◯「疲れちゃったときには、一緒に紅茶を飲みましょう」
「疲れちゃったときには、一緒に紅茶を飲みましょう」
旅人の前で、アネモネは落ち着いた様子でそう言ったのでした。
どうやら今日この店を訪れた旅人は、幾ばくか慌てている様子。出入り口をノックして開けたはいいものの、すぐに閉めて外に出ていこうとしていました。アネモネは急いているのを止めます。
「どっ、どうしてそんなにすぐ行こうとしちゃうの?」
「なにがしたかったのかわからなくなって……気がついたらここにいました。扉を叩いたのも、無意識で。ごめんなさい、急がないと」
「忙しくても大丈夫。ほんの少しでいいのよ。それとも、そんなに大事なご予定なの?」
「大事なはずなんです。けど、予定の中身をすっかり忘れてしまっている私しか、ここにはいない……どうしたら」
どうやら自分のことも覚えていないようです。うろたえつつではありますが、アネモネは旅人の前に割り込み、制します。
「それはきっと、ちょっと疲れちゃっただけよ、大丈夫。この店を訪れたということは、あなたはシテンの一人だわ。少しだけのんびりしていれば、思い出すかもしれないわ。ね、折角だから」
そう言って店の奥を案内します。ゆっくりと旅人の手を引いていました。旅人は「いいのでしょうか」と小さな声で呟き、店内を見回します。まだ暖炉の火は灯っていませんが、ほんの少し肌寒い日。屋内の落ち着きは、旅人にとっても心地よいもののようです。
アネモネは席についた旅人にメニュー表を渡し、広げてから指で紅茶のラインナップを指し示します。
「私のお気に入りは『一番』だけど、初めてのお客様には『三番』がいいって聞いたの。あ、これはここのオーナーのブレンドティーの番号のお話ね。だからあなたも、一杯飲んでいったらいいんだわ!」
「紅茶ですか。……お店で飲むのは久しぶりな気がします」
「美味しいから、待っていてちょうだいね」
アネモネはこの店のウェイトレスというわけではありません――ここにはただ遊びに来ているだけで、彼女がウェイトレスを務める店はまた別の場所にあるのです――が、彼女はこの店のオーナーが何かを言う前に率先して行動していました。オーナーは微笑ましいと思いつつ、それをカウンターの奥で黙って見守っていました。そしてアネモネがこちらを振り向いてぴっと三本指を立てるのを見てから、静かに笑ってブレンドティーの蓋を開けたのでした。
旅人はしばらく、メニュー表を閉じずにじっと見つめたままでいました。そして、それをゆっくり閉じてから、穏やかな声色で言います。
「こんなにゆっくりしていいのでしょうか。なにもせず、ただ紅茶を飲むだけなんて……誰かに怒られてしまいそうです」
「そういう時間が必要だから、ここに来たのよ、きっと」
アネモネは旅人の隣の席に腰掛け、にっこりと笑いました。そして前のめりで言います。
「ここは物語を語る旅人さんが自然と集まる場所。あなたも、お話を求めて旅をしてるんでしょう? 元気が出たら、きっと全部思い出す。だからそのときには、あなたのお話聞かせてほしいわ! どんな旅をしてきたのか、とっても気になるもの!」
お話を聞くのはこの店のオーナーの特権でしたが、アネモネはその側で聞き耳を立てるのが好きだったのです。なんせ旅人自体がこの店で稀な存在ですから、出会うことが出来るだけでも貴重なのです。そんな人々の口から語られる物語。興味をそそられないわけがないのです。
「広大な大地? 豊かな海? それとも、遮るものがない大空かしら? なんであれ、私の胸はきっとときめくに違いないお話のはずよ!」
運ばれてきた紅茶のカップを、旅人は少しずつ傾け、中身である『三番』を味わっていました。ですがアネモネの姿勢にややたじろいでいました。
「私のは、きっとそんな立派なものではないですよ」
「けど、あなただけの旅よ」
アネモネに言われ、旅人ははっと気づいたような顔をします。ですがすぐにしゅんと、気持ちは萎んでしまったようです。
「それはそうかもしれないけれど、今の私には自信がないんです」
「私とカフェアリーヌしか聞いていないのよ、大丈夫。練習程度でいいのよ」
「……練習であれば、良いのですが」
「いいのよ! まずは心穏やかになるためにも、紅茶をもう一杯ね!」
旅人が口をつけていたカップの中身が残りわずかなことに気づいていたアネモネは、そっとオーナーの服の袖を引っ張っていたのでした。おかわりが注がれ、暖かな蒸気がふわり、旅人の前でくゆります。旅人はその空気を前に深呼吸をします。
「不思議です。なんだかこの香りを楽しんでいるだけで、思い出せそうな気がしてくる」
「でしょう? 休憩って大切なんだわ」
旅人は気づいたようにアネモネの瞳を覗き込みます。二人は笑み合いました。アネモネが旅人の話を聞けるようになるまで、時間はそうかからない様です。




