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案件名(コードネーム):Project Atlas

掲載日:2026/03/26

◆◆◆


 まず、この話の前提となる「事業」を説明しておく必要がある。

 私の会社は、企業向けの業務管理ソフトを提供している。

 いわゆる SaaS(Software as a Service:インターネット経由でソフトを提供し、月額や年額で料金をもらうビジネスモデル) だ。


 例えば企業が営業管理や顧客管理をする際、昔は自社でシステムを作っていた。

 しかし今は、それをクラウド(インターネット上)で提供するサービスを使うのが主流になっている。

 このビジネスの特徴はシンプルだ。


・ 一度契約すると継続収益になる。

・ 解約されなければ売上が積み上がる。

・ 逆に解約されると一気に崩れる。


 つまり、「安定しているようで、実は非常に繊細な構造」だ。


 私の会社は、この分野で国内中堅のポジションにいた。

 売上は約100億円。

 成長率は年8%(前年比で1.08倍、つまり100億円が108億円になるペース)。

 悪くはない。

 だが――遅い。


 国内で中堅が逆転することはほぼない。

 とんでもないヒット商品や新技術なんてこの業界はでない。

 ならば海外進出で盤面を拡張する。その担当が私というわけだ。

 そして、今回の案件の相手は――私の元カノだ。


 今回の案件先であるユイの会社。

 同じSaaSだが、特化している領域が違う。

 海外企業向けの営業支援ツールで、特に東南アジア市場に強い。

 売上は40億円。

 しかし成長率は40%(前年比1.4倍、つまり40億円が56億円になるペース)。

 この差は、単なる努力では埋まらない。


◆◆◆


 夜のオフィス。

 同僚兼補佐のミオがモニターを操作する。


「この会社、数字だけ見ると“理想的”です」


 画面にはグラフが並ぶ。


・ 成長率:40%

・ チャーン率:5%(顧客100社のうち5社しか解約しない)

・ LTV(顧客生涯価値:1社からどれだけ長く収益を得られるか):高水準


「ですが、普通はあり得ません」


「なぜ?」


 私が聞く。


「まずチャーン率5%ですが、SaaSの平均は10〜15%です」


 ミオは指で数字をなぞる。


「つまり“半分以下”。異常に優秀です」


「優秀ならいいだろう」


「問題は中身です」


 画面が切り替わる。


「解約寸前の顧客に対して、値引きや個別対応を入れて延命しています」


「つまり?」


「実態は“離れている”のに、数字上は残している」


 私は目を細める。


「さらにこれ」


 ミオは別のデータを出す。


「売上の約65%が上位10社に集中しています」


「偏ってるな」


「はい。そしてその契約のほぼ全てに――」


 名前が表示される。

 ユイ。


◆◆◆


(ミオの内心)


 ……ここまでは普通、問題はここから。

 データで説明できる限界を超えてる。

 この会社は“構造”じゃない。


 “人”だ。


 ユイさんがいるから成立している。つまり、

 彼女がいなくなれば終わる。

 こんなモデル、投資対象としては最悪


 ……なのに、

 この人は切らない。理由は分かる。分かるからこそ怖い。


——“勝てる可能性”があるから


◆◆◆


 会議室。

 資料はすでに配布されている。


「本案件は、東南アジア市場への参入を目的としたM&Aです」


「なぜ自社でやらない?」


「現地パートナー構築に平均3年、顧客基盤形成にさらに2年。合計5年の遅れが発生します」


「根拠は?」


「同業他社の事例です」


 スライドに企業名が出る。


「A社はインドネシア進出に4年、B社はタイで3年かかっています」


「一方、本案件では即時参入が可能です」


 次のスライド。


「シナジー(相乗効果)は具体的に数値で試算しています」


・ クロスセル(既存顧客に別商品を売る):売上+20%

・ コスト削減(開発統合):利益率+5%

・ 海外展開:市場規模2倍


「リスクは?」


「キーパーソンリスクです」


 私は視線を上げる。


「売上の約70%がユイ氏の関与案件です」


「それは危険では?」


「はい。ただし」


 私は続ける。


「逆に言えば、“一点集中で拡張可能”です」


「どういう意味だ?」


「私女の意思決定を中心に据えたままスケール(事業を拡大)させる」


「つまり依存を維持する?」


「初期は」


 わずかな間。


「その後、プロセス化(誰でも再現できる形にする)します」


 ミオが口を開く。


「それは“後で直す”前提です」


 静寂。


◆◆◆


(ユイの内心)


 ……ちゃんと見てる。

 データも、構造も。でも、それでも来る。分かってるはず、この会社が歪んでること。それでも選ぶ。


 じゃあ、見るしかない。どこまで行くか。


 ——壊れるまで?


◆◆◆


 買収後、変化は即座に現れた。


「この市場はもうダメね。撤退。次はこっちに行くわ」


 ユイが言う。説明は短い。だが的確だ。


 半年後。


・ 売上:40億 → 80億(2倍)

・ 成長率:40%維持

・ 大型契約:3倍


 だが内訳は明確だった。ミオが報告書を渡しながら私に言う。


「大型契約の80%がユイさん関与です」


「分かってる」


「営業プロセス(受注までの仕組み)に落ちていません」


 私はコーヒーを飲む。苦味がカフェインを私に供給してくれる。


 バンッ!


 机を叩かれた。ミオが身を乗り出してこちらを凝視していた。


「分かってます?営業プロセスに落ちてない!」


「……分かってる」


「再現できません」


◆◆◆


 夜のオフィス。

 照明の一部が落とされ、フロアは半分だけ暗い。

 遠くで誰かがキーボードを叩く音がする。


「このままだと“個人商店の拡大版”になります」


 ミオが言う。


「規模だけ大きくなって、中身は同じです」


「それでも伸びてる」


「今は、です」


 即答。

 実際、会社は伸びていた。

 ユイが直接関わる案件はすべて成功する。大型契約、海外パートナー、難易度の高い交渉。


 彼女が入れば決まる。逆に、彼女が関わらない案件は停滞する。

 つまり――

 成長と同時に、依存も増幅していた。


◆◆◆


(ユイの内心)


 ……最悪の形だ。成長してるから、誰も止めない。数字が出てる限り、正しいことになる。

 でも違う。これは構造じゃない。人だ。人がいなくなった瞬間、全部止まる。


 しかも、規模が大きい分、崩れ方も大きい。

 ……なのに、誰も止めない。いや、止められない。成功してるから。


——それが一番厄介


 成長してるから止まらない。でもこれは


 “成功”じゃない


 遅れてるだけ、崩壊が。

 ……それでも、この人は止まらない。分かってる。

 もう、戻れない。


◆◆◆


 数年後。

 会社は業界上位に入っていた。

 売上は数百億。

 市場シェアも拡大。


 私は幹部。

 ユイは経営の中心。

 そして私たち二人は結婚した。

 

 夜。

 同じ街。高層ビルの自宅でベランダに出ていた。

 ユイがシャンパンを片手に言う。


「成功だね」


「……ああ」


 だが、その成功は、あまりにも彼女一人に依存していた。

 それは構造ではなく、現象だった。

 そして現象は――


 必ず終わる。




(了)


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