十五回目のキャンセルには、王都仕込みの聖女様を添えて
十五回目のキャンセルには、王都仕込みの聖女様を添えて
十五回目。
届いた手紙の、少しインクの掠れた「許してほしい」という文字を親指の腹で撫でた瞬間、コリンナの喉の奥から乾いた音が漏れた。
「はあ? ……また?」
思わず口から出たのは、貴族令嬢の教育で徹底して叩き落とされたはずの、酷く行儀の悪い雑駁な呟きだった。
手紙を持ってきた使者の少年は、玄関の敷石の上で申し訳なさそうに視線を落とし、かぶっていた毛糸の帽子を両手で握りつぶしている。この少年には何の罪もない。だからコリンナは、震えそうになる膝にぐっと力を込め、ポケットから銅貨を二枚取り出して少年の手のひらへ落とした。
「ありがとう。走ってきてくれたのね。気をつけてお帰り」
重い樫木の扉を閉めた途端、冷え切った静寂が廊下に満ちた。
ダイニングの長テーブルには、すでに二人分の銀のカトラリーが整然と並んでいる。
朝から厨房に立ち、固い筋の多い牛肉を香味野菜と一緒に三時間煮込んだシチューの鍋が、弱火にかけた薪ストーブの上でかすかにコトコトと音を立てていた。部屋の隅の木製ラックには、彼――婚約者のルークが好きだと言っていた、ラム酒に漬けた干しイチジクのタルトが、きれいに焼き色をつけて粗熱を取るために置かれている。
「コリンナ様……」
後ろでエプロンを固く握りしめていた侍女のアンナが、今にも泣き出しそうな顔で歩み寄ってきた。
「アンナ、火を小さくして」
「でも、ルーク様は……」
「来ないわ。エミリアがね、また今朝から胸が締めつけられて息が苦しいらしいの。ルークが背中をさすって、手を握っていないと不安で発作が悪化するんですって」
手紙を握りしめ、ストーブの焚き口へ投げ込もうとして――コリンナの手が途中で止まった。
火に炙られそうになった指先を引っ込め、くしゃりと皺の寄った羊皮紙を見つめる。
……だめ。燃やしてはだめだ。
怒りで胸が張り裂けそうでも、これを灰にしてしまえば「届かなかった」「そんなことは言っていない」と言い逃れされる。
コリンナは深く息を吐き出し、手のひらで何度も手紙の皺を伸ばした。引き出しの奥、過去十四回分の「行けなくなった」「本当にすまない」が束ねられた細い麻紐の横へ、震える手で十五枚目を重ねた。
胸の奥が、冷たい泥を飲み込んだように重かった。
怒りよりも先に、惨めさが全身を駆け巡る。
一回目は、仕方がないと思った。二回目は、大変ねと気遣った。三回目は、本当に大丈夫なのと心配した。だが五回、十回と続き、今日で十五回目だ。
春の観劇、初夏のピクニック、収穫祭のパレード、そして今日の、私の二十歳の誕生日を祝うはずだった夕食。
全部、エミリアの「急な発熱」「原因不明のめまい」「突然の過呼吸」によって消えた。
なのに、その翌々日には、エミリアが街のレース店で機嫌よく買い物をしていたり、ルークの腕にぶら下がってカフェのテラスで冷たい果実水を飲んでいる姿を、領民の誰かしらが目撃しているのだ。
――そんなわけあるか。
本当に死ぬほど苦しいなら、翌日に立ち上がれるはずがない。
わかっている。わかっているのに、ルークからの「君は強いから、一人でも大丈夫だろう?」「あいつは俺がいないと死んでしまうかもしれないんだ」という言葉をぶつけられるたび、コリンナは何も言い返せなくなっていた。
言い返せば、器の狭い、病人を思いやれない冷酷な女になってしまう気がして怖かった。
何より、子どもの頃に木登りをして落ちた私を、泣きながら背負って家まで走ってくれた優しいルークの面影が、まだ心のどこかに残っていた。好きだったのだ。情けなくも、まだ彼の優しさに縋りたかった。
「……アンナ。お鍋は火から下ろして、地下の食糧庫へ。タルトは、切り分けて使用人のみんなで食べてちょうだい」
「お嬢様は? お嬢様は何を召し上がるのですか?」
「私? 私は……今は何も入らないわ」
喉がカラカラだった。煮込みシチューの匂いを嗅ぐだけで、胃が小さく縮むような不快感があった。
コリンナは自分の部屋に戻り、ベッドの端に腰掛けた。
足元には、昨日磨いたばかりの革靴が置かれている。明日はルークと一緒に、領地の境界にある薬草園へ行くはずだった。彼が「君の薬草の知識はすごいね」と褒めてくれたから、見せたい珍しい苗をいくつも鉢に植え替えて準備していたのだ。
机の上には、真鍮製の小さな携帯ランタンが置かれている。
精霊石を仕込んだこのランタンは、夜の薬草園で霜が降りないよう、微弱な温風と光を放つ特注品だ。冷えた金属に触れると、手のひらから体温を奪われていく。
泣くのは、もうやめだ。
もしエミリアが本当に重病なら、完治させてあげるのが人の情けというものだろう。
そしてもし――それがすべて、私からルークを奪い、優越感に浸るための嘘なのだとしたら。
コリンナは机の引き出しから、王都の魔導医療院にいる従姉からの紹介状を取り出した。
東部司教区を巡回している王都の大聖女様。恩師である彼女へ宛てた紹介状を握りしめ、コリンナは外套のボタンを上まで留めた。
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翌日の昼下がり。
ルークの男爵邸の応接間には、微かな香水の匂いと、大仰な溜息が満ちていた。
長椅子には、薄絹のショールを幾重にも巻き、青白い顔を作ったエミリアが横たわっている。その傍らには、心配そうに眉を寄せ、彼女の手を両手で包み込んでいるルークがいた。
「ルーク……ごめんなさい。私のせいで、またコリンナ様とのお食事を……」
「いいんだ、エミリア。君の命には代えられない。コリンナも分かってくれるさ。あいつはしっかり者だから、一人でも平気なんだ」
開け放たれた扉の外でその会話を聞いた瞬間、コリンナの胃の底がひやりと冷えた。
平気なわけ、ないでしょう。
コリンナは一度だけ強く目を閉じ、それから静かに息を吸って部屋へ踏み込んだ。
「ごきげんよう、ルーク。エミリア様」
ルークが弾かれたように立ち上がった。
「コ、コリンナ!? なぜここに……昨日の今日で、少しは休んでいるのかと……」
「休んでなんていられないわ。ルーク、昨日の手紙を読んだもの。エミリア様がまた胸の激痛で生死の境をさまよっていると」
「あ、ああ……そうなんだ。急に発作が起きて、俺がついていないと呼吸が浅くなってしまって」
「ええ、大変ね。もう十五回目ですもの、素人判断で放置できる段階ではないわ。だから私、巡回で近くにいらしていた最高の方をお呼びしたの」
コリンナが横へ退くと、廊下から静かな足音が近づいてきた。
純白の法衣に身を包み、胸元には大神殿の筆頭治癒師しか身につけることを許されない金色の百合の紋章。銀髪をきっちりと結い上げた理知的な女性――王都の大聖女、マチルダ猊下だった。
その後ろには、医療鞄を抱えた神殿の補佐官が一人控えている。
エミリアの目が丸くなった。
「え……?」
「ご紹介するわ。王都の大聖女マチルダ猊下よ。エミリア様、良かったわね。猊下ほどの御方なら、どんな難病でも正しく見立ててくださるわ」
ルークがぽかんと口を開けたあと、見る見るうちに血の気を引かせていった。
「ま、待てコリンナ! 大聖女様を呼ぶなんて、大げさすぎる! エミリアはただ、身体が少し弱くて、気持ちが不安定になりやすいだけで――」
「何を言っているの、ルーク?」
コリンナは、震えそうになる声を両足で踏みしめながら遮った。
「あなた、昨日の手紙に何て書いた? 『一刻を争う容態で、俺が離れたら彼女は息絶えてしまうかもしれない』って書いたじゃない。命がかかっているのよ? そんな重篤な方を前にして、大聖女様のお力をお断りする理由がどこにあるの? それとも何? あなたの手紙は、私を言いくるめるための真っ赤な嘘だったの?」
「そ、それは……! 嘘ではないが、言葉の綾というか、だな……!」
ルークの視線が泳ぎ、言い訳が散らかり始める。
「彼女は繊細なんだ! いきなり大聖女様なんていらしたら、緊張して余計に発作が悪化するかもしれないだろう!」
「ご心配には及びません」
静かだが、部屋の空気を一変させる重みのある声が響いた。
マチルダが穏やかな足取りで長椅子へ近づき、眼鏡の奥の灰色の瞳をエミリアに向けた。
「神殿の診断は、患者に苦痛を与えるものではありません。そっと額に触れ、魔力の波長を拝見するだけです。――さあ、お嬢さん。息苦しいのでしょう? 額を拝見します」
補佐官が柔らかな布と診察用の小さな水晶球を取り出す。
逃げ場のない厳かな空気に、エミリアの呼吸が目に見えて乱れ始めた。しかしそれは病の発作ではなく、明白な狼狽だった。
「あ、あの……わたくし、もう大丈夫です! 急に胸の痛みが引いてまいりましたの!」
「重篤な発作が急に消えることなどありません。伏発性の心臓疾患なら命に関わります。全身の血流と脈拍を正確に測りましょう」
マチルダが静かに、だが拒絶を許さない所作で手を伸ばした。その清らかな指先が額に触れようとした瞬間、エミリアは悲鳴を上げて飛び起きた。
「嫌! 触らないで!」
「エミリア!?」
ルークが驚愕の声を上げる。
長椅子から素早く床へ飛び降りたエミリアの足取りには、ふらつきも衰弱も微塵もなかった。彼女は肩のショールを乱暴に振り落とし、真っ赤な顔で叫んだ。
「何もないのよ! どこも痛くなんてないわ! ちょっと頭が痛いって言えばルークが飛んでくるから、コリンナさんと出かけるのを邪魔して遊んでいただけよ! 大聖女様なんて呼ぶなんて聞いてないわ、もうやめて!」
応接間が、凍りついたような静寂に包まれた。
マチルダは伸ばしていた手を静かに下ろし、補佐官から差し出された記録用紙を受け取った。そして、エミリアの脈を見るまでもなく、淡々と告げた。
「……跳躍の俊敏さ、発声の肺活量、皮膚の血色。いずれも極めて健常です。神聖術を用いるまでもありませんね。単なる詐病です」
「エミリア……お前、嘘だったのか……?」
ルークが愕然として呟いた。
その間抜けな表情を見た瞬間、コリンナの胸の底から、乾いた怒りがせり上がってきた。
「気づかなかったとでも言うの、ルーク」
「コ、コリンナ……」
「十五回よ? 十五回も同じ手口で約束を破られて、本当に気づいていなかったのなら救いようのない愚か者だわ。……いいえ、本当は気づいていたんでしょう? 『自分がいなければ死んでしまう儚い少女』に頼られて、いい気分に浸っていただけじゃないの」
「ち、違う! 俺は騙されていたんだ! 俺だって被害者だ!」
ルークは取り乱し、床にへたり込むエミリアを指差した。
「あいつが嘘をついていたんだ! 俺は善意で看病していただけなんだぞ! コリンナ、信じてくれ、俺が悪かったんじゃない!」
その醜い責任転嫁を耳にした瞬間、コリンナの中で張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。
ああ、本当に終わったのだ。
あの日、怪我をした私をおぶってくれた少年は、もうどこにもいない。ここにいるのは、自分の保身のために他人の時間と自尊心を平気で踏み躙る、ただの情けない男だ。
「これに署名を」
コリンナは鞄から、一枚の書面を取り出してテーブルの上に置いた。
「な、なんだこれは……婚約解消の合意書……?」
「ええ。あなたが十五回にわたって正当な理由なく婚約者としての義務を放棄したこと、そしてエミリア様の虚偽に加担して私の名誉を著しく損ねたことを理由とする婚約解消よ。今ここで、あなたの意思として解消に合意する署名をしなさい」
「待ってくれ! 両家の話し合いもなしに、そんなの認められるわけが――」
「両家の正式な清算は、後日伯爵家と男爵家の代理人を立てて行います」
コリンナは鞄から、麻紐で縛られた分厚い紙の束を取り出し、書類の横に叩きつけた。
バサリと重い音が響く。
「ここにある十五通の手紙、そしてエミリア様が『重病』の翌日に街で買い物をしていた目撃証言の記録、さらに過去に薬草園の維持費として我が家から男爵家へ貸し付けていた帳簿の写しです。正式な慰謝料と貸付金の返還請求は、父と顧問弁護士から男爵家へ送られます。あなたが今ここで拒否するなら、大聖女マチルダ猊下を不当に呼びつけ偽証を働いた件も含めて、神殿法廷に直接訴え出ることになりますけれど?」
マチルダが冷ややかに眼鏡の縁を直した。
「神殿への虚偽申告および治癒師の職権妨害。事実関係の調査には、喜んで証言いたしましょう」
「ひっ……!」
ルークは喉を詰まらせ、ガタガタと震える手で羽ペンを取り上げた。
インクをボタボタと垂らしながら、書面の末尾に歪な文字で自分の名を書き殴る。
ペンを置いたルークは、蒼白な顔でコリンナを見上げた。
「コリンナ……頼む、もう一度だけ――」
「二度と、私の前に現れないで」
コリンナは書類と手紙の束を素早く鞄へ収め、一度も振り返らずに応接間を出た。
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それから一ヶ月が過ぎた。
両家の清算は、驚くほど事務的に、かつ迅速に進んだ。
コリンナの父が提示した十五通の手紙と帳簿の前に男爵家は一切の抗弁ができず、過去の貸付金は全額返還され、相応の慰謝料が支払われることで正式に婚約は破棄された。ルークは責任を取らされる形で、王都から遠く離れた親類の工房へ見習いとして出向かされたという。エミリアの実家も、神殿へ多額の寄付金(という名の事実上の詫び金)を納めることになり、彼女が社交の場に顔を出すことは二度となくなった。
秋が深まり、アルスハイム領の薬草園には冷たい風が吹き抜けていた。
コリンナは泥のついた作業着のまま、霜除けのガラス温室の扉を閉めた。
「コリンナ様、お疲れ様です! 休憩にしましょう」
アンナが湯気の立つ素焼きのポットと、布で包んだバスケットを抱えてやってきた。
「ありがとう、アンナ。ちょうど根の掘り上げが終わったところよ」
コリンナは革手袋を外し、井戸から汲み上げたばかりの水で手を洗った。水は指先が痛むほど冷たかったが、泥が落ちて白くなった自分の手を見ると、胸の奥がすっと整うような気がした。
温室の脇にある木製のベンチに並んで腰掛ける。
テーブルの中央には、真鍮製の携帯ランタンが置かれ、精霊石の微かな温風と柔らかな光を周囲に放っていた。
アンナがバスケットから取り出したのは、焼きたての固焼きパンと、塩漬け豚肉と根菜を煮込んだ温かいスープだった。
「スープ、冷めないうちにどうぞ。今朝の当番の料理人が、生姜を効かせてくれたんです」
「いただきます」
木匙でスープをすくい、口に運ぶ。
生姜のぴりりとした辛みと、豚肉の素朴な旨味が、じんわりと冷えた身体の芯を温めていく。誰かを待つこともなく、冷めていく油の膜を眺めることもなく、温かいものを温かいうちに食べる。それだけのことが、泣きたくなるほど美味しかった。
スープを飲み干したあと、コリンナはポケットから油紙の包みを取り出した。
中に入っているのは、秋の初めに保存用として二つ割りにして干したイチジクだ。
かつてはタルトにして誰かに差し出すために用意していたそれを、コリンナは指先で一片取り、アンナの手のひらへ分けた。
「アンナ、これどうぞ」
「えっ、いいんですか? これ、すごく甘く仕上がったやつですよね」
「ええ。二人で食べましょう」
手元に残ったもう一片を、自分の口へ放り込む。
ぎゅっと凝縮された果実の甘みと、種のプチプチとした歯触りが口いっぱいに広がった。噛みしめるたびに、素朴で力強い大地の味がする。
ふと、薬草園の向こうに広がる青い空を見上げた。
時折、胸の奥がちくりと痛む夜はある。一人で眠りにつくとき、幼い頃に背負ってくれたルークの温もりや、彼が好きだと言ってくれた笑顔を思い出して、毛布の中で静かに息を潜めることが全くないわけではない。
好きだったのだ。あの温もりを信じたかった時間は、私の人生の確かな一部だった。
けれど、もう誰かの都合のいい言い訳に付き合うのはおしまいだ。
「アンナ、午後からは乾燥小屋の棚を一段増やしましょう。冬が来る前に、風邪薬の調合を終わらせておきたいの」
「はい、お嬢様!」
コリンナは干しイチジクをしっかり噛みしめて飲み込み、膝を払って立ち上がった。
真鍮のランタンを持ち上げると、手のひらに確かな温もりが伝わってくる。
待つだけの暮らしを捨て、自分の足で歩き出したこの場所で、私の本当の生活が続いていく。




