◯ハーブのど飴と小さなブラックホール
「少し意外だった」
ハーブの入ったのど飴を平気で舐めているアネモネを見て、ロアが言ったのです。
そののど飴は、元々マスターが持っていたもののようですが、アネモネは彼の見ていないうちにそれをこっそりと拝借した様子です。ラベンダー色のキャンディです。色は綺麗ですが、苦いハーブの味はアネモネの口には合わないだろうと、ロアはわずかに心配していました。ロアのそれは間違いではなかったようで、アネモネはしかめっ面をしながら言葉を返します。
「好きな味ではないわ。でも、喉に良いでしょう? スーッとして通りが良くなる。歌の練習、ずっとサボっていたから、久しぶりに歌ったときにイガイガがひどかったのよ」
「歌の練習……」
「そう! アンシスタドールは歌と踊りを披露するお人形。それが満足にできなかったら、マスターがこの体を返せって言うかもしれないから、最低限は続けなきゃいけないのよ」
「律儀だ」
ロアは腕を組みます。アネモネの人形の身体は、マスターからの借り物なのです。二人の間では何度確認したかわからないほどの決まりごとです。
マスターがこのような人形をもとから持っていたのか、それとも彼女のために用意したのか。今やマスター本人に聞いてみなければわからないことですが、少なくとも今彼女が使っている事実に物を言うことはありませんでした。彼女が人形の身体を大切にしているのが幸いでしょうか。もし粗雑に扱っていたなら、彼のことですからすぐに取り上げたりしていたかもしれません。アネモネは笑って言いました。
「歌や踊りは大変じゃないから、大丈夫よ。楽しいし、私はアンシスタ・アネモネになれて良かったって思えるわ!」
扉を開けて、アネモネとロアは外に出ました。今日も真っ白な世界は彼女たち以外に誰もいないし、何もありません。
「歌うときは外で、のびのびとやるのが一番好きよ。ここは誰もいないから、気にしなくて良いかもしれないけどね?」
口の中のキャンディがなくなった頃に、アネモネは歌い始めます。アネモネの歌声は、けっしてとびきり美しいものというわけではありません。ですが、あどけなく愛らしい。そんな歌声です。ロアは微笑ましいものだとその様子を見守っていました。明るくもゆっくりとしたテンポの曲は、心穏やかに聞くことが出来ました。
「それならば、こんな人気のない所ではなく、大きなステージで観衆の目を集めながら歌ってみたいとは、思わないものだろうか」
「それは……あまり思わないわ」
ロアの提案はあっさりと却下されました。ロアは少し驚いた顔をしました。しゃがみこみ、アネモネの背丈に視線を合わせます。
「何故」
「だって、歌は好きだけど……マイクが苦手なの」
「……マイク……?」
さすがにロアも、マイクのことは知っています。ですがアネモネが苦手と称したことに、戸惑っていたのです。今この場にはマイクが無いので、彼女がどの程度マイクが苦手なのか確かめようがないのですが、アネモネは過去にマイクを使って歌ったことがあるらしく、そのときのことを嫌な顔をして話しました。
「音程とか、リズムがわからなくなっちゃうのもあるけど……声が機械に吸い込まれていく感じ。ホントに拡声機能のあるマシンなの? 私にはわからないわ」
「マイクであるからには、その場合があるはずだが……私にもそれはわからない」
「いくら声を出しても、張っても、かすってばかりで無意味に思えるあの瞬間。もう体験したくない……ってつい思っちゃうわ。だからステージでマイクを使って歌うのは、私は遠慮したいの」
「それは機械側の設定が悪かったのかもしれない。なにか縁があれば、もう一度挑戦してみても良いのでは」
「えーっ!? もう一度? い、嫌だわ……ロアの提案だけど、それは嫌だわ……」
ロアは「そんなに嫌なものか」と大層驚きました。比較的何であっても肯定的なアネモネが否定的になるのを見られるのは、ある意味貴重なことかもしれません。アネモネは苦いものを食べた時のような顔をしています。
「私にとって、マイクはブラックホール。なんでも吸い込んじゃう、嫌なもの。いいの、お客様の前で歌うときはマイクなんて要らない距離だから!」
頬を膨らませ、口を尖らせ、アネモネは突っぱねました。ロアは言います。
「カラオケという娯楽もある中、珍しいことだ。……まあ、無理にとは言うまい。歌うことが好きなら、それだけで良い」
「でしょ? だからマイクで歌うのは無しね!」
いつの間にやら、アネモネは普段通りの笑顔に戻っていました。彼女の歌を聞きたいと思っても、このお店に来たお客様以外の前では、ちょっと難しい様子です。




