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刺客のこだわり  作者: 実茂 譲
ヒュンガの清趣
6/51

釣師

 朽ちた宮殿の濠際にあぐらをかいた釣師が糸を垂らしていた。蓮の葉に塞がった水面には魚の影が見えたが、木片でつくった浮きはピクリとも動かなかった。

 おれは酒壺を携え、濠際に座っていた。宮殿の塀が崩れていて、そこから矢で今抱えている仕事の標的を射殺せるか考えていた。

 おれが人殺しを考えているあいだ、釣師は魚殺しを考えていた。釣師の脇には石でつくった小さな窯があり、乾いた薪と砕いた木片があり、首から紐で火打石を下げていた。

 魚は相変わらず、その影を蓮の葉のあいだから見せていたが、釣師の餌にはピクリとも来なかった。

「釣れるかね?」

 神官が釣師に話しかけた。赤い紐で結んだ板のあいだに何十枚という紙を挟んだものを携えていた。何かの使いの途中のようだった。

「釣れないね」

「餌は?」

「餌を抜いて青くしたミミズだよ。でも、今日は小エビのほうがいいのかもしれない」

 そう言ってから、ふたりは空を仰ぎ見た。空が青く透き通っていた。雲は都を外れた山地をさまよっていて、程よく暖かかった。

「やっぱり青ミミズの天気だ」神官が言った。「錘は?」

「ない」

 すると、神官は袖のなかから、嚙み潰して糸に取りつける、釣り用の小さな鉛粒を出した。神官が釣具を常に携帯しているなどと考えたこともなかった。

「これでタナが安定するんじゃないか?」

 おれは水面に目を戻した。小さな青カエルが蓮の葉の上にいた。しばらく葉を飛びはねていた。そのうち水に落ち、泳ぎ始めた。水が暴れて、飛び散った。カエルはいくつか泡を残して消えた。

「カワカマスだ」釣師が言った。「麻糸がないんだよ」

「あんな何でも食べる魚、大きいだけで釣りの面白みがない」

「でも、大きいのは全てだよ。おれたちは釣った魚の大きさのこととなると、相手が天子さまでも嘘をつくからなあ」

「業の深いことだが、こればかりはしょうがない」

 神官はそわそわし出した。もう少し釣りを見ていたいが、行かなければならないところがあるようだった。神官は名残惜しそうに去っていった。


 竹の竿を担った子どもがやってきた。糸は麻をよっていた。

 濡れた魚籠から小さなカエルを取り出すと、それを石に叩きつけて殺し、尻から針を刺した。後ろ足は細い糸で結ばれた。子どもはそれを水に放ると、竿先を上げたり下げたりして、生きているように操った。死んだカエルは前足を水を掻くように動かしていた。

 水が暴れて、糸がピンと張った。糸は左右に暴れた。子どもはうまく竿をさばいた。右へ逃げれば左に引いた。魚がどんな動きをしても、糸は緩まなかった。まるで嬲るように泳がされ疲労した魚は自分から網のなかに入っていった。

 細い頭に歯の生えた口をしたカワカマスが釣れた。二尺はあっただろう。子どもは頭を石に叩きつけて魚を殺し、鰓とハラワタを取ってきれいに洗い、口のなかに縄を通して、ぶらつかせながら、濠のそばから去っていった。

 釣師は見ないようにしていた。子どもが立ち去ると、ハラワタのクズを濠に蹴り落とした。


 里にいるとき、おれたち子どもは殺しの訓練の合間に、よく釣りをした。

 フナ、鯉、ウナギ、夏の始まりには小さなアユが釣れることもあった。カワカマスは一度も見たことがなかった。

 澄み切った川で深場でじっとしているナマズの姿だって見ることができた。もっと上流には鱒がいたが、数は少なかった。

 おれたちは虫を針にかけていた。それで小アユが釣れるが、大人のアユは釣れなかった。大人のアユは岩にへばりつく苔を食べるからだ。

「苔を針にかける手ってないのかな?」

 キリはおれの次に行を果たした。どこか夢見がちで、地に足がついていないところがあった。キリは大人のアユを釣りたかったが、その方法がなかった。人を殺すより難しかった。

 ある日、おれとキリが行を果たして、里に戻ると、大人たちが梁を仕掛けていた。竹でつくった簀の子の上で水が滑って踊り、大人のアユがはねていた。おれたち子どもはみな、それを手づかみにした。

 里にいたころ、人殺しをしながら幸せになるのはあんなに簡単だった。


 釣師はまだ釣れなかった。

 餌は青いミミズだと言っていたので、狙っているのはフナだろうと思うが、それにしては釣れなさ過ぎる気がした。

 黙って魚籠を見るのは失礼だったので、おれは壺を手に、酒を勧めるようにして、釣果をたずねてみた。釣師は顔をほころばせ、そして、まだ何も釣れていないと言った。別に恥ずかしいこととは思っていなかったようだった。

「狙っているのはただのフナじゃない。フナのなかには何十年も生きるやつがいる。そういうやつは下へ睨み落とすような目をしていて、にらみブナと呼ばれている。恐ろしく賢く、人の言っていることがわかる」

「それがこの濠にいるのか?」

「間違いない」

「横で見ていていいか?」

「もちろんだ」

 おれと釣師は酒をなめながら、浮きを見守った。ときどき、通りがかりが釣れるかときいてくることがあった。兵士もいれば商人もいたし、子どももいた。三位以上の官位を持つらしい文官が輿を停めることもあった。釣師は誰に対しても、にらみブナの話をした。

 日が暮れ始めると、気の立った魚が水面を叩くことがあった。魚が餌をあさりにきていると思ったが、釣師は竿から糸を外して、帰り支度をし始めた。

「今日は駄目だ。まったく駄目だ」

 釣師は何も釣れなかったのに、胸を張った。釣りの腕はない。だが、簡単に幸せになる方法を確かに知っていた。


 翌日、嫌な夢を見た。

 あの釣師が里を焼く手引きをした証拠をトエクが持ってくる夢だ。

 目を押さえ、息をゆっくり吸い込み、寝台からそっと降りた。

 鍋に水を入れ、石みたいに固い餅を砕いて煮て食べた。

 顔を洗い、粗塩で歯を磨いて、口をゆすぐと、ハルビエ寺院の正午の鐘がきこえるまで、一通りの鍛錬をした。剣と体術の形を一通り試して、取り落とした位置や呼吸、切っ先がないかを用心深く調べ、頭のなかに思い浮かべた裏切者の首を打ち、両腕を切り落とし、背骨をへし折った。

 噴いた汗が肌で塩になる前に水布で体を拭い、衣をあらためて、散歩に出かけた。

 水濠には釣り人が何人かいたが、釣師はいなかった。隠居暮らしで釣り三昧ができるほどの齢ではなかったので、まだどこかで働いているのだろう。ただ、近場で水のある場所を見てまわったが、釣師はどこにも姿を見せなかった。


 いま抱えている標的を殺して、リンイに会いに行った。

 相変わらず竹は深く、都にいるのに田舎にいるようだった。

 リンイは風邪で寝台に横になっていて、カイが卵を入れた粥を吹き冷ましていた。

「そのくらい自分でできる」

 だが、カイは譲らなかった。

「先生の身に何かあれば、僕は死にます」

「これだ、ヒュンガ殿。困ったものだ。これもそれも、あの間者のせいだ」

「間者?」

「仕事だ。間者を殺せと命じられたが、その間者は決してひとりになることがない。ひとりになるとしたら、水辺でだけだ。それでわたしは一日じゅう、竹筒をくわえて水に潜み、間者が来るのを待っていた。おかげでこの通り、風邪をひいた。ヒュンガ殿も仕事を受けるときは気をつけるといい。その標的は水のそばでなければ油断しないかとな。得難い教訓だ」


 リンイと会ってから、釣師を見ない日が一週間続いた。

 都ではこんなふうに人とのつながりが切れていく。

 よくあることだった。


「やあ! 前に会ったな!」

 例の釣師だった。

「元気してたか? おれは元気だ」

「あんた、しばらく見なかったな」

「都の外、郊外をまわってたんだ」

「郊外?」

「ついにあの濠で釣ったんだ。にらみブナを!」

「人の言葉がわかるフナか?」

「あれは本当だった。やつはこっちの言葉がわかってて、やつを食ったら、フナの言葉がわかるようになった! これが証拠だ!」

 そういって見せた魚籠にはフナが詰まっていた。

「こっちはフナが腹が空いているか、何が食べたいか、全部わかるんだ。これで釣れないわけがない。郊外の池は全部釣り尽くした。それでいまはにらみ鯉を追ってる。こいつもまた人の言葉がわかるらしい。じゃあ、急ぐから」

 切れたと思ったものが急にぷかりと浮かび上がる。

 そういうものがあるのも、また都だ。

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