▽甘くないココア
▽甘くないココア
カフェアリーヌという女性は、小さな喫茶店を一人で切り盛りするオーナーさん。オーナーさんは滅多にお客様が来ないこの店で、一人退屈していることがしばしばあります。『彼女』が喫茶店を訪れたのは、まさにそんなときだったのです。
店の扉の向こうに吹くはずの風が、そのときだけピタリと止んだのです。扉の向こう側だけ、どこか別世界につながってしまったかのような違和感です。それに気づいたオーナーさんは警戒します。本棚の掃除をしていた手を止め、じっと音のしない方を見つめていました。
ドアノブが音を立て、ゆっくりと扉が開いたときだけ、空気の塊が動いてひゅうと風が吹いたのです。オーナーさんの肩まで伸びた髪が、わずかに揺れました。思わず瞑った目を開くと、その先にはオーナーさんにとって久しぶりに見る顔が立っていました。
「お久しぶり! カフェアリーヌ、私のこと覚えてる?」
「……驚いた。ええ、アンシスタ・アネモネ。貴女みたいに自分で動くことの出来るお人形だなんて、私も滅多にお会いしないもの。忘れるわけがないわ」
店を訪ねてきたのは、『アネモネ』という名前の人形でした。彼女は特別な人形なので、不思議なことに自分の意思で動くことが出来るのです。ですが普通の人よりもずっと背丈が小さく、首元や肘などちらりと見える箇所が木肌でできていることから、彼女がヒトではなく、誰かの手で作られたお人形さんであることがわかります。オーナーさんは、彼女の持ち主がこの店の常連だった少年であることも知っています。不思議に思って尋ねました。
「どうしてこの店へ? 自分のお店のお手伝いは?」
「カフェアリーヌと同じよ。お客様が来なくて退屈なの」
アネモネはかかとの低い靴で床を蹴り、宙にふわりと浮かび上がりました。そうしてオーナーさんの目の高さと同じくらいに自分の目線を合わせました。オーナーさんはアネモネと初めて会ったときのことを思い出しました。その時も彼女は自分の背丈に合わせて浮かんでいたのです。
「お客様が来ないお店がこんなに退屈だなんて思わなかったの。だからカフェアリーヌはこんな時どうしているのかしら、ってね。気になったから遊びに来ちゃった。迷惑ではない?」
「迷惑なんてことは無いわ、ちょっと驚いたけど。退屈なときは、そうね……。これまで此処を訪れたお客様のお話を思い出して楽しんでいるわ」
「それは貴女にしかできないわね。ずっと此処で旅人を迎えてきた貴女だからできる暇潰しだわ」
オーナーさんは浮かんだままのアネモネをそっと席に案内しました。そうして彼女は気づいたように、地面にゆっくりと降り立つような形で案内された席にすとんと腰掛けたのです。
「ねえカフェアリーヌ、どうして私の毎日はこんなに退屈なのかしら?」
アネモネがそう尋ねました。オーナーさんは遊びにきてくれた小さなお客様に温かいココアを出してから、聞かれたことに「そうねえ」と呟きながら、立ったままというのもなんなので、アネモネの隣の席に腰かけました。
「貴女、最近また自分のとこのマスターと喧嘩したでしょう」
『マスター』と呼んだ男性の、常に不機嫌そうな顔を、二人とも想像していました。此処とはまた別の場所。そこに、彼女がウェイトレスを勤めるもう一件の喫茶店があります。マスターというのは、その喫茶店のマスターなのです。あまりアネモネとは仲が良くありません。
「貴女が、貴女のお店のマスターのことを嫌いでいれば、それだけ知らないことも増えるものよ。それはとても退屈かもしれないわね」
「そうなの?」
「ええ。仲良くないせいで、聞けるはずのお話を教えて貰えなかったりするわけでしょう? ……彼を好きになれないのも、気持ちはわかるけれどね」
頑固で真面目すぎる『マスター』のことをよく知るオーナーさんは、彼女に少しだけ同情していました。楽しく日々を過ごしたいアネモネとの相性は、あまりよくないようなのです。
「そうね……今のマスターとはあんまり仲良くなれそうにないわ。考え方が違いすぎるのだもの」
膨れ面、というよりも困った顔でアネモネはそう言いました。向き合っているカフェアリーヌもまた、それに対して困ってしまいました。少し考えてから提案します。
「アネモネちゃんが彼と仲良くしようと努力する方向に舵を切ってもいいし、難しいなって思って別の道を探すのもアネモネちゃんの自由。すべて自分で決めていいのよ?」
「別の道? すべて自分で?」
アネモネはカフェアリーヌの顔を覗き込みます。期待に目をキラキラとさせながらです。
「それが本当ならなんて嬉しいのかしら。自由に決めていいだなんて、今まで言われたことがなかったんだもの。だって、退屈な毎日だけどマスターと約束した毎日よ。自分勝手に変えてしまったら、マスターに怒られちゃうと思ってたのよ」
「あらそうね、勝手に変えるのは確かに良くないわ」
「やることも一応あるのよ。例えば……お客様が来たときの一連のおもてなしでしょう、それから仕入れた食材の管理とか、あとお店のお掃除とか……そういうのが終わればいいのかしら? いいえ、まだ何かある気がするわ……」
指折り数えながらアネモネは自分の仕事を思い出します。毎日暇かと思っていましたが、案外やることがあるようで、思い出しては挙げていく作業を繰り返しています。キリがなかったからでしょうか、途中で指を折ることを諦め、アネモネはその手でココアのカップを包み込みました。暖かさがじんわりと伝わってきます。
「成程ね。そういうことなら、アネモネちゃん」
今度はカフェアリーヌがアネモネの顔を覗き込みます。
「ここだけの話だけど、貴女のマスターが話してくれなくても、此処には他にもいろんな話が出来る人がいるのよ。それを思い出して貰わないと」
「……それって、カフェアリーヌがお話聞かせてくれるってこと?」
「そうね、私でもよければ暇つぶし程度の話はできるわよ。私もアネモネちゃんに聞きたいこと沢山あるから、丁度いいかもしれないわ」
アネモネは嬉しそうに首を縦に振りました。うんうん、と全力で賛成の意を伝えます。カフェアリーヌもにっこりとそれに答えました。
ただ、このオーナーさんから話を聞くには、何かと物々交換をしなくてはならないのです。お話の対価としてお話を渡す。そんな決まりがあります。それを知っているアネモネが心配していることに気づき、オーナーさんは微笑みます。
「貴女は私と同じくらい知っているはずなのよ、お話を。私も思い出すお手伝いならできるから、それで相殺しちゃいましょう」
「できるといいのだけど」
アネモネが温かなココアを口に運ぶと、柔らかいミルクと風味豊かなココアが混ざりあった、とても素敵な味がしました。心配事が一度に吹き飛びます。
「カフェアリーヌ、このココアとっても美味しいわ! あんまり甘くないのにとっても濃いの」
「あら、ありがとう。誉めてくれる人が少ないから嬉しいわね」
カフェアリーヌは頬に手を当て、喜びを素直に表情に出していました。
「しばらくの間はその言葉だけで十分よ。だからまた飲みに来て頂戴。そのときには、私も何かアネモネちゃんにとって面白い話ができるかもしれないわ」
「ええ、絶対にまた来るわ! だってこの店のメニューはとっても素敵だし、カフェアリーヌの話だって聞きたいもの。私にはここのドアをノックできるパスポートがあるんだから、使わないなんて勿体無いわよね!」
アネモネは大変喜びました。退屈な毎日が変わるかもしれない。その期待に胸をドキドキとさせているのです。カフェアリーヌから聞ける話とは一体なんでしょうか。アネモネはまだそれを知りません。