第二部 五年前のあの場所で 2
寝起きでぼさぼさの長い黒髪(普段からルミはあまり髪を整えないが)に、飴玉のような丸い瞳。ついでにかなりの丸顔であり、高校生という年代ながら、それ以下の少女を想起させる顔立ちだった。しかし我が妹ながらお世辞抜きでかなり可愛く、普通に着飾って街を歩けば、男だったら何人か振り返るであろう。ただ問題となるのはその引きこもり気質であり、殆ど家から出ようとしないのだ。ちょっとおめかしして外に出れば普通に可愛い女の子に変貌するので、実の兄としては勿体ないところである。まぁそうは言っても、いつまでも自分だけに甘えてくれる妹というのも悪くはない。そういう事情も相まって、俺は若干ルミに対する甘さを拭えないのであろう。早いところその辺を改善しないとルミのためにならないとわかっていながら、今後も甘えて欲しいという自分もいる。複雑な兄貴事情というやつだ。
ぼんやりとルミを眺めていると、彼女はこちらの視線に気が付いたのか、オムレツを挟んだ箸を口に放り込みながら、可愛らしく小首を傾げた。
「いんや、なんでもない」
静かに微笑みながらそう返すと、ルミは不思議そうな表情を浮かべてオムレツを平らげる作業に戻った。他のサラダやみそ汁を先に食べて最後にオムレツを残している辺り、彼女のオムレツ好きが垣間見える。
俺はルミから視線を外して、ポケットに突っ込んでいたスマートフォンを取り出す。そしてカレンダー機能を呼び出して、今日の日付と曜日を確認した。
十一月二十六日、日曜日。そろそろ寒さも厳しくなってくる頃合いであり、風邪に気を付けるべき時期だ。
俺はボーっとカレンダーを眺めて、あることを思い出した。今日は十一月の最終週だ。つまり今日は出かけなければならない。
「ルミ。今日はちょっと出かけるよ」
ルミはオムレツを食べる作業を止めて、こちらに顔を向けた。
「何か用事あったっけ? ――ああ、お墓参りか」
お墓参りという単語が出て、俺たちの間に微妙な空気が流れる。別にそんな雰囲気になる必要はないのだが、恐らく昨日の出来事もあってなんとなくそういう感じになってしまう。
俺は気まずさからルミから顔を背ける。ルミはしかし、こちらの方をジッと見つめているようだった。
「ねぇ、おにーちゃん。――昨日のアレ、覚えてるよね?」
ルミの言葉に、どう返すのが正解か少しだけ迷ってしまう。昨日のアレというのは、間違いなく武器庫で発見した計画書のことだろう。もしかしたらルミは俺が変に期待感を抱いているのかもと疑っているのかもしれない。事実、確かに俺はちょっとだけ希望を抱いたが、きっとそれが幻想に近いものであることもわかっている。しかし世の中は一筋縄ではいかないように、俺の感情だって単純じゃない。だから少しだけ期待している自分がいることを、それすなわち悪だとは思えなかった。
そこまで考えて、俺は取り敢えず曖昧に返事を返すことにする。
「ああ、計画書のことだろ? それがどうした?」
横目でルミを盗み見る。しかしルミは箸をテーブルの上に置いて、静謐な眼差しをこちらに向けていた。
「お兄ちゃん。あれは偶然だよ。わかってるよね?」
そう尋ねられて、ああそうだなと肯定を返すのが、恐らくルミにとっては正解なのだろう。そんな簡単なことをわかっていながら、俺はそのように返答することができなかった。
俺の真意を探るような視線を送ってきたルミは、真剣な表情を浮かべる。
「あの人は、五年前に亡くなったんだよ。だから生きてるはずなんてないの。計画書の名前が一致していたのは、そもそもフランス人にアニェスって名前が多いから。日本であたしみたいなルミちゃんって、何人いると思う? お兄ちゃんならわかるはずだよ。これが偶然だってことに」
実の妹に諭されて、俺は唸ってしまう。
ルミに言われなくたってわかっている。これが偶然だってことぐらい。でも、俺は人間なんだ。だから期待くらいしてしまう。もしかしたら、彼女は死んでいないのかもしれない。どこかで今も生きていて、あの頃のように歌を歌って暮らしているのかもしれない――。そういった可能性だって、確率論的にはゼロではないはずだ。だから、限りなく可能性がゼロに近いとしても、人間だから思考に私情を混ぜてしまう。どこかで彼女が生きていたら良いなって、そう思ってしまうのだ。
気が付いた頃には、ルミは椅子から立ち上がっていて、俺の目の前まで歩み寄っていた。そしてその小さな手のひらを俺の手の甲に重ねて、何かに耐えるような辛そうな表情を浮かべている。
「――ほんとはね、お墓参りなんて行って欲しくないの。あの場所を訪れることで、お兄ちゃんは過去に囚われたまま、前に進めていないから。いい? あたしたちは過去じゃなくて、未来のために生きているの。いつまでも過ぎたことに執着していたら、ありえるはずの明るい未来だって、手放すことになっちゃうかもしれない。お兄ちゃんはあんまり話してくれないけど、こうやって仕事をしているのだって、あの人のためでしょう? あの人を殺したのが政府だったから、こうやってシェパーズの動きに迎合して、こんな戦いに――」
「やめてくれ」
ぴしゃりと言い放つと、ルミは口を噤んだ。自分でも、少し強い口調になってしまったことがわかる。そのことについて即座に謝ろうと口を開くが、どうしても続きの言葉が出てこない。結局口を半開きにしたまま、そして閉じてしまう。
時間だけが過ぎていく。両者の間に気まずい沈黙が流れて、お互いに口を開こうとしない。しかしこのままでは妹に示しがつかないと思った俺は、覚悟を決めて顔を上げた。
「――なぁ、ルミ。どうしてお前は、そこまでわかっていて、俺の手伝いをしてくれるんだ? 最初は、お前までこんな戦いに巻き込むつもりなかったんだ。でも、お前は協力してくれる。どうしてだ? いつ捕まるかわからないんだぞ」
ルミは未来のために生きろというが、過去に生きている俺の手伝いをしてくれる。それを間違いだと思っていながらも、だ。その理由が俺にはわからない。下手をすれば逮捕じゃ済まない危険な活動である。だからどうして、復讐のために生きることを否定しながらも、俺の傍にいてくれるのだろうか。
そう尋ねると、ルミは少しだけ表情を緩めて、おかしそうに微笑んだ。
「そんな当たり前のこと、聞かないでよ。――あたしがこうやって生きていられるのは、お兄ちゃんのお陰なんだよ? だからあたしは、これからはお兄ちゃんのために生きようって思ったの。覚えてるよね? 私が中学校で虐められてた時、教室に殴り込んできたこと。あたしね、本当に嬉しかったんだ。パパとママが死んじゃって、それでもう一人だと思ってた。だけど、お兄ちゃんだけは傍にいてくれた。だから、あたしを守ってくれる人をあたしも守ろうって、そう思ったから」
ルミはぎこちない笑顔を浮かべて、鼻を掻いた。その仕草がどうしても胸に来るものがあって、俺は一人唇を噛んでしまう。
なんであれ、不毛な復讐劇に実の妹を巻き込んでいるのは俺だ。武器を手にした人間は、もう幸せには暮らせない。だから俺は地獄に落ちるだろうが、しかしルミだけは連れていけない。彼女だけには、どうしても優しい世界で生きて欲しかったのだ。
社会がルミを拒絶するなら、俺だけはルミを受け入れよう。
そういう思いで、俺はルミと共に暮らしてきた。虐めなどもあって学校に通えなくなった彼女に、人並みに暮らしてほしいとは思うものの、無理強いはできない。だからこうして若干妹に対して甘いのだろうが、俺はしかしそれを間違いだとも思わない。ゆっくりでいい。いつか彼女が外に出ようと思うまで、俺はルミの傍にいるだろう。今はそれでいいのだ。
はにかんだルミに愛おしさを感じて、俺は彼女のぼさぼさ頭を撫でてやる。最初は少し嫌がっていたルミだったが、次第に抵抗する気を失くしたのか、されるがままになっていた。
「俺が言うのもおかしいが、お前だけは平和に生きてほしいな」
「あたしだって、難しいことは忘れて、おにーちゃんと一緒に暮らしたいよ」
しかし、俺の内心に宿る青い炎は消えない。彼女を殺したこの国に対して、復讐を行わねば気が済まない。その感情を思い出すために、俺は彼女の墓参りに行くのだ。
「――準備に戻る。メシ、あんまり残すなよ。それと食器の片付け頼んだ」
そう告げると、ルミは少しだけ哀しそうに俯いたが、すぐに顔を上げて笑顔を向けてくれる。
「うん。忘れ物ないようにね」
俺はルミの頭から手を離して立ち上がり、二階の自室に戻っていった。
自室で出立のための準備を整えて、俺は一階に戻った。
準備とは言え、特段なにか必要になるわけではない。最低限の携行品をショルダーバッグに詰めるだけだ。俺はデザートカラーのMA-1を羽織って、玄関に出た。
ブーツを履いている間、ルミが見送りに玄関まで来てくれる。毎度のことながら、こうやって家を出るときに見送ってくれる人がいるということは幸せなことだ。一人暮らしをしたことなどないが、きっとこうやって見送りがないと寂しいに違いない。ルミ以外の家族がいないとしても、それは嬉しいことだった。
「じゃあ、行ってくる。午後には帰ると思うから、それまで頼んだ。何かあったら連絡くれ」
「うん。気を付けてね」
ルミに微笑み返して、俺は玄関の扉を開けて、外に出た。
冬場用のMA-1を着込んでいるものの、十一月後半となれば寒さは厳しく、頬に当たる風は皮膚を収縮させる。肌寒さに身を震わせるものの、俺は玄関のドアを閉めて、最寄り駅に向かった。
家からの最寄りは田園都市線の三軒茶屋駅であり、徒歩十分圏内にある。三軒茶屋という街に住めていること自体、このご時世ではかなり珍しい部類だろうが、俺とルミは生まれてからずっと三茶に住んでいるので、そのありがたみは恐らく他の人間に比べて薄いだろう。しかし他の家庭と比べて金銭的には恵まれている自覚はあるので悪しからず。まぁ両親がいない家庭というのが、果たして幸せなのかという議論はさておき、だ。
通りに出て、真っ直ぐ三茶に向けて進んでいく。この辺は閑静な住宅街で、監視カメラが多いからか民度が高い。民度か高いから監視カメラが多いのか、そういった卵が先か鶏が先かと言った論争は置いておいて、ともかく日本国内でも有数の安全さを誇っていた。
住宅街と言っても、色々施設はある。大学がいくつかあったり、他にもカトリック系の孤児院付き教会があったり、もちろん三茶なのでショッピング施設には事欠かない。まぁここで暮らせるのなら何不自由ないというのが実のところだった。
しばらく歩いていると、高架下が見え始めて、俺にそろそろ三茶の駅が近いことを教えてくれる。高架下の横道を通りながら進むと、すぐに地下鉄への入り口が見え始めた。俺は階段を下りて、田園都市線の改札をくぐる。
改札と言っても、数十年前のような切符やICカードを入れたりかざしたりするのは、もうだいぶ前に廃止されていた。現在はスマートな網膜認証が搭載されており、キセルなどの行為を全廃することに成功している。改札口にある黒いディスプレイに顔を向けると、網膜が認証されて、紐づけしている口座から運賃が引き落とされるという仕組みだ。
ホームに降りて、しかし待つまでもなく電車はやってきた。
電車は数十年前のそれと大きな違いはないが、強いて違いを上げるとすれば、痴漢、痴女用に監視カメラが設置されるようになったというくらいか。俺たち乗客は、電車に乗ってスマートフォンをいじっている間も顔認証を行われ、セキュリティに貢献し続けている。人によっては監視社会であることによって平和が保たれるという意見もあったが、俺にしてみれば、政府による個人生活への介入が行われているわけで、過去にアメリカで盛んに議論された“放っておかれる権利”すなわちプライバシー権を大いに侵害していると思えた。
まぁ俺は実際こういう社会に息苦しさを感じているわけで、監視社会が進行すれば、個人の格付け(レーティング)が行われたりなど、悲惨な結果に繋がりかねない。そういった民主主義の透明性を確保するためにも、安全とリスクは正しい配分で天秤にかける必要があった。
三軒茶屋から乗ると、池尻大橋を越えて二つ目、渋谷で多くの人が降りることとなり、大概このタイミングで席に座ることができる。俺は開いた席に腰掛けて、監視カメラにあまり映らないように俯いていた。別に俯く必要などないのだが、むやみやたらにカメラに映るというのも気持ちが悪い。だから俺は普段の生活から、下手に監視カメラに映らないよう心掛けていた。降車駅は表参道であるので渋谷から一駅ではあるが、座れる時に座っておくのが俺の主義だ。
席に腰掛けてまもなく、電車は表参道に到着した。俺はカメラに顔を晒さないように降車して、東京メトロの乗り換え口を目指す。