戦記 十一
今治に上陸して一夜を明かし、意気も盛んに駒を進める小早川隆景の軍勢であったが、別働隊である吉川元長からの使者から新居郡でのことを伝えられると、
「全軍、一旦止まれ!」
と、号令を下した。その顔は、重く、深く、考え込んでいる。
「どうかご用心くださいませ」
深く頭を垂れて言う使者の様は、まるで地獄でも抜けてきたのかと思わせるほどにぼろぼろのていたらくであった。
身をひそめて行動したものの、目ざとい領民らはあやしい奴だと見つけ出しては奇声を上げて使者を追いかけまわし。逃げ切れずにつかまり、好き放題に殴る蹴るを食らって。それでもどうにか逃げて。
死と隣り合わせの思いで隆景のもとへと駆けこんだのであった。
「そなたも、災難であったな」
「……」
使者は隆景にねぎらわれても返事もなく、黙り込んでいたかと思うと、そのまま倒れこんでしまった。
必死の思いで隆景のもとに来られて、安心して気が抜けてしまったのであろう。
側近らは隆景の命で使者をかついで別のところで介抱する。
「あやつ、一度つかまったのだな」
とつぶやいたかと思えば、
「来るぞ、構えよ!」
と、全軍に臨戦態勢をとらせた。
いまいるところは伊予西条の手前である。もうそろそろ、長宗我部側の武将・金子元宅の領地である。が、軍勢を一旦止めたうえで臨戦態勢をとらされて、将兵らは少し不思議に思わされた。
「おかしいとは思っていたが……」
「は?」
隆景のつぶやきに、側近が不思議そうにする。
「なにがおかしいのでございますか?」
「この静けさがわからぬか」
「……なるほど静かでございますな」
小早川隆景率いる毛利軍はゆく先々で伊予人らの歓声に迎えられた。伊予人らの土佐人を憎む心強く、それだけに隆景への期待も大きい。
が、その歓声も進むにしたがって小さくなった。
ここは人里離れた峠道、静かなのも当たり前ではないか、と思ったが。隆景の思う静かさは違うものだった。
「殿、敵は寡兵でございます。いまごろ城に閉じこもって、子鼠のように震えているのではございませぬか」
「喝ッ!」
油断丸出しの側近に隆景は一喝をくれた。
「元長がどのような目にあったか、そなたも聞いたであろう」
「されど、にわかに信じがたい話でございまするよ」
元長はまだ若く、油断して苦戦したのを虚実ないまぜにして取り繕って伝えたのではないか、と内心思う側近であった。
「たわけ! 元長が嘘を言う人間だと思うのか」
側近の内心を見抜いて叱り飛ばしたそのときであった。にわかに鬨の声があがり、全軍に緊張が走った。
「前方より、敵!」
その叫びがこだました途端、地が揺れ空が割れたかと思うほどの衝撃が全軍を覆った。
隆景は軍勢の中ごろにいる。先頭が敵とぶつかりわたりあっていることを全身で感じ取っていた。
「殿、敵は領民、民百姓らにございます!」
先頭からの報告が飛んでくる。それを聞いて、皆信じられぬという顔をする。
わあ、という叫びが空に響きわたるや、またたくまに先頭は押されて隊列が乱れ、敵の突破を許してしまった。
「だから構えと言ったであろうが!」
そばの者から槍をぶんどり、隆景自ら槍を振るって襲い掛かる敵を薙ぎ払った。その薙ぎ払った者たちは、武士ではなく、民百姓であった。
粗末な身なりで、鍬や鋤に、さびた太刀や槍を振り回して毛利軍に突っ込んでくる。
「これは、まさか」
毛利軍の将兵に、伊予の豪族らも顔を真っ青にして、今の事態が現実であるとにわかには受け入れられなかった。まさか伊予の民百姓が。なぜ、どうして。
「金子元宅なる者はいかなる者ぞ!」
心ならずも身を守るために襲い来る領民らを薙ぎ払いながら、隆景は近くの者に問うた。
「金子の殿様はええ殿様じゃ、お前らなどに討たせてたまるか!」
答えたのは側近や伊予の豪族ではなく、己につっかかってくる民百姓であった。皆異口同音に「金子の殿様を討たせてたまるか!」と叫びながら毛利軍に突っ込んでくる。
「血迷うな。我ら伊予の敵は土佐の長宗我部であろう!」
と叫ぶ伊予の豪族や武士の声など、領民の耳には届いても、心にまでは届かなかった。
「ええい、退け!」
隆景は苦虫をかみつぶしたような顔をし撤退の号令を下した。このまま踏ん張ったところで損害がひどくなるばかりだ。
毛利軍は百戦錬磨のつわものぞろいであるが、民百姓を討つのをためらっているうちに自分が討たれてしまうということも散見された。
玄人の戦人であるがゆえに、素人の領民を討つのは武士としての自覚が許さなかった。そのために、損害は大きくなる一方であった。
「なんということだ」
退きながら隆景はうならざるをえなかった。




