枸櫞皿 一
ときどき都を離れることがある。
標的が遠くにいれば、旅もする。
仕事を終えた帰り、湖を船で渡った。霧が濃かった。船の胴の間に網代の屋根がかけられ、その下に数十人の客が乗っていた。窮屈で、雑多で、騒がしかった。サイコロを転がしている連中がいて、紐でつながれた金をやり取りしていた。おれは少し寝たかったが、気になるやつらがいた。
三人の商人だが、誰とも話さず、手酌で酒を飲んでいる。目が商人の目じゃなかった。
おれは剣を杖代わりにして、網代と手すりのあいだから、外を見た。霧で三間先も見えなかった。船が水を切る音がした。かすかに櫓で水をかく音がした。
三人の商人をもう一度見た。背負い綱のついた木箱がひとつだけあった。短めの剣なら三本くらい簡単に入るだろう。木箱の蓋がひらいた。
甲板の船乗りたちが集まって、左右を指差していた。湖賊、という言葉がきこえた。例の三人は剣を手にして、近くにいる客へ手当たり次第に斬りかかった。船乗りが異変に気づいて、胴の間へ入ってきたが、肩を斬られて転がった。おれは短刀を抜いて、投げた。
「ぎゃっ」
偽商人がひとり、首から血を噴いた。残りふたりはそのままにして、甲板に飛び出した。
水夫と湖賊が狂ったように斬り合っていた。血が足首に届くほどたまっていて、耳や指、毛のついた皮膚が浮いていた。みな、自分の命のことだけで精いっぱいだった。
誰もおれのことに気づかなかった。剣を抜かなかったからだ。血で興奮したやつらは体ではなく、刀身の光に向かって、切りかかっていた。光っていれば、木漏れ日にも食いつくカワカマスのようなものだ。
舳先に頭がいた。顎鬚の長い、大男だった。両手をでたらめにふって、指図していたが、誰も注意を払わなかった。
頭はおれが目に前にいるのに、おれに気づかなかった。おれが見えていなかった。おれは柄に手をやった。頭のこめかみに抜き打ちを放った。剣を振り切って、手首を返し、今度は喉を真一文字に切り裂いた。髭がごっそり落ちた。おれは舳先に置かれた木箱に座り、斬り合う連中が頭が死んだことに気づくまで、殺し合いを眺めていた。
賊たちが自分たちの負けを悟って、船から飛び降り始めると、その背中を水夫たちの魚切り刀が袈裟がけにした。泳いで逃げる賊には矢が射かけられた。
客たちがわめいていた。縛り上げられた偽商人がふたり、甲板に引き出された。ふたりともひどく殴られて衣が赤一色になっていた。
偽商人たちは命乞いをした。税吏にむごい目に遭わされて、舟を失い、漁ができず、仕方なく湖賊になったと言った。それが本当かどうかは分からない。客たちは偽商人を湖に落とした。
おれはふたりがもがきながら、霧のなか、水のなかに消えていくのを黙って見ていた。
船が港に着くと、役人が湖賊の死体を引き取った。さらし者にするらしい。生き残った客たちは話を盛った。おれはやつらから離れた。屋台が貝の吸い物を売っていた。客たちが食べた。しばらく、どんなふうに湖賊を倒したか、あることないこと言っていたが、ひとりが食べたものをもどすと、他の連中もそれに続いた。
都へ急ぐ用もないので、港をぶらついた。道の左右に倉庫や店が並んでいて、商人たちが話していた。相場の話。流通の話。誰も湖賊のことは話していなかった。
後ろから呼び止められた。角ばった細い顔に顎鬚をたくわえた男がいた。
「あんただよな。湖賊の頭を斬ったのは」
「だとしたら?」
「これ、やるよ」
桐の箱をもらった。小さな生首が入りそうな箱だ。湖賊の仕返しか何かだと思った。
箱を開けると、瑠璃色の浅い陶器の鉢が白い布に包まれて入っていた。
「こりゃあ、枸櫞皿だ」クジャが言った。
「枸櫞?」
「柑橘の類だ。みかんとか。そういう実を入れて飾るんだよ。これは官窯で焼いたものだ。親王とかが床の間に飾っていてもおかしくない良品だ。クトの硯といい、なんで、お前は物を惹くんだろうなあ」
「瑠璃が悪くない」
「素直にきれいと言え。間違いなく、枸櫞の色を引き立たせる」
「その枸櫞、果物屋で売っているか?」
「植木屋だ。枸櫞は皮が厚すぎるし、その少ない果肉も酸っぱすぎて食えん」
枸櫞が食えん。
「おい、いま、変なこと考えなかったか?」
「いや」
「これから豚の足を買いに行くから、付き合ってやれんが、枸櫞くらい自分ひとりで買えるよな?」
「当たり前だ。おれを何だと思っている?」
園亭小路は区画を斜めに切り割っていて、ひな壇の棚にザクロやタチバナの鉢が並んでいた。道にいる人はみな顔が穏やかで、娼婦やスリ、警吏の類はひとりもいなかった。
間口いっぱいにミカンの鉢を並べた店があった。店のなかは柑橘の森のようだった。夕日のような実が連なって、さわやかな香りに満ちていた。
店主は若い男で、売物みたいにさわやかなふうがあった。
「いらっしゃい。何をお求めですか?」
「皿に乗せる枸櫞を探している」
「運がいいですね。三種ほど仕入れたところですよ」
大きな木皿が運ばれてきた。枸櫞が山と積んであった。皿には竹簡が差してあって、枸櫞の産地が綴ってあった。考えていたよりも小さかった。色はほとんど同じに見えたが、産地が北になるほど黄が薄いと店主が言った。
おれは決められそうにないので、箱から皿を出した。店主は、売り物の枸櫞をいくつか手に取って、器の瑠璃に負けない色の枸櫞を選んだ。手に取って、ゆっくり感触を確かめた。でこぼこしていて、香りが手にゆっくりと移ってくるのが分かった。
「お客さん」
「ん?」
「大丈夫ですか? 枸櫞を握ったまま、四半刻経ちましたよ」
「問題ない。あんたが勧めた枸櫞をもらおう。いくつならいい?」
「それでしたら、僕も商売人ですから、ぜひ百個売りたいですけど、そうですね、この皿なら——七、いや、多すぎるかな、六個がちょうどいいですね。思ったより深さがあるから、五個じゃちょっと物足りません。でも、こんな素晴らしいお皿が手に入るなんて、お客さん、きっと相当いい趣味の暮らしをしてるんでしょうね」
「ああ」
「何か鉢植えが必要になったら、ぜひ来てください。いい林檎が入る予定なんです」
園亭小路を南西から出て、ルールフ大路へ出た。崩れた塀と誰もいない道。白い太陽。轍のなかに蛇が頭を突っ込んで死んでいた。五年前、三人の大臣が斬刑になって以来、このあたりはさびれていた。太鼓ひとつ鳴らなかった。
大臣や将軍になると、その家のまわりが栄え、解任されると人通りが絶える。都のあちこちにはそんな町や通りがいくつもあった。
少し歩くと、飯屋があった。飯が櫃のなかで乾きかけてきた。葱の羹を頼むと、巡礼が店の前を通りがかった。元は白かった道衣が垢まみれのぼろになっていて、顔が汚れていた。裸足で歩いている割には足がきれいだった。巡礼はおれをちらりと見た。おれの飯ではなく、おれの顔を。
「ひとりかふたりなら、まだいいんですがね」店主が茶を持ってきた。「一度に三人だとゲンが悪くて」
「誰か斬られたのか?」
「ああ。辻斬りじゃないです。お大臣の方々です。サクク大臣、ザイ大臣、オサエン大臣。盛りのときの御威光はそりゃあ、もうすごいもんで。ミカドは三大臣のことを三人の兄を得た、なんて言ってましたからねえ。そのころのここは毎日、イサド祭と年末の宴が一度に来たような大騒ぎでしたよ。そのころは鯛なんて仕入れて焼いてました。それがいまじゃあ、さっきみたいな汚いじいさんがひとり、通りかかったら御の字ですよ」
好きなように話させた。そんなことでも、この飯屋を続けていられるのは盗賊や人殺しをかくまって金を得ているからだろう。
「それが突然、三大臣が解任されて、次の日には仕置きで打ち首です。打ち首になった大臣の屋敷なんて縁起が悪くて誰も後を引き取らない。やんごとなき方々がいなければ、この有様です」
三大臣の斬首に、おれはかかわったかもしれない。何月何日何の刻にイミジ小路の士族屋敷からこれこれこういうやつが出てくるから、そいつを殺れ、と言われた。その背丈や体格、年齢、どんな服を着て、どんな笠をかぶり(竹の子皮の笠だ)、どんな剣を携えているか、その刃渡りから柄飾り石の色まで教えてきた。どうしてもそいつに死んでもらいたいんだなと思い、士族屋敷の前で待った。そいつが出てくると、おれは通りがかりを装って歩いた。相手は警戒したが、あのときのおれは十八のガキだったし、饅頭売りに化けていて、剣を持っていなかった。おれはそいつとすれ違った。左足を軸に体を巡らせ、そいつの腎臓を拳で潰して、振り向いた顎に掌打を飛ばした。頭が背骨から外れる音がした。倒れると、笠が外れた。女だった。
「女を殺すとはきいていない」
「相手が男だとも言っていない」雇い主が言った。おそらく誰を相手にもこんななめたことを言っているのだろう。「それより書状は?」
「そんなもの持ってこいと言われていない」
「それでいいんだ。書状を見ていたら、あんたを殺さないといけなかった」
その次の日、死んだ間者から三大臣の謀反を証明する密書が見つかったといい、三大臣が斬られた。
道に戻るが、さっきの巡礼は姿が見えなかった。
太陽になめとられたみたいにきれいに消えていた。
さびれた大路は太陽で漂白されていた。左手には屋根のなくなった築地塀が続いていた。
そのうち、塀が大きく崩れたところに出た。その敷地を通るのが近道だったので、なかに入ると、略奪を食らってだいぶ経った屋敷があった。略奪は徹底していて、柱の表面の朱塗りまで削り取られた。溶けば荒いが絵が描けるからだ。
家具のない空っぽの部屋をいくつか通り過ぎると、物音がした。雑草を踏む音でおれみたいに近道をしているやつがいたと思ったが、子どものうめき声もきこえた。
こうした屋敷には中庭がいくつかある。そのうちのひとつで見つけた。男が三人いて、少女がひとり、縛られて猿ぐつわを嚙まされて、枯れた梅の木の根元に転がされていた。
他人のすることに関わる筋合いがないが、少女と目が合った。希望を捨て切った目だった。賊のひとりがその視線を追った。賊はおれを見て、刀を抜いた。
おれは三人の賊の右目に拳をぶつけた。三人とも、粉をはたいても隠せない青あざに目を囲まれた。逃げるときはあっけなかった。
少女の縄を切り、猿ぐつわを外した。
「あ……」
「家はどこだ?」
「ターメに……」
「ひとり旅か?」
少女はうなずいた。ときどき北と南で反乱があるが、都の近くでは戦はない。だが、十四、五の小娘がひとり旅をできるほど治安はよくない。
「奉公先があるんです」
それで納得がいった。農村の口減らしだ。どこそこの店に奉公先を決めたと言って、ひとりで送り出す。それで賊に斬られようが、売られようが知らないというやり方だ。
「このお屋敷に使われることになっていました」
少女はひどく怯えていた。賊に襲われたこともそうだが、奉公先がなくなったことも恐ろしいのだ。そうなったら、都でひとり野垂れ死にするしかない。だんだん、自分が凝ったやり方で親に捨てられたと気づいたらしい。
「路銀は?」
「……」
何も言わずうつむいていた。
ある剣客がこんなことを言っていた。人を助けたら最後まで助けろ。中途半端にするくらいなら関わるな。
「屋根くらいなら貸してやる。路銀を稼ぐ算段をつけるんだな」