リンドウ――っ‼
母からの言葉を背中に受けた和葵は、家を出てから心中穏やかではなかった。
進路で悩んでいるといっても選択肢が無いわけではない。
一つの選択肢は兄と同じ七種高校に行くというものだ。家から一番近くにある公立校であり、野球部は毎年県ベスト16にはコンスタントに名を残しているそこそこの実力である。
――なにより和葵のレベルにあっている。
よっぽどのことがない限り、高校最後の夏にベンチ入りメンバーからこぼれることはまずないだろう。顔見知りも一定数在籍しているのでやりやすさもあるだろう。
誰が見てもこの進路に何故決めないのかが不思議なくらい悪いところが見つからない。
しかしもう一つの選択肢で『とある高校』が和葵の決断を大いに渋らせていた。
その高校は県内屈指の強豪高である、私立菖蒲館高校である。
本来なら、そんな高校は和葵の中の選択肢になるはずもなかった。しかし、中学最後の大会が終わった後、和葵のもとに舞い込んだ監督からの一つの知らせが彼の高校選択を大いに厄介なものに変えた。
――菖蒲館高校の野球部から声がかかった。
最初は何を言われたのか分からなかったのだが、どうやら和葵たちが負けた最後の大会の一回戦の試合を『幸運にも』菖蒲館高校のコーチか部長かが見ていたらしい。
その日の和葵は二点を追いかける八回の第四打席、インハイのボール球を半ば強引にレフトスタンドへ運び、点差は一点となった。
試合には負けたが、今思い返してもあそこであの球を打てたのは奇跡に近い。
それまでスタンドインのホームランなど打ったことなどなかったのだから…。
――そのホームランが彼らの目に留まったらしい。
一見強豪校への切符を手に入れたように見えるが、この話はそんな表面上の美しい話のまま終わってくれない。
学費が免除になったりする特待生でもなんでもない和葵の場合、『声がかかった』というのは、とどのつまり、『よかったらうちの高校に来ませんか』といういわば勧誘のようなものだ。
つまり文字通り声がかかった『だけ』なのである。
というのも菖蒲館は県内でも有名なマンモス野球部で一学年あたり四十人程の部員が入部し、毎年三学年合わせて百人強の大所帯になる。
百人を超えるチームの迫力は凄くて、夏の大会ではその迫力のある応援とユニフォームには珍しい菖蒲色が県内で毎年夏の風物詩になるくらいだ。
小さいころに父さんと球場に行った時に、その迫力を見て身震いをしたことを覚えている。
少数精鋭のチーム作りが頻りに唱えられる近年だが、菖蒲館は違う。
毎年ある程度の部員数を確保するため、また本命の選手に断られた時のための頭数を揃えるためにそこそこ実力のある相当数の選手に声をかけるのだ。
――そしてその一人が和葵だっだ。
はっきり言って今の自分の実力では三年間スタンドでメガホンを片手に声を枯らし、試合に出ている選手に嫉妬して高校野球を終えるのが和葵には目に見えていた。
実際、一昨年に、つまり鋼士郎や御子柴さんの代に七中野球部のエースだった篝右京が同じように菖蒲館高校に進学したのだが、今まで公式戦はおろか一軍の試合では練習試合のマウンドにも一度も立っていないそうだ。
篝が菖蒲館高校でエースになれる程の実力者であったかどうかと聞かれると回答に困る部分はある。ただ、ベンチ入り投手くらいにはなれるだろうと安直に思っていたので、このことを鋼士郎から聞いた時は驚きと同時に強豪校の厳しさを想像したことを覚えている。
そんな文字通りお門違いとも思えるような高校から突然やってきた自身への勧誘。
自身でも奇跡だと、そう言いたくなるようなホームランだけを見て、和葵に声を掛けてきた菖蒲館高校の硬式野球部。
「――あぁ‼クソっ!」
頭の中を堂々巡りする感情を取っ払うように、和葵は両手で頭を掻きむしった。
「……どうしたらええねん」
ふと我に返った和葵は、両手を下ろし、ちょうど横を歩いていた通学路の途中にある河川敷の草地に腰をかけた。
昨晩ほんの少しだが雨が降ったらしく少し草が湿っぽいのを感じた。
そのままゴロンと仰向けになって横を見ると青紫色――菖蒲色にも見える小さな花がぽつりと咲いていた。
普段、和葵は花になんて興味を持たない。
ただ今日は、この時は、何故かその花をじっと見ていた。
「なんて花なんやろ…」
頭の後ろで組んだ両手をほどき無意識に口にしながらその花に右手を伸ばした。
――すると、
「リンドウ――っ‼」
「――‼」
ふと後ろから溌剌とした声音で話しかけられた。
突然の声に驚き身を固くした和葵は、声のした方へ向き直ってその声の主を確認した。
「驚かすなや。びっくりしたやんけ…!」
声の主を視認した和葵は、嘆息しながら両手を頭の後ろに組みなおした。
「へへ。ごめんごめん…!和葵がらしくもなく朝から黄昏てるから驚かしたくなっちゃった」
特に悪びれる様子もなく軽く舌を出した声の主。
「その花はなリンドウ言うて、群生せずに一本ずつ咲く、今では結構珍しい花なんやで。ほんでもう一個は……。やっぱいいわ」
そう形式的な謝罪の後に明るく教えてくれたのは、同じ七種中学に通う綾瀬穂奈実だ。
穂奈美は、白色の夏用セーラー服に少し濃い水色のスカーフをまとい、腰の上まで伸びた長くて少し茶色がかった綺麗な髪をなびかせ意気揚々に話す。
――その姿を見て思わず見とれてしまった和葵。
「ご親切にご解説までどうもありがとさん」
ただあくまでも見とれてしまったことは態度に出ない様に努める。
穂奈実はクラスからはもちろん学年中の男子から人気があり、最近ではその人気はお隣の中学にまで広がっているらしい。
因みに彼女とは幼稚園に入る前から家族ぐるみで交流があり、まぁ所謂幼馴染というやつだ。
そうそれはある種の特権階級というやつなのである。
「ねぇ、そんなことよりなにを考えてたん?」
「別に。夏休み終わったなぁーって」
そんな益体のない思考をしていた和葵を、綺麗な二重瞼が覗き込む。
あくまでも冷静に、努めて冷静を装う和葵。
「ほんまに?和葵そんなに夏休み楽しんでた感じはないけど…。他は?」
「別に……っと!」
和葵は、考えていたことを払拭するように勢いよく立ち上がった。
お尻に付着した草をポンポンと叩き落とし大きく伸びをしながら、
「まぁ…、人生色々ありまんなぁと」
と、そう冗談交じりに応えた。
「なにそれ。まぁ、何かは分らんけどやっぱりなんか迷ってるやろ?――進路か何か?」
「――えっ」
思わぬ形での穂奈美からの追求を受け、努めて冷静さを装っていた和葵のメンタルは崩壊し、文字通り『鳩が豆鉄砲を食ったような顔』を披露した。
穂奈実はこういう時やけに鋭かったりする。確かに、目端は他の人間よりは利く所はあるが、それよりも時折みせる推察には過去にもたびたび肝を冷やした記憶が蘇る。
一体過去に何があったのかというのは別の機会に揺するとして、今の和葵に求められている至上課題は何もないことを装うことであった。
――だからこそ……、
「何言ってんねん…!進路ならお前や春輝と同じ七高って言うたやろが」
――チクリ。とそう胸の奥を刺すような感覚に見舞われた。
悩んでいるということを知られるのが恥ずかしく感じられることもあり、普段から進学について聞かれた時はそう言っている。そして漏れることなく先の微痛を感じるのである。
「―それよりなんで俺がなんかに迷ってる思うたん?」
閑話休題、逃げるが勝ち。進路の話をこれ以上続けることは憚られたので、率直に感じたことを新たなトークテーマとして展開した。
「ん~……、『勘』かな?」
「ふ、ふーん。そうか……。でもほんまそんなに大したことちゃうし、心配せんでいいよ」
片手を顎に置き考える様な仕草を取った穂奈美の答えはなんとも曖昧なものだった。
ただ、落としていた視線が自身に向けられた際、その物憂げな眼を見て、やましいものを隠しているような感情に見舞われた。
「とりあえず、俺は先に行くわ。じゃあ、また学校で―!」
和葵は穂奈実の妙な勘に敢えて触れず、彼女と別れ学校へと向かうことにした。
一緒に行ってもよかったのだが、これ以上一緒にいたら色々悟らるのでは、という疑心がそれを拒否した。
そうして和葵は穂奈美に背を向け、逃げるような足取りでその場を後にした。
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和葵が立ち去った後、穂奈実は和葵の見ていたリンドウを少しだけ見つめていた。
穂奈美の頭の中で再生される映像は目の前の少年が大きく伸びをしているシーン。
伸びをした後、そっと視線を落とした懊悩の横顔……。
そんな表情を携えて冗談交じりに話す少年。
「なんでかっていうのは……」
呟くようにこぼした穂奈美は、足元の草地にしゃがみ込んだ。
そして目の前咲くリンドウにそっと手を添えて、
「和葵は何かに迷ったり悩んだりしてる時、下を見ながら話す癖があるのを私が知ってるから……」
そう、誰にも聞こえないような声を発した。
先ほど教えたリンドウの話。言うのを止めた『もう一個』は……。
穂奈実は心の中でリンドウの花言葉を唱える。
「――俯くあなたを愛する」
穂奈実もリンドウの花から離れて学校に向かうことにした。
やるせない気持ちと、未だ蒸し暑い初秋の風が交錯し少女の肌を包んだ。