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均衡保全院は教会からさほど遠くない位置に存在している。だがそこまでの道のりは、距離にしては遠く感じられた。私たちを包む暗い雰囲気のせいで。


「均衡保全院に対して私はあんまり良いイメージをもっていないんだ」


カタリナはこちらを見ず、少しずつ語り出した。


「たぶん国民は均衡保全院は素晴らしい場所だと思ってる。それがなければ生きてけないってね。均衡保全院はね、孤児を受け入れてくれてるの。身寄りのない子を引き受けては育ててくれる。あそこに行けば美味しいご飯が食べれて、毎日友達と遊んでいられる。危険はない。だから裏路地に住んでる親のいない子供達は均衡保全院に憧れる。

更に、均衡保全院では魔素が作られてると言われてる。どうやって作られてるのかは分からないけど、魔素を生成してる」


「しかし、王国三部会では、均衡保全院による魔素使用量、分配基準に関する秘匿が問題になっていた」


カタリナはそこで足を止めた。

均衡保全院の外壁が、視界の端に入り始めている。白でも黒でもない、汚れを前提にした灰色の石。


「ふーん、王国三部会はそんな事まで話してるんだね。そう。そう、魔素を生み出してるだけなら国民達もばんざーい。私もばんざーいて思ってた。だけど、そんな事はない。別に魔素の使用量なんて秘密にするような事でもないと思うんだ。公開した方が国民は安心できる。それがやらない」


「しないというよりは、君の言い分だと出来ないと言うことか?」


「うーん、まぁそうかな。魔素ってさ、自然にあるものじゃん?空気とか水とか、土とか人の中とか。少なくとも私はそうやって教わってきた」


魔素。地球上になかった存在。それが物質なのか、超常的なものなのかはわからない。だが、この世界の至る所にあるもの。


「前に教会に侵入した時に資料を見たんだ。私は文字が読めないから詳しくは分からなかったけど、そこには作るって書かれてた。まるで材料が必要であるかのようにね。それが教会が隠したかった秘密か均衡保全院が隠したかった秘密かは分かんない。そのどちらもかもしれない」


均衡保全院の正門は目の前にある。だが、私たちは正門には目もくれない。向かう先は裏口。


「均衡保全院に入った子はね、入ってから三ヶ月ほどは外で目にする事があるんだ。でも、ある日を境に皆合わなくなる」


「亡くなったのか?」


「確認するとそうやって説明されることもある。病気、事故、魔力暴走。理由はそれぞれ」


カタリナは肩をすくめた。嫌な予想だ。魔素の生成。いなくなる子供達。沈黙。私達二人で抱え込むには大きすぎる問題。



「貴方達、そこで何をしているのか教えてもらいたいですわ」


正面の暗闇から一人の女性が姿を現した。赤く綺麗に整えられた髪。可愛いと言うよりは美人という言葉が似合う猫を思わす目。余計な装束など付いてない、シンプルな外套。

彼女の立ち姿には無駄がなく、こちらを値踏みする鋭い猫の視線。


「業務時間外の立ち入りは推奨されておりませんわ」


声色は丁寧だが、決して警戒はしていない。カタリナを見るに、どうやら彼女も存在に気づいていなかった。何を言えば良いのか模索している。


「均衡保全院の調査を任されている。宰相だ」


私は短く名乗り、印象を見せた。しかし、彼女の警戒は抜けない。


「作用ですか、私はマルタと申しますわ。貴方の邪魔をしようとは思っていませんが、夜分遅くに押しかけてくるのは礼儀がなっていないのではないでして?」


マルタはそう言うと均衡保全院とは別の方向を指差した。


「帰るのならこちらの道からどうぞ。ここの道であれば暴漢に襲われるなんてことはありませんわ」


そう言うとマルタは私から視線を逸らしカタリナを見た。


「その方は?」


「同行者だ」


マルタは顎に手を当て考える動作をした。


「貴方が…分かりました。立ち入る事を許可しますわ。ただし、一つ条件があります。レオン、こちらへ」


マルタがカタリナに対し何を思ったのかはわからない。見窄らしい格好の従者を連れている事を不思議に思ったのか、カタリナの存在を知っていたのか。


規則正しい足跡。そして、レオンは背後から現れた。既に私たちは囲まれていた。だから彼女は姿を晒した。強行突破をしようものなら、私達は痛い目を見ていただろう。


「ういっす。よろしくっす」


「彼も同行しますわ」


マルタは言葉と同時に歩き出した。そして、均衡保全院の裏口が静かに開けられた。軋む音は立てず、手入れされてる扉。頻繁に使われているであろう扉。


「夜間の見回りという名目になりますわ。もし、正式に調査をしたいのであれば、手続きを経て、申請して下さると助かりますわ」


マルタは扉を抑えると、私達に中に入れと合図をした。そしてカタリナは私に小声で話しかけてきた。


「なんとかいったのかな」


簡単な問いだ。


「なんとかするしかない」


「だよね」


内部は静かな通路だった。何重にも入り組み、幾つもの扉を越える。まるで出るのを妨げたいかのような設計。


そして私達はマルタとレオンに挟まれて歩いている。警戒が解けることはない。


「今向かっているのが生活区っす。そこでは、子供達が暮らしてる。今は就寝時間で皆寝てると思うので静かにしてほしいっす」


レオンがそう告げて、開けた扉の先には大きな部屋だった。大小様々な子供達がそこに布団を広げ眠っている。


寝息だけが部屋を満たしていた。規則正しくもなく、完全に揃っていない。彼らが生きている証拠だ。


「…多いな」


「最近は特にっすね。帝国の動きが活発になってから孤児の流入が増えたっす。戦争前はいつもこうなってるっす」


戦争前という言葉の軽さに違和感を覚える。それは経験則だ。何度も見てきたものの言い方だった。


カタリナは、眠る子供たちを一人一人、視線で追っていた。触れはしない。ただ、数を確かめるように。するとレオンに振り向いた。


「レオン、貴方少しうるさいですわ。子供達が起きたらどうしますの」


「申し訳ないっす、次の部屋行くっす」


彼の声は小さくなった。


レオンは先立ち、入ってきた通路と反対側の通路へと進んだ。床材が石英に変わる。一目見ただけでも良い素材が使われており、空間が落ち着いた印象を思わせる。


「ここからは精製区っす」


中は整っていた。白い壁、均一な照明。埃ひとつない床。研究室を思わせる器具。

部屋の中央には、いくつもの机が並び、上には水晶のような器具が設置されている。淡く発光する液体が、管を通って循環していた。


「魔素精製の前工程っす。ここでは魔素を使える形に変換しているっす」


レオンは、淡々と説明を続けた。

マルタが言葉を引き取る。


「不安定な魔素は、そのままでは人体にも環境にも害になりますわ。均衡保全院は、それを使える形に整えているだけですわ」


彼女の声色は、官僚のそれと同じだった。事実だけを述べる。そこには特別な意味を含まない。


「不安定な魔素って何?」


カタリナが質問した。


「詳しい事はまだこちらでも分かっていませんわ。ただ言える事は魔素が生成される際、魔素とは異なるものも同時に生成される。それを私達は不安定な魔素と読んでいますわ」


机の一つに透明な箱が置かれている。中には小さな結晶体。


「これは?」


「魔素結晶ですわ。安定化した魔素を、保存・輸送しやすくしたものです」


「王国中で使われる?」


「えぇ。この結晶を砕くことで魔素が薄い地域にも魔素が循環されます。治療、農業、防衛、照明…王国が機能するのはこれのおかげです」


カタリナは結晶をじっと眺めていた。


「触ってもいいか?」


「構いませんわ」


私はそっと結晶に触れた。体温に近い暖かさ。体温。消える子供達。生み出される魔素結晶。


「聞いてもいいか?何故これらの情報を国民に公開しない」


「私も分かりませんわ」


「均衡保全院での魔素使用量を秘匿にする理由は?」


「分かりませんわ」


均衡保全院はここまでの話だけを切り取れば、間違いなく必要な施設だ。しかし、一つだけまだ、聞いていないことがある。魔素がどうやって生み出されているのか。


「分かった。だったら魔素はどうやって作られてる?」


一瞬。ほんの一瞬だが、空気が止まった。


「えーと…それは…」


レオンが困ったように頭をかき、マルタを見つめる。マルタは固まったように前を見つめていたが、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開く。


「それは外部に公開していませんわ」


「そう、だが調査を任されてる」


「しかし今回は、見回りという名目ですわ」


「教えたくなければ教えなくてもいい。後日、正式に許可を取り再度訪問する」


「…」


彼女は一度深く息を吸った。覚悟。覚悟を決める息。


「あなたは、国民の味方ですか?王国の味方ですか?」


その問いはまだ私にはわからない。だが、私はただの管理職。任された責任に答えるだけ。


「どちらの味方でもない。ただ、この国が上手く機能するような管理をするだけ」


「それで国民が死のうともですか?」


「そう。でも極力死なせないし、最善の方法を模索する」


その問いに、即答はなかった。通路の突き当たりに、重厚な扉が見える。先ほどまでのものとは明らかに違う。


装飾も標識もない、ただの隔離を目的とした扉。


マルタはようやく私たちを見据えた。


「人ですわ」


カタリナが息を呑んだ。


「人って…」


「正確には、人の中にある魔素です。感情、記憶、祈り、執着、愛情、興奮、恐怖、執着。それらが濃縮され、摘出したのが魔素ですわ。つまりーー命を直接奪うわけではありません」


マルタは、言い訳のように言葉を重ねる。


「均衡保全院では、魂循環を阻害しない範囲で抽出を行っています。苦痛は最小限に抑えられ、人格は保持されたまま……」


マルタは言葉を詰まらせた。


「されたまま?」


私の問いに、彼女はついに視線を逸らす。


「…理論上は、しかし成功はしていませんわ」


マルタは歯を食いしばる。

沈黙。

レオンが扉の前に立つ。


「ここから先が、精製区っす」


彼の声は先ほどよりも硬い。


「正直、あんまり好きじゃない場所っす。でも、宰相閣下がどうしてもって言うなら……」


彼は鍵を取り出し、扉に手をかけた。

その瞬間だった。音が消えた。機械音も、呼吸音も。全ての音が消えた。

そして、次に色が消えた。色を持った世界はどんどん白黒に染まっていった。

世界が切り取られたかのように静止する。


「…?」


レオンがこちらを振り返ろうとした。まるで、糸が切れた人形かのように。


「レオン?」


マルタが呼んだ。返事がない。


次の瞬間。


ぐしゃり、と。内部から潰れるような音がして、レオンの体が崩れ落ちた。色のない世界の中、血は紫に染まっていた。


「…!」


カタリナが駆け寄ろうとする。


「動くな!」


私の声は、反射だった。マルタは、その場から一歩も動いていない。顔色は変わらない。ただ、唇だけが、わずかに震えていた。


「…起動していないはずですわ」


「何がだ」


「聖遺物の起動は、許可なしでは…」


扉の向こうから、足音がした。ゆっくり、確実に、人の歩く音ではあるが奇妙な音。


扉が内側から開く。


そこに立っていたのは教会で見たベル・パラディンに似た存在だった。背骨は捻じ曲がり、その所々から百合と薔薇の花が咲いていた。頭部は腰の位置よりも低くなっており、茨の冠を被り、口には心臓を咥えていた。全身至る所に火傷の跡があり、それを隠すかのように聖痕が刻まれている。そして最も特徴的なのが、全身に元からあるかのように付随している人の手や足、目が付いており、それらはバラバラに蠢いていた。


「…カタ、り、亡」


歪んだ言葉だった。言葉としては成立していない。ただ、意味だけが直接頭に流れてくる。


「カタリ、ナ、家に、帰り、かえ、帰る、帰ろう」


その存在は、一歩、こちらへ踏み出した。


床に落ちたレオンの血がジワリと震え、引き寄せられるように足元に流れていく。


「エクス・ヴォート…」


マルタは唇を噛み締め、その光景をただ眺めていた。


「だ…誰?」


否定したい。だが、私たちにはその存在を人でないと否定する語彙があまりにも足りない。それは人ではないが、人であった痕跡があまりにも多く残っている。


背骨の歪みは、処刑台で折れた角度だ。

火傷の跡は、浄化の名のもとに焼かれた者のものだ。

聖痕は、信仰を証明するために刻まれた傷。

身体中の手足は、請願の証。

――そして、咥えられた心臓。まだ、鼓動している。


「……やめて……」


カタリナの声は、かすれていた。足は動いていない。だが、視線だけが、その存在から離れない。


「来ないで……」


その言葉に反応したのか、異形は、首――いや、頭部全体をぎこちなく持ち上げた。


目が合う。否、焦点は合っていない。だが、その異形の無数の目はカタリナを見つめていた。カタリナだけを認識している。


私はカタリナの前にでた。


「止まれ」


異形の全身に刻まれた聖痕が淡く光る。


「な、ぜ?忘れた?捨て、た?拾って、食べた?殺した。だ、め。かな、しい。悲し、い?なに、それ?愛。同じ?違、う。誰?お、れ?私?われ?え、ちが、う」


それでも、異形は再び一歩近づく。床に、無数の手が這い、無数の足が歩く。


「カタ、リ、な。家、いいえ、家に、帰り、帰る、帰ろう。海、人?チガ、ウ。サカ、亡?そう、そう。魚のいる、ばしょ」


その言葉を聞いた瞬間、カタリナの肩が震えた。


「嘘…嘘だ……父さんは…既に、死んで…」


私はカタリナの肩を掴んだ。彼女を此方側に引き戻す。現実への回帰。


「カタリナ、あれは君の父親か?」


「分かんない…でも、父さんがよく言ってた言葉…」


カタリナの声は掠れていた。言葉は選んでいない。私たちに説明する気もない。ただ、記憶が勝手に引き摺り出されている。


「首からかけてるのも…私が昔渡したロザリオ…」


その説明で十分だった。ここで何が行われており、何故カタリナの父親が異形に変わっているのかわからないが、この異形はカタリナの父親だ。


「帰ろうって…」


カタリナは震える声で息を吐いた。


私はカタリナの肩に置いた手に力を込めた。引き戻すためではない、それは彼女の選択だ。私はただ支えるだけだ。


カタリナは私に振り向いた。そして笑顔を向けた。


「私は、帰らない」


異形が一歩後ずさった。聖痕は震えるように明滅した。


「な、ぜ?家、ここ。違う?そ、う。帰らない。カタリ、ナ、帰ら、ない。分からない。何故?え、どうし、て?ここ、家」


カタリナははっきりと言葉を投げかけた。涙は流れている。しかし、目を逸らさない。


「違う、ここは家じゃない。父さんが過ごした場所はこんなところじゃない」


異形の全身が軋んだ。百合と薔薇の花がボロボロと落ちる。聖痕の光は徐々に薄くなる。


「帰ら…ない?」


その声は父親のものではなかった。子供のものだった。

ただ、置き去りにされた哀れな存在。


「いっ、しょに、一緒、に」


カタリナは首を振った。


「一緒にはいけない」


その瞬間、異形から音が漏れた。それは叫びではない、言葉でもない。祈りの音。祈りが届かない音。

空間が軋み、歪む。

床を張っていた手足がばらばらとこぼれ落ちる。紫の血が、逆流するように流れる。


「カタ…カタリ、ナ」


最後に、名だけが残った。異形は、後退した。


扉の奥――


精製区の闇へと、泣き叫びながら引きずり込まれていく。扉が、ひとりでに閉じた。重く、完全に。音が、戻った。色が、戻った。

世界は何事もなかったかのように続いている。


「レオンは死んだのですね…」


マルタはついに現実を受け入れたのか嘆き悲しんだ。既に彼女の顔は職務の色をしていない。

私はカタリナを見た。


「ごめん」


カタリナはそう言った。誰に向けてかは分からない。言葉は宙へと溶けていった。

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