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刺客のこだわり  作者: 実茂 譲
ヒュンガの清趣
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 依頼人は怯えていた。

「金が用意できなかったんだ」

 殺そうと思った。それが掟だ。

「そ、そ、そのかわり、これで何とかしてくれないだろうか?」

 そう言って、すずりを出してきた。殺そう。

 剣を抜いた。振り下ろした。

 依頼者は硯を掲げ、剣を防いだ。

 硯から澄んだ音がした。



 結局、殺さなかった。

 硯ひとつ。

 クジャの店に持ち込んでみた。

 クジャは硯をじっと眺め、掌いっぱいに触れた。温さを計ろうとしているように見えた。

「お前、これ、いくらで買った?」

「報酬でもらった」

「お前、いまいくらで仕事してる?」

「前と同じだ。一件、銀五十角」

「そいつ、殺したのか?」

「いや」

「お前、相手が金で払えなかったら殺すんだよな」

「自分でも分からない。殺そうとしたが、硯に剣が当たったとき——」

「待て待て待て。お前、この硯に剣をぶつけたのか?」

「ああ」

 クジャはいろいろな角度から硯を見た。そして、ホッとした。

「疵が残ってない。知らないってのは恐ろしいな」

「何を言っている」

「いいか。これは本物のクト石の硯だ」

「ただの硯だ」

「クトのなかでもかなりの上坑から掘られたものだ。この模様、青、紅、碧に変ずる石の模様が最も理想的な幅と色合いでのっている。何の彫も入れていないのはこれで完全になっている、変に手を入れるのは冒涜だと思ったからだ」

「簡単に言ってくれ。いくらする?」

「最低、五千角」

「困ったな」

「なにが?」

「おれはあいつのためにあと九十九人殺さないといけない」

「放っておけ。向こうは二度とお前に会いたくないはずだ。どうせ、そいつはこれが偽物のクトだと思ったに決まってる」

「硯ならもう持っている。買い取ってくれ」

「買い取れるわけないだろ」

「なぜ?」

「五千角も払えない」

「五十でいい」

「サ州産のオン石の硯ならそういう詐欺みたいな取引も許される。だが、クトは聖域だ」

 結局、硯は持ち帰った。


 硯を書卓に置いてみた。

 卓とは言っても、箱の胴を抜いただけのものだ。

 そう言えば、クジャは掌で触れていた。おれもそうしてみた。

 皮膚が冷たく潤うのが感じられる。潤ったほうがいいのか、潤うのが悪いのかは知らないが、これがいい硯だというのなら、潤ったほうがいいのだろう。

 水桶に手を突っ込んで、硯に垂らし、卓の下に転がる袋からすっかりすり減った墨を取り出し、擦ってみた。

 音がしない。滑らかに動く。黒く色づいた墨がそろそろと垂れ落ちて、硯池に溜まっていく。

 水がなくなった。手ですくい取って足す。

 そうやって墨を擦るうちに、気づいたらだいぶ時間が経ち、硯池がこぼれる少し前くらいまで溜まってしまった。

 なるほど。

 硯が優れるとはこういうことか。


 町を歩いていると、ガラクタが道にはみ出したクジャの店の前を通りかかった。

「おい、ヒュンガ。こっちに来いよ」

 クジャは硯はどうだときいてきた。

「悪くない」

「悪くない? 悪いわけがないだろうが」

「そんなにすごいのか。クトは」

「あらかた掘り尽くされているから、新しくつくることはできないんだ」

「それでおれに何のようだ」

「これを買え」

 そう言って、小さな豆殻のようなものを卓にこぼした。

「なんだ、これは」

「蓮の実の殻だ。使った硯はこれでこする」

「水ではだめなのか」

「だめではないが、一番はこれだ。一番の硯は一番のやり方で洗うんだよ」

「じゃあ、湯でこすったほうが——」

「絶対に湯で洗うな」

「わかった」

「いまからお前の家に行くぞ」

「なぜだ?」

「一度、クトの硯を見た以上、骨董商として、それが正しく使われ、保管されていることを見届ける義務がある」

 おれはクジャが自分のことを骨董商だと思っていることを初めて知った。てっきり故買屋だと思っていたが、それは口に出さなかった。


 クジャは一通り、おれの家をけなして帰っていった。

 床の穴は気をつければはまらないし、天井の穴は油をこすり込んだ革で穴を塞いでいるから雨漏りはほとんどしない。

 寝台はいらない。おれは横にならない。蔀はそもそも、なぜ必要か分からない。

 ――分かった、これで最後にする。もっといい書卓を買え。

 ――物が書ければ、それでいい。

 ――クトの硯が乗っている以上、それじゃ駄目だ。

 ――なんだか面倒くさくなってきたな。

 ――お前、素人と組んで、仕事をさせられたら、どう思う?

 それは嫌だな。

 クジャが帰った後、おれは硯を手に取って、話しかけた。

「お前も腕を誇るか?」

 こたえるはずはないが、是と言われた気がした。


 硯を革で包んで、外出した。

 月に三回、印亭大路で開く市場の日だ。

 懐には十角と硯を入れてある。硯と合う書卓を見つけたら、それを家に持ち帰る。

 大路はガラクタで埋め尽くされていた。欠けた陶器。かびた銅剣。硯もたくさん売っていて、おれの硯よりもよく見える硯をいくつも見つけたが、商人たちの目には不実が見て取れた。

 大路から路地のあいだに書卓が並べてある。

 硯を取り出して、書卓と合うか見たかったが、少し考えてやめた。

 見るやつが見れば、これが金になることは分かる。賊に襲ってくれと言い触らしているようなものだ。

 おれは硯の大きさと色合い、質感を思い浮かべ、並んでいる書卓にひとつずつ重ねてみることにした。そのうち、漆で赤く仕上がった、机面の年輪の曲がりが河を思い起こさせる卓を見つけた。足が細すぎる気がしたが、書卓に硯以上に重いものを置くこともないだろう。

「これは?」

 商人は太っていて、顔色が悪かったが、目に詐欺師の光は見えない。

「サ州の職人がこさえたものですよ。あそこにはこういう卓の細工に優れた座が多いのです。ほら、見てください」

 商人の太い指先は机面の四隅をなぞった。机面の四辺は色の異なる木で縁取ってあった。

「見事なものでしょう? 縁の木の幅は狂いなく半寸です。いまの流行りはこの幅を三寸くらいとって木彫りをするのですが、わたしはあまり好きになれません。俗です。でも、これはなかなか出てこない品です」

「いくらだ?」

「店で並べれば、十角は取られるものですが、ここでは七角でどうでしょう」

「それで頼む」

 おれは金を払った。そのあいだ、三人の男が品を見るふりをしておれのことを見ていた。

 ろくなことが起こらないのは分かっていたが、卓を持ったまま、やつらをまくのは無理だろう。

 もし、まくとしたら市場でだが、そこでまけなかったのだから、これからの帰り道でまくのはどうあっても無理だった。

 賊らしい連中に、このまま、おれの家を知られるのもまずい。

 路地があった。入り口には洗濯物を干す女がいるが、奥には人はいないし、窓や扉もない。そっちへ曲がると、道や壁から湿った苔のにおいがしてきた。左右は平屋だが、道は暗かった。

 おれが立ち止まり、卓を置いて、振り返ると、三人が刃物を抜いていた。おれが振り向くのを待っていたようだった。

 おれはどうしてそいつらが硯のことを気づいたのか不思議だった。家で懐に入れてから一度も誰にも見せていない。

 真ん中の男――女ものの生地を侠客風に裁たせた男が言った。

「ずいぶんいい買い物したみたいだな、え?」

 こいつらはおれが買った書卓でおれをやろうと決めたのだ。それだけでもないことも分かっている。おれの齢は二十三だが顔の造りが幼く、体が細いから、なめられる。おれのことが狼に食われる子羊に見えたんだろう。

 仕事で殺す連中はみな、おれのことを羊となめてかかるから仕留めるのに苦労しない。だが、ここではそれが足を引っ張った。

「金ならもうない」

「じゃあ、その剣をもらおうじゃねえか」

 おれが下げているのは飾りのある剣だ。売ればそれなりになる。

 おれは懐に手をやった。賊たちは金を取り出すと思ったらしい。

 硯を取り出した。どこから見ても硯だが、こんな場面で出てきたので、硯だとは思えなかったらしい。

 十分興味を引いてから硯をできるだけ高く、真上へ放り投げた。賊の目がそれに釣られた。

 おれは剣を抜いた。刃は鞘の半分ほどもなく、抜き打ちは相手が想像しているよりもずっと早い。それに剣客が使う無骨な剣ではなく、鞘と柄に無駄な彫りと象嵌がしてあるから、相手はおれがろくに使えずに飾りとして剣を携えていると勘違いする。

 落ちてきた硯を受け取ったときには三人とも顎の下をえぐられて絶命していた。

「よくやった」

 おれは剣と硯に言ってやった。

 硯を投げたのをクジャが見たら、どう思うか考えた。

 ふ、と笑えてきた。


 家に帰り、書卓に硯を置いてみた。

 様になっていた。

 すると、そばに放られている筆の毛のばさつきが目に入った。おれは膠の甘い使い潰しの安筆か先を切った葦でものを書く。

 そもそも、ものをあまり書かない。

 じっと机面を見ていると、いい筆を探しに行きたくなった。

 筆が手に入ったら、クジャに何か書いてみるのもいいかもしれない。

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