▽その妖精に名前はいらない?
▽その妖精に名前はいらない?
オーナーさんはいつもお菓子作りに褐色糖を使っていました。
「私はね。他のお店は知らないわよ」
でも、テーブルに用意されている角砂糖は真っ白で雪玉のように綺麗なのです。それでお砂糖に興味を持ったアネモネという動くお人形は、自分の知っているお店のお話をオーナーさんにしていました。そのお店で売られているお砂糖は、可愛らしい花の形をしているのです。
興味を持ったオーナーさんは、早速そのお砂糖を取り寄せていました。今日はそれをアネモネに見せてくれる約束だったのです。
「お店の紹介、ありがとう」
「どういたしまして。私は遠いところに出かけちゃいけないって言われているから、こうやって本物をみられるだけでもとっても嬉しいのよ! あーあ、買いに行けるものなら買いに行きたいわ!」
薄っすらとした桃色や紫色、黄色など、春らしい色がついた花のお砂糖。使われている食紅の名前は、すべてこの世界の花の名前から付けられています。砂糖の形はそれを模したのでしょうか。小瓶の中から一粒をつまみ上げ、アネモネはじっくりと眺めていました。
「とってもかわいい。でも、そもそもお砂糖ってどうやって作ってるのかしら」
「とても甘い植物から直接シロップが取れるものもあるし、採れる液を煮詰めて乾燥させると最終的にさらさらの物も作れる。けど、大変だから魔法を使っちゃうお店も多いかしらね。それこそ妖精の力を借りたりね」
「妖精、やっぱり私達の見えないところで活躍しているのね」
「そうね。……このお砂糖には、どうかしら。私には見えないからわからないけれど、宿っているかもしれない」
基準はわからない。けれど妖精が生まれかけている品というのは実際にあり、オーナーさんも見聞きしたことがあるそうです。
「声をかけて、呼びかければ答えてくれるかしら」
アネモネの思いつきに、オーナーさんは「そうねえ」と考え込みます。小瓶の中を覗きながら、アネモネは真剣な表情をしています。
「名前はあるのかしら? 大妖精だったらあるはずのものよね。小さな妖精には、まだ無いのかしら……花の名前と一緒なら簡単に声をかけられるのにね」
「妖精の名前、ね。あるものかしら。特に生まれたばかりのものはわからないけれど、花の名前と一緒っていうのは素敵ね」
「そう、花の名前」
そう返事をしたあと、小さなお人形は少しうつむいたのです。何かあっただろうか、と思ったオーナーさんですが、直後にあることを思い出しました。
「あのね、カフェアリーヌ」
神妙な面持ちでした。背筋を正した様子には、どこか潔い空気も感じられます。
「私の名前はアンシスタ・アネモネ。アネモネがお花の名前なのはわかると思うのだけど、アンシスタというのは、少し不思議な名前。マスターが旅した世界にいたお人形たちの名前らしいの。私はそのお人形たちを模倣して作られた」
「――ええ、知ってるわ」
「でもそれだけ。それ以上、以下が存在しない。花を模して作られたこのお砂糖たちと一緒の気がしたけれど、少し違うの」
「何故?」
オーナーさんはいつものように紅茶をカップに注ぎながら、アネモネの話を聞いていました。いつもの天真爛漫な様子よりも沈んでいる彼女の雰囲気に、僅かな緊張感がありました。
「妖精だってただお花の名前を呼ばれたんじゃ、自分のことを呼ばれたかどうかわからないでしょう。だから特別な名前があるはずなのに。名前ってとってもとっても大事なもののはずなのに、なんで広まっていないんだろうって。違和感があったの。そして、その名前を知ったとして、私がアンシスタの本当の意味を知らないのと似ている気がして、ちょっとだけ悲しくなった。自分から言いだしてなんだけど、ただそれだけなの」
「自分の名前の意味を知らないことが、悲しいというお話かしら?」
「そうね、でも自分だけじゃない。妖精の名前を知らないことも、知ったとて意味まで私にわかるかどうか……ってことも」
アネモネは入れてもらった紅茶のカップを両手でゆっくりと持ち上げ、熱いそれを飲み込みました。オーナーさんも自分のカップをゆっくりと傾けていますが、少し申し訳無さそうにしています。
「妖精の名前、ね。……ごめんなさい、それは私も詳しくないの。逆に、私が詳しくないだけなのよ。この店を訪れる旅人さんは、この世界とは違う所から来ている人たちばかりだから、この世界の妖精のことを知らない。そういう環境に身をおいている私だから、わからないことだらけ。でもこの世界には、魔法を発達させて文化を築いている事実がある。そういう人たちから話を聞いたり、本を紐解いてみたりすれば、妖精の名前もなにかわかるかもしれないわね。アネモネちゃんの言う通り、名前って大事ですもの」
オーナーさんは胸元に手をおいたあと、そっとその手を自分の首元に持っていきました。そこには黒革のベルトで作られ、桃色の花で飾られたチョーカーがついています。それはこの喫茶店の名前、cafe chokerの由来でもあります。名前は大事というお話ですから、そこに込められた特別な意味と、店の名前にするだけの特別な思いのあるチョーカーのことをじっと彼女は考えていました。その様子に気づいたアネモネにも、「大切なものなの」と説明しました。ただ、直後にゆっくりと首を横に振ります。
「それでもね、必ずしもそうとは限らない。私だってそう。カフェアリーヌ・ソァリザ。その名前を呼ばれるよりも、オーナーさんって声をかけて貰える方が嬉しいのよ。名前ってそんなものよ。大事なときもあるし、どうでもいいときもある。気にし過ぎたら良くないものなの、きっと」
指で髪先をくるくると弄っています。そうしながらオーナーさんが憂いている顔は、アネモネにとって珍しいものでした。朗らかに笑んでいるときとは何か違いました。それがきっかけで、アネモネは一瞬まぶたを落としました。
「カフェアリーヌがそうということは、マスターでも同じかしら」
「……どうして?」
「うちのマスターのことを、カフェアリーヌは『つゆ草さん』って呼ぶでしょう。でもマスターは自分の店に来たお客様にその名前を教えないの。必ず『シテン』と呼ばせる。シテンは旅種族の名前よ。彼自身の名じゃない。何故だと思う?」
今でも少年か青年かわからない『つゆ草さん』の話題に、片手で口元を一度抑えてからじっと身動きせず、迷いながらもオーナーさんは話し出しました。
「私の知る旅人といえば、みんな私が尋ねれば一様に自分の話をしだした。あの子の違うところはね、意気揚々と語りだしたその話が全く自分に関係のない話だったところなのよ。自分の冒険譚じゃない。誰かの冒険譚を話す。今でも覚えているわ。初めてであった日の夜に話してくれた話は、シュガースノウと呼ばれる女の子の物語だった」
小瓶の中から花の形の砂糖を一粒取り出しました。手の中にあるお砂糖が象る春の気配と裏腹に、しんしんと降り積もる雪の冷たさを想起させるその思い出は、オーナーさんにとって大事なもののようでした。目を閉じ、じっと思いを馳せています。
「きっとね、あの子、自分のことそんなに好きじゃないのよ。自身のことから話題を逸らそうとする。だから自分じゃない誰かの話をするの。名前のこともそれと同じ気がする。つゆ草という名前が、彼にとってどんなものかはわからない。けど名前よりももっと本質的なお話な気がするの。ここではちょっと……難しいわね」
オーナーさんは手のひらに置いていた砂糖を、ゆっくりと自分の紅茶のカップの中に入れました。しずくの音が静かに広がったあと、スプーンでゆっくりとかき混ぜる音が聞こえました。アネモネもそれを見つめます。
「何より一番は、聞けるときに本人に聞いてみることよね。今度挑戦してみて?」
「……ええ、きっと」
アネモネもオーナーさんを真似して、紅茶に花のお砂糖を入れようとしました。ただ一粒をつまむのではなく、小瓶の中から探して探して、真っ赤な花びらのお砂糖を選び出しました。それを両手の上に乗せて言います。
「私は自分のこと嫌いじゃないわ。マスターと違って。だから、いつかアンシスタの本当の意味も知りたい。妖精のことは本を調べればわかるかもしれないけれど、私のことはマスターに聞かないとわからないのだもの、ちゃんと聞ける日を、いつか作るわ」
ちゃぽん。しずくの音が広がります。アネモネには笑顔が戻っていました。
妖精の名前は本で調べればいい。自分の名前はいつかマスターに聞けばいい。マスターの名前のことは教えてもらえないかもしれないけれど、「カフェアリーヌ」ではなく「オーナーさん」と呼ぶ彼のことですから、名前のお話には真正面から向き合ってくれるだろうと、アネモネは考えました。それで今のところは十分だったのです。
アネモネはオーナーさんに突然、図書館の話をし出しました。どこが大きいであるとか、どこの蔵書量がすごいであるとか、おしゃれな建物の中に入っているだとか。でもいずれも彼女が直接出向いていったことはないのです。いつか行ってみたいと言いました。そこに置かれた本にならば、お砂糖の妖精の名前も書いてあるはずです。こうしてアネモネに行きたいところがまた一つ増えたのでした。
「ところで、魔法で作らないお砂糖。誰が煮詰めて乾燥させる工程を作ったのかしら。私知らないの」
「それは、やっぱり……旅人じゃないかしら」
「どんな旅人かしら」
「聞きたい?」
「聞きたいわ!」
オーナーさんはそれを受けて、いつものように棚からスクラップブックを取り出してくるのでした。