▽アネモネとアイスティーの旅人
▽アネモネとアイスティーの旅人
その日は、外を歩くと暑い日差しで肌がひりつくような一日でした。ほんの少ししか外に出ていないアネモネも、その暑さは苦手でしかなかったようで、慌ててcafe chokerの扉をくぐっていきます。この店ではいつもカフェアリーヌという名のオーナーさんが一人佇んでいます。
「『いつもの』を頂戴!」
両手を出してオーナーさんにおねだりです。加えて、ちょっとだけ我が儘を言いました。
「今日はね、氷沢山のアイスティーがいいの。ガムシロップも沢山ね。どうかしら?」
「できるわよ。少しの間待っていて頂戴な」
オーナーさんは苦笑しつつではありましたが、小さなお客様のオーダーに応えることにしました。アネモネははやる気持ちを抑えながら、少し背の高いカウンター席にふわりと浮かび上がってから座ります。
出来上がったアイスティーは、きれいな琥珀色をしていて、それを混ぜるためのマドラーもガラスで出来たとても綺麗なものでした。アネモネは早く喉に流し込みたい気持ちもありましたが、まずはじっくり、うっとりとそれを眺めます。やはりグラスのサイズは人形である彼女にとって少しだけ大きいものでした。
「そういえばね、『アイスティーの歴史は百年ちょっとしかない』ってうちのマスターが呟いてたの」
カランと氷の音をマドラーで鳴らし、楽しみながらそう言いました。ガムシロップを二個ほど注ぎ入れ、そしてよくかき混ぜてから一口飲み込み、ほっと一息つきます。
「『百年ちょっと』っていうのは、私たちの住むこの世界じゃなくて、マスターの世界のお話ね。時間の感覚や、起源は、よくお話の語り部を務めているマスターの中に独自の基準がある。けど彼が一人で呟いているだけなのだもの。私は全然わからないの。でも彼の世界で『百年ちょっと』だとしたら、この世界のアイスティーの歴史はもっと短いものかもしれないわね」
腕を組みつつ、目線を落として考えるアネモネは、自分のいるお店のマスターが語り部として話す世界のことを、知っているようでよく知りませんでした。
「だからアイスティーのお話が聞きたいの。何かこれをヒントにカフェアリーヌがお話しできること、あるかしら?」
「そうね、旅人の話なら」
オーナーさんはやはり、本棚から自分のスクラップブックを取り出してきました。分厚いそれを開き、ページを捲りつつ、自分の紅茶のカップを口元に持っていきます。慣れた手付きでした。今日は暑いですが、オーナーさんは温かい紅茶を飲んでいました。
しかし、オーナーさんはどの本のどこに目的の話が載っているのか、全て覚えているのでしょうか。不思議でならないアネモネは、ゆっくりとではありますが前のめりの姿勢で彼女のスクラップブックを眺めます。文字の小さな書き込みや、ところどころ写真やなにかの記事が貼り付けられたページが沢山で、少し離れているだけだというのに何が書かれているのかさっぱりです。思わずアネモネは首をひねってしまいました。
「この間紅茶の旅人さんのお話しはしたと思うけれど、話題が『アイスティー』になるのなら少し別の旅人さんのお話ね。紅茶がこの世界に広まった後のお話。うーん、確かこの辺だったと思うのだけど」
ページを捲る音だけが聞こえる空間で、アネモネはアイスティーのグラスを手に取り、大きな氷がゆっくりと動いて音をたてるまで口元で傾けました。たくさん入れたガムシロップのおかげで、とても澄んだ甘い味がしました。しばらくしてからオーナーさんが声を上げます。
「そう、これこれ。ここよりももっと寒い所なの。アネモネちゃんならたくさん知っているでしょう?」
「寒い所?」
「数多くはないけれど、ずっと雪だけ……いいえ、氷だけのような土地だってこの世界にはあるわ。そういう場所のお話よ」
「ええ、それはもちろん。町の名前だって知っているわ。そこの氷がアイスティーに使われていたりするのかしら?」
パッと思いついたことをアネモネは口にします。
「遠い土地の冷たい氷の入ったアイスティー、ね。美味しそう。存在はするわよ。でもこの世界で最初のアイスティーには、そういった氷は入っていない。だって、凍えそうな土地でアイスティーを飲みたいかと言われると、ちょっと難しいでしょう。温かい紅茶のほうが飲みたくならないかしら」
「確かにそうよね。凍死しないよう気をつけなきゃならない場所だもの。温かいものが飲みたいわ」
今は外の日差しが厳しい時期ですから涼しい場所が恋しくなるものですが、凍死が危ぶまれるほどの場所にはあまり行きたいものではありません。アネモネは一瞬身体を震わせます。
「けれどね、アネモネちゃんなら知っていると思うのだけど、温かいものを温かいままにしておくのはとても大変なのよ」
そう言われて、アネモネはまだ冬も厳しい頃に自分の目の前に放置されてしまった、冷え切ったマグカップのことを思い出しました。苦味が一層引き立つような、人肌よりもずっと冷たいコーヒーは、アネモネにとって苦手なものの一つでした。ホットコーヒーは早く飲んでしまわないとアイスコーヒーになってしまうのです。
穏やかで暖かな喫茶店の中ですらそうなのですから、極寒の土地では飲み物が一気に冷えてしまうことは想像に易いものでした。
「そう、紅茶も氷の土地ではすぐ冷めてしまう。旅人はそれを知っていた。氷の土地では温かいものを飲みたいのに。そうもどかしさを感じた彼は、温かいものは温かいまま、冷たいものは冷たいまま運ぶことのできる魔法を使える誰かを探して、特別な道具――専用のボトルを作ってもらった。大変だったみたいね。つゆ草さん――貴女の店のマスターなら、『魔法瓶』を知っているはずだけど、この世界には同じ構造の物が未だに生まれていないの。その代わりにそれに近い道具を旅人は作ってもらった。どうしてもそれが欲しかった。苦労して寒い土地に暖かな紅茶を届け、暑い土地に冷たい紅茶を届けたのは、彼が紅茶を好きだったのは勿論だけど、そこに元々の思い入れがあったからなのよね」
そう旅人の話をするオーナーさんは、カウンターの中で自分の飲む紅茶を追加して作っていました。ティーコジーなど保温のための道具はありますが、カップやポッドはごくありふれた陶器製。お話に出てくる「特別な道具」とは違いました。これで作った紅茶のぬくもりは刹那的で、今日のように暑い日であっても、ずっと置いておけば次第に冷めてしまいます。
「旅人は、紅茶はどんな場所でも暖かくて当たり前、という世界に住むヤドリギのそばにいた。当たり前がこの世界では通用しなかったのだから、始めは驚いたでしょうね」
ヤドリギというのは、二人がいる喫茶店の南に位置する広い広い森の中、たくさんある木々の総称でもあるのですが――故にその森は「ヤドリギの森」と呼ばれていました――ここで指していたのは旅人のパートナーたる人間のことでした。この世界の旅人は、皆相棒たる人間の側に居て支えた経験のある者ばかりなのです。ヤドリギは作り手として何かを生み出すため、旅人たちの力を借りていました。
「彼は無口だったから深くは話してくれなかったのだけど、彼のヤドリギが使っていたカップは上等で、もちろん保温も保冷もできるものだった。手に馴染む大きさと質感。大事にしていた物だと話していたわ。ヤドリギにとって大事なものは、旅人にとっても大事よね」
オーナーさんは新しい紅茶を注いだ自分のカップをそれに見立て、愛おしそうに眺めていました。アネモネもそのカップをじっと見つめました。その様子に微笑みつつ、オーナーさんは目を閉じます。
「想像することしか出来ないけれど、だからこそ想像してみて。必死にものづくりをするヤドリギと、その側にいる旅人さん。ヤドリギの作業場には、大事に使われているカップが置かれている。ちょっと息抜きをしたいときに、いつも口をつけるもの。時間がゆっくり流れるようで、どこか落ち着く光景だと思うの」
アネモネも一緒に目を閉じて想像しました。アトリエや一人きりの部屋で、地道に作品に向かうひたむきな誰か。その誰かのそばにあるカップと、それと同じように寄り添っている旅人の姿。ヤドリギがその手で作るものが何なのか、アネモネやオーナーさんは知らないとしても、作業場に一個置かれたカップというだけでどことなくこの喫茶店で流れる時間と同じような穏やかさをまとっています。
「不思議ね。その旅人のことも、ヤドリギのことも、ほんの少ししか知らないのに何故か温かい気持ちになる」
「でしょう?」
話をしている間に、アネモネのグラスの中身は空になっていました。氷だけが残っており、底には薄く水が張っています。オーナーさんはそれを片付けつつ、息をついて声色を明るくしました。
「というわけでアイスティーはアイスティーとして作られるより先に、寒い土地で冷えたものが暑い土地に運ばれていったのが、この世界での最初。そのための道具を作ったのが、私の店に来てくれた旅人さん。運搬専用のボトルは、彼のヤドリギが持っていたカップから着想を得ていた。私はそう覚えているのだけど、どうかしら」
「カップのお話は私すごく好きよ。けど、寒いところから暑いところに運ぶのは、遠いから大変そうね。どうせ魔法を使うのならその場で使って作ったほうが早いんじゃないかしら」
「それは内緒よ。旅人さんに言ったら卒倒しちゃうわ」
口元に人差し指を持っていき、「内緒」のポーズをしました。二人で顔を見合わせ、クスクスと笑いました。
「この旅人さんのことはアネモネちゃん、知ってた?」
「ううん……ごめんなさい。この人のことは覚えていないわ。でも、私がこの世界に招いたのよね、きっと」
「そのはずね。紅茶の旅人さんよりも、ずっと後に此処を訪れたはずよ」
「ずっと後って、どのくらいあとかしら?」
「それは内緒」
オーナーさんはやはり口元に人差し指を持っていきました。アネモネはちょっとだけ苦笑いしました。普段あまり作らない表情です。
「あーあ。冷たい土地で冷やされたアイスティー、飲んでみたいわ! でもカフェアリーヌはさっき、自力でアイスティー作っちゃったのよね。もちろん美味しかったけど……旅人さんが頑張って作った方は卸していないの?」
「ええ……だって高級品なのよ。特別なボトルに詰められて、遠いところを旅してくるアイスティー。暑い土地で温められた紅茶だって同じ。特別な炎を使って沸かしたお湯なのよ。ここはいくら森が広いとはいえ、この世界でも最南に近い場所だから、簡単には手に入らないものなの」
オーナーさんはカウンターの中にある棚に並べられている紅茶を指差し、それぞれどういった所からやってきたのか教えてくれました。どれもそう遠くはない街からやってきているもので、それをアイスティーにするなら、これもまた近場で買ってきた氷を砕いて作るのだと説明しています。
この喫茶店にはそもそも、あまりお客様が来ません。アネモネが来ているときだっていつも彼女以外のお客様がおらず、相席することなんてめったにありません。ですから、ものすごく特別な品を仕入れてきても注文してくれるヒトが居ないのです。オーナーさんは残念そうにしていました。それを受けて、アネモネも考えます。
「私がマスターにお願いしてその特別な紅茶をお客様に出せるようにしたら、お客様も喜ぶかしら……って思ったけど、うちだってお客様が中々来ない店よね。理想と現実のギャップだわ」
「滅多に飲めないものが飲めるのなら、お客様より先に私が喜ぶわね。飲みに行っちゃおうかしら」
「本当? カフェアリーヌがうちの店に来てくれる日なんて、特別以外の何物でもないわよね。それならマスターだって出し惜しみしないでくれるはずだわ、今度頼んでみましょう!」
アネモネは明るくそう言いました。
暑い日に一杯のアイスティー。その氷が特別でなくても、澄んだ甘さは格別の味。それが遠い土地からやってくる物であれば、一体どんな味がするのでしょう。アネモネは目を閉じ想像して楽しんでいました。それは旅人とヤドリギが暮らす世界に置かれた一個のカップと想像と同じように、穏やかで心地の良いものでした。