香炉
花街には滅多に行かない。
行くとしたら、誰かを探しているときだ。おれの仕事はいつだって誰かを探すところから始まる。
赤い紙灯の連なった小路で、顔に色を塗った遊女が袖を引いていた。どの楼も二階建てで、楽の音がした。
おれはどうも花街が好きになれなかった。においのせいだ。
白粉や油っぽい料理、濃すぎる酒と香、それにかすかな媚薬。こうしたものが混ざって、吐き気がした。
探していた男が酒楼から出てきた。だいぶ飲んでいて、足もとがおぼつかない。何か古い詩を吟じていた。
人込みに紛れて、間を詰めた。役人風にまとめた髪に鉄の針を刺して止めていた。針は取れかけていた。おれは真後ろにぴったりつくと、左の腰の後ろに打ち抜くような突きを見舞った。男が体をよじって、身を低くしようとしたので、髪留めの針を引き抜き、首の後ろ、背骨の上端の急所に刺してねじった。男は足をもつれさせながら、酒店の脇の壕に落ちた。
「おい! 酔っ払いがドブに落ちたぞ!」
誰もおれの仕事は見ていなかった。何人かが壕のそばに寄った。誰か助けてやれよという声が上がったが、女に会いに行く上服を汚してまでして、やつを壕から引き揚げようとするものはいなかった。
おれの足は小路を西にとった。死体が上がったところで、酔った男が濠に落ちて、髪留めが運悪く刺さったくらいにしか思わないだろう。
花街の出入口の櫓門が見えてきた。そのとき、においがした。
草原の真ん中で風に吹かれたことはないが、もし吹かれれば、こんなにおいがすることだろう。においのはずなのに、目にどこまでも広がる青い原の有様が見えた。
香りを見上げると、小さな楼の窓から細い煙が筋を引きながら、溶けほぐれていた。
そこは三流の楼だった。おれを案内する老僕はおれを値踏みして、どの女をつけようか考えているようだったが、おれにはつけてもらいたい女がいた。
「あのおなごがよいのれふか?」
老僕は歯が抜けていた。
「ああ。上の角の部屋の女だ」
油皿がひとつ置かれた暗い部屋だった。表から見たときはもっと明るかった気がした。香炉から煙が薄くたなびいていた。
女はおれを見て笑ったが、おれを笑ったのではなく、自分を笑ったのだとみてとれた。若いころはかなり売れただろうが、老いて、落ちた顔をしていた。その顔は肉が削げていた。口から洩れる下手な笛のような呼吸音から、一度、肺を病ったはずだ。
「あたしはね、川に身投げするんだ」
おれを見て、女がそう言った。だから、もう何もしてやるつもりはないと言いたいようだった。
「でも、あんた、すごくきれいな顔してるね。抱いてもいいよ。死出の旅の思い出にするさ」
「そうか」
「なんで死ぬのか、興味があるかい?」
「いや」
「にくい男への当てつけにね」
「あんたの命だ。好きにすればいい」
「好きにするよ。でも、ひとつ、心残りがあったのさ。それがこれ」
女は香炉を指差した。ほどけかけた掛布団や穴だらけ衝立など、粗末な調度のなかで香炉だけは立派なものだった。そこから燻される香と同じくらい素晴らしいものだと知れた。
「これがケチな楼主の手に遺るのが悔しくてねえ。あんた、買わないかい?」
「もとよりそのつもりで来た」
「へ? ……なるほどねえ。あたしみたいなババアのとこに何であんたみたいな若いのが来たのかと思っていたけど、とんだ文人趣味してんだねえ。若いのに感心だよ。あたし、仕事柄、クソ野郎どもの顔を何千とみてきたから分かるけど、あんた、これを大事にしてくれそうだ。持ってっておくれよ」
「いくら払えばいい?」
「アハハ! 金なんていらないさ。地獄に金は持っていけない」
「おれはあんたではなく、道具に払うつもりだ。いくらだ?」
遊女は笑った。この世の笑いおさめみたいに。病でえぐられた肺を泣かせながら。
「じゃあ、二十角もらうよ。これにはそれ以上の価値があるけど、あたしもさ、こいつにそんなふうに接してくれるのがうれしいんだ。だから、二十角」
「いいだろう。香がどこで手に入るか教えてくれるか?」
「ちょいとお待ち」
女は部屋の端に油皿を置いた。そこには書卓があった。ひどく古く、脚の長さが違うらしく、傾いていた。暗いので硯は見えないが、墨を擦ると軋むような音がした。
女は書付を一通仕上げた。
「これをソザン大路のユビっていう香師に持っていきな。そうすれば、ユビがあんたのためだけに香を練ってくれるさ。これはね、あたしだけの香なんだ。変な気持ちだね。今夜、つい今さっきあっただけのあんたにさ、香炉をたくして、これまでたくすなんて」
書付をもらおうとすると、女の手がおれの手首をそっとつかんだ。
それを乱した着物のなかへ引き込む。
「死ぬってのは……本当に寂しいのさ」
家でひと眠りしてから、おれは香炉を書卓に置いて、眺めてみた。
海獣の角でできていた。三脚の小さな入れ物で、深みのある黒をしていた。網目を切った蓋を開けると、香を置く底が少し盛り上げてあるのが分かった。香が静かに燃えながら、生風を下から巻き上げて、あの風を香りづけるらしい。
香などおれの生業には必要なかった。だが、知らない世界には知らない工夫がある。実用がないようで、道具の能を知ったものがその技を思うように使っているのを知るのは、気持ちがよかった。
依頼人から報酬をもらうついでに香を買おうと思い、支度をした。
路傍の行商で葱の羹(※餡かけ汁)を食べ、塵ふたつまみを入れただけの茶を飲んだ。
依頼人と会うことになっている店に着くと、召使頭が裏口で待っていた。依頼人の店が何をしている店なのかがおれにはいまだに分からなかった。端がかすむほどの大部屋からは算術の珠が弾ける音ばかりがきこえてきた。
奥の中庭に面した離れに依頼人がいた。竹簡の束や帳面が置いてある卓に香炉が置いてあった。濁った水晶が面白い模様をしているが、香がひどく甘ったるくて好きになれなかった。
「ご苦労だった」
銀五十角をちょうど受け取った。
これで終わりだ。
依頼人とおれの関係はこれが一番好ましい。
ただ、おれはいつも以上に香の煙のほどけるのを眺めすぎた。
「これかね?」
依頼人は香炉を指差した。
「ソント王朝時代の古品だ。逸品だろう? 一千角の価値がある。水晶が薬湯色に濁るのは一家の健康と繁栄を叶えると言われている。香は好きか?」
「いや」
おれは嘘をついた。少し突っ込み過ぎた。おれは相手がおれにふさわしいと思っている無難な返しをした。殺ししかできない獣のこたえだ。
依頼人が雅俗の違いが分かるには時間がかかるとか、つまらない御託を並べ始まると、おれは自分のなかに入ることにした。瞑想とは違うが、おれはおれのなかに入って休んだり、時間をかわすことができた。気づけば、説教に似た苦行が終わっていて、おれは帰された。
店を出て、おれは衣を嗅いだ。あの甘ったるいにおいがついてなければいいと思って。
依頼人は濁った水晶が繁栄をもたらすというが、信じていないだろう。本当に信じていたら、おれを使ったりしない。
ソザン大路には四軒の香料屋があった。ユビという香師がいるのは一軒だけだった。
店のなかには壺がいくつもあった。天井からは香の名をつづった札が垂れていた。ユビは太い眉に丸い顔をした男で、水につけてにおいを抜いた木鉢で香を練っていた。
おれから書付をもらうと、ユビは残念そうな顔をした。
「キムバリさんもようやく休めたんだねえ」
ユビは油を塗った手を拭きながら、あの香はおれの独占になると教えた。
「別におれ以外に売っても構わない」
「それはどうして?」
「いい香りが都に満ちればいい。この地は生臭すぎる」
「奇特な御仁だねえ」
「おれは春を売って競っているわけじゃない」
「そりゃそうだ。まあ、他の人にも売っていいなら、あなたに売る値はぐんと下げられるよ。何せ、ひとりのお客のために仕入れないといけない原料なんかもあるから、それが他にも売れるなら、こっちとしても助かる」
「あんた、あの女の客になったことがあるのか?」
ユビは哀しそうに笑った。
「キムバリが死んだのはきっとわたしが原因ですよ」
そうかもしれないとおれは言った。遊女の客の言うことは遊女の言うこと以上にあてにできない。
その男が話しかけてきたのは、夕暮れ時、屋台の腰掛に座っていたときだった。おれは葱の羹を注文して、焦げた葱をどろっとした餡に絡めて、口に運んでいた。
おれのことはある鳥屋から教えてもらったと言った。
殺す相手はある小路を牛耳る無頼漢。
返事は二日後にすると言った。おれは鳥屋に行き、おれのことを話したかときくと、固い仕事だと請け合った。高位の役人にコネがあると言った。名前はイムニ、氏族の名乗りはミンダル。
約束の日にイムニに会い、おれは受けることを伝えた。報酬は馬亭小路の酒場で受け取ることになった。そこの店主にイムニの名前を出せばいい。
標的は小路を牛耳り搾っていた。米粒ひとつ見逃さなかった。いつも手下を三人連れていて、便所に行くにも三人は一緒だった。
考えていたよりも、しんどい仕事だった。顔に黒い布を巻き、剣は外して、短刀を選び、ある路地に隠れた。標的は妻があったが、愛人もあり、愛人が人のいない道に家を持っていた。
愛人の家にいるあいだ、三人の護衛は外で待っていた。
家は塀で囲まれていて、盗人除けの鈴紐が庭にピンと張られていたので、それをまたぎ、母屋と塀の狭いところで足を交互にかけて、二階にのぼった。
化粧のにおいが濃い寝室に標的がひとりで待っていた。衣の前を開けていて、陰部も何も剥き出しになっているようだ。標的は窓に背を向けていた。おれに気づかなかった。口を塞いで、短刀を首の付け根に斜めに突き刺したので、何が起きたのか分からないまま死んだはずだった。
隣の塀を超えて、庭に降り、裏口を出ながら、顔の布を取り、料理屋の並ぶ道で人込みに紛れた。
次の日の夕方、おれは約束の金を受け取りに行った。道の左右にはツケのきかない居酒屋が並んでいた。酔客と売笑婦が何組もお互いにもたれあって、馬鹿みたいに笑いながら、うろついていた。
おれが教えられた店は塩みたいに白い壁の店だった。入り口には扉の代わりに布をかけてあり、壁には大きな字で〈古酒、濁り酒、ひとさじから売ります〉とあった。
四人座りの方卓に荷運びらしい人夫が丼をかき込んでいた。調理台があり、店主が羹に入れる羊の肝を刻んでいた。
「イムニ・ミンダルに会いたい」
店主は肝を刻む手を止めた。そして、おれの顔を手配書を見るようにまじまじと見つめた。額に汗がにじんでいて、灰汁みたいな顔色の皺がじんわり照り出した。
「あっちの部屋で待ってるよ」
おれは奥を見た。分厚い扉があった。入り口には布をかけただけなのに、奥には扉がある。それに店主の顔も気に入らなかった。
「また来る」
そう言って、おれが立ち去ろうとすると、店主の顔色ができの悪い紙のようになった。
店を出たとき、誰かがおれにぶつかろうとした。そいつの肩の布が落ちて、短刀が光った。血がほとばしると同時に、おれの指がそいつの目玉を貫いた。覚えのある顔。標的の護衛のひとりだ。そいつが悲鳴を上げた。両手で顔を押さえた。短刀を落とした。そのとき、弩の弦が解き放たれる音がして、二本の矢が飛んできた。矢は二本とも、賊の背中に刺さった。
あたりの人間が悲鳴を上げ、慌てふためき、左右に逃げていく。おれは死体を蹴り外して、切られた左腕を押さえながら、路地へ走った。
なんとか家に帰りついたころにはもう真夜中だった。
普段から斬撃止めに布をきつく巻いていたが、それでも相手の刃が勝っていた。布を取った。左の前腕を斜めに切れていた。ザクロ色の肉が見えた。骨まではやっていないし、血の道も外していた。
壁に下げた袋からカラシ草とカモロの実を取り出して、すりつぶし、切られた前腕に塗った。体が反るほど痛かったが、同時に毒を消してくれる。傷が塞がるよう、清潔な木綿を何重にも巻いた。痛み止めに少し古酒を飲んだ。
イムニ。氏族の名乗りはミンダル。きっと偽名だろう。
最初から口封じのつもりだったのだ。鳥屋にきいても、大したことは分かりそうにないが、一応締め上げておこう。仲介の労で金をもらっているだろうから。
イムニ・ミンダル。クズめ。きっと警戒しているだろう。罠を仕掛けたのにおれを仕留められず、逃がしたのだから。
頭がどうかするほどの怒りで体全体が打ち身みたいにうずいた。
あいつは必ず殺す。掟を軽んじ、裏切ったものの末路はただひとつだ。
傷が快方に向かったら、すぐに殺そう。生きたまま、バラバラにしてやる
荒く息を吐くと、ふと、香炉が目に入った。買ってから一度も焚いてないことを思い出した。
香料屋でもらった小さな箱を開けて、竹の細片で青い練り香を小さくちぎった。竈の熾きで火をつけると、獣角の蓋を開けて、そっと炉のなかに落とす。しばらくすると、蓋に切られた網目から幾条もの細い煙が上がった。
目を閉じる。草原の、一度も人の身を通したことのない風を浴びた。魂を洗う風。そういう香りがする。
怒りが和らぐのを感じ、おれは目を開けた。
怒りに我が身を操られ、軽はずみな行動をして、横死した刺客の例は枚挙にいとまがない。
余裕が大切だ。やつの立場で考えればいい。
イムニはきっと怯えているはずだ。標的のそばに寝返りものを確保しても、なお足りず、刺客を雇うような用心深いやつがその刺客の口を封じ損ねた。おそらくほとぼりが醒めるまで都を離れるはずだ。そのくらいの金やツテはあるだろう。
いまは護衛を配して、おれの復讐に備えている。
今すぐやつは殺れない。
なら待てばいい。待つのは得意なのだから。