブルーシートはかかっていないだろうけど。
「マルジェラ。夜空が見えないから、ブルーシートを外してもいいですか?」
「バカを言うな。雨でも降ったらどうする」
「でも――っくしゅん!」
マルジェラは、くしゃみをするアリエラを黙って抱き寄せた。
マルジェラは代謝が良いせいか、体温が高い。
アリエラの体は小さく、柔らかく、とても冷たかった。
「女の子達に怒られちゃいますよ」
「伊武に負けて、みっともない所を見せた。もう、来ないさ」
「それぐらいで、マルジェラのことを嫌いにはなりませんよ。腕、痛くないですか?」
「ああ、大丈夫だ」
マルジェラは何も言わず、アリエラを抱きしめる腕に力を込めた。
「なあ、アリエラ。この教会が直ったら、どこか行こうか」
「どこかって?」
「夜空が――綺麗に見えるところ」
「楽しみです。なら、早く教会を直さないと」
それ以上、何も言わなかった。
二人は抱き合ったままで眠った。
こうしていれば、少しは暖かいから。
こうしていれば、アリエラはどこにも行かないから。
やがて朝が来る。時間は止まらなかった。




