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春に取り残されたまま

作者: てん
掲載日:2026/06/02

この物語は、綺麗な恋愛の話ではありません。


好きだった。

でも苦しかった。

離れた方がいいと分かっていたのに、離れられなかった。


そんな、不器用で、未熟で、どうしようもない恋の話です。


きっと人によっては、「やめておけばよかった恋」に見えると思います。



誰かを好きになることって、もっと綺麗で正しいものだと思っていた。

でも実際は、依存も執着も、不安も寂しさも混ざっていて、全然綺麗じゃなかった。



それでも、確かに大切だった時間を書き残したくて、この物語を書きました。


もしどこか一部分でも、誰かの記憶や感情に重なったら嬉しいです。

春の風が嫌いになったのは、あの日からだった。


四月のはじめ。

春休み最後の日。


「また今度な。」


悠真は、いつもみたいな声でそう言った。


だから私は、終わるなんて思わなかった。


本当は少しだけ、嫌な予感がしていたのに。


ふたりで一緒に過ごせる、この時間がずっと続けばいいと思った。


でも、“また今度”は来なかった。


──


二十歳になったばかりだった。


誕生日を迎えた瞬間よりも、親から届いた短いLINEよりも、「もう大人なんだ」と言われることよりも、私の記憶に残っているのは、十月のあの夜だった。


「二十歳になったんだし飲みに行こ!」


仲のいい女友達に誘われて入った居酒屋は、金曜の夜で騒がしかった。

焼き鳥の匂いと、酔っ払いの笑い声。

私はまだお酒に慣れていなくて、レモンサワーをゆっくり飲んでいた。


その時だった。


「あれ、美咲?」


大学の男友達が、驚いた顔で立っていた。


その隣にいたのが、悠真だった。


第一印象は、正直よく覚えていない。


別に一目惚れしたわけじゃない。

芸能人みたいにかっこいいとも思わなかった。


でも、少し眠たそうな目で笑う人だな、と思った。


そこから流れで四人で飲むことになって、二次会でカラオケに行った。

朝まで歌って、笑って、始発が動き始める時間。

カラオケに入るまでは晴れていた空。

出る時には、雨が降っていた。


「うち来る?」


悠真がそう言った時、私は何も考えていなかった。


四人で雑魚寝するだけ。

そんな軽い気持ちだった。


悠真の家は少し散らかっていた。

コンビニの袋が床に置きっぱなしで、ゲームのコントローラーが転がっていて、柔軟剤と煙草の匂いが混ざっていた。


朝になって、女友達と男友達は学校へ行った。


部屋に残ったのは、私と悠真だけだった。


静かな空気だった。


カーテンの隙間から光が入って、悠真は眠そうに「まだ寝る?」と言った。


なんとなくそういう雰囲気になって、一線を越えた。


本当は、あの時点で分かっていたのかもしれない。


こういう始まり方をした恋は、多分うまくいかない。


それでも私は、悠真を好きになってしまった。


そしてその日から、私の世界は少しずつ、悠真を中心に回り始めた。


──


「多分、俺ら最初から間違ってたんだよ。」


後になって、悠真はそう言った。


でも、その頃の私はまだ知らなかった。


間違っていたとしても、人はちゃんと恋に落ちることを。

だめだと分かっていても、好きになってしまうことを。


悠真と会う日は、朝から落ち着かなかった。


何着ようとか、今日機嫌いいかなとか、返信遅いなとか。


ただ会うだけで嬉しかった。


抱きしめられると安心した。

名前を呼ばれるだけで、胸がいっぱいになった。


なのに、会っていない時間はずっと不安だった。


私は彼女じゃない。

でも、ただのセフレでもない。


その曖昧さが、ずっと苦しかった。


「好きだよ。」


ある夜、私は勇気を出して言った。


悠真は少し黙ってから、困ったみたいに笑った。


「俺も好き。でも、付き合いたいかは分からない。幸せにできる自信もない。」


胸が痛かった。


でも、その“好き”だけで生きられる気がした。


今思えば、私はあの頃からずっと、“ちゃんと選ばれたい”と思っていたのかもしれない。


──


美咲は、真っ直ぐすぎた。


最初は軽い関係のつもりだった。

会いたい時に会って、楽しく過ごして、それだけのはずだった。


でも、気づけば美咲からの通知を待つようになっていた。


一緒にいると落ち着いた。

くだらないことで笑うし、眠そうに擦り寄ってくるし、名前を呼ぶと嬉しそうにする。


可愛かった。


だから多分、好きだった。


でも、怖かった。


美咲の“好き”は真っ直ぐで、自分みたいな人間が受け止めていいものじゃない気がした。


付き合ったら、ちゃんとしなきゃいけない。

期待される。

傷つけるかもしれない。


だから曖昧にしていた。


なのにクリスマスが近づく頃には、美咲を失う想像の方が嫌になっていた。


だから、「付き合おう」と言った。


その瞬間の美咲の顔を、今でも覚えている。


泣きそうなくらい嬉しそうだった。


その顔を見て、自分は最低だと思った。


こんな顔をさせる資格なんて、本当はなかったから。


──


クリスマスの次の日、“悠真の彼女”になった。


たったそれだけのことなのに、世界が変わった気がした。


朝起きてLINEを開いた時、

「おはよう」が来ているだけで嬉しかった。


コンビニで好きそうなお菓子を見つけると買ってしまうし、講義中も気づけば悠真のことを考えていた。


友達に「最近楽しそうだね」って笑われて、私は誤魔化しながら笑った。


幸せだった。


少なくとも、その時の私は本気でそう思っていた。


悠真の家で一緒に寝る時間が好きだった。


暗い部屋。

煙草の残り香。

眠そうな声。


「美咲」


名前を呼ばれるだけで安心した。


悠真は、優しい時は本当に優しかった。


コンビニで私の好きな飲み物を覚えてくれていたり、寒い日に黙って手を繋いできたり、酔うと少し甘えた声になったり。


別に完璧な人じゃない。


むしろだらしないし、適当だし、返信遅いし、約束も曖昧だった。


でも私は、そんな全部を好きになってしまっていた。


だからこそ、怖かった。


幸せな時間が増えるほど、「失うかもしれない」が大きくなっていった。


返信が少し遅いだけで不安になる。

SNSのオンライン表示を見る。

誰といるんだろうって考える。


こんな自分、嫌だった。


重くなりたくなかった。

面倒な女になりたくなかった。


でも、好きが大きくなるほど、不安も大きくなっていった。


──


二月の頭だった。


その日は、いつもより部屋が静かだった。


悠真はベッドに座ったまま、しばらく何も言わなかった。


嫌な予感がした。


こういう時の予感って、当たる。


「……別れたい」


その瞬間、一気に身体が冷たくなった。


何を言われたのか、一瞬理解できなかった。


「なんで」


やっと出た声は、自分でも驚くくらい震えていた。


悠真は目を逸らした。


「なんか、もう分かんなくなった。」


曖昧な言葉だった。


でも、その曖昧さが逆に本気なんだって分かった。


私は泣いた。


みっともないくらい泣いた。


嫌だ。

別れたくない。

まだ好き。

なんで。


頭の中で言葉がぐちゃぐちゃになった。


その頃にはもう、悠真は“好きな人”じゃ済まなかった。


安心する場所だった。

帰りたくなる場所だった。


失うなんて、考えられなかった。


だから私は、情けないって分かっていても言った。


「都合よくてもいいから、会いたい。」


普通なら言わない言葉だったと思う。


プライドも何もなかった。


ただ、完全に失うのが怖かった。


悠真は長い間黙っていた。


そして、小さく「分かった。」と言った。


その瞬間、安心してしまった自分がいた。


終わらなかった。


まだ会える。


それだけで、生き延びた気がした。


──


別れを切り出したのは、俺の方だった。


美咲を見ていると苦しくなった。


真っ直ぐ好きでいてくれるのが分かるから。


でも、俺はその期待に応えられる人間じゃなかった。


返信を返さない日もある。

他の女とも連絡を取る。

寂しくなると、誰かに逃げたくなる。


最低だと思っていた。


美咲といると安心した。


でも安心するほど、“このままじゃだめだ”って気持ちも大きくなった。


自分は、ちゃんと誰かを愛せる人間じゃない。


だから別れた方がいいと思った。


それなのに。


「都合よくてもいいから、会いたい。」


泣きながらそう言った美咲を、俺は突き放せなかった。


好きだった。


本当に。


でも、“好き”だけで幸せにできるわけじゃないことも分かっていた。


それでも、「分かった」と言ってしまったのは、自分自身も離れたくなかったからだ。


──


別れたはずなのに、私たちは終われなかった。


「今日空いてる?」


悠真から来る短いLINEひとつで、私は何度でも期待してしまった。


会えば、前と変わらなかった。


コンビニでお酒を買って、悠真の家に行って、ベッドでくっついて、眠くなったらそのまま寝る。


別れた恋人、なんて空気じゃなかった。


悠真は相変わらず名前を呼ぶ声が優しかったし、後ろから抱きしめてきたし、眠そうに「こっち来て」と言った。


だから私は、分からなくなっていた。


私たちって何なんだろう。


別れたのに、どうしてこんな恋人みたいなんだろう。


でも、怖くて聞けなかった。


聞いて、本当に終わる方が怖かった。


──


三月。


全部が崩れた。


悠真が、付き合っていた時に浮気していたことを知った。


しかも相手とは、一回だけじゃなかった。


セフレみたいな関係だった。


その事実を知った瞬間、息ができなくなった。


スマホを持つ手が震えた。


頭が真っ白だった。


なんで。

付き合ってたよね。

好きって言ったよね。


聞きたいことは山ほどあるのに、言葉にならなかった。


悠真は最初、黙っていた。


言い訳もしなかった。


その沈黙が、逆に苦しかった。


私は泣きながら責めた。


「なんでそんなことできるの?」


「私じゃ足りなかった?」


「好きってなんだったの?」


ぐちゃぐちゃだった。


怒ってるのか、悲しいのか、自分でも分からなかった。


ただ苦しかった。


それなのに。


それでも。


嫌いになれなかった。


悠真は長い間黙ってから、小さく言った。


「向こうとは終わりにする。」


私は、その言葉に縋ってしまった。


本当は分かっていた。


問題はそこだけじゃないって。


浮気相手が消えても、私たちが急に綺麗な恋になるわけじゃない。


でも私は、悠真を失う方が怖かった。


だからまた、信じたかった。


──


バレるだろうな、とは思っていた。


いつか終わると思っていた。


でも、実際に美咲が泣く顔を見た時、想像していたよりずっと苦しかった。


本当に最低だと思った。


好きじゃないわけじゃなかった。


むしろ、美咲といる時が一番落ち着いた。


でも、自分の寂しさとか欲とか、そういうものを制御できなかった。


美咲だけで満たされない、とかじゃない。


多分、自分自身の問題だった。


誰かに求められていないと不安だった。

一人になるのが嫌だった。


だから逃げた。


でも、逃げた先でも結局、頭に浮かぶのは美咲だった。


泣きながら「私じゃ足りなかった?」と聞いてきた時、俺は何も言えなかった。


違う、と言いたかった。


でも、「違う」と言える資格もない気がした。


向こうと終わりにすると言ったのは、本心だった。


美咲を繋ぎ止めたかった。


失いたくなかった。


でも同時に、また傷つける未来も見えていた。


それでも、離せなかった。


美咲が俺を見る目が、あまりにも真っ直ぐだったから。


──


四月。


春の匂いが嫌いになった。


新しい季節みたいな顔をして、何事もなかったみたいに暖かくなるから。


私の中は、ずっと冬のままだった。


悠真との関係は、もう何だったのか分からなくなっていた。


恋人ではない。

でも、他人でもない。


会えば抱きしめられるし、名前も呼ばれる。

キスもする。

隣で眠る。


なのに未来の話は一切しなかった。


私はずっと、怖いもから目を逸らしていた。


──


春休み最後の日。


その日は、やけに空気が静かだった。


悠真の部屋で、いつもみたいに並んで寝転がって、適当な動画を流して、コンビニのお酒を飲んだ。


何気ない時間だった。


でも私は、その何気なさが永遠じゃないことを、どこかで感じていた。


悠真は眠そうに笑っていた。


私はその横顔を見ながら、考えていた。


この人のこと、本当に好きだな。


苦しくても、傷ついても、やっぱり好きだ。


どうしてこんなに好きになっちゃったんだろう。


──


帰る時間になった。


私は靴を履きながら、少しだけ期待していた。


「また連絡する」

とか、

「次いつ会う?」

とか。


何か、未来に繋がる言葉が欲しかった。


でも悠真は、いつも通りの声で笑って言った。


「また今度な。」


その言葉を聞いた瞬間、胸が少し痛くなった。


ああ、って思った。


これ、最後かもしれない。


理由なんてなかった。


ただ、なんとなく分かってしまった。


でも私は、その予感を飲み込んだ。


「うん、またね。」


笑ってそう返した。


終わりたくなかった。


だから、気づかないふりをした。


──


玄関を出る美咲の後ろ姿を見送ったあと、俺は珍しく煙草を吸わなかった。


胸の奥が重かった。


多分、これで最後になる。


そんな気がしていた。


美咲も、少し気づいていた気がした。


でもお互いに、何も言わなかった。


言ったら、本当に終わってしまう気がしたから。


「また今度な。」


自然に出た言葉だった。


でも、本当は自分が一番分かっていた。


“また今度”なんて、もう来ないこと。


美咲は「またね。」と笑った。


その笑顔を見た瞬間、少しだけ後悔した。


こんな顔をさせるくらいなら、中途半端に優しくするべきじゃなかった。


最初から関わらなければよかった。


でも、それでも。


出会わなければよかった、とは思えなかった。


──


それから、数日間連絡は来なかった。


私はスマホを何度も開いた。


通知が来ていないか確認して、来ていない現実に傷ついた。


動画フォルダを開く。


悠真が笑っている。


私の名前を呼んでいる。


酔った声で「大好き」と言った夜も残っている。


『酔った勢い9割だけどな』


そう笑ってたくせに。


私は、その一言を今でも忘れられない。


どれだけLINEを読み返しても、時間は戻らない。


どれだけ会いたくても、もう会えない。


トーク画面を開いては閉じることを繰り返しながら、ああ、本当に終わったんだって少しずつ分かってしまった。


春休み最後の日の"また今度"は、もう二度と来ない約束だったんだって。


それなのに。


夜になると、今でも思ってしまう。


会いたい。


抱きしめてほしい。


もう一回だけ、名前を呼んでほしい。


最低な人だった。


浮気もした。

私を不安定にした。

大事にされていたとは言えない。


それでも。


私にとっては、安息の地だった。


春の風が、カーテンを揺らす。


スマホの画面には、一時停止された動画。


そこにはまだ、未来が終わるなんて知らなかった頃の悠真が笑っていた。


私は画面を閉じられないまま、静かな部屋でひとり泣いた。


その日はやけに、風が強く感じた。


──


時間が経てば忘れる。


みんな簡単にそう言った。


新しい恋をすればいい。

もっといい人いるよ。

そんな男やめなって。


全部、正しいんだと思う。


悠真が最低だったことも、私を幸せにできる人じゃなかったことも、ちゃんと分かっている。


それでも。


夜になると、どうしても思い出してしまう。


──


大学の帰り道。


ふと似た背中を見つけて、心臓が跳ねる。


でも近づけば別人で、私は勝手に傷つく。


コンビニで悠真が好きだった煙草を見かける。

もう吸っている姿なんて見られないのに、視線だけが止まる。


春の夜風が吹くたび、最後の日を思い出す。


「また今度な。」


結局、来なかった約束。


私は今でも、あの“また今度”の続きを待ってしまっている。


──


友達の前では笑えるようになった。


講義も行くし、ご飯も食べるし、普通に会話もする。


でも、一人になると駄目だった。


LINEを開いてしまう。


もう増えることのないトーク画面。


スクロールすれば、まだそこには“恋人だった頃”の私たちがいる。


『今日何時に来る?』


『コンビニ寄って』


『美咲』


たったそれだけの言葉が、苦しい。


動画も消せなかった。


悠真が笑う声。

眠そうな顔。

私を呼ぶ声。


再生している間だけ、まだ失っていない気がする。


でも動画が終わると、現実だけが残る。


──


美咲のことを思い出さない日はなかった。


でも、自分から連絡することはできなかった。


中途半端に優しくしたら、また期待させる。


また傷つける。


それが分かっていたから。


本当は、何回もLINEを開いた。


『元気?』


たったそれだけ送ろうとして、やめた。


今更、何を言うんだと思った。


俺は、美咲を幸せにできなかった。


好きだった。


それは本当だった。


でも好きだけじゃ足りなかった。


美咲は、俺なんかより、もっとちゃんと愛されるべきだった。


そう思うのに。


酔った夜とか、一人で煙草を吸っている時とか、ふと思い出す。


眠そうに擦り寄ってきたこと。

名前を呼ぶと嬉しそうに笑ったこと。

「会いたい」って真っ直ぐ言ってくれたこと。


全部、自分には重すぎるくらい真っ直ぐだった。


だからこそ、失ったあとに残る。


──


五月。


ゴールデンウィークが終わった頃には、季節はもう春というより初夏だった。


でも私の時間だけ、四月で止まったままだった。


どれだけタラレバを考えても意味がないことくらい分かってる。


もっと強かったら。

もっと器用だったら。

都合のいい関係を提案しなかったら。


違う未来があったのかなって、何度も考えてしまう。


でも結局、答えなんて出ない。


私は今でも、悠真を忘れられない。


最低だった。

クズだった。


それでも、私にとっては大きすぎた。


簡単に埋まるような穴じゃなかった。


──


夜中。


私はまた、動画を開いてしまう。


画面の中の悠真が笑う。


『なに撮ってんねん』


少し呆れた声。


そのあと、小さく笑う。


私は動画を止める。


苦しくなるって分かってるのに、見てしまう。


涙が落ちる。


もう泣かないって決めたのに。


会いたい。


できることなら、もう一回だけ。


抱きしめてほしい。

名前を呼んでほしい。


でも、どれだけ願っても、時間は戻らない。


春の風が静かに吹く。


私は、春に取り残されたまま、今日も悠真を思い出している。


──


六月。


雨の匂いが増えた。


湿った空気。

曇った空。

低い気圧。


全部、少しだけ気持ちを沈めた。


私は相変わらず、ちゃんと眠れなかった。


夜になると、悠真を思い出す。


昼間は平気なふりができるのに、静かになると駄目だった。


──


ある夜。


友達と飲みに行った帰り、私は少し酔っていた。


駅までの道を歩きながら、無意識にスマホを開く。


指は迷わず、悠真とのトーク画面を押していた。


最後の会話は、何週間も前で止まっている。


『またね』


その文字を見るだけで、胸が痛くなった。


送ろうかな。


久しぶりって。


元気?って。


会いたいって。


酔った頭で、何回も文章を打っては消した。


『最近どうしてる?』


消す。


『会いたい』


消す。


『最後に一回だけ』


消す。


画面の白い入力欄だけが、ずっと残っていた。


結局、送れなかった。


送ったところで、既読もつかないかもしれない。


それどころか、部活の友達との話のネタにされるかもしれない。


そんな想像までしてしまって、私はスマホを閉じた。


情けなかった。


まだこんなに好きな自分が。


──


通知欄に、美咲の名前が出る気がする時があった。


もちろん、実際には来ていない。


ただ、自分が気にしているだけだった。


美咲なら、もうとっくに前向いてるかもしれない。


そう思う日もあった。


でも同時に、まだ泣いてる気もした。


あいつ、不器用だから。


煙草を咥えながら、ぼんやりそんなことを考える。


連絡しようと思ったことは、一回じゃなかった。


でも、できなかった。


自分から戻ったところで、また同じことを繰り返す未来しか見えなかったから。


美咲は、多分また俺を許してしまう。


そして俺は、多分また甘える。


だから終わったんだと思った。


それでも。


コンビニで、美咲が好きだったお菓子を見ると、少しだけ苦しくなった。


──


七月。


夏が近づいていた。


街には半袖が増えて、アイス売り場が広くなって、夜の空気が少しぬるくなる。


去年の夏の私は、まだ悠真を知らなかった。


そんな当たり前のことに、変な気持ちになる。


悠真を知らなかった頃の私は、どんなふうに毎日を過ごしていたんだろう。


今となっては、もう思い出せなかった。


それくらい、悠真は私の生活に入り込んでいた。


──


「まだ好きなの?」


友達に聞かれた時、私は少し笑ってしまった。


“まだ”なんて言葉で片付けられるほど、簡単じゃなかった。


好きとか嫌いとか、もうそんな単純な感情じゃない。


会いたい。

苦しい。

忘れたい。

忘れたくない。


全部が混ざっていた。


「分かんない。」


私はそう答えた。


それが、一番本当だった。


──


夜。


ベッドの中で、私はまた動画を開く。


悠真が眠そうに笑っている。


『美咲』


優しい声。


その瞬間、胸の奥が痛くなる。


もう戻れない。


本当は、ずっと前から分かってる。


あの恋は、戻ったとしてもきっとまた私を傷つける。


幸せだけじゃ終われない。


それでも。


それでもまだ、会いたいと思ってしまう。


私はスマホを胸に抱えたまま、小さく目を閉じた。


夏が来ても、私の心だけ、まだ春の終わりに取り残されていた。


──


八月。


蝉の声がうるさいくらい響いていた。


夏なんて嫌いだった。

暑いし、汗かくし、メイクも崩れるし。


でも今年の夏は、それ以上に嫌だった。


どこにいても、季節だけが勝手に進んでいくから。


私だけ置いていかれてるみたいだった。


──


ある日、大学帰りに突然大雨が降った。


私はコンビニの軒下で雨宿りしながら、ぼんやり道路を見ていた。


雨の匂い。

濡れたアスファルト。

車の音。


その瞬間、ふと思い出した。


悠真とコンビニに行った帰り道。


「走るぞ」


って笑いながら手を引かれて、二人で雨の中を走った日。


あの時の私は、こんな終わり方をするなんて思ってなかった。


一緒にいる未来を、本気で信じていた。


──


スマホが震える。


反射的に期待してしまう自分がいた。


でも画面に表示されたのは、友達からの通知だった。


私は小さく息を吐く。


まだ期待してる。


もう来るわけないって分かってるのに。


──


夏の夜だった。


窓を開けると、生ぬるい風が入ってくる。


煙草を吸いながら、ぼんやりスマホを見ていた。


美咲とのトーク画面は、一番下に埋もれている。


消せなかった。


消す理由もなかった。


開けば、多分また思い出すから、開かないだけだった。


本当にこれで良かったのか、考える時がある。


美咲といた時間は、確かに苦しかった。


でも同じくらい、安心していた。


名前を呼べば笑ってくれる人がいる。

会いたいと言ってくれる人がいる。


そんな当たり前みたいなことが、自分には大きかった。


でも、俺は最後までちゃんと向き合えなかった。


多分、美咲が求めていた愛し方を、俺は知らなかった。


煙草の火が消える。


俺は静かな部屋で、小さく息を吐いた。


『会いたい』


もし今、そう連絡が来たら。


多分、揺らぐ。


だから、来ない方がいい。


終わった恋は、終わったままの方がいい。


それなのに、夏の風が吹くたび、少しだけ思い出してしまう。


──


九月。


夏の終わり。


私は少しだけ、泣く回数が減っていた。


完全に平気になったわけじゃない。


夜になると苦しくなる日もある。

動画を見返してしまう日もある。

会いたいって思う日も、まだある。


でも、前みたいに毎秒悠真のことを考えているわけではなくなった。


友達と笑う時間も増えた。

講義中、別のことを考えられる日もできた。


少しずつ。


本当に少しずつだけど。


時間は、進んでいた。


──


それでも。


秋の風が吹いた瞬間とか、

コンビニで好きだったお菓子を見つけた時とか、

失恋ソングが人気なアーティストの曲が流れた時とか。


胸が痛む。


ああ、まだ好きなんだなって思う。


忘れられてはいない。


多分、簡単には消えない。


悠真は、私の中で大きすぎた。


最低だった。

優しくて、ずるくて、弱くて。


私を幸せにしたし、壊しもした。


でも、あの半年間を、私はきっと一生忘れない。


──


夜。


私は久しぶりに動画フォルダを開いた。


悠真が笑っている。


『なに撮ってんねん』


少し呆れた声。


そのあと、小さく笑う。


私は動画を途中で止めた。


前みたいに最後まで見れなかった。


でも、それでよかった。


スマホを閉じて、ベッドに置く。


窓の外では、少し強い風が吹いていた。


私は静かな部屋で目を閉じる。


会いたい。


今でもそう思う。


抱きしめてほしい。

名前を呼んでほしい。


でも。


もう戻れないことも、ちゃんと分かっていた。


風がカーテンを揺らす。


私は春に取り残されたまま、それでも少しずつ季節の中を歩いていく。


悠真を忘れられないまま。

全部抱えたまま。

この作品は、私の実体験を元に書いたおはなしです。


もちろん細かい表現や会話、悠真の心情にはこう思ってくれてたらいいなという、私の若干の願望も籠った創作も含まれています。

でも、苦しかった気持ちや、忘れられなかった感情は、できるだけそのまま書きました。


好きだった。

でも苦しかった。

離れた方がいいって分かっていたのに、離れられなかった。


そんな、綺麗じゃない恋です。


きっと読んでいて、「なんでそんな相手を忘れられないの?」と思う人もいると思います。

でも私は、最低なところも全部分かった上で、それでも大好きでした。


名前を呼ぶ声とか、隣で眠った時間とか、何気ない会話とか。

そういう小さな記憶って、終わったあともずっと残るんですよね。


私は長い間“春に取り残されたまま”でした。


今も完全に忘れられたわけではありません。

今振り返っても悠真が何を思っていたのか、私には検討もつきません。

でも、忘れられないままでも、人は少しずつ前に進んでいかなければならないのだと最近は感じています。


この物語のどこかが、誰かの過去や感情に重なっていたら嬉しいです。


最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

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