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刺客のこだわり  作者: 実茂 譲
ヒュンガの清趣
3/51

椅子寝台 一

 こんなものもあるんだな。

 ガラクタ市で見つけたのは、ごく小さな衝立で、硯用の衝立だ。

 虎と仙人の絵が描かれたもので、一角と五十文。

 それを買ったとき、後ろからひとこと、俗、と言われた。

 振り向くと、薄青の顎髭を地面に届くくらい伸ばした老人がいて、そいつが、硯の衝立を芭蕉の葉で差して、また、俗、と言った。

 いったいどういうつもりかきこうとしたが、老人はさっさと歩いて行ってしまった。


 家に帰って、衝立を硯の隣に置いた。

 見栄えがする。

 だが、二日目に見ると、鼻についた。

 一日前に見た満足が得られず、馬鹿みたいに見えた。

 なぜ、硯に衝立がいる? 隠れて殺したい相手がいるわけでもないのに。

 次の日、クジャの店に持ち込んだら、三十文で買い取られた。

 その三十文は手元に置きたくなかった恥の三十文だったので、使ってしまうことにした

 天道の真下、どこまでも真っ直ぐな大路。太陽が道の幅にぴたりとはまって沈む。空は朱色。おれは酒亭小路に曲がった。雑踏は影に沈んでいて、屋根瓦は夕日で光っていた。

 居酒屋のひとつに入り、長い酒卓についた。店主に剣を預け、酒と葱の羹を頼んだ。にぎやかだが、腕がふくらんだ用心棒がいて、無法を許す雰囲気はなかった。

 竹筒を傾け、箸で葱をつまみながら、しばらく手酌でやっていた。おれの隣に座っている、手と首に入れ墨をした無頼やくざが過ぎた濁り酒で目を濁らせ始め、そのうち他の客が連れている女たちを売女ばいた呼ばわりし始めた。

 用心棒がやってきた。腕の太さは入れ墨男の胴ほどあったから、入れ墨男が外に叩き出されるのに時間はかからなかった。

 そいつが叩き出されると、なぜか用心棒がおれの肩に手を置いた。

「お前もだ。この酔っ払い――」

 親指の付け根を左手でつかみ、爪をめり込ませた。用心棒が顔をゆがめて、痺れたように身をよじった。そのがら空きの脇腹に、体重を左足から右足へと移しながら右ひじを打ち込むと、肋骨にヒビが入るのが分かった。巨体が床に崩れた。

 向こうの勘違いでこっちに非はない。だが、河岸を変えるしかなくなった。

「剣を返せ。これは代金だ」

 店の外に出ると、声をかけられた。

「大した技だな」

 背の高い武人だ。声は女のものだった。まさか宦官でもあるまい。

「前に会ったか?」

 今日も剣を下げているが、袖のなかで腕に短刀を結びつけてある。虚をつくなら、そっちを使う。

「いや。初めて言葉を交わす。それと袖のなかの匕首あいくちは使わなくていいぞ」

「……同業か」

「ああ」

 女は薄い手袋に包まれた指で酒亭小路の賑わいを差した。

「馴染の店がある。そこで飲みなおしがてら、話さないか?」

「何を話す」

「趣味についてだ」

 女の帯留めを見た。錫に鶴を彫った帯留めをしていた。


 女の馴染の店は庭で老いた楽士に琴を弾かせるくらいの店だった。いい古酒を出した。

「リンイだ。氏族の名乗りはシュレイ」

 庭の見える席につくと、女が名乗った。

「ヒュンガだ。氏族の名乗りはない」

「みなしごか」

「ああ」

 里のことを説明するつもりはなかった。

「趣味について話すと言っていたな」

「その通りだ」

「単刀直入に言ってくれ」

 提子ひさげと椀が来た。どちらも錫でできていて、古酒がなみなみと注がれていた。

「まずは飲もう。毒なら気にするな。入れていない。サギリの里の刺客たちは毒に体を慣らして鍛えるときいているしな」

「……目的はなんだ?」

「同好の士とよしみを通じたい。それだけだ」

 リンイは古酒をひと口つけた。

「刺客というものはおかしなものだ。ただ、殺し、生き、受け取った報酬に一文も手を付けずに死ぬものもいれば、金に溺れ、酒池肉林、天下でなせる全ての悪癖に染まるものもいる。もっと稼ぎたくて、子どもに技を教え、座をつくるやつもいる。どう思う?」

「他のやつのことに興味はない」

「そうか。では、話を買えよう。クトの硯は?」

「あれは売りものじゃない」

「何としても欲しいと言ったら?」

「殺す」

 くっく、とリンイが笑った。

「なら、あきらめよう。貴殿の腕前は知っているつもりだし、わたしも人並みに命が惜しい。それに文人の域からはまだ程遠いところにいるとはいえ、人と道具の巡り合いを邪魔するほど俗ではない。まあ、まったくうらやましくないと言えば、ウソにはなるが」

「もう一度きく。目的はなんだ?」

「先ほども言った通り、同好の士とよしみを通じたい。清趣に生きようとするものは刺客には皆無だ。わたしと貴殿を除けばな」

「……それを信じろと?」

「信じられないのは承知だが、それが事実なのだ。趣味を始めれば、仲間が欲しくなるものだ。失礼ながら、貴殿の家を見させてもらった。まあ、ひどいやぶだ。ただ、書卓まわりは実に古で、それにいい香炉もあった。香炉で金物や陶器、貴石以外となると、獣骨をつかったものをさる県令の家で見たことがあるが、角を使ったものは初めて見た。よい黒で、それが煙の色を引き立たせるのだろうと想像すると人のものでも我が事のようにうれしくなった」

 そう言われると悪い気はしなかった。

「最低限の趣味だ」そう言ってやった。

「だが、一番信じられないのはクトの硯を、隠しもせず、書卓の上に置きっぱなしにしているところだ。我が目を疑った。ルァン州の太守があれより、やや劣るクトを買うために妾を全て売り払うのを見たことがある。それほどのクトをただ置いているのだ。わたしには真似できない。盗まれたらと考えてしまうからな」

「盗まれたら必ず取り返す」

「そう言えるのは、貴殿と物との結びつきが強いからなのだろう。文人と名乗る人びとのなかには趣具にこだわるあまり、それが失われることを考えてしまい、吝気が出て、いくら古なものに囲まれても、俗にはまり込むものもいるという。だが、貴殿にはまったくそういった風が見られない」

「では、おれは古なのか?」

 リンイはまた押さえて笑った。

「いや、まだまだ遠いぞ。あの家は野趣に傾き過ぎて清趣に遠いし、寝具が見られないのは横にならないからだろう? それではいけない。刺客の風が強すぎる。それに貴殿の器の大きさは分かるが、やはり硯は硯箱に入れたほうがいい。埃は避けるべきだ。それと、まあ、言いにくいのだが――」

「なんだ?」

 ぷっ、とリンイは吹き出した。

「硯の衝立は――ああ、駄目だ。笑ってしまう」

「……あれを見ていたのか」

「ああ。すまない。だが、なぜ、あのようなものを求めたのだ?」

 リンイはくすくすと笑いが止まらなくなった。

 他のやつだったら、悪意を感じるのに、なぜかこの女からは悪意を感じなかった。

 それが同好の士というものなのかもしれない。

 そう思うと、それも悪くないように思えた。


 竹林で刺客を押さえた。腕を取って、枯れ笹の積もりにねじ伏せた。

 まだ、十五、六の少年だが、目に恐れの色はない。覚悟は決まっているようだ。イムニが雇ったんだろう。おれが子どもを殺さないと思っているなら、やつは大きな間違いをした。

 人通りは全くない。額に腕をかけ、膝で背中を押して、頸を折ろうとしたとき、

「待ってくれ。わたしの弟子だ」

 リンイがあらわれて、ギリギリで殺さなかった。

「カイ。客人があることは言っておいただろう」

 リンイが責めるように言うと、少年はおれの固めから、ゆっくり外れながら言った。

「先生のそばに来る以上、危険の度合いは図らねばいけません」

 淡々とした口調で、声は小さかった。

「それでいちいち頸を折られては命がいくつあっても足りないぞ。ヒュンガ殿。すまなかったな」

「いや」

 リンイが道の案内をした。前のリンイは苔色の短衣に墨色の袴履きの武人装束だった。いまはゆったりとした長衣を着流している。剣は帯に差してあったが、以前の帯留めはなかった。

 竹の葉の切れ目から細い陽が差していた。町から離れていたので、人のざわめきはなかった。竹の葉のすれる音がいくつも重なっていた。

 空き地に出た。桃を植えた庭のある塗土の家が見えた。リンイの家だった。

 趣味のいい家だった。風の通り道にうまく建てられていて、どこから賊が来ても、においで分かる。屋根と床のあいだにはおれの家にないものがたくさんあった。硯は水龍の彫り物がしてあって、瓢の形をしていた。

「カイ。茶をいれてくれ」

「はい、先生」

 カイは庭に出て、風炉で湯を沸かし始め、温い湯を少し取ると、茶葉を軽く洗い始めた。

 茶を洗う、か。

 茶壺にどれだけ用心深くしまってあっても葉に埃が混じるものらしい。おれが店で飲む安い茶は塵のようだから洗えばそのまま消えてしまうだろう。

 茶瓶は肌が薄青く、形はどこかの寺のかなえを写し取ったようだった。

 注がれた茶はうまかった。茶に甘味がかすかにあることを、おれは生まれて初めて知った。

「気をつけられよ、ヒュンガ殿」リンイが楽しそうに言った。「茶はこだわるとキリがない」

「どうやってかわす?」

「かわす? まあ、そうだな。欲しいものを念頭に置かず、いくつか馴染の店をつくり、こまめに覗くことだ。そのうち、自分に合う茶具や葉、水に会える。焦らずにいればいい」

 庭を見た。緋鯉の泳ぐ池に空の影が映っていた。空の高さを思い、里のことを思った。

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