案件名(コードネーム):Project Atlas
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まず、この話の前提となる「事業」を説明しておく必要がある。
私の会社は、企業向けの業務管理ソフトを提供している。
いわゆる SaaS(Software as a Service:インターネット経由でソフトを提供し、月額や年額で料金をもらうビジネスモデル) だ。
例えば企業が営業管理や顧客管理をする際、昔は自社でシステムを作っていた。
しかし今は、それをクラウド(インターネット上)で提供するサービスを使うのが主流になっている。
このビジネスの特徴はシンプルだ。
・ 一度契約すると継続収益になる。
・ 解約されなければ売上が積み上がる。
・ 逆に解約されると一気に崩れる。
つまり、「安定しているようで、実は非常に繊細な構造」だ。
私の会社は、この分野で国内中堅のポジションにいた。
売上は約100億円。
成長率は年8%(前年比で1.08倍、つまり100億円が108億円になるペース)。
悪くはない。
だが――遅い。
国内で中堅が逆転することはほぼない。
とんでもないヒット商品や新技術なんてこの業界はでない。
ならば海外進出で盤面を拡張する。その担当が私というわけだ。
そして、今回の案件の相手は――私の元カノだ。
今回の案件先であるユイの会社。
同じSaaSだが、特化している領域が違う。
海外企業向けの営業支援ツールで、特に東南アジア市場に強い。
売上は40億円。
しかし成長率は40%(前年比1.4倍、つまり40億円が56億円になるペース)。
この差は、単なる努力では埋まらない。
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夜のオフィス。
同僚兼補佐のミオがモニターを操作する。
「この会社、数字だけ見ると“理想的”です」
画面にはグラフが並ぶ。
・ 成長率:40%
・ チャーン率:5%(顧客100社のうち5社しか解約しない)
・ LTV(顧客生涯価値:1社からどれだけ長く収益を得られるか):高水準
「ですが、普通はあり得ません」
「なぜ?」
私が聞く。
「まずチャーン率5%ですが、SaaSの平均は10〜15%です」
ミオは指で数字をなぞる。
「つまり“半分以下”。異常に優秀です」
「優秀ならいいだろう」
「問題は中身です」
画面が切り替わる。
「解約寸前の顧客に対して、値引きや個別対応を入れて延命しています」
「つまり?」
「実態は“離れている”のに、数字上は残している」
私は目を細める。
「さらにこれ」
ミオは別のデータを出す。
「売上の約65%が上位10社に集中しています」
「偏ってるな」
「はい。そしてその契約のほぼ全てに――」
名前が表示される。
ユイ。
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(ミオの内心)
……ここまでは普通、問題はここから。
データで説明できる限界を超えてる。
この会社は“構造”じゃない。
“人”だ。
ユイさんがいるから成立している。つまり、
彼女がいなくなれば終わる。
こんなモデル、投資対象としては最悪
……なのに、
この人は切らない。理由は分かる。分かるからこそ怖い。
——“勝てる可能性”があるから
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会議室。
資料はすでに配布されている。
「本案件は、東南アジア市場への参入を目的としたM&Aです」
「なぜ自社でやらない?」
「現地パートナー構築に平均3年、顧客基盤形成にさらに2年。合計5年の遅れが発生します」
「根拠は?」
「同業他社の事例です」
スライドに企業名が出る。
「A社はインドネシア進出に4年、B社はタイで3年かかっています」
「一方、本案件では即時参入が可能です」
次のスライド。
「シナジー(相乗効果)は具体的に数値で試算しています」
・ クロスセル(既存顧客に別商品を売る):売上+20%
・ コスト削減(開発統合):利益率+5%
・ 海外展開:市場規模2倍
「リスクは?」
「キーパーソンリスクです」
私は視線を上げる。
「売上の約70%がユイ氏の関与案件です」
「それは危険では?」
「はい。ただし」
私は続ける。
「逆に言えば、“一点集中で拡張可能”です」
「どういう意味だ?」
「私女の意思決定を中心に据えたままスケール(事業を拡大)させる」
「つまり依存を維持する?」
「初期は」
わずかな間。
「その後、プロセス化(誰でも再現できる形にする)します」
ミオが口を開く。
「それは“後で直す”前提です」
静寂。
◆◆◆
(ユイの内心)
……ちゃんと見てる。
データも、構造も。でも、それでも来る。分かってるはず、この会社が歪んでること。それでも選ぶ。
じゃあ、見るしかない。どこまで行くか。
——壊れるまで?
◆◆◆
買収後、変化は即座に現れた。
「この市場はもうダメね。撤退。次はこっちに行くわ」
ユイが言う。説明は短い。だが的確だ。
半年後。
・ 売上:40億 → 80億(2倍)
・ 成長率:40%維持
・ 大型契約:3倍
だが内訳は明確だった。ミオが報告書を渡しながら私に言う。
「大型契約の80%がユイさん関与です」
「分かってる」
「営業プロセス(受注までの仕組み)に落ちていません」
私はコーヒーを飲む。苦味がカフェインを私に供給してくれる。
バンッ!
机を叩かれた。ミオが身を乗り出してこちらを凝視していた。
「分かってます?営業プロセスに落ちてない!」
「……分かってる」
「再現できません」
◆◆◆
夜のオフィス。
照明の一部が落とされ、フロアは半分だけ暗い。
遠くで誰かがキーボードを叩く音がする。
「このままだと“個人商店の拡大版”になります」
ミオが言う。
「規模だけ大きくなって、中身は同じです」
「それでも伸びてる」
「今は、です」
即答。
実際、会社は伸びていた。
ユイが直接関わる案件はすべて成功する。大型契約、海外パートナー、難易度の高い交渉。
彼女が入れば決まる。逆に、彼女が関わらない案件は停滞する。
つまり――
成長と同時に、依存も増幅していた。
◆◆◆
(ユイの内心)
……最悪の形だ。成長してるから、誰も止めない。数字が出てる限り、正しいことになる。
でも違う。これは構造じゃない。人だ。人がいなくなった瞬間、全部止まる。
しかも、規模が大きい分、崩れ方も大きい。
……なのに、誰も止めない。いや、止められない。成功してるから。
——それが一番厄介
成長してるから止まらない。でもこれは
“成功”じゃない
遅れてるだけ、崩壊が。
……それでも、この人は止まらない。分かってる。
もう、戻れない。
◆◆◆
数年後。
会社は業界上位に入っていた。
売上は数百億。
市場シェアも拡大。
私は幹部。
ユイは経営の中心。
そして私たち二人は結婚した。
夜。
同じ街。高層ビルの自宅でベランダに出ていた。
ユイがシャンパンを片手に言う。
「成功だね」
「……ああ」
だが、その成功は、あまりにも彼女一人に依存していた。
それは構造ではなく、現象だった。
そして現象は――
必ず終わる。
(了)




