義理の妹
⋇性的描写あり
「ん、んんっ……」
脳髄を貫く甘い香りが鼻孔を刺激する。顔全体をクッションよりも柔らかい感触に包まれている。そして身体を包むのは思わずそのまま浸りたくなるような優しい温もり。
夢心地の感覚に恍惚としてそのまま深い眠りに落ちたくなってしまう慎士だったが、自分のようなクズにそんな幸福は相応しくない。故に誘惑を振り払い柔らかな感触から顔を遠ざけ、重い瞼をゆっくりと開けた。
「――うわっ!?」
そうして瞳に映ったのは、女の子の胸。くっきりと谷間を作った柔らかそうな白い双丘が、目と鼻の先で存在を主張していた。
これにはすぐさま身体ごと後退ろうとするが、他ならぬその女の子にぎゅっと抱きしめられている状態なので逃れる事が出来なかった。
普通ならこんな状況にはまず間違いなく戸惑いと混乱を覚える所だろう。しかし生憎と慎士にとっては珍しい状況でも何でもない。二日に一回は繰り広げられる早朝のお約束に過ぎなかった。
「ああもうっ、またボクの布団に入ってきて……!」
見事な谷間から視線を上に向けると、そこにあるのは無骨な黒い首輪と、見慣れた少女のあどけない寝顔。寝癖とは無関係に所々カールした青色の髪が目を引く、慎士の義理の妹である少女――紺豪亜緒が、幸せそうによだれを垂らして眠っていた。
「ほら、亜緒! 起きて! もう朝だよ! あとボクを抱き枕にするのはやめて!」
「んー、やーだー……お兄ちゃんは、私の抱き枕なの~……」
「むぐっ……!」
気恥ずかしさから若干語気を荒げて呼びかけるも、亜緒は寝惚けて全く取り合わない。それどころか不愉快そうに眉を寄せたかと思えば、慎士を固く抱きしめて再度胸に顔を埋めさせてくる。
再び鼻孔に広がる甘い香り、そして顔全面に広がる柔らかな感触。それらは慎士の胸をうるさく高鳴らせるものの、男なのにぬいぐるみのように扱われている怒りと屈辱の方が上だった。
「あーもうっ! 早く起きろっ!」
「いったあっ!?」
もぞもぞと身体を動かし、見事な膨らみをこねくり回す形にながらも手を引き抜き、亜緒の額へと手刀を叩き込む。寝起きは良い方なので特に混乱する様子もなく、亜緒は目を覚まして慎士の身体を離してくれた。
「いたた……もうっ、叩く事無いじゃん。お兄ったら恥ずかしがり屋さんなんだからー」
額を撫で擦りながら上体を起こし、一つ大きなあくびを零す亜緒。
可愛らしくも露出度の高い藍色のネグリジェが乱れているにも拘わらず、それを直す素振りは一切見せない。自分が女の子らしい身体になりつつある事を理解していないのではない。非常に悪質な事に、それを理解していながら無防備な姿を見せつけてきているのである。
思春期真っ盛りな男である慎士としては目のやり場に困るので、掛け布団を軽く投げつけて目の毒な白い肌を無理やり隠させた。
「そう言う亜緒はもうちょっと慎みと恥じらいを持ちなよ。もう年頃の女の子なんだから」
「はーい、なるべく努力しまーす」
「全くもうっ……」
良い笑顔で頷いてくれるが、丸っこい銀色の瞳は笑っていないのでため息しか出ない。
昔はとても小さく聞き分けの良い子で、慎士の後をひよこのようについてきたものだが、最早その面影はどこにもない。飄々とした感じの口調と行動に加え、身体は無駄に女子女子している感じに育ってしまい、慎士より身長が高くなるという有様。年齢は五歳差で男女差もあるというのに、五センチ以上も身長を抜かされているのだ。小さくて可愛かった昔の亜緒が恋しくなってくる慎士であった。
「ほら。布団はボクが畳んでおくから、早く顔洗って着替えてきなよ」
「ありがと、お兄。それじゃあお言葉に甘えて――」
「そこで服を脱がない! 洗面所でやって!」
何の躊躇いもなくネグリジェを脱ぎ去り真っ白な肌を晒す亜緒に、慌てて自分の顔を両手で覆って視界を閉ざす。
もう一瞬遅かったら豊かな双丘の全てを拝んでしまう所だったので、慎士は心底肝を冷やした。それでもやたらに細くて生地の薄い黒のパンツは見えてしまったが。
「えー? せっかく女子高通いでムラムラしてるお兄のために、可愛い妹のストリップを見せてあげようと思ったのになぁ?」
「余計なお世話だよ! ほら、洗面所に行く!」
「はーい。全く、お兄はムッツリだなぁ?」
身体は無駄に育っても女の子らしい情緒はまだ育っていないのか、下品な事を口にしつつ離れていく亜緒。足音でそれを察した慎士が恐る恐る指の隙間から視線を向けると、脱いだネグリジェを振り回しお尻丸出しで洗面所に向かう姿が見えて倒れそうになった。
「でもさ、やっぱりうちもだいぶ女の子になったと思わない? ほら、おっぱいもおっきくなったし、お兄よりも身長高くなったし?」
「洗面所の戸は閉じるっ!!」
挙句パンツ一枚だけの状態で振り返ってきそうになったため、慌てて距離を詰めて洗面所の扉を閉じた。何か見えてはいけないものが一瞬見えた気がしたものの、見なかったことにして記憶の中から放り捨てる。
その内間違いを犯してしまいそうになる綱渡りの生活だが、残念ながら慎士には他に選択肢など無かった。すでにお互い両親を亡くし、他の親族は人間的に最底辺の者しかおらず、自分たちに残されたのはお互いの存在だけ。だからこそ二人で助け合い、支え合って生きて行く事になるのは当然の帰結だった。
とはいえ保証人もいない上、成人もしていなかった慎士がまともな住居を借りられるわけもない。最終的に行きついたのは脛に傷を持つ者でも借りられるような問題しかない場所。女の子としての魅力に目覚めてきた妹のような存在である幼馴染と、六畳一間のアパートで同棲生活というある種地獄のような日々だった。
「……つらい」
洗面所の前にがっくりと膝から崩れ落ち、思わず弱音を零してしまう慎士。
幾ら見た目が少女のようでも、慎士はれっきとした男。それも思春期真っ盛り。加えて亜緒は実の妹ではなく、若干年の離れた幼馴染。男として沸き上がる劣情を消し去る事は極めて厳しく、鬱屈した想いにちょっぴり涙が出てくるのだった。
「――それじゃあ、いただきます」
「いっただきまーす!」
部屋の中央に設置した小さな丸テーブルを囲み、慎士は亜緒と朝食を摂る。
今日の朝食は白米と卵焼き、それからサラダと味噌汁といった極めてシンプルなメニューだ。成長が絶望的な慎士はともかく、亜緒は育ち盛りなのでもっとたくさん食べさせてあげたいところだったが、あまり余裕のある暮らしではないのでどうしても切り詰めなければならなかった。お互いの両親の遺産も大半を親族たちに毟り取られたので、そこまで多くは残っていないのだ。
「んー! お兄のご飯は最高っ! 可愛くて料理も家事も出来るとか女子力ストップ高だよね!」
「ははっ、ボクは男なんだけどね……」
こんな食事でも、亜緒は文句を言わずむしろとても美味しそうに食べてくれる。
あまり余裕の無い生活なのは慎士の見た目や身長に原因があり、まともに職につけないせいだというのに全く気にした様子も無い。本当は色々と不満があるだろうに、それを抑えてくれているのだ。ちょっと変な風に育ってしまったが、それでも根は変わらず良い子な事に慎士は泣きそうになってしまった。決して女子力ストップ高という言葉で傷ついたわけではない。
『――先日、日昇市に出現した魔物は魔法少女たちの華々しい活躍により、無事に討伐されました。新たな魔法少女であるヘリオトロープも勇猛果敢な姿を見せ、市民からは熱狂的な声援が送られています』
「んぐっ……!?」
二人で小さなテレビを眺めながら食事を進めていると、思わず咳き込みそうになる内容のニュースが流れる。つい先日の、慎士も参加したオルトロスとの戦いの一部始終だ。
魔物が現れると人々はシェルターに避難するものの、街の至る所で機能していた監視カメラは別だ。加えて撮影機能を搭載したドローンや報道員を乗せたヘリコプターを飛ばす事もあるらしいので、今回の動画もそれなのだろう。慎士を含む魔法少女たちの戦う姿が、無駄に高画質で良い感じの編集を交えてお茶の間に流れていた。
『<純真無垢なる聖弓>! 届け、癒しの光っ!』
『オラッ、トドメだ! 食らいやがれっ!』
『お口チャック』
藍たちの姿は正直可愛らしくてカッコいいと思ったのだが、自分ことヘリオトロープが映ると途端にげんなりしてきて目を逸らす他に無かった。どこからどう見ても女の子、間違いなく魔法少女にしか見えない事実もまた酷い。
唯一の救いがあるとすれば、魔法少女に変身すると認識を阻害する効果を見る者に及ぼすため、亜緒がヘリオトロープを見てもその正体が慎士だとは全く気付けない事くらいか。
正確に言うなら直接認識を阻害するわけではなく、その魔法少女の姿形や面差し、それを元にした写真やイラストを見ても正体に関する記憶に繋がらないという感じだ。
『|<幸福と不幸を映す鏡>《ジルコン・スペクルム》――<六角鏡の硝子剣>!!』
「………………」
いたたまれなくなり、テレビを消して見なかった事にする。女装どころか魔法少女と化している自分の姿を眺めつつ朝食を摂るという高尚な趣味は、さすがの慎士も持っていなかった。
何より正体が分からないとしても、妹にそんな姿を見られていると考えると正直泣きそうだった。
「魔法少女、大活躍だね……」
「……うん、そうだね」
見ていたテレビを突然消されても何も言わず、ただぽつりとそんな事を呟く亜緒。
しかしその声音がとても静かなものだったので、何となく慎士は嫌な予感がした。亜緒がこんな調子で話す時は、決まってあの話題になるのだから。
「うちはさ、あんな風に頑張ってる魔法少女たちを魔王に売り渡すなんて、やっぱり良くない事だと思うよ。だって魔法少女たちは命を賭けて魔物と戦って、うちらを守ってくれてるんだしさ。だから、お兄。もう、お兄がやってる事は――」
「――やめない。ボクは絶対に、諦めない」
どこか悲し気に言葉を紡ぐ亜緒に対し、慎士は断固として拒絶を示す。決して曲げる事は無く、すでに何度も口にした言葉を。
「忘れたのか、亜緒? あの日、魔王に付けられたその首輪がどんなものか」
亜緒の首で鈍く輝く不気味な首輪。あれは装飾品ではない。二ヵ月ほど前、突如慎士たちの前に現れた魔王ラムスの手によって嵌められた、文字通りの首輪だ。
「彼女たちを売り渡さないと、その首輪はあと半月で爆発する。外そうとしても、壊そうとしても同じだ。その瞬間に君は死んでしまう。だからボクは、何としてでも魔法少女たちの正体を探り出す。そして、必ず君を助ける」
これこそが、慎士が決してラムスに逆らえない理由。亜緒に取り付けられた、慎士を従えるための首輪であり鎖。
たった一人の家族である亜緒を人質に取られている慎士は、どんな悪行でも命じられるままに実行しなければならないのだ。それが人類を裏切る大罪であろうとも。
「でも! それじゃあこれから一体誰が魔物から世界を守ってくれるのさ!? うちを救うために魔法少女が犠牲になったら、世界が終わっちゃうかもしれないんだよ!?」
「そんな事は知らない。ボクはただ、君さえ無事ならそれで良いよ。世界がどうなっても構わないし、魔法少女たちがどうなっても知った事じゃない」
食卓を叩いて怒りと悲しみを露わにする亜緒に対し、慎士は淡々とそう伝える。
実際、すでに家族もいない慎士にとって大切なのは亜緒だけだ。そもそも少女のような外見のせいで碌な仕事に就けないため、亜緒を養う事すら苦労しているのだ。他人どころか世界などどう考えても手に余る。
ここまで冷たく突き放せば、普段ならもう話は終わりだった。たった一人の大切な人に失望されるが、それでもこれ以上平行線のやり取りをする事は無かった。
「お兄……そんな見え透いた嘘、うちの前でつかなくてもいいよ。誰よりも優しいお兄が、そんな風に割り切る事なんて出来るわけないじゃん……!」
けれど今回は違った。亜緒は今にも泣きそうに瞳を潤ませながら、絞り出すようにそんな事を口にする。
そして実際、亜緒の言い分は正しい。誰よりも優しいという評価は裏切り者のクズには相応しくないが、割り切る事が出来ていないのは正にその通り。すでに魔法少女たちの正体は突き止めているものの、本当に彼女たちを売り渡して良いのか躊躇っている現状から考えて、明らかに割り切る事が出来ていなかった。
「……ああ、そうだ。今日はボク、友達と少し出かけてくるよ。晩御飯までには帰ってくるからね。お昼ごはん代を置いていくから、たまにはボクの手料理よりもっと美味しいものを食べて来なよ?」
故に痛い所を突かれた慎士は、話題を強制的に切り替えるしか無かった。
そんな反応をすれば亜緒の指摘を認めたようなものだが、きっと今まで言わなかっただけで最初から気付かれていたのだろう。小さな頃から一緒に遊び、本物の兄妹のように育った亜緒だ。誤魔化せると思っていたのがそもそも間違いだったに違いない。
「……お兄」
「うん、どうしたの?」
「辛いなら、やめても良いんだからね? お兄を苦しめるくらいなら、うちは……覚悟、出来てるから……」
「………………」
酷く寂しげな笑みを零し、遠回しに自分は死んでも構わないと口にする亜緒。
亜緒には魔法少女の正体の調査に関しての進捗は伝えていない。しかし慎士が大いに苦しんでいる事は察しが付いているに違いない。それは幼い頃から共に育ってきた仲なので性格を理解している、というのもあるだろう。だが恐らく最大の理由は、慎士の体付きの変化にある。
ここ半月で、慎士の体重は五キロ減った。元々細身だったので体型にその影響がかなり出ており、抱き締めればそのやつれた身体に気付かないわけが無い。なるべく必要以上に食事をして取り戻そうとしているが、体重は一向に戻らないしむしろ減り続けている有様。
亜緒もその痛々しい変化が分かっているからこそ、命を捨てるようなセリフを口にしているのだろう。もしもお互いに大切に想い合い依存し合っている状況で無ければ、きっと亜緒は慎士のために自ら命を絶ったに違いない。
そうならないのは、お互いがお互いの生きる意味だから。どちらかが死んでしまえば、生きる意味を無くしてしまうと分かっているから。
結局慎士も亜緒も自らの命を絶つわけにはいかず、この八方塞がりの状況を受け入れるしか無かったのだ。それがどれだけ苦しい事でも、どれほどの無力感に苛まれようとも。
「……ごめんね、亜緒。ボクにもっと力があれば、こんな事にはならなかったのに」
「お兄は悪くない! 悪くないよ! ただ、世界がうちらに優しくないだけだから……!」
無力を嘆き俯いていると、食卓を回り込んできた亜緒が横合いから抱き着いてくる。朝の一幕とは異なり、今度はこちらが亜緒の頭を胸に抱く形で。
身体はやたらに成長した可愛い妹も、やはりその心はまだ子供。慎士に縋りつき泣きそうに震えるその姿は、やはり昔と変わらない亜緒のものだった。
「きっとボクが、何とかする。だから亜緒は信じて待ってて?」
「うん……どうなったって、うちは文句言わないよ。だからお兄、無理だけはしないでね……?」
ぎゅっと抱き着いてくる亜緒を抱き返し、頭を撫でながらそうお願いする。自身の命がかかっているというのに亜緒は素直に受け入れ、むしろ慎士の身を案じていた。
たった一人の家族であり、共に育った幼馴染。自分の命よりも慎士を優先する、心優しく愛に溢れた子。見捨てる事など絶対に出来ない。何が何でも亜緒を助ける事を改めて誓う慎士だったが、さりとて柘榴たちを売り渡す決心が付くわけでも無い。非情になり切れない自分の弱さと、優柔不断な自分自身に反吐が出そうだった。
しかしどれだけ慎士が苦悩しようと、時間は無情に過ぎ去って行く。抱き合い慰め合う慎士と亜緒を追い立てるように、小さな置時計が時を刻む音を響かせていた。