枸櫞皿 二
炊事、洗濯、家事は一通りできた。畑の面倒を見ない分、それだけおれの家は楽らしい。
おれの家のぼろさに驚き、寝台や書卓だけが立派なことに驚いていた。おれは枸櫞を盛った皿を入り口から見える棚に置いた。入り口から風が吹くと、柑橘が香った。
少女は名前をサキと言った。おれは試しにサキよりもはやく眠ってみた。サキはおれを殺さなかった。
サキは家事がつきると、人を雇う屋敷を探して出かけた。サキがうちにいるのは、せいぜい二日か三日のことだろう。
サキが家に来て、三日後、考えていることがあって、おれはトエクをたずねた。以前、仕事をしたとき、トエクが勤める官署をきいていた。
その官署は時雨小路の西から三番目の横道を奥まで歩いたところにあった。古い家ばかり立ち並んだところで、壁のヒビから赤茶色の枯れ草が伸びていた。狭い間口に階段があり、二階が官署になっていた。
小さな部屋だ。いるのはトエクの他に小使いの老人がひとりいるだけで、老人は足元の小さな犬に羽虫を結んだ細い茎をけしかけていた。衝立で区切っただけの奥でトエクが何か書いていた。おれを見ると、嬉しそうに笑った。
「湖賊の件、きいた。あなたはやはり正義の徒だな」
「たまたま出くわした。礼の品ももらっている」
「天命はあなたに賊を討って正義をなせと言っているのだ」
「頼み事がある。金なら——」
「受け取らない。あなたのこだわりは知っているが、あなたからお金を受け取りたくないのだ。さあ、何が望みか教えてほしい」
「どこかで死体が上がってないか、調べてほしい」
「承知した」
トエクはいま書いている手紙をどかし、漆で仕上げた薄い箱から新しい紙を取り出した。小さな巻貝で紙の表面をこすって毛羽を取った。手紙を書くかどうかは別として、ああいう貝をひとつ手に入れるのも悪くないと思った。
「それでどんな骸だ?」
「三人だ。特徴はふたりが乱髪でひとりは毛を剃っていた。まともな衣を着ていない。背丈はおれより二寸高い。それで一番の特徴は三人とも右目を青あざで囲まれている」
「ふむ。すぐに調べよう。サイエクさん」
老人が立って、衝立の囲みにやってきた。
「これを詰め所に持って行って、こんな死体が上がっていないか、調べてもらってほしい」
「へえ」
紙を受け取り、老人が犬を連れて行ってしまうと、トエクは座のことを話した。
「座の刺客を尋問する機会があったのだが、サギリの里の手引きをしたもののことはあまり下の刺客や間者たちには知られていないようだ」
「どうやって吐かせた?」
「台に逆さに縛り付けて、熱したハサミで肉をちぎり、水で責めた。あれで嘘はつけない。どうかしたか?」
「あんたもやることはやるんだな」
「僕は自分の職務が手を汚さずにできるとは思っていない。そうしたいなら、衛兵になっている」
「おれから見ると、あんたはだいぶ衛兵寄りだ」
「そうだろうか。それと座だが、都で活動をしようとしているという噂が流れている。何人かの官吏を金で手なずけているという噂がある。そのうちの何人かはトウ家の人間だ」
つまり、ミカドの姻戚だ。おれやトエクの手の届かないところで金がやり取りされている。ひょっとしたら、やつらのために誰か殺しているのかもしれない。
「都の刺客たちは当然、座の介入を黙って見ていない。早晩、争いがおこることだろう」
「あんたの立ち位置は?」
「変わらない。天下の良民を泣かせるものを討つ。近々、あなたの腕を借りるときが来るかもしれない」
「そういう約束だ」
「頼もしい限りだ」
二日後、おれは夜、剣を離して、寝台に横になった。
少女は部屋の反対側に布団でくるまっていたが、真夜中にこっそり立ち上がり、短刀をおれに突き刺そうとした。
おれは寝台に傷がつかないよう、逆にこちらから飛び起きて、少し右に沈んで短刀をかわし、当身をくらわせた。
うぐっ、と声がして、少女は少し意識が飛んだ。
そのあいだ、短刀と針のような小刀、それに毒を入れたらしい鯉の浮袋を取り上げた。
昨日、賊の死体が三つ、掘割に浮いた。三体とも、右の目が青あざに囲まれていた。
あれは仕組んであったのだ。
少女の意識が戻った。おれが死んでいないことと武器を奪われたことに瞬時に気づき、飛ぶように逃げた。
ガシャン、と音がした。
真夜中に追いかけて、崩れた祠の前庭であの少女を見つけた。
他に座のものらしい五人の刺客がいて、ひとりはルールフ大路で見かけた偽巡礼だった。顔の垢はすっかり洗い落とされ、黒装束に身を包んでいた。
「行をしくじったな」
「はい」
「覚悟はできているな?」
「掟に従う」
少女がこたえた。
偽巡礼と他の四人は少女に制裁をするつもりのようだった。なぶり殺すことで頭がいっぱいになったのか、偽巡礼はおれがすぐ後ろにいることに気づかなかった。少女は刺客たちにおれが真後ろにいることを教えた。刺客たちは振り向かなかった。少女が隙を誘おうとしていると思ったのだ。偽巡礼に渾身の手刀を打ち込むと首が折れ、顔がよじれた。
最後のひとりの首をねじるまで、少女は動かなかった。全てが終わると、ただひと言、殺して、とだけ言った。
おれは少女に、砕けた枸櫞皿の入った袋を握らせた。
「お前はおれに枸櫞皿一枚分の借りがある。掟に死ぬにしろ、おれを殺しに来るにしろ、その借りは返せ」
翌日、少女は帰ってこなかった。
枸櫞皿は割れたといえど、それなりの価値があるのかもしれない。
だが、もう座には戻れないだろう。刺客以外の生き方ができるとは思えない。
真昼の日光が棚の上にごろごろした枸櫞を照らした。あの少女にあれに匹敵する枸櫞皿を手に入れられるとは思えないし、皿の欠片なんて道端に捨てて、おれを殺す算段をつけているほうがずっとあり得ることだった。
それなら、殺してしまえばよかったが、どうもその気にならなかった。以前のおれなら必ず殺した。以前といまのおれに違いがあるとすれば、硯、書卓、香、寝台、そして、枸櫞皿。
殺して当然のやつを殺さなくなることが豊かな生活に結びつくのだろうか。
甘い気がする。だが、それを捨てるには絶望が足りなかった。
リンイの家に行き、座が仕掛けてきたと伝えると、ひとり殺したと返ってきた。
「カイが仕留めた。よくやったぞ」
笑うとすれば嘲りくらいしかないはずのカイだが、このときは嬉しそうだった。
「そっちはどうだ?」
「五人殺して、ひとり逃がした」
「座はどうあっても我々を除きたいらしいな」
「別に都でなくとも、あいつらなら稼げると思うがな」
「稼ぎ過ぎて退屈になったのではないか? そうすれば、次に志向するのは権力だ」
「刺客が権力を欲したら、それはもう刺客ではない」
「ほう?」
「おれたちは権力の外にいる。限りなく近づくことはあって、すぐに離れていく。トエクという刺客を知っているか?」
「ああ。あいつか。どうもそりが合わなくてな。あれがどうした?」
「表の顔は冴えない文官だ。だが、腕は確かだ。あれで出世したら、あいつはその腕を宮廷内の内部抗争に使うことになる。気づけば、ただの道具になる。壊れるまで使い潰される」
「トエクはなぜあんなに賊を斬りたがるのか」
「そういう命を受けているんだろう。それに本人はそれが世の中のためになると本気で信じている」
「そういう狂信が苦手なのだ。それで逃がした刺客は?」
「子どもだ」
「子ども?」
「少女だ。カイよりも小さい」
カイの風炉の掻き立て方に粗さが目立った。まるで自分が小さいと言われているみたいに。
「それで貴殿はどうするのだ?」
「殺すなり、自殺させるなりはあいつが割った枸櫞皿を弁償してからだ」
「それを律儀に守るとでも?」
「馬鹿げた話だがな」