闇に堕ちる
⋇主人公、限界ギリギリ
「――それじゃあ先生、さようならー!」
「おーう、気を付けて帰れよー」
帰りのホームルームを終え、教室は途端に賑やかとなった。
そのまま帰宅する生徒もいれば、部活へ向かったり集まって談笑したりする生徒たちもいる。女子高生たちの会話はとても楽し気であったが、慎士の壊れかけの心には微塵も響いてこない。むしろ今の精神状態では酷く耳障りな雑音にしか聞こえず、これ以上ここにいると頭を掻きむしりながら叫び出してしまいそうだった。
当然彼女たちには何の罪も責任も無いため、そんな事をして怖がらせるわけにもいかない。なので慎士は手早く帰り支度を終えると、友人たちに作り笑いを向けて挨拶を口にした。
「それではボクも帰りますね。また来週お会いしましょう、皆さん」
「またねー、楓ちゃん!」
「帰る前に私と一緒にホテル行こ、ホテル!」
「一泊百万円くらいする高級ホテルなら考えてあげますよ?」
「百万……百万かぁ。さすがにそれはキツイよぉ……」
「百万出せば楓ちゃん抱けるってマジ? ちょっとバイト始めるわ」
いつも通りに下世話な冗談とおふざけが飛び交う中、慎士は笑顔を残してその場を去る。体重はとても軽いはずなのに、鉛のように重い身体を無理やり動かして。
「はぁ……楓ちゃん、何か色気が出てきたよねぇ。堪らん……」
「でも、何か前より痩せたような気がしない? 元々細かったけど、あんなに痩せてたっけ?」
「言われてみれば、確かに……えっ、あの痩せ方大丈夫なの?」
教室の出入り口へと向かう中、クラスメイトのそんな言葉が耳に届く。一緒に暮らしている亜緒ならいざ知らず、クラスメイトにすら気付かれるほどに身体がやつれてしまっているらしい。
しかしそれは最早どうでも良い事だった。何故なら亜緒に残された時間はもうあと僅かしかない。亜緒の命という差し迫った問題の前では自分の健康など二の次だ。例え亜緒を助けられたとしても、藍たち魔法少女を裏切り売り渡した罪悪感で自分が完全に壊れるのは目に見えている。
結局やつれて見えようが死にそうに見えようがどうでも良い事なので、慎士はクラスメイトの言葉に反応せず、そのまま聞こえなかった事にして教室を出た。
「か、楓、待って……!」
しかしその寸前、直接声をかけてくる人物がいる。
振り向くとそこに立っていたのは、魔法少女の一人でありクラスメイトでもある柘榴。普段は感情の伺えない無表情だというのに、今の彼女は酷く憔悴した面差しで慎士を心配そうに見つめている。
それも当然。彼女は夜刀を経由して慎士の事を聞いているからだ。途轍もない苦悩を抱いて壊れそうになっている、という情報だけらしいが、心優しい彼女が絡んでくるにはそれで十分なのだろう。
事実最近は事ある事に絡まれ、さしもの慎士も煩わしく思っていた。加えて柘榴だけならまだしも、休み時間には夜刀や藍までわざわざ上級生の教室から足を運んでくるのだ。慎士の悩みを聞き出し力になろうと、とても親身になって。悪意が欠片も無いからこそ、その優しさが酷く煩わしかった。
「詩桜さんも、また来週お会いしましょうね」
「あ……」
けれど純粋に心配してくれている彼女たちに怒りをぶつけても、自分がより惨めなクズになるだけ。故に慎士はにっこりと笑いかけて柘榴を黙らせ、そのまま足早に帰路に就き学校を出た。
普段ならばこのまま帰宅するか、夕食の買い出しをしてから帰宅するかのどちらかだ。しかし体重と共に体力も落ちている今の慎士は、休息を入れなければ真っすぐ帰宅も出来ない。そのため自販機で缶コーヒーを購入し、街の広場のベンチに座ってしばしの休息を取る事にした。
「……はあっ。ブラックなのに、さっぱり味が分からないな」
無糖のコーヒーを口に含むも、何の味わいも感じられずため息が零れる。
コーヒーそのものに問題があるのではない。それを味わう慎士の方に問題があった。常軌を逸した域の罪悪感と、それによるストレスで味覚障害を発症しているのだ。最早何を飲み食いしても全く味がせず、普段なら苦みのあまり飛び上がりそうになるブラックコーヒーすら水のように流し込めてしまう。
それほどまでに慎士が壊れかけているのは、タイムリミットが刻一刻と迫っているから。残された時間はあと七日。そんな短い時間で選択しなければならないのだ。大切な幼馴染であり、妹のような存在である亜緒を取るか。それとも高潔で誠実な少女である、魔法少女たちを取るか。
「完全に壊れる事が出来れば、どちらかを天秤にかける必要もなくなるのかな……」
心があるから、これほどまでに苦悩している。ならばいっそ心が無くなれば。そんな末期的な事を考えてしまうくらいに追い詰められていた。
しかし慎士の置かれた状況など、周囲の人間は知る由も無い。夕暮れ時の街並みは会社や学校終わりの人々で溢れかえっており、普段と何ら変わらない光景を見せつけてくる。まるで慎士だけが異端で、ここにいるべきではない罪深い存在だと思い知らせるかのように。
「……もう、帰ろう」
むしろ休憩が苦痛になり、慎士はコーヒーを飲み干すと席を立った。そうしてふらつきそうになる足を進めようとしたその時――
『――警報、警報。魔物の出現を感知しました。避難レベル、三。すぐに最寄りのシェルターへ避難してください。繰り返します――』
「あ……」
耳をつんざく高い警報音と共に、魔物の出現を知らせる警報が鳴り響いた。しかも魔物の出現場所はここからかなり近い。
避難レベル三というカテゴリーは、その警報が出された地域に魔物が出現したという事。これには普段と何ら変わらない日常を送っていた人々の間にも戦慄が走る。
「やばいやばい! 早く避難しないと!」
「みんな逃げろ! 魔物が来るぞ!」
「近くのシェルターはどこだ!? 誰か教えてくれ!」
慌てて走り出す者、右往左往する者、誰かに助けを求める者。思い思いの反応を示しながらも、最終的には全員が広場を離れていく。残されたのは逃げていく人々を見送っていた慎士のみ。
戦う力を持たない人々にとって、魔物は形を持った災害そのもの。逆立ちしても敵う道理はなく、逃げ惑うのも当然だった。
「ボクも魔法少女なんだから、早く行かないとな……」
しかし慎士には戦う力がある。腐っても裏切り者でも、何の因果か魔法少女となった身だ。
助けて欲しいのはむしろこちらの方だが、善行を積めば罪の意識も僅かに和らぐ。それに死と隣り合わせの戦いをしている最中なら、板挟みでどん詰まりのこの状況に苦悩する余裕もなくなる。
そんな末期的な事を考え、慎士はひとまず近くのビルの裏路地へと走った。
「――<魔法少女化>」
そして、変身。七色の光が弾け、可愛らしい衣装に身を包まれながらも、その中身は裏切り者のゲス野郎である魔法少女ヘリオトロープが降臨する。
自身にとって苦悩の象徴でもある姿に変身するのは苦渋の極みだったが、全身に力が湧き上がってくるのでそれだけは良い所だった。常に気を引き締めていないと倒れそうになるほど衰弱している身体でも、持て余しそうなほどの力が指の先まで満ちていく。
『ギャオオオオォォォォォォッ!!』
「……いた。アレは、ワイバーンかな?」
空へ舞い上がり黒煙の立ち昇る地域を目指すと、すぐに魔物の姿が確認できた。街の上空を旋回し炎を吐き散らしているのは、翼の生えたトカゲにも似た生物だ。鱗を持つ竜のようにも見えるがそこまで知能が高そうには見えず、また大型トラック程度の大きさしかない。頭部は一つしかないものの、自由に空を舞い上空から炎を吐き散らすのはオルトロスを上回る脅威だ。
とはいえ空を駆ける魔物である分、無駄に建造物を破壊して動く事は無い。そのため人々は逃げる途中に瓦礫で道を遮られる事も無く、シェルターへの避難をほとんど完了させつつあった。故に後は退治するだけであり、魔法少女の到着が待たれるのみ。
だが幾ら魔法少女とはいえ、本来ならば一人で立ち向かうべき相手ではない。この世界には魔物の侵入を阻む強力な結界が張られているが、時折現れる魔物はこの結界を力尽くで突き破ってきた恐ろしい存在だからだ。仲間たちが到着するまでの時間稼ぎをするだけならともかく、一人で倒そうとするなど傲慢な考えも甚だしい。
「……今更どんな顔をして、一緒に戦えるっていうんだ。もう良い。ボク一人でやろう」
しかし慎士には仲間などいない。人類の裏切り者であり、人の好意を踏みにじる下劣畜生が他人に助けを求めて良いはずが無い。ましてや自分が魔王に売り渡そうとしている張本人たちを頼るなど、厚顔無恥も良い所。
慎士は他の魔法少女たちが到着する前に片付ける事を決めて、一旦地上へと降り立った。
『ギャオオオオォォォォッ!!』
華やかなドレスを纏った魔法少女が、動く物の無い無人の道路を歩くのは非常に目立つらしい。ワイバーンはその大きな目玉をぎょろりと向けてきたかと思えば、すぐさま急降下して突撃してきた。
それを迎え撃つため、慎士は自らの魔法を解放する。
「さあ、行くぞ――<強く大きく輝く自分へ>」
虹色の光が身体から溢れ出し、己が身を包み変生させる。大人のように大きな身体を持ち、男性的な強さを持つ自分の姿へ。それこそが慎士ことヘリオトロープの魔法。
「え……?」
そのはず、だった。
だが慎士の身体から溢れ出たのは、悍ましく邪悪な漆黒の光。煌めく虹色とは似ても似つかない、地獄の底に溜まった汚泥のような薄汚い暗黒が身体を包み込んでいく。
そんな異常事態に呆然自失となってしまった次の瞬間、慎士の意識は急速に闇へと落ちて行った。どこまでも深く、そして甘美な闇の中へと。