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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

スケープゴートの愛

作者: 東都エリ

 養護教諭の芳田先生は、いじめられているなら記録した方がいいと言った。それが証拠になるからと。


 だけど、いざ実践しようとノートを開いても、辛い思いが込み上げるばかりでそれを文に起こすことができなかった。手が震え、額から汗が滲み出る。それでも私は辛いのだとわかってほしくて、救いを求める一言しか書けなかった。芳田先生はこれじゃあ証拠にならないと言った。


 そんな思い出したくもないほどに辛い私の日常は、ある転校生との出会いで変わる。これはその記録。




 一学期が終わる少し前だった。いつものようにチャイムが鳴るギリギリに登校し、いつものように鞄から上履きを取り出す。履いていた靴を鞄にしまってチャイムが鳴るのと同時に教室に向かう。


 みんなお利口に席に座って先生が来るのを今か今かと待っていた。そんな中に私が来ればどこからかクスクスと笑い声がする。それを無視して席に座る。教室の中央。逃げ場のない席へ。ほんのりと温もりが残っている。卓上のケシカスを床に落とした。


 それと同時に先生が入ってくる。スライド式の扉の影からもう一人誰かがいるのが見えた。その正体はすぐに判明する。


「転校生の山羊愛です」


 変な名前だと思った。先生の無茶振りで一言を求められた山羊は好きな食べ物はジンギスカンだと答えた。変な奴だと思った。


 山羊は終始にこやかだった。笑っているというよりはただ口角を吊り上げているだけにも見えた。加えて目は何処を見ているのかもわからないほど動きがなく、まるで義務だといわんばかりにゆったりと瞬きする様には恐怖さえ覚えた。


 ただ、みんなはそうは思わなかったらしい。休み時間になれば山羊の席にはこんもりと山ができて質問攻めにされていた。その中には胡桃やその取り巻きの姿もあった。


 その日一日は、山羊がいたことで休み時間に何かをされるということは何もなかった。ただ放課後の掃除を押し付けられただけだった。一人になれるから、この時間は苦痛でもない。


「なんで一人で掃除しているのですか?」


 茜色が差し込んだ教室に凛とした声が響いた。今までそんなことを聞かれたことは無かったものだからビックリして声のする方を向いた。教室の前方の扉から山羊が顔だけを出していた。


「山羊さん……」

「はい山羊ですよ。メェー」


 やっぱり変な奴だと思った。それからもう一度山羊は同じ質問をする。


「何で一人で掃除しているのですか?」

「…………さあ。みんながやりたがらないからじゃない?」


 それを聞いた山羊は世間知らずのお嬢様のように驚く。


「まあ、ということは皆さんがやりたがらないことを率先して取り組んでいるということですね」


 偉い偉いと褒める山羊に不快感を覚えた。私はムッとしながらも、それを隠して話題を彼女の方へと向ける。


「山羊さんは、どうしてここにいるの?」

「ここにというのは?」


 察しが悪い。そういうところが嫌いだ。


「……あんなにみんなに囲まれていたじゃない。放課後に遊びに誘われなかった?」

「ええ、皆さんいい人ですね。ですが私にもやるべきことがあるのです」


 山羊は淡々とそう答え、教室の後方まで歩き、ロッカーから箒を取り出した。


「今は掃除を手伝うことです」

「……」


 いい奴なのだろう。いい奴なのだ。だから私は何も言えなかった。もしかしたら、嬉しかったのかもしれない。


 それから私たちは黙々と掃除をした。普段なら教室を掃いてゴミを捨てるだけなのに、机の並びさえも整えた。いつのまにか日はすっかり落ちていた。教室の窓から覗く夕陽が好きなのに、今日は雲の形も覚えていない。


「胡桃とは話した?」


 ぽつりとそんな言葉が口をついて出た。


「胡桃さんですか? ええ話しましたよ」

「あいつは嫌な奴だよ」


 溢れた言葉は決壊したダムのように流れ出す。胡桃という女がいかに嫌な奴なのかを延々と口にした。それを言う自分こそがもっと嫌な奴だとわかっていても、溜まった不満は止めることができない。


「***さんは胡桃さんがお嫌いなのですね」


 やっと止まったのは山羊のそんな言葉のせいだった。私の憎悪に満ちた言葉の数々をちゃんと聞いていたのか疑うほどに優しげな顔を浮かべていた。伝えたいことが伝わらない。そんな苛立ちは彼女の聖母のような微笑みの前で諦めに似た感情へと変わる。神仏を味方につけることはできないのだと悟らされる。


「ごめん……。私の方が嫌な奴だった……」

「そんなことありませんよ。***さんは良い人です」


 慰めにもならない言葉を聞いて力無く笑う。彼女は私がどんな人間なのか知らないのだ。それが騙しているのだという罪悪感に変わる。


「……私さ、いじめられてるの」


 それを彼女に言ってどうしたかったのか。どうして欲しかったのか。ただ分かるのは、私と関わってもメリットがないと伝えたかったことだけ。


 山羊は黙っていた。貼り付けたような聖母の微笑みを浮かべて。その内心は一体何を思っているのだろう。私と関わって後悔しているのだろうか。それとも正義に燃えるヒーローの如く怒りに満ちているだろうか。


「……ごめん。こんなこと言われてもどうしようもないよね」


 数秒の沈黙。山羊が口を開こうとした。


 何と言うのか。それを確認するより早く、私は山羊が手にする箒を強引に引き取ってロッカーにしまう。バタバタとわざとらしく大きな音を立てて。そうして、机に置いていた鞄を手にするとさよならと一言だけ言って、逃げるように教室を去った。


 教室は陰に染まっていた。去り際、彼女はどんな顔をしていたのだろうか。唖然としていただろう。急に飛び出してしまったわけだから。


 きっと私は山羊に何かを期待していたのだ。すぐさま私を否定して、私を救ってくれるのではないかと信じていた。でも、そうはならなかった。彼女はほんの数秒考えた。自身が投げるべき言葉は何かと。感情に任せず理性的に正解を選ぼうとした。


 それが私を傷つけた。


 感情は本心だ。嘘偽りない心から思うもの。対して思考には損得勘定が働く。打算的な言葉に人を救う力はない。もしかしたら、みんなとは違う彼女なら……そう思ってしまったのはそう望んでいたから。


 芳田先生にも出来ないことを今日知り合ったばかりの転校生に出来るはずがない。わかっていたはずだ。私は近づきすぎたのだ。手に届くと思ってしまったのだ。友達になれると。


 でも、もう明日からはそんなことを期待しない。いつも通りの日常がやって来る。山羊は未知数の転校生からただのクラスメイトに変わるだろう。友達でもなんでもない。それでも別に構わない。酷い別れ方をしたのだ。それが普通だ。受け入れて仕舞えば、苦痛なんて、ない。


 わかっているのに、どうしても胸が苦しくなる。



 そんな事があったから、その日の寝つきは悪かった。いつもより遅く起きたけど、結局教室に入るのはチャイムとギリギリなので支障は無かった。ただ――。


「おはようございます。***さん。もう少しで遅刻でしたよ」


 教室に入って早々、山羊が話しかけてきた。山羊の座る席は教室後方の廊下側であるため、後方の扉からから入ってくる者には声をかけやすい。昨日と同じ微笑みが私を向く一方で、教室の面々は驚き固まっていた。私も彼らと同じように目を大きく見開いては、反射的におはようと挨拶をしてしまう。


 そしてそのまま、何が起きたのかわからないといった表情で自席に座った。ケシカスはなかった。


「どうして***に話しかけるの?」


 休み時間、胡桃はわざとらしく私にも聞こえる声で山羊にそんなことを聞いた。彼女の取り巻きも揃って悪口とともに疑問を呈する。騒々しい教室に心臓の音が鳴り響いていた。


「どうして、ですか?」

「うん。だってあの子は***だよ」

「***と話したらダメなんだよ」

「***鳴らされちゃう」


 耳を塞ぎたい。教室から飛び出したい。それなのに、もう期待なんてしないはずだったのに、山羊の言葉を待つ自分がいる。


「なるほど、よくわからないですね。***さんは良い人ですよ?」


 それを聞いて、嬉しいのに、耐えきれなかった。悲しみが襲って来るようだった。それがどうしてかはわからなかった。なんで、胡桃と話を合わせればいいのに。私がいじめられていると知っているのに、味方してくれるのか、わからなかった。目頭が熱くなる。


「良い人だから話すの? なら***は売女だよ」

「夜に出歩いているのを見た子もいるんだから」

「そうでしょうか。たとえそうだとしても山羊は***を信じます」


 言って欲しい言葉。聞きたかったもの。それが本心かは疑わなくたっていい。胡桃の前でわざわざ私を擁護する必要なんてないのだから。今すぐにでも山羊を抱きしめたいほどだった。でも――。


「山羊って、変だね」


 そんな言葉が胡桃の口から溢れると、まるで何かのトリガーになっているかのように、教室は静まり返った。


「ねぇ***もそう思うよね」

「……っ」


 ふいに呼ばれて口吃る。なぜ私に聞いたのか。そんな疑問は沸かなかった。胡桃は、嫌な奴だ。彼女が何を考えているのか、何を狙っているのか、それが手に取るようにわかった。


 だからこそ私は、答えようとした。山羊は変じゃないと。力強く決意し、振り返る。


「……ぁ」


 胡桃は腕を組んで私を見ていた。期待と敵意が混ざった目が此方を見ていた。取り巻きの戸惑ったような敵意の目も、我関せずと装った観衆たちの好奇の目も。山羊の、悲しいほど無機質な目も。その全てが私を縛る縄のように絡みついてくる。


「……へ、変じゃ――」

「変、だよね?」

「……」


 気づいたら私は首を縦に振っていた。山羊の目はもう見れなかった。


 その後のことは覚えていない。かろうじて覚えているのは、昨日まで人だかりのできていた山羊の机にはもう誰も来なくなったことと、私の席にも誰も来なかったこと。


 放課後、いつものようにどうせ掃除を押し付けられるのだろうと一人ロッカーに向かうと、山羊もにこやかに着いて来ていた。その何とも思っていなさそうな笑みにやはり罪悪感を覚える。


「***、何してるの?」

「え?」


 箒を取り出そうとした時、背後から手が伸びて、ロッカーを勢いよく閉めた。何事かと振り返ると胡桃が山羊と負けず劣らずの笑顔を作り、立っていた。その周りには取り巻きたちの姿もあった。その顔には敵意などなく、嘲笑するような笑みが浮かんでいた。


「そ、掃除を……」

「掃除なんてさぁ、山羊に任せたらいいって」

「で、でも……」

「私に逆らうの?」


 何も言えなかった。胡桃は持っていた鞄を私に押し付ける。見た目よりも重い鞄。飾り気もない地味な鞄。


「……え」

「え、じゃないでしょ。***の鞄。ほら帰ろ?」


 そう言って胡桃たちは帰ろうと教室の扉まで歩くと、顔だけを振り向いた。私が来るのを待っている。有無を言わさぬ胡桃の目が命令してくる。私は横目で山羊を見た。その目の動きに合わせて胡桃が名前を呼ぶ。


「ごめん」


 そんな一言も発せずに胡桃たちについて行った。


 だって、仕方ない。こんな寂しい状況でも、山羊はいつもと同じ心情の読めない笑みを浮かべていたのだから。


「つかさ、***鞄重すぎ。何入れてんの」


 まだ生徒の残る廊下で胡桃は気さくに話しかけてくる。人目が気になっても、胡桃と二人の取り巻きが逃すまいと私を囲むように歩いている。


「……靴、とか」

「いや、靴って。明日からは下駄箱に入れなよ」

「……うん」

「ねぇねぇ、るみぃ。それにしても***の鞄地味すぎぃよ」

「うーん確かに。じゃあこれあげる」


 胡桃は自分の鞄からツギハギだらけのクマのキーホルダーを外し、手渡してきた。


「あー! いいなぁ。それ、るみぃのお気にじゃん」

「胡桃いいの? それ胡桃が追っかけてるアイドルの海外ツアー限定グッズでしょ? しかも製造ミスで布の色が違うレアなやつ」

「ううん、いいの。今までのお詫びも込めてさ、***、受け取ってくれるよね?」

「……」


 このキーホルダーにそれだけの価値があるかはわからない。しかし、このキーホルダーを胡桃が大事にしていたことは事実だ。教室でそれを見せびらかしていたのだから、クラスのみんなはよく知っている。それを、受け取ってしまえばどうなるかなんて、簡単に想像できた。


 もう、いじめられることはないのだ。


 だけど、その代わり――私は胡桃の所有物になる。それでも、元凶が差し出す救いの手を拒むことができるはずがない。廊下で談笑する生徒たちの横目が向く中、胡桃からキーホルダーを受け取った。


「……ありがとう……」

「ほら、つけてあげる」

「うへぇいいなぁ。かーいぃ」

「えーめっちゃいいじゃん」

「失くしたり外したりしないでよ? 明日もつけてきてね?」


 それは対等な関係としてのお願いではなくて忠誠心を試すような命令だ。当然、私はそれに背くことができない。


 その日は、彼女達に導かれてカラオケやスイーツカフェに寄った。楽しかった、のだろうか。友達ではないはずなのに、気が絆されてしまったのは、今までと扱いが違うからだ。そのはずだ。

 たとえ楽しくとも、頭の片隅には、山羊に対する罪悪感がずっと根を張っていた。片時も消えることは無かった。




 翌日。登校すると山羊の腕がなくなっていた。


 教室は彼女を取り囲むように、いや、避けるように円ができて、配線の飛び出した彼女の腕を唖然と見つめている。


「あ、***おはぁ」


 金魚が何事もないかのように話しかけて来る。昨日の放課後仲良くなってしまった胡桃の側によくいる子。


「びっくりだよねぇ。ヤギアイってロボットだったんだよ」


 私は、あまりの驚きに言葉を失っていた。ロボットだったことになのか、腕がないことになのか。わからない。血の気が引くような衝撃が襲う。

 話せない私に代わって、新しい玩具を見つけたように金魚の言葉に同意した胡桃が、引き金を弾く。


「ほんと、ロボットが人間に成りすましてるとか」


 淡々と静寂に、言葉が響く。


「気持ち悪い」


 気持ち悪い気持ち悪い。みんな、口々に言い放つ。コソコソと聞こえる声で陰口を。ロボットがなぜと。不気味であると。それでも山羊はいつもの笑顔を浮かべていた。


「なんで……」

「ん?」

「な、なんで腕がなくなって……山羊がロボットだってわかったの?」


 私は金魚に聞いた。本当に聞きたかったのは、そんなことではなかった。咄嗟に出た言葉を誤魔化したのだ。ああ、でもなんで、寄ってたかってそんな言葉が言えるんだ。なんで笑ってられるんだ。


「うーんとね、るみぃがヤギアイを階段から突き落としたのね」

「……は?」

「そしたら腕が裂けて、機械の線? が見えたから引きちぎったの」

「……」


 私には彼女が同じ人間には思えなかった。それを感じ取ったのか金魚は顎に指を当てる。


「***どうしたの?」

「なんで、配線が見えたからって引きちぎろうと思えたの……」

「……? だって気になるじゃん」

「そ、それだけで?」

「うん……?」


 私は、彼女達とは違う生物なのかもしれない。それこそ自分はロボットで、みんなとは違う常識をプログラムされているのかもしれない。そうだったらどれほど良かったか。


「***おはよう。あ、ちゃんとつけてくれてるんだ」


 胡桃は私の鞄の持ち手を見てそう言った。昨日胡桃がつけてから触っていない。触るはずがない。胡桃は自身が扇動した教室の雰囲気を全く意にも留めていなかった。


「今ね、みんなで校舎裏のゴミ捨て場に山羊を運ぼうって話してたんだけど――」

「なんで?」


 私はあまりにも、罪悪感も無く話す胡桃に感情をぶつけてしまう。


「なんでそんなことが――」


 言い切る前に口を指で押さえられる。


「シーっ。今喋っているのは?」

「…………」


 ごめんなさい。と謝れば、胡桃はペットにでも向けるような博愛の笑みを見せる。


「じゃあ、次の休み時間に運ぶの手伝ってね。それとも解体する?」


 反射的に首を振る。山羊は今まさにそのもう一つの腕をもぎ取られるところだった。椅子で叩かれ関節を無理に曲げられる。千切れた配線からバチリと音がする。なんで抵抗しないんだ。


「そ。それと、さっきの質問だけど」


 そう素っ気なく返して、特段表情の無い顔で山羊を横目で見つめる胡桃。まるで玩具に飽きてしまったかのように、再び私と目を合わせると口角を上げた。


「だって山羊って変でしょ?」


 これが普通なのだと、言いたげに。




 先生が来た。出席を取り山羊がいないことを確認する。


「おかしいなぁ。そんなはずないのに……」


 そう小声で呟く声に胡桃がくすりと笑った気がした。山羊は今、掃除用具の入ったロッカーの中にいる。腕も脚もバラされて、頭は花田の手提げ鞄に突っ込まれた。異様な膨らみが目立つ。一時間目の間バレなければ勝ち。そう胡桃は言った。花田も可哀想なやつだ。……そんなことを思える自分が衝撃的だった。


 終業のチャイムがなった。先生がいなくなって花田は急いで手提げ鞄をロッカーで裏返した。ゴロンとサッカーボールほどの頭が転がって花田の足にぶつかった。花田はひぃっと悲鳴をあげて、腰を抜かし後ずさる。その目には涙が浮かび、虫でも触ったかのような顔である。


「すごー。よくバレなかったね」

「何回か足で蹴ってたのにね」

「中身が頭だってわかったとこ、見たかったのになぁ」


 胡桃たちはロッカーからそれぞれのパーツを持ち出し、それをみんなに渡す。私には右足の太ももが渡される。柔らかく冷たい機械の肌。受け取る時、心の中で何かが叫んだが、順応したのか今は穏やかだった。山羊の形だったなら感情が湧き立ったかもしれない。今はもうコレが掃除を手伝ってくれた人間だとは思えなかった。


 このことだけにではない。胡桃が階段から突き落としたことにも、ロボットとわかって気味悪がったクラスメイトにも、それを異常と認識しない金魚にも、その時抱いていた感情が一つも思い出せなかった。恨まれても仕方がないほどに酷く冷静だった。全てを諦めて流れに身を任せているように苦痛のない虚しさだけが肌を撫でる。


「じゃあ運んでね」


 胡桃の合図とともに私たちは校舎裏へと向かった。花田はやっぱり頭を持たされて、下を向くまいと気を張っていたが、ぱっちりと開いた目が気になるのか今にも投げ捨ててしまいそうなほど震えていた。


「君たち、何を運んでいるんだい?」


 芳田先生に会ったのは、ちょうどゴミ捨て場に着いた時だった。非常に穏やかだった心が荒れ狂う。しまったと誰が言うでも無くみんな一目散に逃げ出した。ただ私は、芳田先生と目がずっと合っていて、右ももを持ったまま動けなかった。


「ん? おいおいおい、まさかそれ山羊AIじゃないだろうな。嘘だろ、まだ三日目だぞ!?」


 遠目から見れば本当に人の足にしか見えないそれを芳田先生はマジマジと見つめ、苦い顔をする。山羊のパーツを発見した者の顔を笑い物にしようとしていた胡桃たちが想像していたものとは別の顔。


「あーあ、こんなにバラバラにしてくれちゃって……まったく。この学校はスケープゴートを用意するより生徒に道徳心を学ばせるべきなんじゃないか?」

「スケープゴート?」


 身代わり。それは確かに山羊を指しての言葉だった。口にした私に気づき芳田先生は悲しげに眉を顰める。


「……君の前で言うのもなんだがね。この子は山羊AI。学校が導入を検討しているイジメ対策用ロボットだよ」


 山羊にプログラムされているのは主に二つ。いじめられている児童と友達になることと、イジメの主犯格にわざと嫌われる態度を取ることだ。そうすることでイジメの標的をロボットに変える。芳田先生は自身の研究を発表するように、凄い機械だぞと楽しげに語る。


「……友達」

「イジメは無くならない。だから肩代わりしようってこと……なんだけど、この有様じゃあね」


 それが一変暗い顔に戻った。山羊は何とか鞄には入れられそうな程度にバラバラにされていた。これが玩具だったならすぐに組み立てられそうなものである。私はどこか楽観的だった。


「あの、治りますよね?」

「治ると思うかい?」


 間髪入れずに答えられる。


「記憶装置が無事ならいいが、さっきもあのおデブちゃんが頭を投げ捨てて行ったからね。破損してるかもしれないね」


 そう言われて山羊の頭を見た。間の悪いことに山羊も私を見ていた。彼女の顔には笑みがなく生気もなかったが、目は虚というわけでもなかった。死後人は瞳孔が開くと図書室で読んだ本に書かいてあったが、ロボットである彼女にそんな機能はないのだろう。ただ意志を持ったような目が私を捉えて離さない。反射的に目線を下に逸らした。


「ま、ラボに問い合わせるさ。ただもう山羊愛としては君のクラスには向かわせられないなぁ」


 芳田先生はそう呟いた後、そういえばと尋ねてくる。


「そうだ。この子どうだった? 君をちゃんと救えたかい?」

「すくう……?」


 その言葉が耳から心へと降りてきた。染み渡るように広がって、ふいに涙が溢れてくる。視界を確保しようと涙を拭えば、山羊とまた目が合った。抑えていた感情が、意図せずに静かに流れ出した。


「無理にとは言わないさ」


 芳田先生は何かを察してハンカチをくれる。その優しさが誰かと重なり胸を抉った。そうじゃない。そうじゃないんだ。


「わたし、私、謝らないと。私、ずっと命令されて」

「イジメにはよくあることさ」

「違う、違うんです! 私、わざと命令されたことにしてた。ずっと、抵抗することができたのに」


 その気になれば私は胡桃に逆らうことができたはずだ。山羊に謝ることくらいできたはずだ。それをしなかったのは、止められたからじゃない、有無を言わせない目なんかない。私が逃げたからだ。


「私、ずっと逃げてた。ほんとは、胡桃について行かないこともできたのに、そんなことをするなって、胡桃が命令したからって、ただ名前を呼ばれただけなのに命令されたことにして、逃げてた」

「…………」

「また、酷い目に会わされるんじゃないかって、考えてしまって、ほんとは、変じゃないって言いたかったのに……」

「……逃げてしまうのは、悪いことじゃないよ」

「ちがう! 違うんです……」


 違う。そうじゃない。逃げたことを謝りたいんじゃない。違う。逃げたことも謝らなきゃ、だけど本当に言いたいことを口にできない。


「わたし、私、違うの。私は良い奴なんかじゃなくて……ほんとは……ほんとは、山羊が標的にされてホッとしてた。胡桃や金魚と遊ぶのが楽しかった。掃除を押し付けられるのが寂しくて惨めだってことわかってるのに、布団に入るまで、忘れてた」


 止まらない。止めて。言いたくない。


「山羊がロボットだったのは驚いたし、胡桃たちが怖くも感じた。でも、みんなから罵倒されて椅子を叩きつけられたり、腕をもぎ取られたりしても無抵抗に笑ってられる山羊を見て、気持ち悪いって思った。やっぱり違う生物なんだって」


 私は嫌な奴なんだ。それを知って欲しかった。山羊が思っている人間なんかじゃないんだってことを知って欲しかった。


「でも、それでも……っ!」


 昂った感情が静寂を連れてくる。芳田先生は何も言わない。山羊も何も言ってくれない。その寂しさに少し頭が冷えて、すぅっと呼吸を整えた。


「……あの時、掃除を手伝ってくれたあの時、逃げ出しちゃったけど、山羊ならそれでも私を良い人だって言ってくれたと思う。私は貴女を突き放したかったのに、表情一つ変えないから、ほんとに、友達になれるかもって、嬉しかった」


 でも、同時に心苦しかった。友達になってしまえば、山羊も胡桃の標的にされるかもしれない。逆に山羊が私から離れていくかもしれない。だから逃げた。


「胡桃に私と話さないでって言われても、話そうとしてくれたのも嬉しかった。もし、もしもその時、そう言ってくれなかったら、私は、どうなっていたのかわからない」


 もしかしたら、死を選んでいてもおかしくはなかった。誰からも敵視され、玩具みたいに扱われ、擦り減った心は全てを投げ出す気でいた。それを助けてくれたのは紛れもなく山羊だ。


「それなのに私は裏切ってしまって、ほんとに、ほんとうに後悔してる」


 今の彼女には何も伝わらないかもしれない。


「だから、もし、次があるなら」


 それでも、この声が届いたなら。


「友達になって」

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