…革命が、起きた…
和葵が学校に着いたのは、早めに家を出たにも関わらず案外ギリギリだった。
「おはよう」とクラスメイトたちに挨拶を交わしながら一番窓側の前から三番目の席に着いた。
和葵は案外この席の位置が気に入っていた。窓から見える中庭の景色が意外と落ち着くのだ。
「おはよう、久しぶりやな和葵。ついにお前も坊主卒業やな」
そう言って開口一番皮肉を放ってきたのは、隣の席の朝丘洋介だ。
「他の野球部やった連中も髪の毛伸びてきてなんか新鮮な気分やわ」
そういって屈託のない顔で笑う朝丘は部活はやってないが、クラスを問わずたくさんの友達がいる。野球部以外の連中に仲のいい友達が数人いる和葵だが、その中でも朝丘は特に気が合う。
「はは、まぁ部員達からしたらつかの間の休息ってやつやからな。ほぼ全員が高校でも野球続けるし、そうなったらまた練習漬けの学生生活が始まるし、今だけや。今だけ」
「ひゃ~。ほんまよくやるわ。根性なしの俺には到底無理な話や。このクラスの他の野球部のやつらは全員七高の野球部に行くんか?」明るい口調で朝丘が言う。
このクラスには和葵を含めて四人の元野球部員がいる。その中には例のジャンボくんもいる。
「あぁ、基本的にはそうやな。あ、でも冬城は武所高狙うって言ってたな。それで夏休みは部屋に籠りきりやったみたいやけど」
「武所高って県内トップの進学高やろ?さすが冬城は頭ええなぁ」
「落ちたら普通に七種に通うとは言ってたけどな。そういう朝丘は進路どうすんの?」
なんとなく朝丘の進路も聞いてみた。
「俺はなんの迷いもなく七高やわ。俺、お前らの野球応援すんの好きやし楽しみにしてるねん。甲子園つれて行ってくれよ。なっ!」
またも屈託のない笑顔をした朝丘が和葵の肩を軽く叩いて言った。
「アホか。そのセリフは、女の子の為に言うセリフって相場が決まってんねん。誰が隣の席のヤンキーにそんなこと好んで言うねん」溜息交じりに和葵が言う。
言い忘れていたが朝丘の見た目は完全に不良だ。
襟足が長く眉毛も極端に薄いし細い。制服も規定通りとはお世辞にも言えないオリジナルモデルだ。
だが、遅刻はしないし地味に頭もいい。なにより『他人には迷惑をかけない』をモットーにしているらしく、周りから愛される所謂いいタイプの不良だ。
喧嘩っ早くて怒ると手が付けられなくなるのが玉に瑕なのだが……。
冷たいこと言うなよと朝丘が言ったので、軽くごめんなと謝っておいた。
チャイムが鳴り生徒が各々の席にがやがやと着き始めた。
しばらくしてドアが開いて担任の教師が入ってきた。
「きたきた。学校が始まるのは憂鬱やけど、祥子ちゃんを拝めることだけは別モンやで…」
朝丘が興奮した口調で話す。
「はぁい、みんな久しぶりぃ。席について。ホームルーム始めるよ~」
独特のおっとりとした喋り方で話すのは和葵たちのクラスの担任教師である胡蝶祥子先生だ。
そのおっとりした喋り方と二十代後半とは思えないような可愛らしい容姿が生徒の間で抜群の人気を誇っている。
そしてなによりその中学教師としてはもはや犯罪に近いクラスのおっぱいを有している。
うちの中学の生徒(特に男子生徒)からの指示は絶大で、みんなからは祥子ちゃんの愛称で慕われている。
担当科目は英語で、学生時代アメリカに留学経験があるためその発音は英語とは無縁の和葵でもすごいと分かる程流暢だ。ちなみに未婚である。
「いや~。ありゃ芸術やで。ただただ大きかったらええって思うほど俺は子供ちゃうけど祥子ちゃんのは大きいかつ美しい!そこがええ!」
思春期男子を代表するような発言をした朝丘に、そうだなとだけ返答した。
和葵は一年の時から三年連続で祥子ちゃんのクラスであるが、そのことに関しては一切の不満はないと感じている。いやこの際だからはっきり言うが、めちゃくちゃ嬉しい。
三年のクラス発表の時、春輝が今年はついに祥子ちゃんのクラスじゃなくなったという嘘の情報を持ってきたとき、和葵は本気で泣き崩れそうになったくらいだ。
ちなみに春輝とも三年間同じクラスだ。これはオマケみたいなものだ。
そしてその春輝は未だクラスに来ていない。
「えっとぉ~…。坂井田くんだけがいないけど誰か事情か何か知っていますかぁ~?」
「ジャンボくんは太りすぎて歩けんくなったみたいです~」と、お調子者の元野球部員の一人、猿橋悸助が朗らかに言う。
クラスが笑いで包まれた。
おそらく今の猿橋の発言で、春輝のジャンボというあだ名は不動の地位の獲得に一歩近づいただろう。
あぁ、可哀そうに……。
「えぇ~…ってことは坂井田くん…じゃなくてその、ジャンボくんは単に遅刻を――」
きまり悪そうに春輝の遅刻を確認していたそんな時、ガラガラと勢いよくドアが開き、祥子ちゃんの声をかき消した。
「祥子ちゃんごめん!遅刻しましたぁ!!」
次の瞬間先ほどまで猿橋の冗談で明るかったクラス中の空気が静まり返り、予想外の出来事が突然起こった時に人がするあの顔をクラスの大半の人間が見せた。
持っていたシャーペンを驚きのあまり落とした生徒までいて、流石にそれに対しては、おいおい漫画かよと和葵は思ったのだが……
まぁ、要するにあれだ。おそらくやってきた春輝と思わしきジャンボくんの見た目が自分たちの想像を遥かに超えたのだろう。
そしてそれは朝丘も例外ではなく…。
「おいおい。嘘やろ春輝。一体この夏休みお前になにがあってん!?」
「…母ちゃんの飯に、…革命が、起きた…」
爆笑の一歩手前で踏みとどまった朝丘が言ったのに対し、春輝がぼそりと呟くように言った。
この春輝の訳の分からない発言を皮切りにクラス内に爆笑の渦が巻き起こった。
ホームルームを進めなくてはいけないはずの祥子ちゃんまで堪えきれないでクスクスと笑っていた。
数分後になってようやくクラス内のムードが落ち着いた頃には、普段はかなり大きく見える春輝の背中がやけに小さく見えるまで委縮していた。
流石の春輝にもこれは堪えたようだ。まぁ、それでも十分デカいのだが。
そんな小さくなった春輝を横目に祥子ちゃんも我に返って、いつも通りホームルームを進めた。
ホームルームを終えた和葵たちは始業式が行われる体育館へ向かった。