心の傷
⋇慎士視点
どこまでも暗く暖かい闇の中、慎士はより深みを求めて沈んでいた。
徐々に思考すら覚束なくなり、あらゆる苦悩が溶けて消えていく。自身の秘密を魔法少女たちに知られてしまった事実も、彼女たちの反応に対して抱いた恐怖と絶望も、最早完全に過去のもの。
苦悩を忘れ去った慎士はただ心地良い闇に浸り、同化するように消えていく安らぎに身を委ねていた。
『……楓、聞こえる?』
「………………」
そんな楽園に黄金色の光が一瞬煌めいたかと思えば、再び誰かの声が響く。
とはいえ深い闇の中に沈んでいる慎士には、それが誰の声なのか理解できなかった。すでに記憶の大半も闇に侵食され、存在そのものも闇に抱かれ溶けつつある状況。個人の識別など出来る訳も無く、また何を言っているのかも良く分からなかった。
『私は楓の事、今も好きだよ。ううん、前よりも好き。だって楓は、私たちの正体を知っても魔王に報告しなかった。大切な妹が人質に取られてるのに、関わりが薄い私達を売り渡す事が出来ないくらいにお人好しで、優しい楓が好き。仕方の無い事なのに、私たちに嘘をついて騙してる事に罪悪感を覚えてる誠実な楓が、大好き』
けれど不思議と、その理解できない言葉の数々は胸に響く。心を震わせ、忘れ去っていた苦悩を思い出させ、慎士を容赦なく苦しめる。
そのせいで暖かい闇に浸っていた精神は無理やり引きずり上げられ、言葉を理解できる程度の思考能力が戻ってきてしまう。
『楓の苦しみ、私にも良く分かるよ』
「……知ったふうな口を利かないでください! ボクの苦しみが分かるはずが無い!」
次いで投げかけられた言葉で完全に思考が鮮明になり、同時にあまりにも不遜な物言いに怒りが爆発した。
この苦悩が理解できるなどあり得ない。心が引き裂かれそうになりながら、それでも選ぶしかないという苦渋の極み。目に映る人全てを騙し、自分を殺してひたすら演技を続ける日々。自分を壊しながら走り続けるしかない地獄の苦しみが、たったの一言で理解されて良いはずが無かった。
『自分の苦しみが分かるはずが無いって思ってるよね。でも、分かるの。私も、いっぱい苦しんだから』
「っ!?」
瞬間、慎士の脳裏で記憶が弾ける。しかしそれは自分の物ではなかった。まるで他者の記憶を無理やり流し込まれたかのように、全く見覚えの無い記憶であった。
『私の両親は、物心ついた時から喧嘩ばかりしてた』
脳裏に弾けるのは、見覚えの無い男性と女性が激しく言い争いをする姿。
二人は夫婦なのだろうか。キッチンやリビング、寝室といった場所で言い争う姿が幾つも浮かんでは消えていく。中には掴み合ったり取っ組み合ったりと暴力に走る姿までもあり、酷く醜い光景の数々であった。
『喧嘩が始まると、私はいつも部屋の隅で耳を塞いで、意味の無い声を上げて現実逃避してた。どうしてパパとママは仲良くしてくれないんだろうって、いつまでも泣きじゃくりながら』
しかし何よりも辛いのは、記憶に付随して流れ込んでくる感情の数々。
叫び出したいほどの恐怖と悲しみの中、暗い部屋の片隅で膝を抱えて蹲り、必死に現実から目を逸らす少女の姿が浮かび上がる。和気藹々とした家庭を望み、ただ皆が仲良く暮らせる素敵な世界を願う、小さな少女の姿が。
『そして最後には、両親は大喧嘩の末に殺し合って二人とも死んだの。何も聞こえなくなって二人の様子を見に行ったら、そこは血の海。今でも夢に見るくらい、凄惨な光景だった』
垣間見える目を覆いたくなるような惨たらしい光景、その時に彼女が感じた喪失感が、慎士の胸を激しく貫く。その絶望たるや、今すぐ目と耳を塞いで闇の中に沈みたいほど。
けれど、慎士はそうしなかった。出来なかった。何故なら伝わってくる彼女の痛みを疎ましいものと感じながらも、どうしてもこの話を聞かなければいけないように思えたから。
『今はおじいちゃんとおばあちゃんに引き取られて暮らしてるけど、今でも時々考える。私はあの時、縮こまって震えてるだけで良かったのかって。自分に何かできる事があったんじゃないかって。そうすれば、みんな仲良く暮らせたんじゃないかって。二人が死んじゃったのは、私のせいなんじゃないかって……』
「……詩桜、さん」
震えた声でそう紡ぐ少女の名前が、霞がかった記憶の中から呼び覚まされる。
慎士よりも小さい身体ながら、立派に戦い街と人々を守る魔法少女。どこか不思議な雰囲気と無感情な様子を見せながらも、その実どこかお調子者で甘えん坊な所のある少女。
知ったふうな口を聞くな、とは二度と言えなかった。彼女もまた、慎士同様に悩み苦しんだ過去を持っているのだから。
『……俺は中学の頃、クラスメイトの一人を見殺しにしちまった』
次いで聞こえてきたのは、凛々しくもどこか弱々しさを感じる声。そして耳を疑う驚愕の内容。
これ以上彼女たちの話を聞いていたら、きっとまた苦しむ事になる。そんな確信を覚えながらも、不思議と慎士は耳を塞ごうとは思わなかった。
元より今の彼女たちの言葉と思いは、先ほどまでの物とは異なり一方通行の物。拒絶できない以上は黙って聞く他に選択肢は無かった。
『そいつは他のクラスメイトから苛めを受けてて、いつも暗い顔をしてた。ダチでもない、一度も話した事のない奴だ。だから俺が何かする必要は無い。そう思って、そいつの事は気にしないようにしてた』
脳裏に流れ込んでくるのは、少年少女が集う学び舎の光景。その教室の片隅で一人席に座って縮こまり、陰鬱な雰囲気を漂わせる一人の少女の姿。
ある時は上履きを履いていなかったり、ある時はノートや教科書がズタズタにされていたり、またある時は机に罵詈雑言の数々が書き殴られていたり。苛めを受けているという形跡はこれ見よがしに存在していた。
けれど誰もが見て見ぬ振りをする。クラスメイトはもちろん、大事にしたくない教師までも。誰も味方がいないまま、苦痛でしかない日々を送る。それは彼女にとってあまりにも辛かっただろう。耐え難い日々に嫌気が差し、凶行に走ってしまうほどに。
『そして気が付けば、ソイツは苛めを苦に自殺をした』
校庭で体育の授業中。校舎の屋上に人影。飛び降りる少女。真っ赤な花が咲き誇る光景。凄惨な記憶の数々に吐き気を催す慎士だったが、何よりも耐え難いのは流れ込んでくる感情。
それは慎士がその身で味わったものに引けを取らない、罪の意識と自責の念だった。
『この話、誰が悪いか分かるか? 苛めた奴らが悪いのは当然だよな。何たって自殺に追いやった犯罪者なんだからよ。けど俺は、苛めがあると分かっていながら何もしなかった奴らも同罪じゃねぇかと思うんだ。苛めを楽しんでる加害者とは違って、苦しんでるのが分かってんのに、悪い事だって分かってんのに、見て見ぬ振りをしてんだからよ……』
理解も出来るし、納得も出来るその物言い。
しかし助けに入る事が出来なくとも仕方ないという思いもあった。何故なら苛めの標的が助けに入った人物に移ってしまう可能性もある。誰だって同じような目には合いたくない。だから傍観してしまうのも仕方ない。
けれど今慎士の中に流れ込んでくるのは、そういった自分可愛さの日和見主義を決して許さない正義の念だった。
『俺は自分を許せなかった。もう二度とこんな悪を見逃しちゃならねぇって思った。だから今まで悪を許さず、戦ってきた。けどそれは、もしかしたら自分の罪から目を逸らしてるだけなのかもしれねぇな……』
日常では苛めや不正を決して許さず、戦いの場ではどれだけ傷つこうと決して悪を倒す事を諦めない。ある種頑固で融通が利かないとまで言えるその正義感、そして惚れ惚れするほどの男らしさ。
そんな少女の名前と姿が、憧れを抱く彼女の姿が、記憶の中から再び浮かび上がってくる。
『その点、お前はスゲェよ。こんな秘密抱えて、頭がおかしくなりそうなくらいに苦しんで、それでもあんな風に耐えていられるなんてさ。こんな心の強い奴、初めて見た。正直、ちょっと惚れた。お前は女みてぇな奴なのに、心は立派な男なんだな……』
「……黒羽、さん」
恥じらいのこもったその言葉による衝撃が、完全に彼女の事を思い出させる。凛々しく堂々とした立ち居振る舞いと、苛烈な印象を与えるその鮮烈な少女の事を。仲間を信じて、どんなに恐ろしい敵にも真っ向から立ち向かう魔法少女の姿を。
憧れの対象であろうと、彼女もまた苦悩を抱えて生きる一人の人間。慎士と何も変わりは無かった。
『ごめんね、楓ちゃん。辛かったよね。苦しかったよね。ずっと苦しんでたのに、気付いてあげられなくてごめんね?』
最後に聞こえてきたのは、慈愛に満ちた愛らしい声。しかしそれは後悔と自己嫌悪によって痛々しく歪んでおり、まるで我が事のように慎士の胸は痛む。
『本当は、あたしが最初に気付いてあげるべきだったの。そしてその苦しみを癒してあげるべきだった。だってあたしは、そのために魔法少女になったんだから』
けれど苦悩を遥かに上回る程の決意と、固い意志がはっきりと流れ込んでくる。
苦しむ人を救い、癒しを与える。それこそが自分の生きる意味で役割なのだと心の底から信じている、あまりにも利他的な美しい意思が。
『……あたしのお父さん、病気で死んじゃったんだ』
そして垣間見える記憶は、胸が張り裂けそうなほどの悲しみに満ちたもの。
病床に伏した父親と、彼に縋りつき泣きじゃくる少女の姿。それが何度も何度も日を跨いで続いていき、徐々に父親が衰弱していく様は無情な悲劇であった。
『ガンだったの。治療はしてたけど、あんまり効果は無くて、むしろ余計に苦しそうで……それであたしは、苦しみながら日に日に弱っていくお父さんの姿を、ずっと傍で見てる事しか出来なかった。凄く悲しかったよ。大切な人が苦しんでるのに、何も出来ない自分が。凄く歯痒かったよ。あたしの前では必死に強がって、苦しむ姿を見せないようにしてるお父さんの姿が』
震えた声が続ける通り、父親は必死に強がって元気な姿を見せようとする。けれど最後には闘病の末、安らかとは言い難い死を迎えた。
大好きな父親の死。無力な自分への怒り。胸が潰れそうになるほどの深い悲しみが流れ込んでくるも、最早慎士は目を背けようとは思わなかった。それよりも知りたかった。目に焼き付けたかった。こんな苦しい思いを抱えてなお、前を向いて歩いて行く彼女の姿を。
『大切な人が苦しむ姿は、もう二度と見たくない。だからあたしは、傷つき苦しむ人を癒す力を願ったの。一番癒してあげたかった人はもういないけど、大切な人はお父さん以外にもいるんだよ? お母さんに、おじいちゃんとおばあちゃん。夜刀ちゃんに柘榴ちゃん、そして――楓ちゃん。あなたも、あたしの大切な人』
「杉石、さん……」
咎人である自分すらも優しく包み込む、その情に溢れた言葉。安らぎと共に記憶の中から蘇る眩しい姿。
明るく活発な、女の子らしい女の子。まるで母親のような慈愛に満ちた、とても魅力的な少女の姿。
けれど彼女もまた、心に傷を抱えていたのだ。それでもなお、前を向いて歩き続ける強靭な精神を持ち合わせている。慎士はそこに、どうしようもなく惹かれる自分を感じていた。
『苦しいのは分かる。でも、殻に閉じこもり続けるのは駄目』
『あなたを大切に想う人たちがいる。その人たちは、あなたの苦しむ姿を見て同じように苦しんでるんだよ?』
『このままお前が死んだら、どんだけの人数が悲しむと思ってんだよ……お前はクラスの人気者で、妹のたった一人の家族で、誰よりも人気の魔法少女――ヘリオトロープだろ!』
思いやりと親愛の情、そして確かな厳しさを以て、三人の少女たちが語り掛けてくる。どれだけ辛くとも闇の中に沈んでいてはいけないという、ある種残酷な言葉を。
けれどさすがにもう、無視する事は出来なかった。彼女たちもまた慎士のように苦しんだ過去を持ち、それでも前を向いて進んでいる立派な人間なのだ。その高潔で気高い背中を追いかけたくなるほどに。
この闇の中から抜け出て、もう一度彼女たちの眩しい姿を一目見たい。どうしようもなく焦がれるあの三人に近付きたい。闇を祓うほどの光り輝く想いが、今慎士の中で産声を上げていた。
『私達は、もう楓の秘密を知った。その事はいずれ魔王にバレるかもしれない』
『だからもう、隠さなくて良いの。一人で抱え込まなくて良いの。あたしたちに全部吐き出して良いんだよ?』
『俺らがお前も妹も助けてやる! 守ってやる! 今度は絶対に見て見ぬ振りなんかしねぇ!』
「あ、ああぁぁ……!」
人類の裏切り者で、他者を騙し人の想いを弄んできたこんなクズにさえ、あの三人は手を差し伸べてくれている。
それが形だけでない事は、流れ込んでくる感情と想いが全てを証明していた。本気で慎士の身を案じ、助けようとしてくれている。苦悩のあまり壊れそうになっていた心に、その優しさは痛いほどに沁み込んできた。
『だから、帰ってきて! 楓!』
『お願い! 戻ってきて、楓ちゃん!』
『人を惚れさせてから死ぬとか許さねぇぞ! 早く戻ってこい!』
あまりにも真っすぐで鮮烈で、情熱に満ちた彼女たちの想い。眩いばかりの果てしない想いが、穏やかな闇が広がる世界に亀裂を入れる。その向こうに広がるのは、厳しい光が差す苦悩に満ちた現実の世界。けれど慎士はもう迷わなかった。
こんな自分を受け入れ、親身になってくれる人たちがいる。闇の底から救い出してくれるほどに、大切に想ってくれる人たちがいる。心に深い傷を抱えながらも、眩しく輝く彼女たちがいる。
その強さに羨望が猛り狂い、憧れが止まらない。例えこの身を輝きに焼かれようとも、その眩しい理想へ近付きたい気持ちが抑えられなかった。
「み、んな……!」
故に、慎士は手を伸ばす。暖かな暗闇の誘惑を振り払い、目を背けたくなるほど眩しい光の中へ。
瞬間、ガラスが砕けるような美しい破砕音が鳴り響き、暗闇の世界が砕け散った。突如として戻ってきた光と音の洪水に一瞬前後不覚に陥るも、ふらつき倒れそうになる身体を誰かが支えてくれた。
「――楓、おかえり」
「もうっ、心配したんだからね?」
それは魔法少女姿の柘榴と藍。二人は笑顔で慎士を抱き締めながらも、安堵の涙を零し震えている。
酷く不安にさせてしまった事に胸が痛む反面、こんな自分のために泣いてくれる事が無性に嬉しくて堪らなかった。
「で? 俺らに何か、言いたい事あるんだろ?」
そして慎士の正面に立つもう一人の魔法少女――夜刀が厳しい顔つきでそう言い放つ。いつも通りの刺々しさを感じる声音で。
けれど彼女の瞳にも涙が滲んでおり、慎士の身を案じていたのは明白だった。
「ご……ごめん、なさい……」
だから慎士は素直に言いたい事――謝罪を口にした。暗闇の世界から解き放たれた事で、自分が<魔法>を暴走させて彼女たちに迷惑をかけた事を思い出したからだ。そして今まで騙していた事、感情を弄んだ事、何もかもを謝ろうとした。
しかし傍らで支えてくれている柘榴と藍の反応を窺うと、彼女たちはただただ慈愛に満ちた微笑みを浮かべるだけだった。それは咎人に向けるものではなく、また謝罪を求めている人間の表情でも無い。
正面に立つ夜刀も同じ。むしろ慎士の消え入りそうな謝罪を聞いて、不快気に眉を顰めている始末。
ならばきっと、望まれている言葉は謝罪ではない。彼女たちが求めているのはそんなものではない。自分が本当に言いたかったのは、狂おしく求めていても決して口に出来なかった言葉は――
「――お願い、します……! 助けて、くださいっ!」
苦悩に満ちた現状から、自分を救い出して欲しいという不遜極まる願い。
誰にも言えなかった言葉を慎士は涙ながらに絞り出し、その言葉を聞いて彼女たちはようやく満足気に笑うのだった。
もっと苛めたかったけどそれだと規定ページ数に収まらないので我慢しました。